異世界二日目、最強の縄張り
異世界へ来て二日目。
俺は人間の里の広場で、朝からドラムを叩いていた。
二台のバスドラム。スネア。ハイハット。クラッシュ一枚。
昨夜の森より少ない。
通りがかった男に「太鼓を一台減らせば、運ぶのも楽だろう」と言われたからではない。
一台減らすという提案は断った。
即答で。
減らしたのは上に載せるものだけだ。
四つ数え、両足を踏む。
ドン。ドドン。
朝の広場を歩いていた者たちが足を止めた。
右腕は消えていない。
演奏を始めると、肩から手首へ赤黒い粒子が流れた。昨夜より薄い。だが、スティックを握る力も、打面から返る衝撃も本物だった。
短いフレーズを三つ。
最後に、両足で低音を一つだけ残す。
ドン。
音が建物の間を抜け、朝の空へ消えた。
置かれていた木箱には、硬貨が数枚、握り飯が二つ、漬物を包んだ葉が一枚入っていた。
宿代と朝食には足りるらしい。
幻想郷へ来て最初に得た仕事が、路上演奏だった。
会社員だった頃より、能力が給料へ反映されるのが早い。
「もう終わりか」
広場の端から、甚六が歩いてきた。
昨夜、森で山犬に襲われていた男だ。脇腹にはまだ包帯が巻かれている。
「傷は」
「歩くくらいなら問題ない。お前さんに運ばれたときの方が死ぬかと思った」
「生きているなら成功だ」
「太鼓二つに挟まれて運ばれる身にもなれ」
「一台置いていくより安全だった」
「儂より太鼓の方が大事だったのか」
「一瞬だけ迷った」
「迷うな」
甚六は呆れた顔で、折り畳まれた紙を差し出した。
湖までの地図だった。
細い道と、森と、湖岸までの目印だけが描かれている。その先は白い。
「霧の湖を渡った向こうに、紅い館がある」
「紅魔館」
「そう呼ばれている。館には魔法に詳しい者がいるそうだ」
昨夜、人里へ着いてから、博麗の巫女にも同じ話を聞いた。
幻想郷へ入ったことで戻った右腕。
演奏に応じて現れる、赤黒い粒子と機材。
境界を越えて外へ戻ったとき、それらがどうなるかは誰にも分からない。
試しに帰ってみればいい、という問題ではなかった。
一度戻れば、同じ場所へ来られる保証がない。右腕だけが境界へ置き去りになる可能性も否定できない。
帰還方法を探す前に、今の身体と能力が何なのかを調べる。
そのために紅魔館へ向かう。
「湖から先の道は」
「知らん」
「地図が途中で終わっている」
「だから湖までの地図だと言った」
「館まで描いてくれ」
「行ったことのない場所を、どう描けと」
「想像で」
「命を預ける地図に想像を入れるな」
もっともだった。
俺は地図を畳み、黒い上着の内側へ入れた。
甚六は台車に積んだ二台のバスドラムを見る。
「本当に全部持っていくのか」
「必要だ」
「館へ着く前に腰を壊すぞ」
「十年前から心配されている」
「改善しろ」
「一台にする以外で考える」
「一番簡単な方法を外すな」
握り飯を鞄へ入れ、台車の固定具を確認する。
右手で取っ手を握った。
演奏を終えても、腕は残っている。赤黒い粒子は弱くなったが、指先へ返る木の感触は消えなかった。
「行ってくる」
「湖には妖精がいる」
「危険か」
「自分を最強だと思っている」
「危険だな」
「話は聞くが、都合の悪いところは聞かん」
「かなり危険だ」
「勝負を挑まれても相手にするな」
「命を大切にしたい」
俺は台車を押し、広場を出た。
◇
湖へ近づくほど、道は白くなった。
雪ではない。
草の先や石の縁へ、細い霜がついている。
昼前だというのに気温が低い。湖から流れてくる霧が日差しを隠し、道の先を白く塗りつぶしていた。
台車の車輪が湿った土へ沈む。
右。左。
重い機材が轍を作る。
長い髪が霧を含み、頬へ張りついた。幻想郷へ来る前には短かった髪にも、まだ慣れない。
湖岸の手前で、木の板が立っていた。
『さいきょうのなわばり』
文字の大きさが揃っていない。
『きょう』の辺りだけ、書き直した跡が三つある。
感想は控えた。
命を大切にしたい。
看板の横を通り過ぎる。
何も起きない。
十歩進む。
霧の奥で、青い光が一度だけ瞬いた。
羽音はしない。
代わりに、見えない女性の声が霧から響いた。
“Oh. Look. Here she comes.”
青白い影が、空から落ちてくる。
湖面へ触れる直前で止まり、六枚の氷の羽を広げた。
青い服。青い瞳。背丈は低い。
甚六が言っていた妖精だろう。
「逃げないのね!」
「通るだけだ。会話からは逃げたい」
「ここは、あたいの縄張りよ!」
「看板は見た」
「読めた?」
「一応」
「すごいでしょ!」
「どの部分が」
「全部!」
妖精は腰へ両手を当て、台車を見下ろした。
視線が二台のバスドラムで止まる。
「それ、大砲?」
「違う」
「二つあるよ?」
「二つあっても違う」
「何発撃てるの?」
「撃てない」
「じゃあ弱い?」
「楽器だ」
「がっきは飛べる?」
「飛ばない」
「あんたは?」
「飛べない」
妖精の顔が輝いた。
「じゃあ、あたいの勝ち!」
「何の勝負だ」
「飛べる方が強い勝負!」
「今決めたな」
「先に言ったから、あたいの勝ち!」
「早く言った方が勝つのか」
「そう!」
「では、そのルールは無効だ」
「今あたいが先に言った!」
「何を言っても勝てるな」
「最強だから!」
質問は一つずつ増えているのに、理解は進んでいない。
甚六の説明は正しかった。
妖精は台車の前へ降りた。
「あたいはチルノ。湖で一番強い妖精!」
「ドラマーだ」
「どらまー?」
「その二つを鳴らす」
「大砲じゃないのに?」
「まだ疑っているのか」
「鳴らしたら何が出る?」
「音だ」
「強い?」
「聞いて決めろ」
チルノが笑う。
「じゃあ勝負ね!」
「道を通りたいだけだ」
「勝ったら通してあげる!」
「負けたら」
「あたいが勝つ!」
「結果ではなく、そのあとを聞いている」
「また勝負する!」
「終わらないな」
チルノは右手を高く上げた。
指先へ青白い光が集まる。
「先攻、あたい!」
「まだ機材を下ろしていない」
「早く言った方の勝ち!」
「そのルールは無効だと言った」
「凍れー!」
冷気が、台車へ向かって走った。