メイクデビューから数日後。
俺はトレーニングルームのホワイトボードの前に立ち、腕を組んでいた。
そこには、いくつかの言葉が並んでいる。
速度。
加速。
位置取り。
コーナリング。
スタミナ。
そして――
リスク。
「…………」
ペンを置く。
「トレーナーさん?」
隣からフラワーが覗き込んでくる。
「何を書いているんですか?」
「君を強くするためのものだ」
「!」
フラワーの顔が一瞬明るくなる。
だがすぐに、その表情は引き締まった。
「……悪魔の育成理論、ですか?」
「ああ」
俺は頷く。
ゲームにあったレースを有利にするスキルの数々。
それを現実に落とし込んだものが悪魔の育成理論だ。
「ただし、以前のやり方とは違う」
「違うんですか?」
俺はホワイトボードを指した。
「まず、前の俺は間違っていた」
「……」
「速くするための要素は、いくらでも積み重ねられると思っていた」
脚の回転。
加速の仕方。
コーナーの抜け方。
位置の取り方。
それらを増やせば増やすほど、強くなると。
「でも、それは違った」
「……はい」
「身体は一つしかない」
俺はフラワーの脚を見る。
「一つの動きを変えれば、必ず別の動きに影響が出る」
次に肩。
「腕の振りを変えれば、脚のリズムが崩れることもある」
さらに全身。
「姿勢を変えれば、呼吸の仕方まで変わる」
つまり。
「一つの技術は、単独では成立しない」
「……全部つながっているんですね」
「そうだ」
だから、何も考えずに詰め込めば全てが狂ってしまう。
なにが狂っているのかもわからない程に…
フラワーはホワイトボードを見つめる。
「じゃあ……どうすれば…」
「習得するスキルを限定する」
「限定?」
「ああ」
俺は頷いた。
「教えるスキルは二つ。
それ以上は増やさない」
「……」
「何度も走って、身体に馴染ませることでスキルの精度を向上させていく」
「…はい」
「それが自然にできるようになってから、次に進む」
「それで足りますか?」
「わからない」
これは本当にわからない。
中央に行った後のオグリが相手なら確実に足りない。
だが、笠松時代のオグリならどうか?
「だが、これ以上は増やせない」
同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「最初にやるのはこれだ」
ホワイトボードの一番上を指す。
「コーナーの走り方だ」
「コーナー……ですか?」
「ああ」
派手な技術ではない。
だが、レース全体に影響する重要な部分だ。
「君は追い込みだ」
「はい」
「最後に脚を使うためには、それまでの消耗を抑えなければならない」
「……はい」
「コーナーで無駄に距離を走ると、それだけで脚が削られる」
フラワーは真剣に頷く。
「今の君は、コーナーで少し外に膨らむ癖がある」
「……自覚はあります」
「それを直す」
「分かりました!」
こうして、最初の課題が始まった。
最初の数日は、ひたすら反復だった。
コーナーを走る。
フォームを確認する。
また走る。
動画を見て修正する。
また走る。
「もう少し内側を意識して」
「はい!」
「今のは少し膨らんだ」
「はい!」
「頭を振らない」
「はい!」
何度も繰り返す。
失敗しては修正する。
その繰り返しだった。
「今のは良かった」
「本当ですか?」
「ああ」
「やった!」
フラワーは嬉しそうに笑う。
だが次の周回では、また崩れる。
「……あ」
「今のは違う」
「ですよね……」
「でも、最初よりは良くなっている」
「!」
その一言で、表情が変わる。
「じゃあ、もう一回お願いします!」
「ああ」
また走る。
また修正する。
その繰り返しが続いた。
数週間後。
フラワーの走りは明らかに変わっていた。
「……」
思わず息が漏れる。
以前はコーナーでわずかに外へ流れていた。
今は違う。
身体の軸が安定し、最短距離で抜けている。
速度の落ちもほとんどない。
むしろ、コーナーを抜けた直後の加速が鋭くなっている。
「トレーナーさん!」
走り終えたフラワーが戻ってくる。
「どうでしたか?」
「合格だ」
「本当ですか!」
「ああ」
「やった!」
小さく跳ねるように喜ぶ。
「……私、速くなりましたよね?」
「なった」
「どれくらいですか?」
「計ってみるか」
「はい!」
タイムを確認する。
確かに、以前より明確に縮んでいる。
たった一つの動作の改善で、ここまで変わるとは。
「……すごい」
フラワー自身も驚いている。
「私、こんなに変われるんですね」
「まだ変わる」
「……!」
「これはまだ一つ目だ」
俺は次の項目に目を向ける。
「次に行く」
「はい!」
フラワーの目が輝いている。
その表情を見て、少しだけ安心した。
焦りはない。
無理に力を求めてもいない。
ただ、自分の変化を受け入れている。
それなら、進める。
二つ目は加速だった。
ただ速く走ることではない。
「大事なのは、踏み出す瞬間だ」
「瞬間……ですか?」
「ああ」
地面を蹴る。
脚が動く。
身体が前へ出る。
その一連の流れの中で、どこに力を入れるか。
「今までは全部に力を入れていた」
「……はい」
「それだと無駄が多い」
「はい」
「必要な瞬間だけでいい」
何度も繰り返す。
最初はうまくいかない。
力が入りすぎる。
動きが硬くなる。
「力みすぎだ」
「はい!」
「もう一度」
「はい!」
「今のはいい」
「本当ですか?」
「ああ」
少しずつ、身体に馴染ませていく。
さらに数週間。
フラワーの走りは、以前とは別物になっていた。
「……速いな」
思わず呟く。
ただ速いだけではない。
動きに無駄がない。
力の使い方が整理されている。
「楽しいです」
フラワーが言う。
「何がだ?」
「走るのがです」
汗を拭いながら笑う。
「前は、速く走ろうとすると苦しかったんです」
「……」
「でも今は、どう動けばいいか分かる」
「それが技術だ」
「技術?」
フラワーは自分の脚を見つめる。
「私、変われてますよね」
「ああ」
「少しずつですけど」
「それでいい」
急ぐ必要はない。
一つずつでいい。
ある日の練習後。
「また縮んでます」
フラワーがタイムを見て言う。
「そうだな」
「最初は、あの二人に全然届かなかったのに」
「今も届いてはいない」
「分かってます」
フラワーは笑った。
「でも……」
その笑顔には、確かな手応えがあった。
「前よりは近いです」
「ああ」
「次に走ったら、もっと近づけますか?」
「近づく」
俺ははっきり言った。
「確実に」
「……はい!」
フラワーは嬉しそうに頷いた。
その姿を見ながら思う。
今はまだ、問題はない。
一つずつ。
確実に。
それだけを守っていればいい。
そして、次のレースが近づいてきた。
「出るか?」
「はい」
フラワーは迷わず答えた。
「今の自分がどこまで通用するか、知りたいです」
「ああ」
俺は頷く。
メイクデビューでは3着だった。
まだ届かない。
だが、確実に変わっている。
今度は――
どこまで差を縮められるか。
その答えを確かめる時が来ていた。