クラシックシーズン。
ブリッジコンプは、弥生賞へ出走していた。
皐月賞への切符を懸けた重要な一戦。
けれど――
「……勝った」
ゴールを駆け抜けたブリッジコンプは、息を切らしながら呟いた。
「やったな、ブリッジコンプ!」
市川が駆け寄ってくる。
「はい!」
嬉しい。
勝てたことは素直に嬉しかった。
何より。
走っている最中に、あの嫌な違和感をほとんど感じなかった。
ホープフルステークスでは、終盤になるにつれて身体の感覚と走りが噛み合わなくなっていった。
けれど、今日は違う。
スキルも狙った通りに使えた。
最後の直線でも、しっかりと伸びた。
「……やっぱり、気のせいだったのかな?」
「ん?」
「いえ……何でもありません」
ブリッジコンプは笑った。
ホープフルステークスの三着。
あれはたまたま調子が悪かっただけ。
そう思えばいい。
今日こうして勝てたのだから。
そして――
皐月賞。
「…………」
パドックを歩きながら、ブリッジコンプは周囲を見渡した。
空気が違う。
弥生賞とは明らかに違っていた。
出走するウマ娘たち。
誰もが一筋縄ではいかない。
これまで戦ってきた相手とは比べ物にならないほど、強い。
(……これが皐月賞)
クラシック三冠の一冠。
この先のウマ娘人生を左右するほどの大舞台だ。
胸が高鳴る。
怖い。
でも――
(楽しみ)
ここで勝てば、自分は本当に強いウマ娘になれる。
市川トレーナーの育成理論が正しかったと証明できる。
そんな思いを抱えながら、ゲートへ向かった。
スタート。
問題ない。
序盤。
予定通り。
周囲のウマ娘たちも速い。
だが、まだ対応できる。
中盤。
(ここで一つ目)
スキルを発動。
身体が反応する。
いつも通り――
そう思った。
けれど。
(……まただ)
胸の奥に、あの違和感が生まれる。
ホープフルステークスと同じ。
いや。
(前より……強い?)
身体は動いている。
なのに。
自分の意思と身体の動きが、ほんの少しだけズレている。
(違う)
気のせい。
そう言い聞かせる。
(もっと正確にやればいい)
市川トレーナーに教わった通りに。
スキルの発動タイミング。
重心。
脚の運び。
腕の振り。
全部。
全部、完璧に。
(ここ!)
次のスキルを発動させる。
――違和感。
(……っ)
まただ。
さっきより強い。
身体が僅かに遅れる。
思った通りに動かない。
(どうして!?)
焦る。
焦れば焦るほど、さらに意識してしまう。
足を。
腕を。
身体の角度を。
呼吸を。
全部、正しく。
完璧に。
(違う……!)
何かがおかしい。
今までなら自然にできていたことが、急に難しくなっている。
それでもレースは止まらない。
終盤。
前を走るウマ娘たちが仕掛ける。
ブリッジコンプも加速する。
「っ……!」
伸びる。
だが――
(足りない!)
いつものような加速ができない。
必死に脚を動かす。
スキルを使う。
けれど、思うように噛み合わない。
前との差を詰める。
一人抜く。
さらに一人。
だが、先頭には届かない。
そして――
ゴール。
「1着――!」
ではない。
「3着!」
ブリッジコンプは、ゴール後もしばらく走り続けた。
そして、ようやく足を止める。
「はぁ……はぁ……」
荒い息。
胸が苦しい。
けれど、それ以上に苦しいのは――
「……なんで」
また3着だった。
ホープフルステークスと同じ。
弥生賞では勝てた。
だから、やっぱり気のせいだと思った。
けれど。
違った。
確実に何かがおかしい。
「…………」
自分の脚を見る。
どこも痛くない。
故障したわけでもない。
体調だって悪くない。
なのに。
(おかしい……)
どうして思った通りに走れない?
(不調の原因が……分からない)
それが何より怖かった。
レース後。
「ブリッジコンプ!」
市川が駆け寄ってくる。
「3着だったな」
「……はい」
「勝てると思ってたんだけど、調子が悪かったのか?」
「市川トレーナー」
「ん?」
ブリッジコンプは、言葉を探した。
「私……」
「どうした?」
「ちゃんと走れていましたか?」
「…………」
市川は一瞬、答えに詰まった。
「ああ、もちろん」
そう答えた。
だが、いつも通りではなかった。
いつも通りなら勝てていたはずだからだ。
それでも。
(……弥生賞では出来ていた。
何故、G1になると上手くいかない?
精神的なものか?)
故障ではない。
体調不良でもない。
トレーニングも予定通り。
スキルも、いつも通り使わせた。
市川はレース映像を思い返す。
何か別の原因があるのか?
けれど――
見つからない。
だが、その裏で少しずつ、確実に。
彼女の「走り」そのものが、崩れ始めていた。
皐月賞の後、市川は何度もレース映像を見返していた。
「……やっぱり、これか」
画面の中で走るブリッジコンプ。
身体の動きに、僅かな硬さがある。
ほんの僅かなものだ。
普段のトレーニングでは気にならない程度。
けれど、G1のような大舞台では、その僅かな違いが勝敗を分けることもある。
「G1特有の緊張感……それで力んでるんじゃないか?」
「力んでいる?」
「ああ。普段なら自然にできている動きが、レースになると少しだけ硬くなる。
だからスキルの性能を十分に引き出せていないんだと思う」
「……なるほど」
ブリッジコンプは、何度か自分の身体を動かしてみる。
「言われてみれば……そうかもしれません」
「やっぱりそうだろ?」
市川は、自分の考えに確信を持った。
原因が分かった。
なら、後は簡単だ。
「だったら、もっとスキルを増やそう」
「え?」
「一つ一つのスキルを完璧に使えなくても、数があれば補える。
どれか一つが不発でも、別のスキルでカバーできるようにするんだ」
「なるほど……」
ブリッジコンプの表情が明るくなる。
「それなら、もっと強くなれますね」
「ああ。君ならできる」
その言葉を疑う理由なんて、二人にはなかった。
新しいスキルを覚えることでブリッジコンプの引き出しを増やしていく。
増えれば増えるほど、対応できる展開も増えていく。
市川の理論は、確かに彼女を強くしていた。
少なくとも――
短期的には。
日本ダービー。
ブリッジコンプは、皐月賞の時よりも多くのスキルを身につけてレースに挑んだ。
「行ける!」
そう思った。
だが。
終盤。
思ったように身体が動かない。
スキルを使っても、以前ほどの伸びがない。
「っ……!」
必死に脚を動かす。
けれど、前との差は縮まらない。
結果――
7着。
「……7着」
ブリッジコンプは、呆然と掲示板を見つめていた。
「おかしいな。
もっと強くなってるはずなのに…モブだからか?
〇〇〇〇だったら違ったのかな?」
(いや、スカウトを断られたウマ娘のことを考えるのはやめよう)
市川は、気持ちを切り替えてブリッジコンプの方に向かう。
「距離が長がくなったからな。
長距離に対応するスキルが不足していたのかもしれない。
次はその対策を重点的にやろう」
「……はい」
ブリッジコンプもそう思うことにした。
だが、市川が呟いたことをその耳が拾っていた。
菊花賞。
距離を克服できれば。
そう思って出走した。
結果――11着。
「……」
さすがに、ブリッジコンプも言葉を失った。
「長距離が駄目なら、短い距離ならどうだ?」
マイルに出走する。
惨敗。
G2に出走する。
勝てない。
以前なら勝負になっていた相手にも、まるで歯が立たない。
いつの間にか、ブリッジコンプはG3でようやく勝負になるかどうか、というところまで落ちていた。
「…………」
トレーニング後。
ブリッジコンプが市川の前に立っていた。
「市川トレーナー」
「どうした?」
「もっとスキルを教えてください」
「……」
「このままじゃ勝てないんです」
拳を握りしめる。
「足りないんです!」
その目には焦りがあった。
市川は少し迷った。
だが――
「分かった」
新しいスキルを教える。
すると、不思議なことに調子が上向いた。
以前のような走りが、少しだけ戻ってくる。
市川は安堵した。
「ほら、やっぱりスキルが足りなかったんだ」
「はい!」
ブリッジコンプも嬉しそうに笑う。
しかし。
その好調は長く続かなかった。
しばらくすれば、また以前の状態に戻ってしまう。
そこで、また新しいスキルを覚える。
一時的に調子が良くなる。
そして、また崩れる。
まるでイタチごっこだった。
ある日のトレーニング。
市川はブリッジコンプの走りを見ながら、黙り込んでいた。
(……おかしい)
新しいスキルを覚えれば、一時的には良くなる。
でも、すぐに元に戻る。
いや。
よく見ると――
以前より酷くなっている。
市川は、自分が教えたスキルを一つ一つ思い返していく。
スタート。
位置取り。
加速。
コーナー。
終盤。
ラストスパート。
様々な場面に対応するためのスキル。
それぞれ単体なら、問題ない。
だが。
(もしかして……)
市川の背中に冷たいものが走った。
(スキルを教えすぎたんじゃないか?)
ゲームでは、スキルをいくら覚えても問題なんてなかった。
むしろ、覚えれば覚えるほど強くなる。
(ゲームでは、こんなバグなかったのに……)
当たり前だ。
ゲームのウマ娘には、現実の身体がない。
スキル一つ一つが身体の動きに影響することもない。
だが、現実のウマ娘は違う。
一つのスキルを覚えれば、それに適した身体の使い方を身につける。
二つ目を覚えれば、それにも対応する。
三つ目。
四つ目。
十。
二十。
それだけ増えれば――
身体が全ての要求に応えられるはずがない。
(俺が……壊してるのか?)
初めて、その可能性が市川の頭をよぎった。
「ブリッジコンプ」
「はい?」
「しばらく、新しいスキルを覚えるのはやめよう」
「えっ?」
「これからは、今まで覚えたスキルをちゃんと使えるようにする」
「……分かりました」
それから方針を変えた。
新しいものを与えるのではなく。
今あるものを整理する。
一つずつ。
丁寧に。
まずはスタートのスキル。
次に位置取り。
それができたらコーナー。
そして終盤。
スキル同士が干渉しないように、一つずつ調整していく。
だが――
「違う……」
一つを直す。
すると、別の部分が崩れる。
「今度はこっちか……」
そこを直す。
すると、以前直した部分が狂う。
「どうして……」
市川は必死になって修正を続けた。
けれど。
すでにブリッジコンプの身体には、あまりにも多くの「走り」が染みついてしまっていた。
どれが本来の自分の走りなのか。
どれがスキルによって身につけた動きなのか。
本人にも。
市川にも。
分からなくなっていた。
「市川トレーナー……」
「……なんだ?」
「私、もっと頑張ります」
ブリッジコンプは笑った。
けれど、その奥には諦観が滲んでいる。
「きっと、まだ直せますよね?」
「……ああ」
市川は頷いた。
「まだ、やれる」
そう答えるしかなかった。
だが。
現実は、二人の願いとは逆に進んでいった。
G3で勝てなくなった。
オープン戦でも勝てない。
走るたびに、どこかが噛み合わない。
以前なら自然にできていた動きさえ、今では意識しなければできなくなっていた。
「右足を……」
意識する。
すると左腕の振りが遅れる。
「腕を……」
意識すると、今度は身体が傾く。
「違う……!」
修正する。
また別の部分が崩れる。
まるで壊れた機械を直そうとしているようだった。
そして――
ついに、普通に走ることさえなくなった。
藁にもすがる思いで病院で検査してもらった。
結果は異常なし。
少なくとも肉体的には何の問題もなかった。
変な癖がついて、身体が動かし難いだけ。
その癖が複雑すぎて、矯正ができないことが問題だった。
「私…引退します」
走れないのだから、その選択しかない。
「そうか…すまない」
謝ることしか出来なかった。
「最後に一つ、聞いてもいいですか?」
「ああ」
「貴方にとって私は…モブだったんですか?」
「なっ!?」
頭が真っ白になる。
どうして…
何気ない独り言を聞かれていた?
いきなりの事に動揺して、声を出せない俺を見て、ブリッジコンプは哀しそうに微笑んだ。
「私は、市川トレーナーを信じたかった」
そう言って、去っていく背中に「違う」と叫びたかった。
だけど、本当に違うのか?
俺がブリッジコンプをスカウトしたのは、前世で有名なモブウマ娘だったから。
スカウトした後も、あの娘のことを見ていただろうか?
思えば、俺はブリッジコンプの事を何も知らない。
好きな食べ物は何か?
好む色は?
そんな個人的なことだけじゃない。
どんなウマ娘になりたいのか?
そんな当たり前のことさえ、俺は聞かなかった。