「うっ……うう……」
レースが終わってしばらく経っても、フラワーは泣いていた。
「ごめんなさい……トレーナーさん……」
俯いたまま、震える声で言う。
「勝てませんでした……」
「…………」
その姿を見て、胸が痛んだ。
……何をしているんだ、俺は。
レース中。
俺は確かにフラワーを見ていた。
彼女が後方から追い上げてくる姿を。
必死に脚を動かして、オグリとマーチに迫っていく姿を。
けれど――
その一方で、俺は喜んでいた。
オグリとマーチのデッドヒートを見て。
原作で見たかった光景が、目の前で繰り広げられていることに興奮して。
まるで観客のように。
……馬鹿か、俺は。
俺は観客じゃない。
フラワーのトレーナーだ。
担当ウマ娘が、勝つために必死になって走っている。
その姿を誰よりも近くで見ている俺が、彼女の敗北を悔しがるより先に、原作の展開を楽しんでどうする。
中央にいた頃から何も変わっていない。
ウマ娘を一人の人間として見ていなかった、あの頃の俺と。
ゲームの駒を見るように。
強くすることばかり考えて。
その先にいる彼女自身の気持ちなんて、ろくに考えていなかった。
……違う。
今度こそ、違わなければならない。
俺はトレーナーだ。
フラワーの人生を預かっている。
なら、彼女が勝ちたいと願うなら、その気持ちから目を逸らしてはいけない。
「……すまない、フラワー」
「……え?」
俺は頭を下げた。
「俺は、お前を勝たせてやれなかった」
「そ、そんな!」
フラワーが慌てて顔を上げる。
「違います! トレーナーさんは悪くありません!」
「いや」
「私が弱かったから……」
「それでも、俺の責任だ」
「でも!」
「今の君では、あの二人に勝てない」
「……」
「それは、俺も最初から分かっていた」
フラワーが目を見開く。
「じゃあ……」
「ああ」
俺は一度、息を吐いた。
「君がここまで悔しがるとは思っていなかった」
「……え?」
「今日のレースを、良い経験にしてくれればそれでいいと思っていた」
自分で言っていて、最低だと思う。
「君なら、いつかマーチやオグリに追いつける。そう思っていた。でも……」
フラワーを見る。
「それを『君がどう思うか』まで、ちゃんと考えていなかった」
「……」
「君は勝ちたかったんだよな」
フラワーの瞳から、また涙が零れた。
「……はい」
「二人に勝ちたかった」
「……はい」
「本気で」
「……はい!」
最後の返事だけは、はっきりしていた。
「すまなかった」
もう一度、頭を下げる。
「頭を上げてください!」
フラワーが慌てたように言った。
「分かりましたから!
もういいですから!」
俺はゆっくり頭を上げた。
そして、フラワーの目を見る。
「じゃあ、これからの話をしよう」
「……はい」
「フラワー」
「はい」
「あの二人に勝ちたいか?」
フラワーは黙った。
しばらくして、ゴールした時の光景を思い出すように、目を閉じる。
「……勝ちたいです」
小さな声。
けれど、迷いはなかった。
「難しいことなのは分かっています」
拳を握る。
「今日だって、最後には突き放されました」
「ああ」
「でも……」
フラワーが顔を上げる。
「最後の直線で、二人の背中がすぐそこにあったんです」
「……」
「模擬レースの時は、もっと遠かった」
そう言って、フラワーは笑った。
「絶対に届かないと思っていました」
「……ああ」
「でも今日は違った」
その目には悔しさと同時に、ほんの少しだけ光があった。
「あと少しだった」
俺は何も言わずに聞く。
「もちろん、その『あと少し』がものすごく遠いことも分かっています」
フラワーは俯く。
「でも……」
再び顔を上げた。
「トレーナーさん」
「なんだ?」
「その『あと少し』を埋めることは……私には無理ですか?」
「…………」
答えに迷う。
ここで「できる」と言うのは簡単だ。
でも、それは無責任だ。
「正直に言う」
「はい」
「マーチになら、いずれ勝てると思う」
フラワーが少しだけ目を見開く。
「でも……」
「今のままでは、オグリには勝てない」
「……オグリさん」
「ああ」
「オグリさんの才能って……そんなに凄いんですか?」
「凄い」
即答だった。
「日本最高峰と言っていい」
「……」
「ただ、それだけじゃない」
「え?」
「オグリを超えるために使える時間そのものが、あまり残っていないんだ」
フラワーが首を傾げる。
「時間……?」
「ああ」
「それって……」
少し考えて。
「オグリさんの脚が悪くなるとか……そういう――」
「いや、そういう意味じゃない。
オグリは地方に収まるようなウマ娘じゃない」
「……」
「いずれ、中央から声がかかる」
「中央……」
「ああ」
前世の知識。
そして、この世界で三年間過ごしてきた経験。
それを合わせれば、まず間違いない。
「そう遠くないうちに、オグリは中央へ行く」
「……じゃあ、オグリさんと同じレースを走れるのは、それまでってことですか?」
「ああ」
フラワーが唇を噛む。
「それまでに……」
「うん」
「それまでにオグリさんに勝つのは……無理ですか?」
俺はしばらく黙った。
「普通のトレーニングでは…無理だ」
「…………」
「今まで通り、少しずつ身体を鍛えて、フォームを改善して、走りを磨いていく」
一つずつ言葉にする。
「それだけでも君は強くなる」
「はい」
「マーチにも、いつか勝てるだろう」
「……はい」
「でも、それだけじゃオグリには届かない」
「…………」
フラワーは黙って俺を見ている。
「じゃあ……」
やがて、彼女が口を開いた。
「普通じゃない方法なら……」
「…………」
「あるんですか?」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、嫌な記憶が蘇った。
中央トレセン。
初めて担当したウマ娘。
ゲームの知識。
スキル。
育成理論。
勝てる。
強くなれる。
もっと。
もっと。
もっと――
そして。
壊れた。
まともに走ることすらできなくなった彼女。
引退。
俺の元を去っていった背中。
忘れたことなど、一度もない。
「……ある」
それでも、俺は答えた。
「中央トレセンにいた頃、俺が作り上げた育成理論がある」
「育成……理論」
ゲームの中にあったスキルを現実の走りとして再現したもの。
一つや二つなら、レース中の小技として使える。
「それを使えば、確実に強くなれる」
「じゃあ……」
「ただし」
俺はフラワーの言葉を遮った。
「やり過ぎれば、ウマ娘の走りそのものを壊してしまう」
「……え?」
ウマ娘の走りは、想像以上に繊細だった。
何も考えずに詰め込んだスキルによって、そのバランスは意図も容易く崩れてしまった。
「一度崩れた走りは、簡単には元に戻らない」
「…………」
「俺は、それで担当を一人再起不能にしてしまった」
「……」
「だから、笠松のトレーナーたちはそれを『悪魔の育成理論』と呼んでいる」
沈黙。
俺はフラワーから目を逸らさなかった。
「多大なリスクがある」
「…………」
「仮に上手くいっても、オグリが中央に移籍するまでに勝てる可能性は決して高くない」
それでも。
俺は最後の言葉を口にする。
「それでも――」
「…………」
「それでも、やるか?」
フラワーは答えなかった。
俯いたまま、じっと地面を見つめている。
やがて。
小さな声が聞こえた。
「……少しだけ」
「ん?」
「考える時間をください」
「もちろんだ」
「ちゃんと考えたいです」
「ああ」
「自分が何を望んでいるのか」
フラワーは涙の跡を拭った。
「ちゃんと、自分で決めたいです」
「……分かった」
それでいい。
俺はそう思った。
あの時の俺とは違う。
担当に何も説明せず、俺の都合で力を与えようとしたあの頃とは。
フラワーが自分で決める。
俺は、その決断を待つ。
それが――
トレーナーとしての、最低限の責任なのだから。
この時、俺は知らなかった。
「オグリキャップが中央に行く?
私になら勝てるだと?
ふざけるなよ、勝つのは私だ」
俺たちの会話をマーチが偶然聞いてしまっていたことを…