「私以外に、何人ものウマ娘を壊して捨ててきたのよ」
ブリッジコンプの言葉に、フラワーもマーチも黙って耳を傾けていた。
「言ったはずだ。
全部、聞いていると」
「……それでも?」
「はい」
フラワーは静かに頷いた。
「それに……壊れていったウマ娘たちの気持ち。
少し、わかる気がします」
「……何を言っているの?」
「柴崎トレーナーも言っていた」
マーチが口を開く。
「才能のないウマ娘ほど、あの力に手を伸ばしてしまう。
その先に破滅が待っていると分かっていても……勝てる可能性があるなら、縋ってしまう。
だから、悪魔の育成理論なんだと」
フラワーが続ける。
「私たちも、最初は怖かったです。
でも……それ以上に、オグリさんに勝ちたかった」
「……」
「だから私たちは、自分の意思で選んだんです」
その言葉を聞いて、ブリッジコンプの表情が歪んだ。
「なんで……」
震える声。
「なんで、そんな平静でいられるの!?」
二人を睨みつける。
「あなたたちも壊されているのよ!」
その叫びに、マーチは一歩も引かなかった。
「ええ」
「……え?」
「私たちの走りは、もう以前とは違います」
マーチは自分の脚を見下ろす。
「自分でも分かっています。
走れば走るほど、今まで積み上げてきたものが崩れていく感覚がある」
「それでも……」
顔を上げる。
「私たちがあなたたちと違うのは、壊れてもいいなんて思っていないところです」
「……!」
「私たちは、壊れることを受け入れて走っているんじゃない」
フラワーも静かに続ける。
「どれだけ苦しくても、どれだけ無様でも……走ることを諦めない」
「ああ」
マーチが頷く。
「這いつくばってでも、泥にまみれてでも、強くなることを諦めない」
「そんなの……」
「馬鹿だと思いますか?」
フラワーが微笑む。
「きっと、そうなんでしょうね」
「でも、それでいい」
マーチは真っ直ぐに彼女を見つめる。
「私たちは、オグリキャップに勝つためにここにいる」
「だから……」
フラワーが一歩前へ出る。
「次のレースを見てください」
「……」
「私たちなりの答えを、そこで示しますから」
それ以上、彼女は何も言えなかった。
二人の目に宿っていたのは、狂気でも絶望でもない。
ただ、強い意志だった。
自分たちの選んだ道を、最後まで走り抜くという意志。
――悪魔の育成理論に壊されたのなら。
新しい自分を作り上げて、もう一度立ち上がればいい。
二人は、そう決めていた。
迎えたGⅢレース当日。
フジマサマーチはパドックを終え、レース場へ向かっていた。
周囲から向けられる視線は、これまでとは何も変わらない。
期待されていない。
それどころか、今日も惨敗するだろうという空気すら漂っている。
人気は最下位。
笠松時代にはオグリキャップと互角に渡り合ったウマ娘。
その肩書きを引っ提げて中央へやって来たはずなのに、結果は三戦三敗。
しかも、全て圧倒的な最下位だった。
今では誰も、フジマサマーチが勝つとは思っていない。
だが――
当の本人は、そんな周囲の評価など気にしていなかった。
静かに目を閉じ、自分自身と向き合っている。
歓声も。
野次も。
周囲から向けられる嘲笑も。
今のマーチには届いていない。
ただ、勝つ。
それだけを考えていた。
「……行くぞ」
ゲートへ向かう。
そして――。
レース開始。
スタート直後、フジマサマーチが一気に前へ出た。
おおっと、フジマサマーチが先頭に立った!
場内がざわめく。
だが、後続のウマ娘たちはマーチを追おうとはしなかった。
警戒する必要などない。
どうせ最後には潰れる。
これまでと同じだ。
そう思われていた。
「また逃げるのかよ」
「どうせ最後までもたないって」
そんな声すら聞こえてくる。
マーチは構わず走り続ける。
だが――。
「……ん?」
レース中のラップタイムを計測していた係員が、手元の計器を見て首を傾げた。
「どうした?」
「いや……フジマサマーチのラップが妙なんです」
「妙?」
「安定していないんですよ」
画面に表示された数字を確認する。
「さっきまで速かったと思ったら、急に落ちてる。
その次のラップではまた上がってる……」
「フジマサマーチは、ペース配分すらまともにできないのかよ」
別の係員が呆れたように言う。
「こりゃ、今日もダメだな」
その評価は、観客たちも同じだった。
先頭を走っている。
だが、その走りは明らかにおかしい。
速い。
かと思えば遅い。
また速くなる。
まるで複数のウマ娘が、一つの身体を奪い合っているかのようだった。
それでも――。
マーチは先頭を譲らない。
そして、レースは最終直線へ。
さあ、最後の直線に入った!
マーチはまだ先頭にいる。
しかし、ここからどうなるか!
誰もが思っていた。
ここから後続に飲み込まれる。
またいつものように失速する。
中央では通用しない。
その現実を、今日も思い知らされる。
――そう思っていた。
「……」
マーチが前を見据える。
残り400メートル。
ここまで積み上げてきたものを、全て繋ぎ合わせる。
身体の奥に意識を集中させる。
「ここだ!」
その瞬間だった。
擬似領域『
フジマサマーチの走りは完全に別物へと変貌した。
パワフルで大きなストライド。
その力強いスパートは、あるウマ娘を彷彿とさせた。
「なっ、あれは!」
レースを視察していたシンボリルドルフが驚愕の声を上げる。
無理もない。
なぜなら、マーチが見せた走りは…
「まあ、私の領域ね」
隣で共にレースを見守っていたマルゼンスキーのものだったのだから。
直線に入った途端、後続との距離は一気に開いていく。
これは、どうなっているんだ!
私の目には、フジマサマーチが別の姿と重なって見えます!
誰も追いつけない。
誰も寄せ付けない。
まるで、まるで彼女のようだ!
そのまま――ゴール。
「……ふぅ」
フジマサマーチが息を吐く。
圧勝。
誰の目にも明らかな完勝だった。
場内がざわめく中、マルゼンスキーは小さく首を傾げた。
「うーん……確かに私の領域だったけど、こんなにあっさり逃げ切れるほどだったかしら?」
その疑問に、隣のシンボリルドルフが静かに答える。
「理由は単純だ」
「?」
「レース中に、後続のスタミナが削られていた」
マルゼンスキーの目が細くなる。
「……そうなの?」
ルドルフは続ける。
「だから、誰も直線で伸びてこなかった」
通常、逃げは“自分のペースを守る戦術”だ。
だが、フジマサマーチのそれは違った。
ラップタイムは不安定。
速い区間と遅い区間が極端に混ざる。
それは単なる失敗ではない。
「ラップが乱れていたのは、ペース配分を間違えたからじゃない」
ルドルフの視線がマーチに向く。
「後続のリズムを崩すためだ」
一定のペースで走ると、後方はそれに合わせて消耗を最小限に抑えられる。
だが――
ペースが揺れると、後続は対応を強いられる。
加速。
減速。
再加速。
その繰り返しは、見えない形で確実にスタミナを削る。
「つまり……」
マルゼンスキーが小さく笑う。
「最初から全部、計算だったってこと?」
「そうだ」
ルドルフは静かに頷いた。
レースを支配して勝ってきたルドルフだから気が付いた。
それは、偶然ではない。
才能でもない。
技術だ。
そして――
芸術にすら近い。
「後続の呼吸を乱し、脚を削り、最後の直線で“何も残らない状態”にする」
ルドルフの声は淡々としていた。
「その上で、自分だけが全力を出す」
マルゼンスキーは目を細める。
「ふふ……面白いことするじゃない」
その視線の先で、フジマサマーチは何事もなかったかのように歩いていた。
勝った。
ただそれだけ。
だが、その勝利の裏側にあるものを理解できた者は、ほとんどいない。
観客はただ圧勝に沸き。
実況はただ結果を叫び。
そして――
誰も気付かないまま。
フジマサマーチは、レース中に何をしていたのか…し続けていたのか。
それはまだ、完成ではない。
だが確かに。
悪魔の育成理論は、ここに一つの答えを生み出していた。