殉職したので異世界へ   作:xzxz010

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第十一話 夜の向こう側

 木の折れる音は一度きりではなかった。

 

 最初の一音から数秒を置いて、さらに奥で乾いた破砕音が続いた。風に枝が折られた程度の軽さではなく、相応の重量を持つ何かが下生えを押し潰し、ときおり進路上の若木をそのままへし折っている。距離はまだあるものの、音の位置は少しずつこちらへ近づいていた。

 

「ガレス、起きてください。何か来ます」

 

 恵斗の声は低かったが、猟師は一度で目を覚ました。眠気の残った顔で問い返すこともなく長弓へ手を伸ばし、上体を起こしながら恵斗の視線が向いている森を確認する。その動きにつられてダリオも目を覚まし、最後にエレナが毛布から身体を起こした。

 

「何が近づいているんです?」

 

「まだ分かりません。森の奥でかなり大きなものが動いています。さっきまでこちらを窺っていたゴブリンが二体いましたが、音がした途端に南へ逃げました」

 

 恵斗はGPNVGを上げず、森を見たまま答えた。

 

 暗闇の中で木々の輪郭が淡い像として浮かび、その隙間を下草と岩が埋めている。焚き火から漏れる光は暗視像の一部を明るく滲ませるため、恵斗は火を直接視界へ入れない位置まで身体をずらした。

 

 ガレスも耳を澄ませる。

 

「……確かにいるな。しかも軽い獣じゃない」

 

「黒牙獣でしょうか」

 

 エレナが小声で尋ねると、ガレスはすぐには答えなかった。

 

「可能性はある。ただ、あいつならもう少し静かに歩く。獲物へ近づく時に、わざわざ森中へ居場所を教えるような真似はしない」

 

「だったら、別の魔物ということですか」

 

「見てみないことには分からん」

 

 その答えを聞きながら、恵斗は20式のセレクターへ指を添えた。

 

     *

 

 観察できているものは少ない。

 

 大型の何かが森を移動している。ゴブリンがそれを避けた。進行方向をそのまま延長すれば、野営地の近くを通る可能性がある。

 

 敵であるとはまだ決まっていない。

 

 それでも、接触してから考える必要はなかった。

 

「ダリオさん、エレナさん。焚き火から少し離れてください。ガレスさんは俺と一緒に、まず正体を確認しましょう」

 

「火は消すのか?」

 

 ダリオが尋ねる。

 

「今は残します。火を避ける相手なら、それだけでこちらへ寄らなくなるかもしれません。逆に火へ向かってくるなら、その時点で判断材料が増えます」

 

「分かった。エレナ、こっちだ」

 

 ダリオは盾を左腕へ通しながら立ち上がり、エレナを街道側へ下げた。

 

 恵斗は二人の移動を横目で確認すると、ガレスとともに野営地の北側へ数メートル進んだ。森へ深く入る必要はない。こちらから未知の相手との距離を詰めれば、観察するために自ら選択肢を減らすことになる。

 

 再び木が折れた。

 

 今度は近い。

 

 ガレスが弓へ矢を番える。

 

「新田。あんたには見えてるんだろ?」

 

「昼間みたいに、とはいきませんが、あなたよりは見えています」

 

「便利な道具だな、それは」

 

「便利ですよ。夜中に起こされても文句を言えなくなるくらいには」

 

 ガレスの口元が僅かに緩んだ。

 

 緊張していても冗談が通じる。それだけで十分だった。

 

     *

 

 恵斗は20式を肩へ収めた。

 

 頬を銃床へ押しつける必要はなく、頭を自然な位置へ置いたまま照準系を視界へ重ねる。GPNVGによって広げられた夜の像の中を、銃口だけが先走らないよう視線から順に探っていく。

 

 音。

 

 正面から僅かに右。

 

 その位置を見た瞬間、低木の奥で枝が揺れた。

 

 まだ撃たない。

 

 暗視装置を持っているという事実は、夜の森を昼間へ変えることではない。見える情報が増えた分だけ、見えたものを敵だと思い込む危険も増える。形を拾い、動きを読み、武器の有無を確認し、それでも足りなければ待つ。

 

 恵斗にとって射撃とは、引き金を引くところから始まる行為ではなかった。

 

 撃たなくて済むものを射線から除外し、撃つ必要のあるものだけを残していく。その選別の最後に、引き金がある。

 

「……見えた」

 

 恵斗が囁いた。

 

「何だ?」

 

「待ってください」

 

 木々の間に、巨大な輪郭が現れた。

 

     *

 

 四足だった。

 

 最初に見えたのは肩の位置で、恵斗の胸より明らかに高い。そのまま頭部が木の陰から現れ、太い前脚が地面を踏んだ。

 

 黒牙獣に似ている。

 

 しかし、昨日図鑑で見た挿絵とは身体の比率が違った。

 

 腹部が異様に細い。

 

 肋骨らしき凹凸が皮膚越しにも分かるほど痩せており、巨大な頭部と前脚だけが不釣り合いに発達している。歩き方も正常には見えず、右後脚を僅かに引きずっていた。

 

「黒牙獣だと思います。ただ、かなり弱ってる」

 

「こっちへ来てるのか?」

 

「今のところは」

 

 ガレスが息を吐いた。

 

「腹を空かせてるなら厄介だぞ」

 

 恵斗も同じことを考えていた。

 

 痩せた捕食動物は、必ずしも弱い相手ではない。通常なら避ける危険を、飢餓が上回ることがある。

 

 黒牙獣はさらに数歩進んだ。

 

 鼻先が持ち上がる。

 

 匂いを探している。

 

 そして、その頭が焚き火の方向へ向いた。

 

     *

 

「来ます」

 

 恵斗が告げた直後、黒牙獣の歩調が変わった。

 

 走ってはいない。

 

 しかし、明確にこちらを選んだ。

 

「ダリオさん、まだ前へ出ないでください。エレナさんもその位置で」

 

「分かりました」

 

 エレナの声は緊張していたものの、取り乱してはいなかった。

 

 恵斗は照準を黒牙獣へ合わせる。

 

 距離はおよそ五十メートル。

 

 5.56mm弾にとって問題になる距離ではない。

 

 問題は、撃つ必要があるかどうかだった。

 

「ガレスさん。こいつは火を避けないんですか」

 

「普通なら近寄らん。少なくとも俺が知ってる黒牙獣ならな」

 

「なら、正常な行動じゃない」

 

 黒牙獣がさらに近づく。

 

 四十メートル。

 

 焚き火の向こうに人間がいることにも気づいているはずだった。それでも止まらない。

 

 恵斗は息を整えた。

 

 狙う場所はすでに決まっている。

 

     *

 

 三十メートルを切ったところで、黒牙獣が頭を下げた。

 

 前脚が地面を掻く。

 

 ガレスが矢を引き絞った。

 

「新田」

 

「まだ」

 

 黒牙獣が唸った。

 

 低い音が森の中を這う。

 

 恵斗の右手人差し指がトリガーガードの外側から内側へ移った。

 

 ここまで来れば、相手が何を考えているかを推測する必要はない。姿勢、距離、進行方向が十分な答えを出している。

 

 黒牙獣が踏み込んだ。

 

 恵斗が撃った。

 

     *

 

 サプレッサーを通した発砲音が夜気を叩き、20式が肩へ短い反動を返した。

 

 一発目が黒牙獣の頭部へ入り、その直後には二発目が続いていた。

 

 巨体が前へ崩れる。

 

 だが、止まらない。

 

 黒牙獣は勢いのまま数歩進み、前脚を大きく踏み外しながら再び身体を起こそうとした。

 

 恵斗の照準はそこから離れていなかった。

 

 三発目。

 

 四発目。

 

 動きが変わる。

 

 先ほどまで恵斗たちへ向けられていた力が抜け、前脚が折れるように地面へ沈んだ。巨体が横倒しになると、落ち葉と土が巻き上がり、その身体は焚き火から十数メートル手前で止まった。

 

 恵斗は撃ち終わっても銃口を下げない。

 

 GPNVG越しに胸郭と四肢の動きを確認する。

 

「……止まりました」

 

 ガレスが弓を下ろしかける。

 

「待ってください。俺が確認します」

 

 恵斗は前へ出た。

 

     *

 

 倒れているものへ近づく時ほど、急ぐ理由はない。

 

 恵斗は黒牙獣の正面を避け、斜めから距離を詰めた。銃口は頭部から外さず、足の位置を確かめながら一歩ずつ進む。

 

 十メートル。

 

 五メートル。

 

 呼吸らしい動きはない。

 

 それでも、見た目だけで死を決めつけることはしなかった。

 

 黒牙獣の眼球は開いたままで、身体にも反応がない。恵斗は十分な距離を残して数秒観察し、ようやく銃口を僅かに下げた。

 

「大丈夫です」

 

 背後から三人が近づいてくる。

 

「……なんだ、今のは」

 

 ダリオの声がした。

 

 恵斗が振り返る。

 

「今の?」

 

「その武器だよ」

 

 ダリオは黒牙獣と恵斗の20式を交互に見ていた。

 

「弓じゃないとは聞いてたが……こんなものだとは思わなかった」

 

 恵斗は返答に少し迷った。

 

「説明すると長くなるので、今は遠くまで届く武器だと思ってください」

 

「遠くまで届くって程度じゃねえだろ……」

 

 ガレスも黒牙獣へ近づき、傷を調べ始めた。

 

     *

 

 エレナだけは、すぐには死体へ近づかなかった。

 

 彼女の視線は黒牙獣ではなく、恵斗へ向いていた。

 

 ほんの十数秒前まで、焚き火のそばでくだらない冗談を言っていた男だった。

 

 ところが戦闘が始まると、声も動作も変わった。

 

 慌ててはいない。

 

 怒ってもいない。

 

 巨大な魔物が迫っているというのに、恐怖が欠落しているわけでもない。怖いからこそ距離を測り、相手の動きを待ち、必要になるまで撃たなかった。

 

 そして撃つと決めた瞬間には、迷いそのものが消えていた。

 

 エレナには、そこが最も理解し難かった。

 

「エレナさん?」

 

 呼ばれて我に返る。

 

「どうしました?」

 

「……いえ。なんでもありません」

 

「怪我はないですか」

 

「ありません。新田さんは?」

 

「俺も大丈夫です」

 

 それだけ確認すると、恵斗はもう彼女から視線を外し、ガレスの方へ歩いていった。

 

 エレナはその背中を目で追いかけたが、自分がそうしていることに気づくと、少し困ったように視線を逸らした。

 

     *

 

「こいつ、やっぱりおかしいぞ」

 

 ガレスが言った。

 

 黒牙獣の腹部へ手を当てている。

 

「見ろ。痩せ方が尋常じゃない。毛艶も悪いし、後脚には古い傷がある」

 

「病気ですか?」

 

 エレナが今度は近づきながら尋ねた。

 

「病気だけなら、ここまで南へ出てくる理由にはならんだろうな」

 

 恵斗も死体を見る。

 

 近くで確認すると、異常な痩せ方はさらに明瞭だった。巨大な身体を維持するための肉が落ち、肩甲骨と肋骨の形が浮いている。

 

「胃の中を調べられます?」

 

 恵斗が尋ねると、ガレスが顔を上げた。

 

「できるが、見たいのか?」

 

「最後に何を食ったのか分かれば、何か手掛かりになるかもしれません」

 

「なるほどな。朝になってからやろう。暗い中で腹を開く仕事じゃない」

 

「お願いします」

 

 ダリオが嫌そうな顔をした。

 

「俺は朝飯の後にしてほしい」

 

「先にやった方がいいだろ」

 

「ガレス、お前は人の気持ちってものを考えろ」

 

「胃袋を見るだけだ」

 

「だから嫌なんだよ」

 

 緊張が少しだけ解けた。

 

     *

 

 黒牙獣の死体は野営地から離れた場所へ移すことにした。

 

 とはいえ、四人で引いて動かせるような重量ではない。

 

「どうする?」

 

 ダリオが腕を組む。

 

「ここで寝るのは嫌だぞ。別の魔物が寄ってくる」

 

「なら野営地を移す方が早いな」

 

 ガレスの提案に、恵斗も頷いた。

 

 夜中に長距離を動くつもりはない。街道沿いに数百メートル戻り、別の場所を選ぶだけで十分だった。

 

 荷物をまとめる。

 

 焚き火を消す。

 

 土を被せ、火種が残っていないことを確認してから四人は移動を始めた。

 

 先頭は恵斗が歩いた。

 

 GPNVG越しなら、月明かりの乏しい森でも足元を確認できる。

 

「新田さん」

 

 後ろからエレナが声をかけた。

 

「どうしました?」

 

「その目につけている道具では、本当に暗闇でも見えるんですか」

 

「見えます。ただし、昼間と同じではありません。距離感も色も変わりますし、見えているから安全というわけでもないですよ」

 

「それでも、私たちよりずっと遠くまで見えているんですよね」

 

「今はそうですね」

 

 エレナは少し黙った。

 

「あなたの故郷の兵士は、みんなそんな道具を使うんですか」

 

「みんなではありません。似たものを使う人間はいますけど、俺がいたところは夜に動くことが多かったので」

 

「夜に?」

 

「ええ。相手が見えない時間に、こっちだけ見えているなら、その方が都合がいいでしょう」

 

 エレナはその意味を考え、背筋に僅かな寒気を覚えた。

 

     *

 

 彼女たちの世界では、夜は戦闘を難しくする。

 

 松明を持てば自分の位置を知らせ、持たなければ敵が見えない。魔法によって光を作ることはできても、それは結局、闇の中へ自分の存在を掲げることと同じだった。

 

 ところが恵斗の故郷では、その前提さえ違うらしい。

 

 闇は双方を等しく盲目にするものではない。

 

 道具を持つ者だけが、夜の規則から外れることができる。

 

「ずるいですね」

 

 思わず口から出た。

 

 恵斗が振り返った。

 

「何がです?」

 

「その道具です。相手からは見えないのに、自分だけ相手を見られるなんて」

 

 一瞬の沈黙の後、恵斗は笑った。

 

「戦いで公平にする必要なんてないでしょう」

 

 穏やかな声だった。

 

 それだけに、エレナは返す言葉を失った。

 

 冗談でも、虚勢でもない。

 

 この男にとっては、それが当たり前なのだ。

 

     *

 

 新しい野営地を確保した頃には、夜もかなり深くなっていた。

 

 今度は焚き火を小さくし、見張りを二人ずつに変更した。黒牙獣が一頭だけとは限らず、先ほどの銃声が別の何かを刺激した可能性もある。

 

 恵斗とガレスが最初の組。

 

 ダリオとエレナが後半を担当する。

 

「さっきのゴブリンはどうする?」

 

 ガレスが尋ねた。

 

「追いません。少なくとも俺たちを襲う様子はなかったし、黒牙獣から逃げていました」

 

「俺もそう思う。だが、妙だな」

 

「何がです?」

 

「ゴブリンは馬鹿じゃない。人間の火を見れば、普通はもっと距離を取る。腹が減って盗みに来ることはあるが、あの二匹はそんな様子でもなかった」

 

「助けを求めていた、と?」

 

「そこまでは言わん。ただ、あいつらも追い詰められてるのかもしれんな」

 

 恵斗は暗い森を見た。

 

 ゴブリン。

 

 鹿。

 

 猪。

 

 灰角獣。

 

 黒牙獣。

 

 種類も食性も違う生き物が、同じ地域で異常な動きを見せている。

 

 何かが一種類の魔物を追い立てているだけでは説明しにくくなってきた。

 

     *

 

 夜明けとともに、四人は黒牙獣の死体へ戻った。

 

 ガレスが腹部を切り開く間、ダリオは宣言どおり少し離れた場所で朝食を食べていた。

 

「よくそんな状況で食べられますね」

 

 エレナが呆れる。

 

「逆だ。見たら食えなくなるから今食ってる」

 

「なるほど」

 

「納得するんですか」

 

 恵斗は二人のやり取りを聞きながら、ガレスの作業を見ていた。

 

 やがて猟師の手が止まる。

 

「……ほとんど空だ」

 

「何も食べてない?」

 

「いや、少しある」

 

 ガレスが胃の内容物を確認する。

 

 毛。

 

 細かな骨片。

 

 そして、植物質らしいもの。

 

「黒牙獣は肉食ですよね」

 

「ああ。少なくとも草を食う魔物じゃない」

 

「じゃあ、これは?」

 

「腹が減りすぎて、食えるものを何でも口にしたんだろう」

 

 ガレスの表情が険しくなった。

 

「こいつの縄張りから、獲物が消えたんだ」

 

     *

 

 その言葉で、これまで集まっていた情報が一つにつながった。

 

 動物が南へ移動している。

 

 それを追うように捕食者も生息域を外れている。

 

 しかし、すべてが一方向へ進んでいるわけではない。餌を求めて南へ出た捕食者が、縄張りへ戻ることもある。

 

 ゴブリンも同じなのかもしれない。

 

 問題は、その連鎖の最初だった。

 

「じゃあ、動物が逃げてる原因を探せばいいわけか」

 

 ダリオがパンを食べ終えながら近づいてきた。

 

「そう単純ならいいんですけどね」

 

 恵斗は立ち上がった。

 

「何から逃げているのか、それとも別の理由で移動しているのか。まだ決めない方がいいでしょう」

 

「じゃあ、どうする?」

 

「予定どおり北へ進みましょう。ローデン宿場町まで行けば、ここより新しい情報があるはずです」

 

 ガレスも頷いた。

 

「俺も賛成だ。ただし、ここから先は街道そのものが危ないと思った方がいい」

 

「ええ」

 

 恵斗は20式を身体の前へ回した。

 

 朝の光が森へ差し込み始めている。

 

 GPNVGはもう必要ない。

 

 夜だけ恵斗に与えられていた優位は、太陽が昇れば消える。

 

 それで構わなかった。

 

 優位とは常に持っているものではなく、必要な時に作るものだ。

 

     *

 

 四人は再び北へ向かった。

 

 昨日までとは隊列を少し変え、ガレスが先頭で痕跡を読み、恵斗はその少し後ろから左右の森林を監視する。ダリオとエレナが続き、互いの姿が木々や街道の起伏で消えない程度の間隔を保った。

 

 歩き始めて一刻ほど経った頃だった。

 

 ガレスが突然しゃがみ込んだ。

 

 今度は鹿の足跡ではない。

 

 街道の泥に、人間の靴跡が残っていた。

 

「新しいな」

 

 ガレスが指で縁をなぞる。

 

「何人くらいです?」

 

「少なくとも五人。北から来てる」

 

 恵斗は街道の先を見る。

 

 ローデン宿場町の方向だった。

 

「使者でしょうか」

 

 エレナが尋ねた。

 

「昨日、ギルド長が返事を待っていると言っていた人なら、その可能性はありますね。ただ……」

 

 恵斗は足跡の一つを見る。

 

 歩幅が不規則だった。

 

 途中から深くなっている。

 

 走っている。

 

 ガレスも同じことに気づいたらしい。

 

「途中から全員走ってるな」

 

「王都へ急いでいたというだけならいいんですが」

 

「違うと思うか?」

 

「まだ分かりません」

 

 恵斗はそう答えた。

 

 分からないものを、都合のいい物語で埋めない。

 

 その原則を守ったまま、四人はさらに北へ進んだ。

 

     *

 

 それから二十分も経たないうちに、街道脇で最初の男を見つけた。

 

 うつ伏せに倒れている。

 

 王都のギルドで見た制服とよく似た服を着ていた。

 

 エレナが駆け寄ろうとする。

 

「待ってください」

 

 恵斗の声で足が止まった。

 

「先に周囲を確認します」

 

 20式を構えたまま、恵斗は左右の森を見る。

 

 鳥の声はある。

 

 枝も揺れていない。

 

 それでも、倒れている人間だけを見て近づくことはしない。

 

 数秒かけて周囲を確認してから、ようやく前へ出た。

 

 エレナが後に続く。

 

 男は生きていた。

 

 呼吸がある。

 

 しかし、背中には大きな傷があり、服が血で濡れていた。

 

「エレナさん」

 

「はい」

 

 彼女はすぐに膝をついた。

 

「まだ助けられます」

 

 その声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。

 

 今度は彼女の仕事だった。

 

     *

 

 治癒術の淡い光が傷口を覆う。

 

 恵斗はその間も周囲を警戒していた。

 

 ダリオが男の荷物を確認し、ガレスは街道上の足跡を調べる。

 

「新田」

 

「どうしました?」

 

「残りは先へ行ってる。だが、一人分だけ途中から消えてる」

 

「森へ入った?」

 

「たぶんな」

 

 恵斗は倒れている男を見る。

 

 ギルドの使者だとすれば、五人で南へ向かっていた。

 

 一人がここで負傷した。

 

 三人以上はさらに南へ走った。

 

 そして一人は森へ入った。

 

「本人から聞けそうですか」

 

 エレナは治癒を続けながら首を振った。

 

「すぐには無理です。出血が多すぎます。傷は閉じられても、失った血までは戻せません」

 

「分かりました。まず命を優先してください」

 

「はい」

 

 恵斗は立ち上がる。

 

 そこでガレスが森の方を見た。

 

「……おい」

 

 声が変わった。

 

 恵斗も同じ方向を見る。

 

 街道脇の木。

 

 その幹に、何かが刻まれていた。

 

     *

 

 文字ではなかった。

 

 三本の斜線と、その下に円。

 

 刃物で急いで刻みつけたような粗い印だった。

 

「知ってます?」

 

 恵斗が尋ねると、ダリオの顔色が変わった。

 

「ああ。北の冒険者が使う印だ」

 

「どういう意味です?」

 

 ダリオはしばらく木の印を見つめた。

 

「街道を進むな、という警告だ」

 

 エレナの治癒術が放つ淡い光だけが、朝の木陰で揺れていた。

 

「理由までは?」

 

「この印だけじゃ分からない。ただ、三本線は危険度が一番高い。腕に自信があっても引き返せって意味だ」

 

 恵斗は北を見る。

 

 ローデン宿場町までは、まだ半日以上ある。

 

 そこへ向かった使者たちは、何かを見た。

 

 少なくとも一人は負傷し、残りは王都へ逃げた。

 

 その途中で、後続へ警告を残している。

 

 恵斗は20式のスリングを僅かに調整した。

 

「この人が話せるようになるまで待ちましょう」

 

 ダリオが意外そうに見る。

 

「先を見に行かないのか?」

 

「何がいるのか分からないからこそ、知っている人間が目の前にいるなら先に話を聞きます。わざわざ情報を捨てて踏みに行く必要はないでしょう」

 

 ガレスが低く笑った。

 

「もっと無茶をする男かと思ってたよ」

 

「みんな俺を何だと思ってるんです?」

 

 エレナが治癒を続けたまま、ほんの少し笑った。

 

「少なくとも、普通の冒険者ではないと思っています」

 

「それは否定しづらいな」

 

 恵斗も笑った。

 

     *

 

 だが、その笑いは長く続かなかった。

 

 横たわっていた男の指が動いたからだ。

 

 エレナがすぐに顔を覗き込む。

 

「聞こえますか。もう大丈夫ですから、無理に動かないでください」

 

 男の瞼が震え、ゆっくりと開いた。

 

 焦点の合わない目がエレナを見て、次にダリオ、ガレス、最後に恵斗へ移る。

 

「……王都……」

 

「王都から来た調査隊です」

 

 恵斗が答えた。

 

 男の目が見開かれた。

 

 震える手が恵斗の腕を掴む。

 

「戻れ……」

 

「何があったんです?」

 

 男は呼吸を整えようとした。

 

 エレナが制止しかけるが、男は首を振った。

 

「ローデンには……行くな」

 

 その声には、傷の痛みとは別の恐怖が混じっていた。

 

「宿場町で何が起きたんです?」

 

 男は恵斗を見た。

 

「町じゃない」

 

 一度、息を吸う。

 

「森が……動いてる」

 

 誰もすぐには意味を理解できなかった。

 

 恵斗だけが問い返さず、男の次の言葉を待った。

 

 やがて、震える唇から続きを聞いた。

 

「北から……全部、逃げてきてる。獣も、魔物も……ゴブリンも……」

 

 男の指に力が入る。

 

「逃げてるんだ」

 

 そして。

 

「軍隊から」

 

第十一話 了

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