翌朝、一行は日の出とともに野営地を発った。
北へ向かう理由は、もう残っていなかった。調査隊として求められていたのは異変の原因を可能な範囲で探り、得られた情報を王都へ持ち帰ることであり、恵斗たちはその範囲をすでに越えるほどのものを見ている。数百を超える魔族、その中に混じる非戦闘員、捕らえられたゴブリンと魔物、さらに北から継続して流入する集団。これ以上進めば調査ではなく敵勢力圏への潜入になり、負傷者を抱えた四人で行う仕事ではなかった。
ガレスとダリオが交代で担架を持ち、エレナは負傷者の状態を見ながら歩いた。
恵斗は先頭と後方を固定せず、街道と森林の様子に応じて位置を変えた。魔族の捜索隊がどこまで南へ出ているか分からない以上、昨日までのように道の中央を歩き続ける必要もない。見通しの長い区間では街道を使い、地形が狭まる場所では先に周囲を確認してから通過する。
敵を一人も見ないことが、今日の最良の結果だった。
*
午前の半ばを過ぎた頃、負傷した男が担架の上から口を開いた。
「……名前を聞いてなかったな」
昨日より声に力が戻っている。
「新田恵斗です」
「ニッタ……ケイト?」
「恵斗が名前です。新田が家の名前」
「逆なのか」
「俺の故郷ではそうなんです」
男は少し考えてから頷いた。
「俺はルーカスだ。ローデンの冒険者ギルドで働いてる」
「傷の具合はどうです?」
「痛いが、生きてる。あの姉ちゃんのおかげだ」
少し後ろを歩いていたエレナが聞きつけた。
「治療した人間を『あの姉ちゃん』で済ませるくらい元気なら、もう少し歩けそうですね」
「いや、それとこれとは話が違う」
「冗談ですよ。まだ寝ていてください」
ルーカスは素直に担架へ身体を戻した。
エレナの治癒術がどこまで医学的に説明できるものなのか、恵斗にはまだ分からない。ただ、傷口の閉鎖速度だけを見れば、現代医療の常識から完全に外れている。
魔法。
銃器と同じように、この世界には恵斗の側が理解できていない非対称性がある。
*
「ルーカスさん」
「なんだ?」
「昨日、魔族に襲われた時のことを聞いてもいいですか」
「ああ。覚えてる範囲なら」
「何人で行動していました?」
「五人だ。ローデンを出て王都へ向かってた」
「襲ってきた人数は?」
「三人だったと思う」
恵斗は少し意外に思った。
「三人だけ?」
「最初はな」
ルーカスは目を閉じ、記憶を辿る。
「森から突然矢を射られた。俺が背中をやられて、馬から落ちた。仲間が戻ろうとしたんだが、俺が行けって叫んだ。その後、森の奥からもっと声が聞こえた」
「追跡されたんですか」
「たぶんな。俺は道端まで這って、その後のことはよく覚えてない」
昨日見つけた痕跡とも大きく矛盾しない。
「襲ってきた魔族は、ローデンの北で見た軍勢と同じ格好でした?」
「似てた。ただ……」
ルーカスが眉を寄せる。
「兵士って感じじゃなかったな」
「どういうところが?」
「装備が揃ってない。革鎧の奴もいれば、布の服だけの奴もいた。弓も同じ物じゃない。俺たちを追ってきた連中なんか、一人は木を削っただけみたいな槍を持ってた」
恵斗は黙ってその情報を覚えた。
正規軍。
避難民。
民兵。
武装した住民。
今の段階では、どれにも決められない。
*
昼前、一行は街道脇の林で短い休憩を取った。
食事を済ませている間、恵斗は地図を広げる。
「このままなら明日の午後には王都へ着く」
ガレスが言った。
「問題は今夜だな。北から十分離れたとはいえ、あの連中がどこまで来てるか分からん」
「昨日と同じように、街道から離れて泊まりましょう」
ダリオが干し肉を噛みながら頷いた。
「異論はない。今夜くらい静かに寝たい」
「見張りは必要ですけどね」
「分かってる。夢を語っただけだ」
恵斗は地図を畳んだ。
ガレスが笑いながら水筒へ口をつける。
調査開始時には、判断のたびに互いの意図を言葉で確認していた。今は必要な部分だけ話せば動ける。わずか数日の同行でも、共通の経験を持てば集団の意思決定は速くなる。
それもまた、小さな戦力だった。
*
午後の移動は順調だった。
魔族の姿はなく、街道を横切る動物の痕跡も北側ほど多くない。王都へ近づくにつれて鳥の声が戻り、森そのものが少しずつ本来の姿を取り戻していく。
夕刻になる前に野営地を決めた。
今夜は小さな沢から離れた高台を選び、木々の間に担架を置く。ルーカスは支えがあれば立てるところまで回復していたが、エレナは歩行を許さなかった。
「傷が塞がったからといって、中まで元通りになったわけではありません。明日までは運ばれてください」
「自分で歩けるぞ」
「転んで傷を開いたら、もう一度治すのは私です」
「……運ばれる」
ルーカスが毛布へ戻る。
ダリオが薪を抱えたまま笑った。
「強えな、治癒術師」
「怪我人が言うことを聞かないので、こうなったんです」
エレナはそう答えて鍋の準備へ戻った。
*
その夜は何も起きなかった。
恵斗は見張りの間に暗視装置を使ったものの、森を歩く鹿を一頭見つけただけだった。
撃つ理由はない。
しばらく観察していると、鹿は恵斗の存在に気づくことなく木々の向こうへ消えた。
暗闇で相手を一方的に観察できる。
昨日、エレナはそれを「ずるい」と言った。
間違ってはいない。
公平性を捨てるために、人間は道具を作る。
遠くへ届かないから弓を作り、身体が脆いから鎧を着て、夜に見えないから暗視装置を作った。現代の戦闘技術とは、人間が持つ弱点を一つずつ機械へ肩代わりさせてきた歴史とも言える。
だが、この世界には魔法がある。
無人機を見つけ、空中の小さな機体へ攻撃を届かせた術者を思い出す。
こちらだけが規則を破れると思えば、その瞬間から判断を誤る。
恵斗は森を見続けた。
*
翌日の昼過ぎ、王都の城壁が見えた。
「帰ってきたな」
ガレスの声には安堵が混じっていた。
北門へ近づくにつれて人通りが増え、荷車や旅人の姿も見える。ただし北へ向かう者は相変わらず少なく、門の周辺では兵士が普段より念入りに旅人へ行き先を確認していた。
五人が門へ近づくと、衛兵の一人が担架に気づいて駆け寄ってきた。
「怪我人か?」
「ローデンのギルド職員です」
ガレスが答える。
「北で襲撃を受けてる。冒険者ギルドへ運ぶ」
衛兵の表情が変わった。
「ローデンから?」
「ああ。急いでギルドと王宮へ知らせる必要がある」
事情を聞いた衛兵は、それ以上引き留めなかった。
門を抜ける。
城壁の内側へ入った瞬間、王都の喧騒が戻ってきた。
*
焼いた肉の匂い。
商人の呼び声。
石畳を叩く馬蹄。
子供たちの笑い声。
北の森では、数百人規模の魔族が南下している。
ここでは昼飯をどこで食べるかを巡って夫婦が言い争っている。
その落差を見ながら、恵斗は歩いた。
危機とは、いつも人々の生活より先に姿を現すわけではない。情報が届くまで、日常は日常として続く。
「人が多いですね」
エレナが言った。
「数日離れてただけなのに、妙にうるさく感じます」
「森に慣れたんでしょうね」
「私はこっちの方が好きです。寝ている時に黒牙獣が来ませんから」
「それは俺も同意します」
そこで会話は終わった。
エレナは前を向いたが、しばらくすると自分でも気づかない程度に恵斗との歩幅を合わせていた。
*
冒険者ギルドへ入った途端、受付の空気が変わった。
「新田さん!」
ミレーヌが立ち上がる。
恵斗ではなく、まず担架を見た。
「怪我人です。ローデンのギルド職員で、名前はルーカス。エレナさんが治療していますが、休ませられる場所をお願いします」
「すぐに!」
職員が数人集まり、担架を奥へ運んでいく。
ルーカスが見知った職員へ何か話し始めた。
その間に、別の職員がギルド長を呼びに走る。
「調査はどうでした?」
ミレーヌが尋ねた。
恵斗は少し考えた。
「ここで立ち話をする内容じゃないですね」
その一言で、彼女の表情から再会への安堵が消えた。
*
会議室にはギルド長のほか、王都守備隊の士官が二人来た。
恵斗にとっては初対面だった。
一人は四十代ほどの騎士で、濃紺の上衣の上から金属製の胸甲を着けている。もう一人は若い書記官らしく、卓上へ紙とインクを用意していた。
「調査隊から報告を受ける。最初から頼む」
ギルド長が言った。
報告はガレスから始めた。
商隊襲撃地点。
黒牙獣。
異常な南下を見せる動物。
ローデンから来た使者。
そして、魔族。
話がそこまで進むと、騎士の表情が険しくなった。
「数は?」
「数百以上」
恵斗が答えた。
「お前が確認したのか」
「はい。上空から確認しました」
騎士の眉が動いた。
「上空?」
当然、その言葉だけでは通じなかった。
*
恵斗は少し考えてから、無人機そのものを召喚することにした。
「こういうものを使いました」
卓上の空いた場所へ小型の機体が現れた。
若い書記官が椅子を鳴らして身を引いた。
騎士は反射的に腰の剣へ手を伸ばし、ギルド長も目を見開く。
「……なんだ、それは」
「偵察に使う道具です。飛ばして、離れた場所の様子を見ることができます」
「魔道具か?」
「俺の故郷では魔法を使わずに作ります」
騎士はすぐには理解できなかったらしい。
機体の周囲を見ながら、慎重に尋ねる。
「これが空を飛ぶのか」
「ええ」
「人を乗せずに?」
「乗せません」
書記官が恐る恐る身を乗り出した。
「では、誰が見ているんです?」
「俺です」
恵斗は送信機の画面を示した。
*
説明を聞くほど、二人の困惑は深くなった。
騎士にとって飛行とは鳥か魔法の領分であり、人間の手のひらほどの機械を飛ばして数キロ先を見るという発想そのものが存在しない。
「その道具で魔族を見た、と」
「はい。映像も残っています」
「映像?」
また知らない言葉が出た。
恵斗は言い換えた。
「見た景色を、そのまま後から見られるように残してあります」
書記官が口を半開きにした。
「そんなことが……」
恵斗は画面へ記録映像を表示した。
森を上空から見下ろす映像。
そこに点在する天幕。
動く人影。
武装した魔族。
騎士は最初こそ画面という物体そのものへ目を奪われていたが、やがて映っている内容を理解し始めた。
表情が変わる。
*
「止めてくれ」
恵斗は再生を止めた。
騎士が画面へ顔を近づける。
「ここだ。この大きい奴はオーガか?」
「ガレスさんもそう言っていました」
「間違いない」
次に映像を進める。
捕らえられたゴブリン。
大型の魔物。
荷車。
非戦闘員らしき人影。
騎士は長い時間、何も言わなかった。
「軍だけではないな」
「俺もそう考えています」
「だが武装兵が数百いるのは事実だ」
「はい」
「さらに北から増えている?」
「ローデンから来たルーカスさんの証言では、三日前にはもっと少なかったそうです」
騎士が椅子へ深く座った。
「これは王宮へ上げる」
その判断は早かった。
*
「もう一つあります」
恵斗が言った。
「この偵察機は、向こうの魔法使いに発見されて攻撃されました」
騎士が再び顔を上げる。
「空を飛んでいるこれを?」
「はい」
「どの程度の高さだった」
恵斗はおおよその高度を説明した。
騎士は隣の書記官を見る。
「宮廷魔術師にも見せる必要があるな」
恵斗はその反応を覚えておいた。
初めて現代の機械を見る人間であっても、軍人は驚くだけでは終わらない。用途が分かれば、次に考えるのは敵がそれへ何をできるかだった。
文化も技術も違う。
それでも戦う人間の思考には、重なる部分がある。
*
報告には二時間近くかかった。
終わる頃には窓から差す光が傾き始めていた。
「調査隊への依頼は、これで完了とする」
ギルド長が言った。
「報酬については受付で受け取ってくれ。追加情報の分も上乗せする」
「ありがとうございます」
「それと、新田」
「はい」
「王宮から呼び出しがあると思う」
「でしょうね」
王都側はすでに恵斗の存在も能力の一部も知っている。
今回の情報を持ち帰った本人を呼ばない理由はなかった。
「今日はもう来ないだろう。休め」
「そうします」
恵斗は立ち上がった。
*
一階へ降りると、ガレスとダリオがすでに報酬を受け取っていた。
「終わったか」
ガレスが声をかける。
「とりあえずは」
「なら飲むぞ」
ダリオが即座に言った。
「まだ夕方ですよ」
「何か問題があるのか?」
「ありませんね」
「決まりだ」
エレナも受付からこちらへ歩いてくる。
「ルーカスさんは?」
「今夜はギルドで休ませるそうです。傷も安定しています」
「じゃあ、エレナさんも来ます?」
「もちろんです。今回一番働いたのは私なんですから、皆さんに一杯ずつ奢ってもらいます」
「どういう計算だ」
ダリオが抗議する。
「治癒術師の計算です」
「なら仕方ないな」
ガレスが笑った。
*
四人がギルドを出る。
夕暮れの王都には、食事時の匂いが漂い始めていた。
北の森で起きていることを、この街のほとんどの人間はまだ知らない。
だが、それを知らせる情報はもう王宮へ向かっている。
明日には何かが動き始めるだろう。
兵士が北へ送られるかもしれない。
街道が封鎖されるかもしれない。
あるいは、魔族との戦争が始まる可能性さえある。
それでも今夜くらいは、酒を飲んでもいい。
数日間同じ森を歩き、同じ危険を見て、全員で帰ってきた。
それは祝う理由として十分だった。
エレナが恵斗の隣を歩いている。
少し前までは偶然そうなっただけに見えた距離だったが、今は彼女自身がそこを選んでいた。
第十三話 了