呪術世界、荒天につき。   作:風都市民 I・S

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第一話 空に名はない

 

最初に認識したものは、光だった。

 

暗い雲の内部を走る、白い亀裂。

 

それが何なのかは分からない。

 

だが、亀裂が生まれた直後、空気が激しく震えた。

 

雷鳴。

 

続いて認識したのは、水だった。

 

雲から落ち、地面を叩き、道路を流れ、排水口へ吸い込まれていく。

 

無数の水滴が、街全体を覆っている。

 

雨。

 

そして。

 

その下を逃げ惑う人間たち。

 

悲鳴。

 

泣き声。

 

警報音。

 

倒れた電柱から火花が散り、冠水した道路で車が立ち往生している。

 

濁流に足を取られた男が、必死にガードレールへしがみついていた。

 

人間の身体から、黒く濁ったものが溢れている。

 

恐怖。

 

それだけは、生まれたばかりの彼にも理解できた。

 

人間は空を恐れている。

 

雨が降らなければ、作物が枯れると恐れる。

 

雨が降り続ければ、川が溢れると恐れる。

 

空が光れば身を縮める。

 

風が強まれば、家が壊れると怯える。

 

暑さにも。

 

寒さにも。

 

人間は死を想像する。

 

空を見上げるたび。

 

人間は、自分ではどうすることもできないものの存在を思い出す。

 

雨。

 

雷。

 

台風。

 

洪水。

 

豪雪。

 

猛暑。

 

干ばつ。

 

異常気象。

 

いつから積み重なってきたのかも分からない。

 

無数の恐怖。

 

それらが集まり。

 

混ざり合い。

 

形のない巨大な呪力となって、嵐の中へ流れ込んでいく。

 

そして。

 

そのさらに奥。

 

まだ彼自身の意識すら存在しないほど深い場所で。

 

何かが、それに応えた。

 

音はない。

 

声もない。

 

ただ。

 

それまで行き先を持たなかった恐怖が、一点へ吸い寄せられていく。

 

まるで。

 

最初からそこに、流れ込むべき場所が存在していたかのように。

 

形のなかった恐怖が輪郭を得る。

 

雲の中で。

 

巨大な何かが、目を開いた。

 

 

 

彼はゆっくりと落下した。

 

二本の脚が地面へ触れた瞬間。

 

冠水した道路から水が弾け飛ぶ。

 

白い巨体が、雨の中に立っていた。

 

彼は、自分の身体を見る。

 

生まれたばかり。

 

そのはずだった。

 

だが。

 

身体には既に明確な形が存在していた。

 

頭部から肩にかけて重なる、白い甲殻。

 

雲を固め、そのまま鎧へ変えたような形。

 

その隙間から覗く肉体は、夜空のように黒い。

 

腕。

 

脚。

 

指。

 

どれも。

 

試行錯誤して作り上げた形ではない。

 

最初から。

 

こうなることが決まっていたかのように完成している。

 

何故。

 

疑問が生じる。

 

答えはない。

 

比較するための記憶もない。

 

ならば。

 

これが自分なのだろう。

 

彼はそう判断した。

 

視線を下げる。

 

腰には青緑色の渦が浮かんでいた。

 

回転する雲。

 

中心に存在する、静かな空洞。

 

周囲では常に呪力が流動している。

 

雨。

 

風。

 

雷。

 

大気。

 

それらへつながる自分の力が、全てこの場所を経由している。

 

核。

 

そう呼ぶべきものだと。

 

誰かに教えられたわけでもないのに、理解できた。

 

彼は意識を核へ向ける。

 

表面。

 

呪力の流れ。

 

回転。

 

そこまでは見える。

 

さらに深く。

 

中心へ。

 

――見えない。

 

彼は僅かに首を傾げた。

 

自分自身の一部であるはずなのに。

 

その奥だけ。

 

厚い雲に覆われた空のように、観測することができない。

 

何かがあるのか。

 

何もないのか。

 

それすら分からない。

 

だが。

 

彼はすぐに興味を失った。

 

正常な自分というものを知らない。

 

生まれたばかりなのだから。

 

これが正常なのかもしれない。

 

今、優先すべきものは他にある。

 

目の前。

 

一人の人間が。

 

こちらを見ていた。

 

ガードレールへしがみついていた男。

 

男の瞳が大きく開かれる。

 

「な……なんだ、あれ……」

 

彼は男を見る。

 

人間。

 

初めて近くで観測する存在。

 

一歩。

 

男へ近づいた。

 

それだけで。

 

周囲の気圧が変化した。

 

男が耳を押さえる。

 

苦痛に顔を歪める。

 

「う……っ」

 

彼は首を傾げた。

 

呼吸。

 

速い。

 

体温。

 

上昇。

 

皮膚。

 

発汗。

 

瞳孔。

 

拡大。

 

そして。

 

身体から溢れ出す負の感情。

 

恐怖が増している。

 

なぜ。

 

彼は再び自分の身体を見下ろした。

 

この身体を恐れているのか。

 

自分を構成しているものは。

 

雨。

 

風。

 

雷。

 

雲。

 

人間が日々目にしているものと同じ。

 

それなのに。

 

男は彼を見ただけで。

 

空を見上げていた時よりも強く怯えている。

 

男がガードレールから手を離した。

 

背を向ける。

 

逃げる。

 

彼はその動きを見た。

 

何故、逃げる。

 

まだ。

 

何もしていない。

 

止める。

 

そう考え。

 

彼が空へ意識を向けた。

 

瞬間。

 

白い光。

 

雷が落ちた。

 

轟音。

 

道路が震える。

 

男の身体が地面へ倒れた。

 

動かない。

 

彼は男を見つめる。

 

殺すつもりはなかった。

 

ただ。

 

逃げる人間を止めようとした。

 

空へ意識を向けたことで。

 

雲の中に蓄積していた電気が放たれた。

 

それだけ。

 

だが。

 

人間は死んだ。

 

彼はしばらく男を観察する。

 

呼吸。

 

なし。

 

心拍。

 

なし。

 

体温。

 

低下。

 

生命活動。

 

停止。

 

そこに。

 

喜びはない。

 

悲しみもない。

 

ただ。

 

一つ。

 

理解した。

 

天候は。

 

人間を容易に殺す。

 

「――なるほど」

 

初めて発した声は。

 

雷鳴に似て低かった。

 

「人間は、これを恐れていたのか」

 

その瞬間。

 

背後から何かが飛来した。

 

振り返らない。

 

空気の流れが。

 

形を教えている。

 

小さい。

 

軽い。

 

羽ばたいている。

 

だが生物の体温は存在しない。

 

紙。

 

鳥。

 

それが背中へ触れる直前。

 

爆発した。

 

白い甲殻が砕ける。

 

衝撃。

 

痛み。

 

彼は初めて自分の身体が傷つく感覚を知った。

 

ゆっくり振り返る。

 

黒い制服を着た男が立っている。

 

三十歳前後。

 

片手で印を結び。

 

もう片方の手には短い刀。

 

男の身体から。

 

雨や風とは異なる力が流れ出している。

 

だが。

 

知らないものではない。

 

自分自身を構成しているものと。

 

どこか似ている。

 

男は雨を浴びながら、彼を睨んでいた。

 

「特級……」

 

声が震える。

 

「いや、まだ生まれたばかりか」

 

男は額から流れる雨を拭う。

 

「それで、この呪力かよ」

 

呪力。

 

彼はその言葉を記憶した。

 

自分を構成しているもの。

 

人間の恐怖から生じるもの。

 

呪力。

 

男は刀を構える。

 

距離を慎重に測っている。

 

呼吸は一定。

 

先ほどの人間より恐怖が少ない。

 

だが。

 

完全に平静ではない。

 

刀を握る指。

 

僅かな震え。

 

「お前は、何だ」

 

彼は尋ねた。

 

男の表情が変わる。

 

「もう喋れるのか」

 

「質問に答えろ」

 

「呪術師だ」

 

男は刀をこちらへ向ける。

 

「お前たち、呪いを祓う」

 

祓う。

 

知らない言葉。

 

だが。

 

男の殺意。

 

攻撃姿勢。

 

そこから意味を推測する。

 

自分を消す。

 

自分を殺す。

 

そういう意味。

 

彼は男を観察した。

 

先ほどの人間とは違う。

 

逃げない。

 

恐怖している。

 

それでも。

 

こちらへ向かってくる。

 

興味深い。

 

「お前は、強いのか」

 

男が眉をひそめた。

 

「確かめてみろ」

 

地面を蹴る。

 

速い。

 

雨の中を一直線。

 

刀が振り下ろされる。

 

彼は腕を上げた。

 

受ける。

 

刃が甲殻へ食い込む。

 

先ほどの紙の鳥より深い。

 

痛い。

 

彼の内部で。

 

何かが動いた。

 

怒りではない。

 

恐怖でもない。

 

もっと。

 

知りたい。

 

この男が持つ力。

 

自分がどこまで耐えられるのか。

 

自分が何をすれば。

 

この男を超えられるのか。

 

腰の青緑色の渦が。

 

回転を速めた。

 

その奥。

 

観測できない中心も。

 

ほんの一瞬だけ。

 

何かに反応したような感覚があった。

 

だが。

 

今は、それを確認する余裕はない。

 

周囲の風向きが変わる。

 

男が気づく。

 

刀を引こうとする。

 

遅い。

 

突風。

 

横から。

 

男の身体が吹き飛んだ。

 

水浸しの道路を転がる。

 

すぐに起き上がる。

 

彼が腕を振る。

 

雨。

 

一斉に方向を変える。

 

無数の水滴。

 

弾丸のように男へ向かう。

 

男は紙の鳥を連続で放つ。

 

爆発。

 

衝撃によって雨粒が散る。

 

「生まれた直後に術式を使いこなすのか……!」

 

術式。

 

彼はその言葉も記憶した。

 

これは術式。

 

自分の力。

 

雨だけではない。

 

風。

 

雲。

 

温度。

 

湿度。

 

大気の重さ。

 

電気。

 

それら全てが。

 

自分の指先へつながっている。

 

まるで。

 

使い方を知らないはずなのに。

 

最初から、そこに機能だけは存在していたかのように。

 

彼は右手を男へ向けた。

 

気圧。

 

低下。

 

急激に。

 

男の動きが止まる。

 

耳の奥。

 

何かが破裂した。

 

男が顔を歪め、片膝をつく。

 

それでも。

 

刀は手放さない。

 

「まだだ……!」

 

立ち上がる。

 

彼はその姿を見て。

 

新しい感情を認識する。

 

期待。

 

もっと。

 

見せてほしい。

 

もっと自分を傷つけろ。

 

そうすれば。

 

さらに多くを理解できる。

 

男の刀。

 

その切っ先に。

 

青白い光が灯る。

 

彼は目を向けた。

 

男自身の術式ではない。

 

雷雲。

 

大気中の電場が強まっている。

 

尖った金属。

 

切っ先から放電。

 

微細な青白い火。

 

彼はそれを見る。

 

美しい。

 

次に。

 

理解する。

 

ここへ。

 

雷を導くことができる。

 

「何を……」

 

男も異変に気づいた。

 

彼は空を見上げる。

 

雲。

 

電荷。

 

地表。

 

刀。

 

一本の経路。

 

「落雷地点を確認」

 

閃光。

 

男の姿が白に飲み込まれた。

 

遅れて。

 

雷鳴。

 

刀が地面へ落ちる。

 

男も。

 

その横へ倒れた。

 

今度は偶然ではない。

 

自分で選んだ。

 

自分で狙った。

 

自分で。

 

殺した。

 

先ほどよりも効率的。

 

彼は倒れた呪術師を見る。

 

恐怖は残っている。

 

だが。

 

最初の男とは違う。

 

戦闘によって。

 

多くを得た。

 

呪力。

 

術式。

 

痛み。

 

金属への放電。

 

落雷の誘導。

 

戦えば。

 

理解できる。

 

理解すれば。

 

強くなれる。

 

強くなれば。

 

より大きな現象を発生させられる。

 

彼は傷ついた腕を見る。

 

砕けた甲殻の周囲へ霧が集まる。

 

水分。

 

呪力。

 

白い装甲が、ゆっくり再生を始める。

 

いつか。

 

この身体そのものすら。

 

必要なくなるかもしれない。

 

腕も。

 

脚も。

 

甲殻も。

 

核すら。

 

空全体が自分の身体となれば。

 

世界中を流れる風。

 

落ちる雨粒。

 

生まれる雲。

 

その一つ一つに。

 

自分の意識を宿すことができる。

 

空そのものになる。

 

その可能性を想像した瞬間。

 

腰の渦が強く脈打った。

 

そして。

 

その中心。

 

まだ観測できない深い場所から。

 

何かが。

 

呼応したような気がした。

 

一瞬。

 

それだけ。

 

彼が意識を向けるより早く。

 

「へえ」

 

背後から。

 

楽しげな声。

 

彼は振り返った。

 

四つの存在が立っている。

 

一人。

 

人間に似た青年。

 

顔や身体に縫い目。

 

一人。

 

頭部が火山のような、小柄な老人。

 

一体。

 

枝のような角を持つ異形。

 

そして。

 

僧衣を身に纏った男。

 

額に。

 

縫い目。

 

全員から。

 

先ほどの呪術師とは比べものにならないほど濃密な呪力。

 

彼は順番に観測する。

 

火山の老人。

 

高熱。

 

地熱。

 

炎。

 

存在しているだけで周囲の温度が上昇する。

 

枝角の異形。

 

植物。

 

大地。

 

森。

 

人間とは異なる生命の気配。

 

僧衣の男。

 

人間。

 

少なくとも肉体はそう見える。

 

だが。

 

何かがおかしい。

 

そして。

 

縫い目の青年。

 

彼は青年から目を離せなかった。

 

人間に似ている。

 

しかし。

 

形が定まっていない。

 

皮膚の下。

 

絶えず何かが変化している。

 

同じ肉体でありながら。

 

少し前とは別の形になろうとしている。

 

成長。

 

変化。

 

未完成。

 

自分と同じ。

 

「今の見た?」

 

青年が後ろを振り返った。

 

「生まれたばかりなのに術師を一人殺した。すごいね」

 

「騒ぐでない、真人」

 

火山頭の呪霊が不機嫌そうに言う。

 

「力の制御もできておらん。儂らと同列に扱えるかは、まだ分からんぞ」

 

真人。

 

彼は名前を記憶した。

 

枝角の呪霊は何も言わない。

 

静かにこちらを観察している。

 

僧衣の男だけが。

 

人間に近い笑みを浮かべていた。

 

「君は、何から生まれた?」

 

真人が目の前まで近づく。

 

警戒はない。

 

彼は答えようとして。

 

止まる。

 

自分を構成しているもの。

 

多すぎる。

 

雷を恐れる心。

 

洪水に呑まれる恐怖。

 

台風で家を失う不安。

 

雪山で凍える絶望。

 

乾いた大地で雨を待ち続ける焦燥。

 

空から降るものへの恐怖。

 

空に現れる、理解できない光への恐怖。

 

数え切れない。

 

「空」

 

彼は答えた。

 

「大気。天候。そして、それらが人間へもたらす死」

 

真人の笑みが大きくなる。

 

「やっぱり自然への恐れから生まれたんだ。漏瑚や花御と同じだね」

 

「同じではない」

 

漏瑚が即座に否定した。

 

「こやつが儂らに並ぶ存在かどうかは――」

 

途中。

 

彼は漏瑚へ視線を向ける。

 

高熱。

 

上昇気流。

 

周囲の空気が熱せられている。

 

熱を風で拡散。

 

炎。

 

さらに上昇。

 

雲。

 

水分。

 

条件が揃えば。

 

巨大な積乱雲。

 

雷。

 

新しい現象。

 

「お前は、強いのか」

 

漏瑚の額に青筋が浮かんだ。

 

「……真人」

 

「なに?」

 

「こやつを今すぐ祓ってよいか?」

 

「駄目だよ」

 

真人は笑う。

 

「せっかく仲間が増えそうなのに」

 

「仲間?」

 

彼が言う。

 

真人は首を傾げた。

 

「そう。俺たちの仲間」

 

真人がこちらへ手を伸ばす。

 

白い甲殻。

 

触れようとする。

 

その直前。

 

彼は真人の手首を掴んだ。

 

真人の肉体が。

 

一瞬だけ変わる。

 

掴んだ手首が細くなる。

 

感触が変化。

 

拘束から抜ける。

 

彼は目を見開いた。

 

真人はさらに楽しそうに笑う。

 

「やっぱり面白い」

 

「今、何をした」

 

「秘密」

 

「観測する」

 

「できるかな」

 

真人は笑った。

 

「ねえ、君」

 

「何だ」

 

「名前は?」

 

名前。

 

彼は沈黙した。

 

概念としては理解できる。

 

呪術師にも。

 

真人にも。

 

漏瑚にも。

 

個体を示す呼称が存在する。

 

雨にも名前がある。

 

雷。

 

台風。

 

雲。

 

現象ごとに。

 

人間は名前をつける。

 

ならば。

 

自分にも。

 

必要なのか。

 

だが。

 

持っていない。

 

少なくとも。

 

知っている名前はない。

 

「ない」

 

「じゃあ付けよう」

 

真人が即答する。

 

「勝手に決めるでない」

 

漏瑚が言う。

 

「本人がいいならいいでしょ」

 

「まだよいとも言っておらん」

 

「じゃあ聞いてみよう」

 

真人が彼を見る。

 

「名前、欲しい?」

 

彼は考える。

 

「名称があれば識別は容易になる」

 

「欲しいんじゃん」

 

「同義ではない」

 

その時。

 

遠く。

 

大雨の中。

 

建物の内部から。

 

ラジオの音声が流れてきた。

 

雑音。

 

警報。

 

避難情報。

 

そして。

 

女性の声。

 

『――続いて、現在のウェザー情報をお伝えします』

 

真人が音の方向を見る。

 

「ウェザー」

 

呟く。

 

彼の腰で。

 

青緑色の渦が。

 

一度。

 

強く脈打った。

 

「……?」

 

彼は核へ視線を落とす。

 

今の反応。

 

理由は不明。

 

真人は気づいていない。

 

「じゃあ」

 

真人が手を叩く。

 

「ウェザーでいいんじゃない?」

 

「うぇざあ?」

 

漏瑚が顔をしかめる。

 

「何故、異国の言葉なのだ」

 

「天気って意味だよ。呼びやすいでしょ」

 

真人は彼へ向き直る。

 

「ウェザー」

 

呼ばれる。

 

再び。

 

核が。

 

僅かに回転を速めた。

 

自分が反応したのか。

 

術式が反応したのか。

 

それとも。

 

もっと深い。

 

観測できない中心で。

 

何かが反応しているのか。

 

分からない。

 

だが。

 

言葉の意味は。

 

自分と一致している。

 

空の状態。

 

天候。

 

Weather。

 

「不適切ではない」

 

「じゃあ決まり」

 

真人が笑う。

 

「今日から君はウェザー」

 

ウェザー。

 

初めて。

 

自分を示す名称が生まれた。

 

真人が手を広げる。

 

「俺たちと一緒に来る?」

 

ウェザーは四体を順番に観測する。

 

真人。

 

変化。

 

成長。

 

魂。

 

漏瑚。

 

高熱。

 

火山。

 

強大な呪力。

 

花御。

 

大地。

 

植物。

 

自然。

 

そして。

 

僧衣の男。

 

ウェザーの視線がそこで止まる。

 

他の三体とは違う。

 

人間。

 

呼吸。

 

正常。

 

体温。

 

正常。

 

心拍。

 

一定。

 

表情。

 

穏やか。

 

笑顔。

 

異常なし。

 

だが。

 

周囲の空気だけ。

 

僅かに重い。

 

嵐の前。

 

何も起きていないのに。

 

気圧がゆっくりと下がる。

 

そんな感覚。

 

「君が求めているものを、私たちは与えられるかもしれない」

 

僧衣の男が言った。

 

「強者との戦い。そして、さらに成長するための環境をね」

 

ウェザーは男を見る。

 

声。

 

一定。

 

表情。

 

変化なし。

 

心拍。

 

乱れなし。

 

それでも。

 

言葉を発した瞬間。

 

周囲の気圧が。

 

ほんの僅かに低下した。

 

「あなたは、嘘をついている」

 

漏瑚が僧衣の男を見る。

 

真人は。

 

声を上げて笑った。

 

「いきなり?」

 

僧衣の男だけは。

 

笑みを崩さない。

 

「どうして、そう思う?」

 

「あなたの言葉には、気圧の低下が伴う」

 

「嘘をつけば気圧が下がるのかい?」

 

「人間は言葉だけを変化させることができる」

 

ウェザーは答える。

 

「身体は完全には従わない」

 

呼吸。

 

体温。

 

発汗。

 

筋肉。

 

空気。

 

それらへ。

 

意識していない反応が出る。

 

「あなたは他の人間より制御が上手い」

 

ウェザーが続ける。

 

「だが完全ではない」

 

僧衣の男は。

 

否定しなかった。

 

「なるほど」

 

少しだけ。

 

笑みが深くなる。

 

「面白い感覚だ」

 

ウェザーはそれを記憶する。

 

信用はできない。

 

だが。

 

信用する必要もない。

 

彼らの近くにいれば。

 

より強い呪力を観測できる。

 

より強い敵と戦える。

 

漏瑚。

 

花御。

 

真人。

 

特に。

 

真人。

 

この呪霊は。

 

今も変化している。

 

完成していない。

 

自分と同じ。

 

真人の成長を間近で観測すれば。

 

自分自身の成長についても。

 

何かを得られる可能性がある。

 

「同行する」

 

ウェザーは答えた。

 

真人が笑う。

 

「決まり」

 

「ただし」

 

ウェザーは続ける。

 

「私はお前たちの思想に興味はない」

 

漏瑚の一つ目が細くなる。

 

「何?」

 

「思想とは何だろうね」

 

僧衣の男が尋ねる。

 

ウェザーは漏瑚を見る。

 

人間へ向けた強い敵意。

 

真人。

 

人間を壊すことへの高揚。

 

「人間を滅ぼすこと」

 

ウェザーは言う。

 

「それ自体を目的とする理由がない」

 

漏瑚の周囲の温度が上がる。

 

「人間は我々を生み出しながら、我々を否定する」

 

「だが」

 

ウェザーが返す。

 

「人間が消えれば、恐怖も消える」

 

漏瑚が黙る。

 

「私は人間が空を恐れたことで生まれた」

 

ウェザーは自分の掌を見る。

 

「全てを滅ぼせば、新たな恐怖は発生しない」

 

「ならば、人間を生かして己の糧にするというのか」

 

「違う」

 

ウェザーは即答する。

 

「必要であれば殺す」

 

道路へ倒れた二人の人間を見る。

 

一人。

 

事故。

 

一人。

 

意図的。

 

「だが、殺すことそのものに価値はない」

 

漏瑚の頭部から炎が噴き上がった。

 

「貴様――」

 

「いいじゃん」

 

真人が間に入る。

 

「全員が同じこと考えてなくても」

 

「真人」

 

「ここにいた方が強くなれる」

 

真人がウェザーを見る。

 

「そうでしょ?」

 

ウェザーは一瞬沈黙する。

 

「正確だ」

 

真人が笑う。

 

「ほら」

 

漏瑚は納得していない。

 

それでも。

 

今ここで争うことは選ばなかった。

 

僧衣の男が口を開く。

 

「では改めて」

 

穏やかな笑顔。

 

「歓迎するよ、ウェザー」

 

ウェザーは男を見る。

 

「あなたの名前は」

 

「夏油傑」

 

男は答えた。

 

「夏油」

 

ウェザーはその名を記憶する。

 

同時に。

 

気圧の違和感も。

 

 

 

一行が歩き出す。

 

雨はまだ降り続いている。

 

ウェザーは最後に。

 

自分が生まれた場所を振り返った。

 

濁流。

 

倒れた人間。

 

壊れた道路。

 

雷。

 

雨。

 

空。

 

ここで。

 

自分は生まれた。

 

人間が天候へ抱く恐怖。

 

それが自分を形成した。

 

その認識に。

 

疑問はない。

 

ただ。

 

腰の核。

 

その奥。

 

自分自身ですら観測できない場所。

 

そこだけが。

 

今も。

 

分からない。

 

ウェザーは一度、意識を向ける。

 

やはり。

 

何も見えない。

 

ならば。

 

今は保留。

 

理解できないものは。

 

いずれ観測すればいい。

 

真人が隣へ並んだ。

 

「ウェザー」

 

「何だ」

 

「これから、どうなると思う?」

 

未来。

 

まだ。

 

正確に知ることはできない。

 

だが。

 

予測は可能。

 

湿度。

 

高い。

 

気圧。

 

低下。

 

風速。

 

上昇。

 

雲量。

 

増加。

 

嵐の条件。

 

整っている。

 

ウェザーは空を見る。

 

「予報を伝える」

 

腰で。

 

青緑色の渦が回転する。

 

「これより先」

 

遠く。

 

雷。

 

「人間の世界は荒天となる」

 

真人が笑った。

 

「いいね、それ」

 

一滴の雨が。

 

真人の頬へ落ちる。

 

透明。

 

そのはずだった。

 

だが。

 

真人が指先で雫を拭った時。

 

ほんの一瞬。

 

水滴が。

 

血のように赤く染まった。

 

「ん?」

 

真人が指を見る。

 

次の瞬間には。

 

ただの水へ戻っている。

 

「今、赤くなかった?」

 

ウェザーはその雨粒を観測する。

 

異常。

 

原因。

 

不明。

 

術式として発生させた記憶もない。

 

「未確認の現象を検出」

 

ウェザーは空を見上げる。

 

黒い雲。

 

雷。

 

雨。

 

そして。

 

自分自身。

 

まだ。

 

知らないものが多い。

 

だから。

 

知る。

 

観測する。

 

成長する。

 

いつか。

 

空の全てを理解するまで。

 

その時。

 

腰の青緑色の渦のさらに奥。

 

誰にも見えない場所で。

 

何かが。

 

静かに。

 

眠り続けていた。

 

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