呪術世界、荒天につき。 作:風都市民 I・S
足元に砂があった。
白く、細かく、雨を吸っていない乾いた砂。
つい先ほどまでウェザーがいた街では、空から落ち続ける水が道路を覆い、濁流があらゆるものを押し流していた。だが、一歩境界を越えた途端、雨音は消えた。
頭上には雲一つない青空。
正面には、太陽の光を反射する海が広がっている。
風は穏やかで、波も一定の間隔で砂浜へ打ち寄せていた。
ウェザーは立ち止まり、周囲を観察した。
気温、二十七度。
湿度、六十六パーセント。
気圧、一定。
風速、毎秒一・二メートル。
一見すれば、快適な海辺だった。
だが、何も変化していない。
風向きが揺らがない。波の高さが変わらない。雲の一片すら発生しない。
空が生きていなかった。
「どうしたの?」
先を歩いていた真人が振り返る。
裸足のまま砂浜を歩き、拾った貝殻を耳に当てている。その姿だけを見れば、海へ遊びに来た人間のようだった。
「この空は偽物だ」
ウェザーが答えると、真人は楽しそうに笑った。
「分かるんだ」
「気象が固定されている。空に変化がない」
「ここは陀艮の領域だからね。陀艮がそうしたいと思ってる間は、ずっと晴れたままだよ」
少し離れた場所では、漏瑚が砂浜に置かれた椅子へ腰かけていた。
その隣では、花御が地面から伸ばした植物の葉を眺めている。
僧衣を着た男――夏油傑と呼ばれている人間は、木陰に座り、穏やかな表情で一行を見守っていた。
ウェザーはその男へ視線を向けた。
呼吸は一定。
体温にも大きな変化はない。
笑みも自然に見える。
だが、やはり周囲の空気が重い。
嵐の前に気圧が低下するように、男の内側には何かが沈んでいる。
「ぶう」
足元から声がした。
ウェザーが視線を落とす。
丸い体をした奇妙な呪霊が、砂の上から彼を見上げていた。
身体の一部は海洋生物に似ている。皮膚は湿り、内部には膨大な水分と呪力が蓄えられている。
呪胎。
まだ成長の途中にある存在。
「それが陀艮だよ」
真人がしゃがみ込み、陀艮の頭を軽く叩いた。
「この場所の持ち主」
陀艮は真人の手を振り払い、今度はウェザーの周囲を回り始めた。
ウェザーもまた、陀艮を観察する。
海水。
潮流。
深海。
溺死への恐怖。
ウェザーは陀艮の本質を理解した。
「お前は海か」
「ぶ」
陀艮が答える。
ウェザーは頭上の青空へ目を向けた。
「私は空だ」
その言葉と同時に、領域内の大気がわずかに動いた。
一定だった風向きが変わる。
海上の水分が上昇し、小さな雲が生まれた。
一滴の雨が、陀艮の頭へ落ちる。
続けて二滴、三滴。
やがて、ごく狭い範囲にだけ弱い雨が降り始めた。
陀艮は目を見開き、雨粒を受け止めるように口を開けた。
「ぶう!」
嬉しそうな声を上げ、ウェザーの脚へ身体を擦り寄せる。
「ほら、仲良くなれた」
真人が笑う。
「領域内の天候を勝手に変えるでない」
漏瑚が椅子から立ち上がった。
周囲の気温が一気に上昇する。
漏瑚の頭部から発せられた熱が空気を温め、上昇気流を作り出していた。
ウェザーはその動きを見つめる。
熱を風で運べば、炎は拡大する。
海上の水分と結びつければ、積乱雲を形成することもできる。
「お前は強いのか」
ウェザーが尋ねる。
漏瑚のこめかみが引きつった。
「昨日も聞いたな、その質問は」
「回答を得ていない」
「ならば今ここで教えてやろうか」
漏瑚の掌に火が灯る。
その瞬間、花御の腕が二人の間へ差し込まれた。
漏瑚は舌打ちし、炎を消す。
「花御。止めるな」
花御は言葉を発さない。
だが、ウェザーには空気を通して、その意思がわずかに伝わった。
争う必要はない。
少なくとも今は。
「俺は構わないよ」
真人が言う。
「二人が戦ったら、どんな天気になるのか見てみたいし」
「お前は少し黙っておれ」
漏瑚は吐き捨てるように言い、ウェザーへ向き直った。
「一つ聞こう。貴様は何のために人間を殺す」
「殺すことを目的にはしていない」
「何?」
「人間が存在する限り、恐怖は発生する。人間が空を恐れることで、私は生まれた。全てを滅ぼせば、新たな恐怖も生まれない」
漏瑚の顔が険しくなる。
「人間を生かし、己の糧にするというのか」
「生かすとも言っていない。必要であれば殺す。ただし、滅ぼすことそのものに価値はない」
漏瑚の周囲で熱が膨れ上がった。
「呪霊こそが真の人間だ。我々が人間に代わり、この世界を支配する。その理想を理解せぬ者を、仲間と呼ぶことはできん」
「理想」
ウェザーはその言葉を繰り返した。
空に理想はない。
雨は誰かを救うために降るわけではない。
雷は誰かを罰するために落ちるわけではない。
ただ条件が整い、現象が発生する。
「それはお前の願望だ」
漏瑚の足元から火柱が上がった。
だが、それより先に真人が二人の間へ割って入った。
「いいじゃん、漏瑚」
「どけ、真人」
「仲間全員が同じこと考えてたら、つまらないでしょ」
真人はウェザーの肩へ腕を回そうとした。
ウェザーがその手を避けると、真人は気にした様子もなく笑った。
「それに、ウェザーは僕たちを裏切るつもりはなさそうだよ」
「なぜ分かる」
「だって、ここにいた方が強い奴と戦えるから」
ウェザーは真人を見る。
正確だった。
真人は人間の魂を理解する。
ウェザーは大気の変化を読む。
観測方法は違うが、相手の目的を見抜くという点では似ているらしい。
「さて」
木陰にいた夏油が立ち上がる。
「ウェザーにも、我々の役に立ってもらおう」
男の声に、漏瑚の熱が収まった。
夏油は一枚の紙を取り出した。
そこには、山中に建つ古い建物の写真が載っている。
複数の観測機器。錆びた鉄塔。雲に覆われた山頂。
「閉鎖された気象観測所だ」
夏油は写真をウェザーへ見せる。
「数十年前から、周辺で異常な呪力反応が確認されている。観測所に保管された古い気圧計が、呪物化しているらしい」
「気圧計」
「台風、豪雪、落雷。予報の外れた災害で死んだ人間たちの恐怖や後悔を吸収している。君にとって興味深いものではないかな」
ウェザーは写真を見つめた。
紙の表面からでも、ごく薄い呪力を感じる。
恐怖。
空を観測し、未来を予測し、それでも災害を防げなかった人間たちの感情。
「回収すればいいのか」
「ああ。ただし、呪術師が監視している」
夏油は真人へ視線を向けた。
「真人、同行してくれ」
「僕も戦っていいの?」
「今回は観察役だ。可能な限り、ウェザーに任せてほしい」
真人は露骨に不満そうな顔をした。
「見るだけ?」
「彼の実力を確かめる必要がある」
夏油の言葉には嘘が混ざっている。
ウェザーはそう判断した。
実力を測ることだけが目的ではない。
夏油は、自分がどの程度まで成長する存在なのかを見極めようとしている。
危険であれば、何らかの処置を取るつもりなのだろう。
「問題ない」
ウェザーは答えた。
「観測対象がいるなら、向かう」
「決まりだね」
真人が両手を打ち鳴らした。
「じゃあ行こう、ウェザー」
山道を進む間、空は曇っていた。
真人は人間から奪ったらしい上着を着込み、手を頭の後ろで組みながら歩いている。
ウェザーはその隣を進み、上空の雲を観察していた。
気圧は緩やかに低下している。
数時間以内に雨が降る可能性が高い。
「ねえ」
真人が声をかける。
「昨日殺した人間、どうだった?」
「脆かった」
「楽しくなかった?」
「理解は深まった」
「それを楽しいって言うんじゃないの?」
ウェザーは答えなかった。
楽しいという感情を、まだ正確に理解していない。
だが、呪術師の攻撃を受け、自分の術式を知り、より効率的な殺害方法を発見した瞬間、内部に何かが生まれた。
真人の言う楽しさに近いものかもしれない。
「真人」
「なに?」
「お前はなぜ人間を殺す」
「面白いから」
即答だった。
「人間って、自分の魂の形も知らないくせに、身体とか命とかにすごくこだわるんだよ。少し形を変えてあげるだけで、すぐ泣いたり怒ったりする。見てて飽きない」
「壊せば観測できなくなる」
「壊した後にしか分からないこともあるよ」
真人は自分の手を見つめながら、指の形を鳥のように変化させた。
「ウェザーも同じでしょ。昨日の術師を殺して、新しいことが分かった」
「似ているが、同じではない」
「ふうん」
真人は笑う。
「じゃあ、どっちが先に完成するか競争しようか」
「完成」
「僕は魂の本当の形を知る。君は空そのものになる。面白そうじゃない?」
ウェザーは真人を見た。
この呪霊は、昨日よりも変化している。
目に見える形ではない。
だが、魂というものが存在するなら、その輪郭は絶えず動いているのだろう。
観測する価値がある。
「受諾する」
「本気にした?」
「お前を超えれば、私の成長を確認できる」
真人は一瞬黙り、それから腹を抱えて笑った。
観測所へ近づくにつれ、風が弱くなった。
建物が見える距離まで来たとき、ウェザーは足を止めた。
木々の葉がまったく揺れていない。
雲は上空を流れているのに、観測所の周囲だけ大気が静止している。
「結界だ」
ウェザーが言う。
真人は道路脇の枝を折り、観測所へ向けて放り投げた。
枝は見えない壁を通過した直後、空中で不自然に停止し、そのまま地面へ落ちた。
「本当だ。風が死んでる」
「内部の大気条件が固定されている」
ウェザーは境界へ手を伸ばす。
内側の空気は乾燥し、温度も湿度も変化しない。
外の雲とのつながりも断たれている。
天候を発生させるための変化そのものを封じる結界。
「相性悪そうだね」
真人が笑う。
「手伝うか?」
「不要だ」
ウェザーは結界を越えた。
空気が重くまとわりつく。
呼吸をする必要はないが、自分の身体を構成する呪力の流れが鈍くなるのを感じた。
観測所の扉は開いていた。
内部には二つの人間の気配がある。
呼吸音。
心拍。
一人は落ち着いている。
もう一人は速い。
ウェザーが建物へ入ると、暗い廊下の奥で男が待っていた。
四十代ほどの術師。
片手に細身の刀を持ち、もう一方の手で印を結んでいる。
その後ろには、若い術師が立っていた。
「来たか」
男はウェザーを見上げる。
「昨日発生した特級相当の呪力反応。まさか一日でここまで移動してくるとはな」
「私を知っているのか」
「気象庁の観測記録が狂っていた。局地的豪雨、落雷、異常な気圧低下。呪いの仕業だと考えるには十分だ」
男は廊下の床を踏む。
壁、天井、床に刻まれた紋様が光った。
「術式――凪室」
空気が完全に停止する。
ウェザーが掌を上げる。
水分を集めようとする。
だが、動かない。
温度を変化させようとしても、術式の力が周囲へ浸透しない。
「この結界内では、大気の状態は固定される」
男が刀を構える。
「風も、湿度も、温度も変わらない。お前のような呪霊を封じるための術式だ」
「興味深い」
ウェザーが呟く。
男が踏み込んだ。
刀が白い甲殻を斬り裂く。
昨日の術師よりも速い。
ウェザーは腕で刃を防ぎ、もう片方の手で男を掴もうとする。
男は姿勢を低くしてかわし、腰部の青緑色の核へ刀を突き出した。
ウェザーは身体を捻る。
刃が核の縁を削った。
痛みとともに、全身の呪力が乱れる。
「そこが核か」
男が距離を取る。
後方の若い術師が札を投げる。
札は天井や壁へ張りつき、凪室の結界を補強した。
「先輩、外にもう一体います!」
「分かっている。だが入ってこない」
男は廊下の入口へ視線を向ける。
そこでは真人が壁にもたれ、笑顔で戦いを見ていた。
「援護しないのか」
ウェザーが尋ねる。
「君がどんなふうに成長するのか見たいからね」
真人は軽い口調で答えた。
「死にそうになったら考えるよ」
再び男が迫る。
斬撃。
ウェザーの肩の甲殻が砕ける。
続く一撃が腹部へ入る。
ウェザーは壁へ叩きつけられた。
大気を支配できない。
外部から雷を呼べない。
雨も、風も、霧も発生させられない。
このままでは殺される。
その事実を認識する。
だが、恐怖はなかった。
殺される可能性。
それも観測すべき現象の一つにすぎない。
ウェザーは周囲を改めて分析した。
固定されているのは、大気の状態。
だが、空気が消失したわけではない。
人間の呼気に含まれる水分。
電気機器から漏れる熱。
破壊された甲殻から蒸発する呪力。
結界の札同士をつなぐ、微細な電気的偏り。
変化を起こせないなら、既に存在する差を利用すればいい。
ウェザーは砕けた肩へ手を当てた。
男が警戒しながら近づく。
「何をするつもりだ」
ウェザーの掌の上に、小さな光が生まれた。
青白い球体。
雷に似ているが、空から落ちてこない。
雲も必要としない。
光球はわずかに揺れながら宙へ浮かんだ。
「雷……?」
若い術師が声を漏らす。
「この空間で発生するはずがない!」
「雲がなければ」
ウェザーが言う。
「別の形を与えればいい」
光球が動いた。
生物のように廊下を漂い、壁に張られた札の周囲を回る。
男が刀で斬ろうとする。
光球は刃を避け、結界の継ぎ目へ触れた。
爆発。
青白い閃光が廊下を満たす。
数枚の札が燃え、凪室の一部が歪んだ。
外部から風が流れ込む。
ほんのわずかな風。
だが、ウェザーには十分だった。
大気の状態が変わった。
湿度が動く。
温度差が生まれる。
ウェザーは両腕を広げた。
「予報を伝える」
低い声が、観測所全体に響く。
「四十五秒後、この建造物に落雷が発生する」
男の顔が険しくなる。
「宣言型の縛りか」
ウェザー自身にも、それが何なのかは完全には分からない。
ただ、現象と時刻を言葉にした瞬間、呪力の流れが変化した。
指定した未来へ向かい、空気が強制的に整い始める。
宣言した内容は変えられない。
落雷地点も、発生時刻も。
その代わり、術式の出力が上昇していく。
「阻止する!」
男が叫ぶ。
若い術師が残った札を屋上へ飛ばし、避雷設備を封じる。
男自身はウェザーへ突進した。
残り三十秒。
刀が胸部を貫く。
ウェザーは後退しながら刃を掴む。
掌が裂ける。
残り二十秒。
男が刃を捻り、核へ向けて押し込む。
青緑色の渦が不安定に揺れる。
「お前が雷を落とす前に、核を破壊する!」
残り十秒。
上空で雲が渦を巻き始める。
結界の外に存在していた雨雲が、観測所の真上へ集まってくる。
残り五秒。
男の刀が核の表面へ届く。
三秒。
ウェザーは刀を掴んだまま、男を離さなかった。
二秒。
青白い放電が刀の切っ先に灯る。
男が目を見開く。
一秒。
「落雷地点を確認」
天井を突き破り、雷が落ちた。
光と轟音が観測所を満たす。
雷は男の刀を通り、ウェザーの身体へ流れ込んだ。
白い甲殻の隙間から、無数の雷光が走る。
男の身体も感電し、動きが止まる。
ウェザーは受けた雷を右腕へ集中させた。
拳を振るう。
雷鳴とともに、男の身体が廊下の奥まで吹き飛んだ。
壁へ激突し、動かなくなる。
「先輩!」
若い術師が駆け寄ろうとする。
ウェザーはその呼吸と心拍を観測した。
恐怖。
絶望。
それでも倒れた仲間を助けようとする意志。
興味深い。
もう少し観測する価値がある。
だが、若い術師の肩へ別の手が触れた。
真人だった。
「捕まえた」
若い術師の身体が歪む。
骨格が縮み、四肢の位置が変わり、叫び声が人間のものではなくなっていく。
数秒後、そこにいたのは小さな異形だった。
真人はそれを掌へ乗せる。
「なかなか面白い形になった」
ウェザーは真人を見る。
「なぜ殺した」
「敵だったから」
「私はまだ観測を終えていない」
真人は首を傾げる。
「壊した後に分かることもあるよ」
真人の掌の上で、異形となった術師がかすかに動く。
ウェザーはその姿を見つめた。
魂を変形させられた存在。
気温も、呼吸も、心拍も、元の人間とは異なる。
確かに、壊した後でなければ得られない情報もある。
だが、真人は情報を得るために壊したわけではない。
壊すこと自体を楽しんでいる。
「やはり、お前と私は異なる」
「そう?」
真人は異形を壁へ投げつけた。
「でも、仲良くはできそうでしょ」
ウェザーは答えなかった。
観測所の地下には、古い機材が並んでいた。
その中央に、ガラスで覆われた気圧計が置かれている。
針は壊れているはずなのに、絶えず上下へ震えていた。
ウェザーが近づくと、内部の呪力が反応する。
人間の声が聞こえた。
避難が間に合わない。
予報ではここまで強くなるはずではなかった。
川が溢れる。
屋根が飛ぶ。
雷が近い。
空が赤い。
何かが降ってくる。
ウェザーが気圧計へ触れる。
大量の記憶が流れ込んだ。
真っ赤な雨。
空から降る魚。
血のような肉片。
壁を通り抜ける光の球。
船のマストに灯る青白い炎。
三つに分裂した太陽。
地平線の彼方まで続く、巨大な筒状の雲。
どれも空に発生した現象だった。
だが、通常の天候とは異なる。
人間は原因を理解できないものにも名前を与え、恐怖している。
「これは……」
ウェザーの腰にある核が激しく回転する。
気圧計に蓄積されていた呪力が、白い甲殻へ吸収されていく。
真人が隣から覗き込む。
「君の知らない天気?」
「違う」
ウェザーは答えた。
「だが、人間はこれらも空の異変として恐れている」
再び、赤い雨の記憶が浮かぶ。
現時点では再現方法が分からない。
だが、術式の内部に新たな可能性が生まれている。
天候だけではない。
空に現れる異変。
理解できない光。
本来そこに存在しないものの降下。
それらに対する恐怖もまた、ウェザーを構成する力となり得る。
「面白そうだね」
真人が気圧計を指で弾く。
「もっと強くなったら、魚とか降らせられるの?」
「不明だ」
「じゃあ、試してみようよ」
ウェザーは気圧計を持ち上げた。
「そのために持ち帰る」
海辺の領域へ戻ると、漏瑚が待っていた。
ウェザーの甲殻はところどころ砕け、核にも細い傷が入っている。
それでも、手には回収した気圧計があった。
「随分と無様な姿だな」
漏瑚が言う。
「一級相当の術師を一人倒したよ」
真人が横から口を挟む。
「それに、新しい雷も作ってた」
「貴様には聞いておらん」
漏瑚はウェザーへ視線を向ける。
「生まれたばかりにしては、多少使えるようだな」
「お前と戦えば、さらに多くを理解できる」
「何故そうなる!」
陀艮が砂浜を転がるように近づいてきた。
ウェザーの傷を見つけると、不安そうに声を上げる。
「ぶう……」
「損傷は軽微だ」
ウェザーは陀艮の頭へ手を置いた。
すると花御が近づき、ウェザーの肩へ植物の蔓を巻きつけた。
蔓から呪力が流れ込み、砕けた甲殻の再生が早まる。
「修復を確認」
花御は静かに頷いた。
「これで決まりだね」
真人が全員を見回す。
「ウェザーは僕たちの仲間」
漏瑚は不満そうに鼻を鳴らした。
花御は反対しない。
陀艮は嬉しそうにウェザーの脚へ寄り添っている。
夏油だけが、少し離れた場所からウェザーの持つ気圧計を見ていた。
その視線には警戒が混じっている。
ウェザーはそれを感じ取ったが、指摘しなかった。
この集団にいれば、強者と戦える。
真人の変化を観測できる。
自分もまた、未知の現象へ進化できる。
それだけで十分だった。
夜。
ほかの呪霊たちが離れた後も、ウェザーは一人で海辺に立っていた。
手には、回収した気圧計がある。
領域内の空は晴れている。
ウェザーは記憶の中にあった現象を再現しようとした。
赤い雨。
空から降る異物。
複数の太陽。
術式を起動する。
雲が生まれる。
雨粒が一つだけ落ちた。
ウェザーは掌で受け止める。
透明だった水滴は、掌へ触れた瞬間に赤く染まった。
血の色。
だが、すぐに普通の水へ戻る。
続いて、空から何かが落下した。
砂浜へ小さな音を立てて落ちる。
一匹の魚だった。
魚は砂の上で数度跳ね、動かなくなる。
ウェザーはそれを拾い上げた。
なぜ生まれたのかは分からない。
観測所から吸収した恐怖が、術式を通じて形を得たのか。
背後に人間の気配がある。
夏油だった。
「天候を操るだけの呪霊ではない、か」
「訂正する」
ウェザーは魚を見つめたまま言う。
「天候とは、人間が理解できた空の現象に与えた呼称にすぎない」
夏油の笑みがわずかに深くなる。
「では、君は何を操る?」
ウェザーは空を見上げた。
月の近くに、一瞬だけ別の光が現れる。
もう一つの月。
あるいは、月に似た何か。
それは数秒で消えた。
「空には、まだ名前のない現象が存在する」
ウェザーの腰で、青緑色の渦がゆっくりと回る。
「私は、それらを理解する」
遠くで雷が鳴った。
晴れているはずの領域に、冷たい風が吹き始めた。
「理解し、再現し、やがて全てを私の一部とする」
夏油は何も答えなかった。
ただ、ウェザーの背中を静かに見つめていた。
空から、二滴目の赤い雨が落ちた。