午後九時十四分。
羽田空港の一角だけが、異様なほど静かだった。
滑走路の誘導灯は夜の海へ延びるように規則正しく並び、その向こうでは東京湾の灯が滲んでいる。普段なら絶え間なく航空機が行き交う巨大空港も、今だけは一本の滑走路と、その端に停止した旅客機を中心に空気が張り詰めていた。
機体はエアバスA350。
乗員乗客、二百八十六名。
犯人は少なくとも五名。
そのうち一名が爆発物を所持している可能性あり。
新田恵斗は、黒く沈んだ機体を遠くに見ながら、手袋をはめた右手を一度握った。
緊張しているわけではない。
指の感覚を確かめただけだ。
「新田」
背後から声がした。
「はい」
「調子は?」
「腹減りました」
一瞬の沈黙。
隣にいた隊員が鼻で笑った。
「終わったら食え」
「ラーメンでいいですか」
「生きて帰ったらな」
「じゃあ絶対帰ります」
ヘルメットの下で、恵斗は笑った。
二十七歳。
3等陸曹。
偵察隊に四年。
特殊作戦群に五年。
彼の経歴だけを紙に並べれば、堅物で無口な軍人を想像する者も多いだろう。
実物はだいぶ違った。
人懐っこく、よく喋り、初対面の相手とも五分あれば雑談を始める。
部隊内でもその性格は変わらない。
少なくとも――戦闘が始まるまでは。
「最終確認」
小隊長の声が落ちる。
空気が変わった。
恵斗の表情から笑みが消えた。
ほんの数秒前までラーメンの話をしていた男と同一人物とは思えないほど、目から余計な感情が抜け落ちる。
HK416A5を身体の前へ寄せる。
光学照準器。
レーザー照準器。
ウェポンライト。
必要な装備はすべて所定の位置にある。
胸元のプレートキャリア。
無線。
止血帯。
予備弾倉。
拳銃。
すべてが長年の反復によって身体の一部になっていた。
確認に大げさな動作はいらない。
触れれば分かる。
「行くぞ」
誰かが答えることもなかった。
必要がないからだ。
*
航空機の内部は、外から見るより遥かに狭い。
通路。
座席。
壁。
頭上収納。
人間が隠れられる場所はいくらでもあるくせに、こちらが自由に動ける場所はほとんどない。
機内の照明は落とされていた。
非常灯だけが床面を淡く照らしている。
どこかで赤ん坊が泣いていた。
その声を押し殺そうとする母親のすすり泣き。
荒い男の声。
何かが床へ落ちる音。
恵斗は前方の隊員の背を見ながら進んだ。
呼吸は一定。
心拍数は上がっている。
だが思考は澄んでいた。
怖くないわけではない。
恐怖はある。
それを邪魔者として扱わなくなっただけだ。
恐怖は情報だった。
身体が「死ぬ可能性がある」と教えてくれている。
ならば、やることは一つ。
見落とさない。
判断を遅らせない。
間違えない。
前方で影が動いた。
銃口。
人影。
味方ではない。
恵斗の意識から、それ以外の情報が一瞬だけ消えた。
乾いた発砲音が機内を叩いた。
短い連続音。
狭い金属製の胴体の中では、銃声は耳で聞くというより全身を殴ってくる。
人影が座席の脇へ崩れ落ちた。
悲鳴。
乗客たちが一斉に頭を抱える。
「自衛隊! 頭を下げて!」
隊員の声が飛ぶ。
「動かないで!」
別方向から発砲。
座席の背が弾けた。
布地と詰め物が空中へ散る。
恵斗は姿勢を低くしながら視線を切り替えた。
二列先。
通路脇。
拳銃を持った男。
こちらを向こうとしている。
射撃。
男の身体が大きくのけぞり、そのまま座席へ倒れ込んだ。
恵斗は倒れた相手を凝視しなかった。
次。
右。
左。
乗客。
味方。
敵。
それだけを分ける。
戦闘中、人間の脳は妙なことをする。
時間が遅くなる。
細かい音が聞こえる。
反対に、大きな音だけが急に遠くなる。
誰かの叫び声。
薬莢が床へ跳ねる金属音。
自分の装備が身体へ当たる感触。
座席の隙間からこちらを見ている子供の目。
全部が異常なほど鮮明だった。
そして、それでも恵斗の頭の中にあるのは単純な処理だった。
脅威。
非脅威。
次。
機体中央部。
男が一人、乗客の女性を引きずり起こした。
腕を首へ回している。
拳銃が女性の側頭部に押しつけられた。
「来るな!」
日本語。
訛りが強い。
「来るな!」
女性が泣いている。
男の手も震えていた。
恵斗は銃口を下げない。
「落ち着け」
日本語で返した。
いつもの明るい声ではない。
低く、平坦だった。
「撃つぞ!」
「分かった」
「銃を捨てろ!」
「それは無理だ」
「殺すぞ!」
男が女性の髪を掴んだ。
銃口がさらに押し込まれる。
恵斗は男の顔ではなく、身体全体を見ていた。
肩。
肘。
視線。
指。
呼吸。
人は撃つ直前、必ず何かが動く。
完璧な予告ではない。
だが情報にはなる。
「聞け」
恵斗が言う。
「まだ誰も死ななくていい」
男の視線が一瞬だけ揺れた。
その瞬間。
恵斗の銃が鳴った。
男の身体が崩れる。
女性が床へ転がった。
「そのまま伏せて!」
恵斗は即座に視線を奥へ送った。
そこで。
妙なものが見えた。
一人の男。
座席の間に立っている。
武器は持っていない。
だが胸元が不自然に膨らんでいた。
そしてその両手が――ベストの前にある。
恵斗の背筋が冷えた。
考えるより先に身体が理解した。
「爆発物!」
叫んだ。
男が笑った。
ほんの一瞬だった。
周囲には乗客がいる。
子供。
老人。
女性。
逃げる場所などない。
恵斗は自分でも後になれば説明できなかっただろう。
なぜそうしたのか。
命令されたわけでもない。
訓練で「こうしろ」と教えられたわけでもない。
ただ。
目の前に、小さな女の子がいた。
六歳か。
七歳か。
座席の陰で、母親らしい女性に抱きしめられている。
その子が恵斗を見ていた。
だから。
「伏せろッ!」
恵斗は身体を投げ出した。
母子の前へ。
次の瞬間。
世界が白くなった。
*
爆発は音ではなかった。
衝撃だった。
背中から巨大な鉄槌で殴られたような感覚。
それから熱。
身体のどこかが壊れる感触。
何かが背中へ突き刺さった。
息が消える。
床に叩きつけられた。
耳鳴り。
景色が回る。
非常灯が赤く明滅していた。
煙。
血。
座席。
誰かが叫んでいる。
口が動いているのに声が聞こえない。
恵斗は息を吸おうとした。
吸えない。
「……っ」
肺が動かなかった。
自分の身体が、急速に冷えていく。
妙な感覚だった。
痛い。
はずなのに。
少しずつ痛みが遠ざかっている。
まずいな。
恵斗は思った。
これは知っている。
良くないやつだ。
視界の隅に、さっきの女の子が見えた。
母親が覆いかぶさっている。
二人とも動いている。
生きている。
それを見た瞬間。
恵斗は、安心した。
ああ。
よかった。
誰かがこちらへ這ってきた。
仲間だ。
口を動かしている。
新田。
そう言っているように見えた。
「……ラーメン……」
声になったかどうか、自分でも分からない。
仲間の顔が歪んだ。
泣くなよ。
そう思った。
俺まだ死んでないぞ。
たぶん。
でも。
指が動かない。
身体も動かない。
妙に眠かった。
眠るなと言われた気がする。
無理だ。
眠い。
今日、朝早かったし。
そういえば洗濯物、干したままだったな。
どうでもいいことばかり浮かぶ。
家。
部隊。
仲間。
十五偵。
訓練。
沖縄の海。
くだらない飲み会。
コンビニのコーヒー。
もっと食っとけばよかった。
もっと遊べばよかった。
でも。
まあ。
悪くなかったな。
視界が暗くなっていく。
最後に見えたのは、床へ落ちた自分のHK416だった。
黒い銃身が、非常灯を反射していた。
そこで新田恵斗の人生は終わった。
*
「――起きてください」
女の声がした。
「……ん?」
恵斗は目を開けた。
真っ白だった。
天井がない。
床もない。
壁もない。
ただ、どこまでも白い。
「……病院?」
「違います」
「じゃあ、俺死んだ?」
「はい」
「マジか」
即答されてしまった。
恵斗は上体を起こした。
身体を見る。
血がない。
傷もない。
プレートキャリアも。
迷彩服も。
銃もない。
なぜか薄い白衣のようなものを着ていた。
「いや待って」
恵斗は腹を触った。
「本当に死んだ?」
「残念ながら」
「うわぁ……」
頭を掻く。
「ラーメン食ってねえ」
「……そこですか?」
声の主は、目の前に立っていた。
女性だった。
年齢は分からない。
二十代にも見える。
三十代にも見える。
あるいはもっとずっと古い存在にも。
腰まで届く銀色の髪。
白い衣。
そして人間ではあり得ないほど澄んだ金色の瞳。
恵斗は数秒ほど彼女を眺めた。
「……どちら様?」
「女神です」
「なるほど」
「驚かないんですか?」
「今日一日でハイジャック犯に撃たれて自爆されて死んで、起きたら真っ白な空間ですからね」
恵斗は肩をすくめた。
「ここまで来たら女神くらい出てくるでしょう」
「変なところで順応が早いですね、あなた」
「仕事柄」
女神は小さく笑った。
それから。
「新田恵斗さん」
初めて、その声から柔らかさが消えた。
「あなたには、これから別の世界へ行っていただきます」
恵斗は瞬きをした。
「……はい?」
「そこには魔法があります」
「はい」
「魔物もいます」
「はい」
「剣と槍で戦っています」
「はい」
「あなた以外にも、三人の日本人が一緒に行きます」
「はい」
少し間が空いた。
「理解しています?」
「全然」
女神が額を押さえた。
恵斗は笑った。
「でも、まあ」
白い空間を見回す。
「死んだんなら仕方ないでしょう」
「ずいぶん前向きですね」
「死んだ後に落ち込んでも生き返らないでしょうし」
「それは……そうですが」
「で」
恵斗は女神を見る。
「俺は、その世界で何をすればいいんです?」
女神は少し考えてから答えた。
「基本的には――自由です」
恵斗の眉が上がった。
「自由?」
「ええ」
そして女神は微笑んだ。
「ただし、あなたには一つ、能力を差し上げます」
恵斗の目が少しだけ細くなった。
「能力?」
「あなたが最も使いこなせるものを」
白い空間の中。
女神が指を一本立てる。
「その名は――」
恵斗の前に、光の文字が浮かび上がった。
たった一語。
《オペレーター》
「あなたがいた国の陸上自衛隊が採用した、ありとあらゆる武器、弾薬、装備品を――」
女神は告げた。
「望んだ場所へ召喚する能力です」
新田恵斗は。
数秒間。
黙った。
そして。
「……それ」
口元がゆっくり吊り上がった。
「俺に渡して大丈夫なやつですか?」
女神は、そのとき初めて。
ほんの少しだけ。
不安そうな顔をした。
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第一話 了