ローカルフラワーを担当してから、最初の一週間。
俺は、とにかく彼女の走りを見た。
「もう一回、走ってみようか」
「はい!」
フラワーがスタートラインに立つ。
まだトレーニングウェア姿にもどこか初々しさが残っている。
ゲートの代わりに置かれたスタートラインを見つめ、軽く身体を動かす。
「じゃあ、行こう」
「はい!」
合図を出す。
フラワーが走り出した。
俺は腕時計を確認しながら、その姿をじっと観察する。
……やっぱり。
(身体の使い方がバラバラだ)
腕を振るタイミングと脚を出すタイミングが合っていない。
右脚を踏み込んだ時に上半身が少し遅れてついてくる。
左脚では逆に上体が先に動いてしまう。
そのせいで、せっかくの脚力が前への推進力に変わっていない。
コーナーに入れば、それがもっと顕著になる。
身体が外側へ流れる。
本人は必死に走っているのに、進行方向とは別の方向へ力が逃げていた。
模擬レースの時にも思ったけど――
これは、もったいない。
かなり。
「お疲れ」
「はぁ……はぁ……」
フラワーが膝に手をついて息を整える。
「どうでしたか?」
「うん。やっぱり、思った通りだ」
「……悪かったですか?」
「いや」
俺は首を横に振った。
「悪いんじゃない。
まだ走り方を知らないだけだ」
「走り方を……知らない?」
「ああ」
俺はフラワーの横に立つ。
「今まで、誰かに走り方を教えてもらったことは?」
「……ありません」
「じゃあ、今の走りが君にとっての普通なんだ」
「はい」
「だったら、これから覚えればいい」
俺は地面を指差した。
「まずはここ」
「ここ?」
「足を出すことより、身体を運ぶことを意識してみよう」
それから、俺とフラワーのトレーニングが始まった。
最初の数日は、地味な練習ばかりだった。
走らない日すらあった。
立った状態で姿勢を確認する。
歩きながら腕を振る。
軽くジョギングしながら、脚と腕の動きを合わせる。
コーナーだけを何度も走る。
「もう一回」
「はい!」
「今度は力を抜いて」
「はい!」
「……今のは良かった」
「本当ですか!?」
「ああ。でも、次はもう少しだけ身体を内側へ」
「はい!」
また走る。
「もう一回」
「はい!」
また走る。
何度も。
何度も。
最初の頃は、フラワーも戸惑っていた。
ただ速く走ればいいと思っていたのだろう。
「トレーナーさん」
「ん?」
「これ……本当に速くなるんでしょうか?」
「なるよ」
「でも、まだ全然速くなってる気がしません」
「今は速くする段階じゃないからね」
「……?」
「速く走るための身体の使い方を覚えているところ」
そう説明すると、フラワーは少し不思議そうな顔をした。
「速く走るのに、こんなことが必要なんですか?」
「むしろ、速く走るからこそ必要なんだ」
ゲームなら、ボタン一つでスキルを覚えることができた。
ステータスが上がれば、数字通りに速くなる。
でも現実は違う。
脚が速く動けばいいわけじゃない。
強く踏み込めばいいわけでもない。
身体のどこか一つだけを強化しても、それを他の部分が受け止められなければ意味がない。
全体のバランスが大事なんだ。
(前は、そんなことすら考えなかった)
中央にいた頃の俺は、結果だけを見ていた。
どうすれば速くなるか。
どうすれば勝てるか。
そればかり。
目の前のウマ娘の身体がどんな状態なのか。
どんな走り方をしているのか。
そこまで深く考えていなかった。
「トレーナーさん!」
「ん?」
「今の、ちょっと違いましたよね?」
フラワーが嬉しそうに聞いてくる。
「ああ」
「やっぱり!」
「自分でも分かった?」
「はい!」
その笑顔を見て、俺は少しだけ安心した。
二週間ほど経った頃。
「じゃあ、タイム測ろうか」
「はい!」
フラワーがスタートラインに立つ。
俺はストップウォッチを構えた。
「位置について」
フラワーが姿勢を低くする。
「よーい――」
スタート。
地面を蹴って、一気に飛び出す。
以前とは違う。
腕と脚の動きが、かなり揃っている。
身体が左右にぶれない。
無駄に上体が跳ねることもない。
そして何より――
(速い)
ゴール。
フラワーが減速しながら振り返る。
「どうでしたか?」
俺はストップウォッチを見る。
「……自己ベスト更新」
「え?」
「大幅に」
「……!」
フラワーが目を丸くした。
「どれくらいですか?」
「前より一秒以上速くなっている」
「一秒……」
その数字の意味を、フラワーはすぐには理解できなかったらしい。
何度か瞬きをする。
「……私が?」
「ああ」
「本当に?」
「本当」
「……」
フラワーが自分の脚を見る。
それから、トラックを見る。
「私……速くなってるんですね」
「うん」
「私が?」
「だからそう言ってるって」
「……えへへ」
小さく笑った。
嬉しそうだった。
その日から、フラワーは少し変わった。
それまでは、俺が指示を出していた。
「ここを直そう」
「はい」
「もう一回」
「はい」
それだけだった。
でも、少しずつフラワー自身が自分の走りを考えるようになった。
「トレーナーさん」
「どうした?」
「昨日より、左脚が流れてませんよね?」
「うん」
「あと、コーナーで外に膨らむのも少なくなった気がします」
「その通り」
「やっぱり!」
嬉しそうに笑う。
「じゃあ、次はここを直したらもっと速くなりますか?」
「ああ」
「やります!」
そう言って、また走り出す。
(……変わったな)
まだ大した変化じゃない。
だけど、確実に変わっている。
最初は、
「自分は速くなれるんでしょうか」
だった。
それが今は、
「ここを直したら、もっと速くなりますか」
になった。
自分に才能があるかどうかを気にするのではなく、自分がどうすれば速くなるのかを考え始めている。
それは、トレーナーとしてかなり嬉しい変化だった。
一ヶ月。
二ヶ月。
時間が経つにつれて、フラワーの走りは変わっていった。
フォームはまだ荒い。
だけど、最初とは比べ物にならない。
無駄な動きが減り、脚力がきちんと前への推進力へ変わるようになった。
特に直線。
そこでは、フラワーの才能がはっきりと見える。
「まだ仕掛けない」
「……はい!」
一定のペースを保つ。
そして――
「今!」
フラワーが一気に加速する。
地面を蹴る音が変わった。
さっきまでとは明らかに違う。
身体を前へ運ぶ。
一歩。
また一歩。
速度が乗っていく。
「……!」
俺は思わず目を見開いた。
速い。
模擬レースの時に見たものとは違う。
あの時は、無駄だらけの走りの中に一瞬だけ見えた才能だった。
今は違う。
少しずつだけど、才能を引き出すための土台ができてきている。
ゴール。
フラワーが止まる。
「はぁ……はぁ……」
「タイム」
「どうでした?」
「また自己ベスト」
「……!」
フラワーの顔がぱっと明るくなる。
「またですか?」
「ああ」
「……私、どこまで速くなれるんでしょう」
「さあ」
「え?」
「俺にも分からない」
「……」
「だから、確かめてみよう」
「……はい!」
フラワーが笑った。
その笑顔には、以前のような遠慮がなくなっていた。
メイクデビュー
初めての本番だけど、彼女ならきっと大丈夫。