その脈より少し遅れて、茂みの奥から別の音がした。
浅く、湿った呼吸。
「まだ誰かいる」
ルーミアが言う。
携帯電話の明かりを向けると、折れた枝の向こうに男が倒れていた。
年は五十を越えているだろう。着物の脇腹が裂け、にじんだ血が土を黒く濡らしている。
「聞こえるか」
男の瞼が動く。
「来る、な……そいつは……」
「人を食う。知ってる」
「知って、いて……なぜ……」
「説明は長くなる。名前は」
「甚六……」
ルーミアが俺の肩越しから覗き込んだ。
「おいしそうな匂い」
一曲ぶん縮まった距離が、そこで止まった。
ルーミアは歌を覚えた。俺の合図を待ち、自分の声で入る場所を選んだ。
だからといって、血が食べ物に見えなくなったわけではない。
「この人は食べるな」
「もう曲、終わったよ?」
「また夜にと言っただろ」
「それは次の曲の約束」
「その相手の前で人を食ったら、次は叩かない」
ルーミアは甚六と俺を交互に見た。
「お腹が減ってても?」
「減っていてもだ」
「難しい」
「歌よりは簡単だ」
「歌の方が簡単になったよ」
同じ反論を、今度は歌の外で返された。
ルーミアは不満そうに頬を膨らませ、それでも甚六の首筋から離れた。
「次の夜まで?」
「この人は、その先もだ」
「ほかの人は?」
「相談の範囲を広げるな」
約束は善意ではない。空腹も消えていない。
次の一曲が、今は牙を一歩ぶん遠ざけているだけだ。
それで十分だった。
俺は傷へ布を当て、右手で圧迫した。左手で長い布を脇腹へ回し、ほどけないよう結ぶ。
演奏が終わっても、戻った右腕は消えない。
「何にやられた」
「山犬の、妖怪だ……」
「歩けるか」
「無理を言うな……」
「なら運ぶ」
台車の積み方を変え、二台のバスドラムを左右へ寄せた。
「一つ置いていけば広いよ」
ルーミアが言う。
「二つとも必要だ」
「儂より……太鼓が大事か……」
「一瞬だけ迷った」
「迷うな……」
抗議できるなら、まだ意識は保てる。
甚六を二台のバスドラムの間へ乗せた。見た目は搬送より、巨大な太鼓に挟まれた刑罰に近い。
「人がいる場所はどっちだ」
「こっち」
ルーミアが指したあと、首をかしげた。
「たぶん」
「今の間は何だ」
「絶対って言うと、ドラマーは信じないから」
「学習の使い方が違う」
台車の取っ手を両手で握った。
右腕へ甚六と機材の重さがかかる。肩の筋肉が張り、掌へ金属が食い込んだ。奇跡らしい便利さはない。ただ、生きた腕として疲れる。
それがよかった。
ルーミアは闇を前方へ浮かべ、夜の森を進んだ。
道の先を見ているのか、見ていないのかは分からない。何度か木の枝へぶつかりながら、それでも来たときより短い道で森の縁まで連れてきた。
木々の隙間が灰色に変わり始めていた。
ルーミアが止まる。
「ここから先は、人間が起きるよ」
「朝が苦手なのか」
「明るいと見つかる。里の人も、赤白も追いかけてくる」
朝日そのものを怖がる様子ではない。ただ、闇へ隠れにくくなった身体を森の側へ残している。
「じゃあ、ここまででいい」
「ドラマーは?」
「甚六を人のいる場所へ運ぶ。帰る方法も聞く」
赤い目が少し細くなる。
「帰るの?」
「方法を聞くだけだ」
「次の夜は?」
「戻れるなら来る」
「一曲?」
「一曲だ」
「今度は最初から歌う」
「最初の一拍は待て」
「難しい」
「もうできる」
ルーミアはすぐには答えなかった。
それから、演奏の最後と同じように、俺の返事が終わるまで待って笑った。
「また夜に」
闇が木々の間へ戻っていく。
◇
森を出て間もなく、赤と白の人影が空から降りてきた。
大きな赤いリボン。白い袖。片手には紙垂のついた棒。
少女は俺より先に甚六の血を見た。
「朝から里の近くで、ずいぶんなものを運んでるわね」
「俺もそう思う」
「甚六。聞こえる?」
「霊夢、か……」
霊夢と呼ばれた少女は傷を覗き込み、俺が巻いた布を確かめた。
「里まで、もう少し。門で人を呼ぶわ」
それから俺の長い髪と黒い衣装、二台のバスドラムを見る。
「あなたは?」
「ドラマーだ」
「名前を聞いたんだけど」
「今はそれで通してくれ」
「通らないから、あとで聞くわ」
「外来人ね」
「見れば分かるのか」
「格好でも分かるし、昨夜、境界の近くで妙な気配がしたもの。ルーミアもいたでしょう」
「もう森へ戻った」
「そいつ、人を食べるわよ」
「知ってる」
「知ってて、次の夜を約束したの?」
「演奏をな」
霊夢は額へ手を当てた。
「朝から面倒なのを拾ったわ」
「拾われたのは俺の方だ」
「どちらでも面倒なのは同じよ」
台車の上から甚六が言う。
「博麗の巫女なら、境界のことが分かる」
俺は霊夢を見る。
「外の世界へ帰れるか」
「来た場所と越え方が分かれば、戻す方法は考えられる」
帰れないとは言われなかった。
「この腕は、外ではなかった。ここへ来たら戻った。演奏すると、ステージや伴奏まで勝手に出る」
霊夢の目が右肩から指先まで動く。
「それで、帰ったとき腕と力がどうなるか知りたい?」
「ああ」
「知らないわ」
答えは早かった。
「境界を越えて変わったものが、もう一度越えて同じままとは限らない。少なくとも、試して確かめる話じゃないわね」
戻れば腕が消えるかもしれない。能力だけが残るかもしれない。それ以外の何かが変わる可能性もある。
「調べられる奴はいるか」
「紅魔館に、魔法と妙な現象へ詳しい魔法使いがいるわ。親切に診てくれる保証はしないけど」
「場所は」
「霧の湖の向こう。まずは里へ入りなさい。甚六を治して、あなたも食べて寝る」
人を食べない相手から食事を勧められるだけで、かなり安心できた。
森を振り返る。
ルーミアの姿はない。
それでも、最後に交わした言葉は残っている。
帰還を急いで、戻った腕を試しに失うつもりはない。
まず、右腕と能力を調べる。
そのために、霧の湖の向こうを目指す。
俺は両手で台車を押した。
二台のバスドラムの間で甚六が呻き、先を行く霊夢が一度だけ振り返る。
夜の続きを鳴らすために、俺は朝の人里へ向かった。
第一話「闇の中でツーバスは鳴る」は、東方Project『妖魔夜行』を原曲とするアレンジ楽曲「Into The Dark」と連動しています。
楽曲およびMVは、YouTube・ニコニコ動画で公開しています。
【投稿者名】
YouTube:sakusan07 @sakusan07
ニコニコ動画:さくさん ID:234862
【プレイリスト】
YouTube:ドコドコアレンジしよう!
ニコニコ動画:<幻想入りシリーズ>ツーバス抱えて幻想入り