タマモクロスがオグリの横へ並んだ。
その瞬間――。
オグリキャップの身体を、凄まじい圧が襲った。
「……っ!」
思わず息を呑む。
これまでにも感じたことのない圧力。
速い。
ただ、それだけではない。
タマモクロスというウマ娘そのものが、目の前に立ちはだかっているような感覚だった。
(これが……タマモクロス……)
現役最強。
その言葉の意味を、オグリは初めて身体で理解した。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ――。
嬉しかった。
(マーチ……)
前方を走るフジマサマーチ。
笠松にいた頃、自分が初めて勝ちたいと思ったライバル。
今では、あの頃とは比べものにならないほどの走りを見せている。
(フラワー……)
後方から迫るローカルフラワー。
かつては、自分たちの背中を追いかけていたウマ娘。
それが今では、いつ追いつかれてもおかしくないほどの力を身につけている。
そして――。
(タマモクロス)
目の前にいるのは、今の自分よりも強いウマ娘。
天皇賞・秋。
ジャパンカップ。
何度挑んでも届かなかった相手。
なのに。
胸の奥から湧き上がってくるのは、悔しさだけではなかった。
もっと走りたい。
もっと速くなりたい。
もっと、この先を見てみたい。
マーチと走りたい。
フラワーと走りたい。
タマモクロスと競いたい。
そして――。
誰よりも速くなりたい。
(……そうか)
オグリは気づいた。
自分は、何のために走っていたのだろう。
笠松にいた頃。
中央へ来てから。
勝ち続けること。
故郷の人たちの期待に応えること。
自分を支えてくれた人たちのために勝つこと。
もちろん、それも間違いではない。
けれど。
それだけではなかった。
(私は……走りたかったんだ)
ただ、走りたかった。
誰よりも速く。
強い相手と競い合って。
限界まで走って。
その先にある景色を見たかった。
だから――。
マーチが強くなったことが嬉しかった。
フラワーが追いついてきたことが嬉しかった。
タマモクロスが自分の前に立ちはだかったことが、たまらなく嬉しい。
(ありがとう)
オグリは心の中で呟く。
(マーチ、フラワー……)
(タマモクロス)
(みんなのおかげで、私は自分が本当に走りたい理由を思い出せた)
胸の奥で、何かが弾けた。
今まで開かなかった扉。
何度手を伸ばしても届かなかった場所。
それが――。
今、開く。
「……そうか」
オグリの口元に、笑みが浮かんだ。
「私は……走りたいんだ」
その瞬間。
空気が変わった。
オグリの身体から、これまでとは比較にならないほどの圧力が放たれる。
「……なっ!?」
六平が目を見開いた。
タマモクロスも、その変化を感じ取る。
「……オグリ?」
隣を走る少女から、凄まじい何かが溢れ出している。
それは速度だけではない。
まるで、オグリキャップという存在そのものが変わったかのようだった。
ルドルフが確信する
「ついに……」
オグリの瞳から迷いが消えていた。
ただ前を見ている。
その先にある勝利だけではない。
もっと遠く。
もっと高い場所を見据えている。
「ようこそ……こちら側へ……」
オグリの脚が、大地を踏みしめる。
ターフが大きく弾けた。
そして――。
領域『
発動。
瞬間。
タマモクロスの隣を走っていたオグリの身体が、さらに前へと伸びた。
「――っ!」
タマモクロスの目が見開かれる。
さっきまで完全に捉えようとしていたはずのオグリが――。
今、自分と同じ領域に立っている。
「……ははっ」
タマモクロスの口元が吊り上がる。
「やっと来たか……オグリ」
今、この瞬間。
新たな怪物が――その扉を開いた。
残り400メートル。
最後の直線へ向けて、各ウマ娘が一斉に仕掛け始める。
先頭を走るフジマサマーチ。
その後ろから、オグリキャップとタマモクロスが迫る。
そして――。
「ここだ!」
マーチの瞳が鋭く光った。
擬似領域『
瞬間、マーチの身体が前へ弾ける。
大きく、力強いストライド。
その一歩一歩が、ターフを強く蹴り飛ばしていく。
フジマサマーチ、ここでスパート!
実況の声が響く。
だが――。
「私も……!」
ローカルフラワーも同時に仕掛ける。
擬似領域『
最後方から、一気に順位を上げていく。
来た! ローカルフラワーも凄い脚だ!
マーチとフラワー。
二人が同時に加速する。
だが。
「……速い」
シンボリルドルフが呟いた。
その視線の先には――。
オグリキャップ。
そして、タマモクロス。
二人の脚色は、明らかに違っていた。
マーチとフラワーが懸命にペースを上げる。
それでも…
(やはり……)
ルドルフは目を細める。
(本物の領域には劣るか)
擬似領域。
技術によって領域を再現した、二人だけの走り。
その完成度は驚異的だ。
だが――。
オグリとタマモクロスが放つ、本物の領域には届かない。
残り300メートル。
そして――。
残り200メートル。
マーチの脚が僅かに鈍った。
(……まだだ)
トモに限界が近づいている。
ここまでの走りで、脚はすでに限界寸前だった。
普通なら、ここで終わりだ。
だが。
(まだ……終われるか!)
マーチは腕を大きく振った。
身体を前へ運ぶ。
さらに――脚を高く上げる。
疲労の少ない太ももを使い、脚を前へ送り出す。
その動きを生み出しているのは脚ではない。
腕だ。
強く。
大きく。
腕を振る。
その動きで太ももを引き上げる。
そして――。
マーチの身体が再び加速した。
擬似領域『
「なっ!?」
観客席がどよめく。
マーチが、再加速した。
それも――。
「ははっ!」
タマモクロスが笑った。
「まさか、ウチの領域までパクっとるとは……」
自分の走りを模倣された。
普通なら、不快に思ってもおかしくない。
だが――。
「……上等やないか!」
タマモクロスの瞳に火が灯る。
領域の強度が、一段階上がった。
「なっ……!」
隣を走るオグリキャップにも、その変化が伝わる。
タマモクロスの圧が、さらに増した。
それに呼応するように――。
オグリキャップの領域もまた、強くなる。
『灰の怪物』
その存在感が、一段と増していく。
「二つ目の擬似領域だと!?」
シンボリルドルフが思わず声を上げる。
だが、驚きはそれだけではなかった。
「それに……」
マーチの走りに刺激されたのか。
オグリキャップとタマモクロス。
二人の領域強度まで上昇している。
(互いの走りが、互いを引き上げている……)
そんな異常な光景を見ながら――。
フラワーは冷静に状況を分析していた。
(マーチさんが切り札を切った)
前方では、マーチが必死に先頭を走っている。
そして――。
オグリキャップ。
タマモクロス。
(オグリさんとタマモクロスさんから感じる迫力も、さっきよりずっと強くなってる)
残り200メートル。
フラワーの脚に、焦りが生まれる。
(私の切り札の限界は150メートル)
ここで使えば、最後まで持たない。
(仕掛けるには……まだ早い)
あと少し。
あと少し待つ。
そうすれば――。
いや。
フラワーは前を見る。
オグリ。
タマモクロス。
マーチ。
その背中が、あまりにも遠い。
(どうする……?)
一瞬だけ迷う。
そして――。
(……決まってる)
フラワーは口元を僅かに上げた。
(ここで仕掛けなきゃ、勝負すらさせてもらえない!)
意識を脚へ集中させる。
ターフを正確に捉える。
着地した瞬間に発生する衝撃。
その全てを――。
前への推進力へと変換する!
「――っ!」
フラワーの身体が跳ねた。
まるで地面から解き放たれたかのように。
そして――。
擬似領域『
「な、なんだ!?」
観客席が大きくどよめいた。
フラワーの走りが、それまでとは完全に変わった。
脚の運びが違う。
身体の使い方が違う。
そして何より――。
速い。
あまりにも速い。
シンボリルドルフは、思わず身を乗り出した。
(なんだ、あの走りは……!)
フラワーの身体が、ターフの上を滑るように進んでいく。
いや――。
(まるで空を飛んでいるような……)
こんな領域は知らない。
見たこともない。
聞いたこともない。
「まさか……」
ルドルフの瞳が大きく見開かれる。
「オリジナルの領域を……作り上げたというのか?」
だが、フラワーには自分がどれほど常識外れなことを成し遂げたのか自覚などない。
ただ前を見る。
その先にいるのは――。
オグリキャップ。
タマモクロス。
そして、マーチ。
(これが……)
トレーナーさんの頭の中にのみ存在する、理想の末脚。
何度も何度も練習した。
何度も失敗した。
それでも諦めなかった。
(これが、私の全力全開!)
「――行くよ!」
残り150メートル。
ローカルフラワーが、さらに加速する。
限界まで神経を研ぎ澄ました脚が、ターフを捉える。
前へ。
もっと前へ。
目指すのはただ一つ。
――あの背中。
そして、このまま。
ゴールまで――駆け抜ける!