やがて、レースは最初のコーナーへと差しかかる。
先頭を走るフジマサマーチが、コーナーへ進入した。
――その瞬間。
「……っ!」
観客席から、ざわめきが起こる。
マーチの身体が大きく内側へ傾いた。
遠心力に逆らうのではない。
むしろ、その力すら利用するかのように身体を倒し、内ラチすれすれを駆け抜けていく。
耳がラチに擦れそうなほどの、極端なインコース。
普通なら、恐怖から無意識に身体を起こしてしまう。
だが――マーチは違った。
「速い……!」
コーナーに入ったにもかかわらず、速度がほとんど落ちていない。
いや、それだけではない。
呼吸が乱れていない。
コーナリング中に余計な力を抜き、息を整えている。
速度を維持しながら、次の直線へ向けて体力を回復させているのだ。
「なんだ、あの走りは……」
観客の一人が呆然と呟く。
まるでコーナーを曲がっているのではない。
コーナーそのものを、直線として走っているかのようだった。
「二人に教えたのはデバフスキルだけじゃない。
最初に教えたのは展開に左右されないバフスキルだ」
――コーナリング◎。
市川がマーチに叩き込んだ技術の一つ。
ただ速く走るための技術ではない。
遠心力に負けないよう身体を傾け、最短距離を、可能な限り速度を落とさずに駆け抜ける。
そして、力を抜くべきところでは抜き、呼吸を整える。
ほんの僅かな時間。
その僅かな積み重ねが、レース終盤に大きな差となって現れる。
だが――。
それを知らない者が見れば、ただの狂気にしか見えない。
少しでも身体の角度を間違えれば、バランスを崩す。
脚が僅かに滑れば、ラチへ激突する。
それでもマーチは恐れない。
いや――。
恐怖を感じていないのではない。
自分が納得できる理論に裏打ちされた技術だから、過剰に恐れる必要がないだけだ——。
「……あれは、普通じゃない」
観客席の誰かが呟いた。
その言葉通りだった。
自分の身体がどこまで耐えられるのか。
どこまでなら限界を超えられるのか。
その境界線を、マーチは正確に見極めていた。
だからこそ、危険な領域まで身体を倒せる。
――まるで、恐怖という感情そのものが麻痺している。
そんな錯覚すら覚える、狂気のコーナリング。
そして、そのすぐ後ろ。
マーチの走りを見ながら、オグリキャップもコーナーへ進入する。
「……!」
オグリの瞳が僅かに見開かれた。
(マーチ……また速くなった)
その走りから伝わってくるものがある。
中央に来た頃とは、明らかに違う。
何度も何度も自分の走りを壊しながら、それでも立ち上がってきた。
そして――今。
マーチは、自分の限界を越えようとしている。
だが。
(私も……負けない)
オグリもまた、身体を内側へ倒した。
コーナーを抜ける。
まだレースは終わっていない。
むしろ――ここからが、本当の勝負だった。
コーナーを抜け、レースは中盤へと差しかかっていた。
先頭は依然としてフジマサマーチ。
その少し後ろをオグリキャップが追走している。
そして、さらに後方。
タマモクロスは静かに前方を見据えていた。
(オグリの奴、滾ってるな)
走りを見れば分かる。
オグリの身体から、隠しきれない闘志が滲み出ている。
(無理もない)
タマモクロスは僅かに笑った。
(笠松からずっと追いかけてきたライバルが、こんな走りを見せてるんやからな)
マーチの走りは、確かに凄い。
中央で三連敗した時とは別人だ。
自分の走りを壊し、何度も作り直して、それでもなお前へ進んできた。
オグリも、それに応えようとしている。
だからこそ――。
「けどなぁ……」
タマモクロスが、僅かに目を細める。
「ウチのこと、忘れてるんやないか?」
次の瞬間。
タマモクロスの身体から、凄まじい圧力が放たれた。
「ウチは……
領域『白い稲妻』
発動。
瞬間。
景色が変わった。
タマモクロスの身体が、一気に前へ飛び出す。
「なっ……!」
観客席から驚愕の声が上がった。
今まで一定のペースを刻んでいたタマモクロスが、一瞬で加速したのだ。
前を走るウマ娘たちを次々と抜き去っていく。
一人。
二人。
三人。
その速度は、まるで周囲の時間だけが止まってしまったかのようだった。
そして――。
あっという間にオグリキャップの横へ並ぶ。
六平が思わず立ち上がる。
「タマモクロス……」
思わず息を呑む。
「ここは、仮にも有馬記念だぞ」
六平の視線の先。
タマモクロスが、オグリへと迫っている。
周囲のウマ娘たちが、まるで止まっているように見える。
「他のウマ娘も、日本を代表するようなウマ娘だってのに…」
レースを見ていたシンボリルドルフは、別のことに気付いていた。
「……仕掛けるのが早い」
「え?」
「領域とは、極限の集中力を必要とする」
ルドルフは鋭い眼差しでタマモクロスを見つめる。
「本来なら、長時間維持できるものではない」
領域は、ただ速く走るための能力ではない。
己の全てを研ぎ澄まし、極限まで集中することで初めて到達できる領域。
だからこそ――。
長く使えば、それだけ身体と精神への負担も大きい。
「それなのに……」
タマモクロスは、まだ中盤だというのに領域を発動した。
しかも。
明らかに全力ではない。
「まさか……」
ルドルフの目が見開かれる。
「領域の出力を……コントロールしているのか!?」
タマモクロスの『白い稲妻』は、以前とは違う。
必要な瞬間だけ最大出力を叩き出すのではない。
出力を抑えながら、それでも領域の恩恵を受け続けている。
まるで――。
自分の領域を自在に操っているかのように。
「……タマモクロスもまた、成長している」
その視線の先。
オグリキャップとタマモクロスが、並んで走っている。
そして、その前にはフジマサマーチ。
後方にはローカルフラワー。
有馬記念は終盤に入ろうとしていた。