数日後。
俺は笠松トレセン学園のトレーナー室で、一人のんびりと仕事をしていた。
いや。
正確には、のんびりしていたかった。
「市川トレーナー!」
勢いよく扉が開く。
「うおっ!?」
飛び込んできたのは――
「……マーチ?」
フジマサマーチだった。
その後ろにはローカルフラワー。
「二人とも、どうした?」
嫌な予感がする。
というか、マーチがこんな勢いで俺のところに来る時点で、ろくなことではない。
マーチは俺の机の前まで来ると、真っ直ぐ俺を見つめた。
「市川トレーナー」
「はい」
「頼みがある」
「……なんでしょう?」
「私とフラワーを鍛えてほしい」
「…………」
俺は固まった。
「……はい?」
「だから、私たちを鍛えてほしい」
「いや、聞こえてる。聞こえてるんだけど……」
ちらりとフラワーを見る。
フラワーも真剣な顔で頷いた。
「私もお願いします」
「…………」
嫌な汗が背中を流れる。
「ちょっと待ってくれ」
俺は頭を抱えた。
(なんで、こうなった?)
おかしい。
何かがおかしい。
俺の知っているシンデレラグレイでは、マーチはオグリとの勝負を経て、中央へ行くオグリを見送るはずだった。
いや、もちろん悔しさはあるだろう。
ライバルとして、オグリに追いつきたいという気持ちも分かる。
でも――
(マーチ、お前はオグリの中央移籍後は丸くなるはずだろ!)
目の前のマーチを見る。
ギラギラしている。
めちゃくちゃギラギラしている。
以前より明らかに闘争心が増している。
(なんで前よりさらにギラギラした目をしているんだ!?)
原因は分かっている。
たぶん、俺だ。
いや。
間違いなく俺だ。
フラワーを担当した。
悪魔の育成理論を限定的に使った。
その結果、フラワーがオグリに食らいついた。
そしてマーチが、それを見てしまった。
(しまった……!)
完全に想定外だった。
「……一応、確認しておきたいんだけど」
俺は慎重に口を開く。
「二人とも、何を目指している?」
「決まっている」
マーチが即答する。
「東海ダービーに勝つ」
「……」
「そして中央へ行く」
「…………」
「そこで、オグリキャップに勝つ」
迷いが一切ない。
俺はフラワーを見る。
「フラワーも?」
「はい」
こちらも即答だった。
「私も、オグリさんに勝ちたいです」
「……そうか」
俺は椅子の背もたれに身体を預けた。
(困ったな……)
東海ダービー。
原作ではマーチが4位だった。
東海ダービーに勝たせるだけなら限定的な使用でいけるだろう。
問題は――最終目標がオグリに勝つってことだ。
中央に行ったオグリは、最終的に領域を会得し、現役最強のタマモクロスに勝って有馬記念を取る。
そんなオグリに勝とうってなると、アクセル全開のフルスロットルでやるしかない。
「…どうして俺なんだ?」
「市川トレーナーの育成理論が必要だからだ」
「……」
「私たちが中央でオグリに勝つためには、今まで通りのトレーニングでは足りない」
マーチは拳を握る。
「ゴールデントロフィーで、私はオグリとの差を思い知らされた」
悔しそうに目を伏せる。
「だが、フラワーは違った」
フラワーを見る。
「こいつは最後まで諦めずにオグリを追った」
「……」
「オグリのライバルであり続けたのはフラワーだけだった」
マーチは俺を見る。
「だから決めた。
私ももう一度オグリのライバルになる」
「待て」
俺は思わず手を上げた。
「その理論がどんなものか、柴崎さんから聞いたんだよな?」
「ああ」
「リスクについても?」
「ああ」
「最悪の場合、自分の走りを失う」
「分かっている」
「オグリと勝負する前に、まともにレースを走れなくなる可能性だってある」
「分かっている」
「それでも?」
「それでもだ」
即答だった。
俺は頭を抱える。
「……フラワー」
「はい」
「君も同じ考えなのか?」
「はい」
フラワーは静かに頷いた。
「正直、怖いです」
「……」
「トレーナーさんが、以前その理論で担当のウマ娘さんを壊してしまったことも聞いたから」
胸が痛んだ。
「それでも……」
フラワーは自分の胸に手を当てる。
「私は、もっと強くなりたい」
「……」
「ゴールデントロフィーで、オグリさんの背中を追った時に思ったんです」
あの日。
最後の直線。
届かなかった背中。
「私には、まだ足りない」
「……」
「普通のトレーニングを続ければ、きっと今より強くなれると思います」
フラワーは苦笑した。
「でも、それだけじゃ足りない」
「……中央に行ったオグリには届かない、ってことか」
「はい」
その答えに迷いはなかった。
「だから、お願いします」
「…………」
俺は二人を見る。
マーチも。
フラワーも。
二人とも、真っ直ぐ俺を見ている。
逃げる気なんて、微塵もない。
「いや……でもな」
俺は何とか説得しようとする。
「東海ダービーに勝ったとしても、中央で勝てるとは限らない」
「分かっている」
「そもそも中央に行けるかどうかだって……」
「だから東海ダービーに勝つ」
「いや、そういう話じゃなくてだな!」
俺が頭を抱えていると――
「市川くん」
後ろから声がした。
「……柴崎さん」
いつの間にか、柴崎さんがトレーナー室に入ってきていた。
「うちのマーチがわがままを言ってすまないね」
「柴崎さんからも、二人に言ってくださいよ」
「何を?」
「危険だからやめろって」
俺がそう言うと、柴崎さんは少し困ったように笑った。
「それは無理だな」
「え?」
「私だって最初は反対したさ」
柴崎さんはマーチを見る。
「だが、こいつはもう決めてしまった」
「柴崎さん……」
「それに」
柴崎さんはフラワーを見る。
「ローカルフラワーも同じだ」
「……」
「二人とも、もう覚悟を決めている」
「だからって……」
俺は言葉に詰まる。
「二人を止めたい気持ちは分かる」
柴崎さんが続ける。
「私だって、担当を壊したくない」
「……」
「だが、市川くん」
「はい」
「もし断ったら、どうなると思う?」
「…………」
考えたくもない。
マーチは諦めないだろう。
フラワーだってそうだ。
「二人とも、自分で無茶なトレーニングを始める可能性がある」
「……」
「それなら、少なくとも一番詳しい君が管理した方がいい」
「…………」
正論だった。
あまりにも正論すぎる。
「それに」
柴崎さんは、少しだけ笑った。
「マーチは、私の担当だ」
「はい」
「そのマーチが、オグリに勝ちたいと言っている」
マーチを見る。
「トレーナーとして、それを無視することはできない」
「…………」
「もちろん、無理はさせない」
柴崎さんの目が鋭くなる。
「危険だと判断したら、私が止める」
「柴崎トレーナー……」
「だから、市川くん」
柴崎さんが頭を下げた。
「力を貸してほしい」
「……!」
「マーチを頼む」
俺は黙り込んだ。
マーチを見る。
フラワーを見る。
二人とも、俺の答えを待っている。
……ずるいだろ。
そんな顔をされたら。
「……はぁ」
俺は大きく息を吐いた。
「分かりました」
「市川トレーナー!」
フラワーの顔がぱっと明るくなる。
マーチも嬉しそうに笑った。
「ただし!」
二人が姿勢を正す。
「俺の指示には絶対に従ってもらう」
「ああ」
「少しでも危険だと判断したら、その時点で中止する」
「分かった」
「二人とも、勝手に練習量を増やすのは禁止」
「はい!」
「それから――」
俺は二人を睨む。
「絶対に『強くなるためなら壊れてもいい』なんて考えるな」
二人が黙る。
「オグリに勝つには膨大な数のスキルを積む必要がある」
それこそ、ゲームのようにスキル欄を埋め尽くすほどの数がいる。
俺は言った。
「多分…いや、間違いなく一度壊れる。
そこからオグリに勝てる走りを再構築しなければならない。
トランプタワーを組み上げていくようなもの。
決して諦めない根気と自分を信じる心がいる。
投げやりな考えで成し遂げられるものじゃないぞ」
「……はい」
「分かった」
二人が頷く。
俺は椅子に深く腰を下ろした。
(……本当に、これでいいのか?)
不安は消えない。
むしろ、これから大きくなっていくだろう。
それでも。
この二人を放っておくことなんて、もうできなかった。
「東海ダービーまで、時間は限られている」
「はい!」
「まずは東海ダービーに勝てるトレーニングをしつつ、スキル大量習得の下地を作っていく」
俺は立ち上がる。
「二人とも――」
目の前の二人を見る。
「オグリに勝てるくらい、強くなるぞ」
「はい!」
「望むところだ!」
二人の声が重なった。
……こうして。
俺はまた、悪魔の育成理論と向き合うことになった。
(本当に……なんでこうなったんだ)
そんな俺の疑問とは裏腹に。
マーチとフラワーの目には、今まで以上の闘志が宿っていた。