最後の門の向こう
地下の重い扉が、ゆっくり開いた。
冷たい空気が足元を抜ける。
俺の手にあるのはスティックのケースだけだ。
二台のバスドラムも、スローンも、さっきまで大広間で鳴らしていた機材も、まだ上に残してある。
扉の向こうは、赤と黒の広い空間だった。
高い壁の丸窓に、沈みかけた紅い月が残っている。
その縁だけが、夜明け前の藍へ薄く変わり始めていた。
「入らないの?」
声がした。
姿は見えない。
レミリアが開いた扉の前で、ほんの少し肩を上げる。
「フランドール」
「いるよ、お姉様」
今度は左。
次に、背後。
振り返る前に、柱の影から金色の髪が覗いた。
赤い服。
赤い目。
黒い枝のような翼。その先へ、色の違う結晶がいくつもぶら下がっている。
少女は俺ではなく、まず右手を見た。
肩まで。
それからケースへ視線を落とす。
距離は近い。
近いのに、こちらへ触れようとはしない。
目だけが先に来る。
美鈴は門を守る目だった。
パチュリーは調べる目。
咲夜は測る目。
レミリアは値踏みする目。
この少女は違う。
目の前のものを、一度ばらばらにしたら何が残るのか。
そう考えている目だった。
怖いというより、扱いが分からない。
それは向こうも同じらしい。
「それが音?」
「これは棒だ」
「棒で音を出すの?」
「そうだ」
「壊したら?」
「音を出す前に終わる」
「つまらない」
「聞く前に終わらせる気か」
「聞いてからなら壊していい?」
横でレミリアの翼がぴくりと開いた。
「フランドール」
「まだ何もしてない」
「何もしないうちから物騒なのよ」
「お姉様は壊したことないの?」
「あるわ」
「じゃあ同じ」
「同じではないわ」
「そこからやるのか」
二人が同時にこっちを見る。
「何」
「聞くのはお前でいいんだな」
フランドールの顔から笑みが少し消えた。
扉の向こうから返ってきた「コツ」という音。
あれだけで決めるのは、レミリアのやり方だ。
俺は本人へ聞く。
「一曲、聞きたいか」
「聞きたい」
「最後まで?」
「途中でつまらなかったら?」
「そのときはそう言え」
「壊さないで?」
「言葉なら壊れない」
「分かった」
即答だった。
レミリアが妹を見る。
「本当に?」
「お姉様は聞いたのに、もう一回聞くの?」
「確認よ」
「じゃあ、もう一回。聞きたい」
レミリアの口が閉じる。
俺はケースを持ち直した。
「なら運ぶ」
「何を?」
「音を出す方を全部」
◇
機材の移動は、思ったより早く終わった。
咲夜が壊れやすいものを選び、俺とレミリアが残りを運ぶ。
フランドールは一度バスドラムへ手を伸ばし、「触るなら聞け」と言ったら本当に聞いた。
「これ、触っていい?」
「指一本なら」
ぺた。
「硬い」
「張ってる」
「もっと押したら?」
「破れる」
すぐ離した。
それだけで、レミリアが妙な顔をした。
「何?」
「いえ。何でもないわ」
二台のバスドラムが地下へ並ぶ。
スタンドを開く。
スネアを置く。
シンバルを固定する。
最後にスローンへ座る。
咲夜は階段の下で一礼した。
「私は上へ戻ります。演奏後の朝食と、門までの準備を」
「頼む」
「予定変更がございましたら、お呼びください」
「今のところはない」
神社へ戻る。
霊夢へ調査結果を持っていく。
帰還方法を、もう一度相談する。
その予定はまだ生きている。
「咲夜」
フランドールが呼ぶ。
「はい」
「この人、終わったら帰るの?」
「ご本人は、その予定と伺っております」
「ふうん」
「妹様」
「何?」
「最後までお聞きになるのでしたら、最後まで機材も残していただけますよう」
「信用ないね」
「実績がございますので」
「壊さないよ。今は」
「最後の二文字が不安でございます」
咲夜の靴音が階段の上へ消える。
三人になった。
右手を開く。
握る。
二曲分の疲れはある。
だが、痛みはない。
指先も手首も普通に動く。
「その手」
フランドールが言った。
「何」
「お姉様が、急に生えたって」
「生えたわけじゃない」
「じゃあどこから来たの?」
「知らない」
「知らないのに使ってるの?」
「使えるからな」
「怖くない?」
初めて、壊す以外の質問が来た。
右のスティックを握る。
「最初はな」
「今は?」
「叩くときは、考えてる暇がない」
「変なの」
「三回目くらいだぞ、それ」
「変なものは何回見ても変だよ」
フランドールは笑った。
けれど、その目は右腕から離れない。
俺は両足をペダルへ置く。
フランドールが一歩近づく。
「どこで聞けばいい?」
「好きなところで」
「近くても?」
「シンバルより前には出るな」
「どうして?」
「飛んでくるかもしれない」
「何が?」
「スティック」
フランドールが一歩下がった。
「それは嫌」
「壊せるだろ」
「聞く前に壊れたらつまらない」
「ならちょうどいい」
レミリアが壁際へ立つ。
玉座もない。
高い場所もない。
妹と同じ床だ。
「始めなさい」
「お前の曲じゃないだろ」
「私の館よ」
「それは関係ない」
「相変わらずね」
「始めないの?」
フランドールが割って入る。
俺は二人を見る。
「始める」
スティックを上げる。
まだ誰も、この一曲の終わりを知らない。
俺もだ。
右足を踏む。
ドン。
低い一打が地下を走った。
次にギター。
その奥からベース。
暗い壁の向こうで、見えない演奏が一つずつ立ち上がる。
フランドールの翼に下がった結晶が、ばらばらの色で光った。
「……これ」
笑う。
最初の一拍を聞いただけなのに。
「壊したら、どうなるんだろ」
今度の声は、さっきよりずっと楽しそうだった。