待っていた一拍へ、右のクラッシュを振り下ろした。
ルーミアの手が同時に落ちる。
「手を取って」
右足で一打。左足で一打。
両手の代わりに、二台のバスドラムで返した。
ルーミアが声を伸ばす。
俺が右のスティックを上げる。
ルーミアが待つ。
振り下ろす。
声が入る。
正しさを覚えたのではない。俺の合図を覚えたのだ。
「目を閉じて」
「合図が見えなくなる」
「じゃあ、閉じないで」
「どっちだ」
「あたしを見てて」
要求だけが都合よく変わった。
それでも声は拍から外れない。
ルーミアが右へ飛べば、右のバスドラムが応える。左へ流れれば、左足で追う。彼女は足元のない空中で低音を踏み、俺は触れられない声へ打撃を置いた。
手は取っていない。
同じ拍なら取れていた。
闇の縁の妖怪たちも、早すぎる爪や遅れた笑いを投げ込んでくる。俺は全部を正しい場所へ直さず、次の小節へ戻る道だけを残した。
曲が細くなる。
高い弦だけが残り、低域が心臓に近い間隔まで引いた。
歌い手の見えないボーカルが、低く歌う。
“I can smell your fear”
“I can hear you breathe”
ルーミアが俺の顔を覗き込んだ。
「ほんとだよ」
「歌の感想か」
「あなた、怖い匂いがする。息も聞こえる」
「英語になると余計に怖いな」
喉が乾き、スティックが汗で滑る。周囲には人を食う妖怪がいて、目の前の少女も俺を食べるつもりでいる。
怖くないと言えば、たぶん声に出す前に嘘だと分かる。
「怖い」
「うん」
ルーミアは嬉しそうにも、失望したようにも見えなかった。
「じゃあ、もうあたしのもの?」
「どうしてそうなる」
「怖いのに逃げないから」
「演奏中だからだ」
「終わったら逃げる?」
「食べると言われたら考える」
「食べるよ」
即答だった。
歌ったことも、同じ拍を取ったことも、空腹を消してはいない。
俺は右足を一つ踏んだ。
ドン。
恐怖をなくす必要はない。
次の一打までの長さなら数えられる。
「まだ叩くんだ」
「曲が終わってない」
「あたしが食べても?」
「食べる前に聞け」
「今、聞いたよ?」
「許可を取れという意味だ」
「難しい」
「歌うより簡単だ」
「歌う方が簡単になったよ」
少しだけ胸を張る。否定できないのが悔しい。
見えないギターが、Finalへ向けて持ち上がる。
「ようこそ」
ルーミアが両腕を広げた。
「あたしの、終わらない夜へ」
「歓迎の仕方が物騒だな」
「帰れないよ」
「歓迎じゃなくて監禁だ」
「違うの?」
「かなり違う」
牙を見せたまま、ルーミアは俺の首筋ではなく右のスティックを見た。
俺は高く上げる。
すぐには振り下ろさない。
ルーミアも、すぐには歌わない。
互いに一拍を待った。
右足を落とす。
ドン。
遅れて左足を踏み、クラッシュを開いた。
ルーミアの声が、空けた一拍から自分の足で踏み込んでくる。
次は彼女が息を吸う。
俺が待つ。
声が入ってから、左手のスネアを返す。
待たせる側と待つ側が、一小節ごとに入れ替わった。
ルーミアの声が一度だけ裏返った。
彼女は慌てて次の言葉を追い、また拍より先へ出かける。
俺は埋めなかった。
スネアを打てる場所を一つ空け、右足の重い一打だけを残す。
ルーミアは空白の手前で止まり、俺を見る。
右のスティックを上げた。
今度は振り下ろすまで動かない。
一拍遅れて声が戻る。
外れた音を消したのではない。二人で、その先へ戻った。
ルーミアの闇は消えない。
ただ、何も見せない黒い壁だったものが、鳴った瞬間だけ森の輪郭を選んで見せた。
右のバスドラムで枝の上の黄色い目が浮かぶ。左で霧の中の細長い影。スネアで落ち葉を叩く前脚。ばらばらな音が、二人の間にできた拍へ戻ってくる。
「みんな、まだいるよ」
「お前の闇だろ」
「あたしにも見えなかった」
「不便だな」
「でも、今は見える」
最初は俺一人を囲んだ闇が、森全体を一つの円へ入れていた。
俺はルーミアの声を待ち、ルーミアは俺の一打を待つ。その往復が外へ届くたび、妖怪たちの笑いや足音まで曲へ加わる。
食べるものと食べられるものが、仲間になったわけではない。
ただ、今鳴っている一小節の終わりだけは、全員が同じ場所で待っていた。
最後のサビが終わる。
高く開いていたギターが遠のき、妖怪たちの声も止まった。
俺はツーバスを減らし、重い間隔だけを残す。
ルーミアが正面へ降りてきた。
歌い手の見えないボーカルが、短い余韻を落とす。
“Stay with me”
“Into the dark...”
「ここにいて」
今夜、何度も聞いた言葉だった。
逃がさないための命令。歌へ入る合図。同じ拍から離れないための声。
「曲は終わる」
「夜は?」
「夜も、いつかは終わる」
「じゃあ、また夜になったら」
「また食べるのか」
「また歌う」
一拍置いて、牙を見せる。
「そのあと食べるかも」
「順番を変える相談は必要だな」
「次も一曲?」
「一曲だけだ」
「そーなのかー」
ルーミアは、俺が最後の一打を選ぶまで待った。
右足を踏み込む。
ドン。
右手のクラッシュへ左手のスネアを重ねた。
見えないギターとベースが消える。アンプ、鉄骨、赤黒い照明、地面の線が順に粒子へほどけた。
最後に残ったのは、持ち込んだドラムと暗い森、鋭い歯を持つ観客たちだった。
ルーミアの闇も、妖怪たちの空腹も消えていない。
消えたのは、能力が作ったステージだけだ。
右手にはまだスティックの重さがある。
掌は熱く、指は痛い。
手首の内側で、血が一度脈打った。
「また夜に」
暗闇からルーミアの声がした。
その余韻へ重なるように、右腕の内側で脈がもう一つ打った。