殉職したので異世界へ   作:xzxz010

14 / 15
第十四話 帰還の夜

 酒場を選んだのはダリオだった。

 

 冒険者ギルドから二本ほど通りを外れた場所にあり、表通りの店ほど大きくはないが、扉を開けた途端に焼いた肉と香草、それに麦酒の匂いが押し寄せてくる。夕食時だけあって店内はほとんど埋まり、長卓では仕事帰りらしい職人たちが声を張り上げ、壁際では旅装を解いた商人が葡萄酒を傾けていた。

 

「ここなら飯もまともだ。酒を水で薄めるような真似もしない」

 

 ダリオが胸を張る。

 

「ずいぶん具体的な評価ですね」

 

「王都で安酒を飲むなら、店選びは命に関わる」

 

「そこまでですか」

 

「腹を壊した翌日に護衛依頼を受けてみろ。魔物より自分の腹が怖くなるぞ」

 

 恵斗はそれ以上聞かなかった。

 

 どうやら経験談らしい。

 

     *

 

 四人は奥の丸卓へ座った。

 

 最初に運ばれてきたのは木製のジョッキだった。泡の少ない褐色のエールを一口飲み、恵斗は王都へ来たばかりの夜に、初めてこの世界の酒を口にした時のことを思い出した。

 

 あの時は、ただぬるいと思った。

 

 今もぬるい。

 

 それでも、森から帰ってきた夜に飲む酒としては悪くなかった。

 

「乾杯くらいするか」

 

 ガレスがジョッキを持ち上げる。

 

「何に?」

 

 ダリオが尋ねる。

 

「全員生きて帰った。それで十分だろ」

 

 誰も異論を挟まなかった。

 

 四つの木製ジョッキが中央で軽く触れ合った。

 

     *

 

 酒が二杯目へ入る頃には、話題から北の森が消えていた。

 

 代わりに始まったのは、ダリオが若い頃に護衛した商人の話だった。盗賊に襲われた際、荷物を捨てれば逃げ切れる状況だったにもかかわらず、商人が最後まで葡萄酒の樽だけは守ろうとしたらしい。

 

「結局どうなったんです?」

 

 エレナが尋ねる。

 

「樽を転がして盗賊にぶつけた」

 

「嘘でしょう」

 

「本当だ。坂道だったからな。三人まとめて吹っ飛んだ」

 

 ガレスが鼻で笑った。

 

「お前、前に聞いた時は二人だったぞ」

 

「一人増えたんだよ」

 

「何年越しに?」

 

「酒場で語られる話ってのは育つものなんだ」

 

「それは育ったんじゃなくて盛ったと言うんですよ」

 

 エレナが呆れたように言う。

 

 恵斗はジョッキを傾けながら笑った。

 

 こういう時間は嫌いではない。

 

     *

 

 食事が運ばれてきた。

 

 豚肉らしい厚切りの肉を炙り、豆と玉葱を煮込んだものが添えられている。黒パンは相変わらず硬かったが、肉から落ちた脂を吸わせれば十分に食べられた。

 

 恵斗はかなりの速度で皿を空けていた。

 

 エレナが途中で気づく。

 

「よく食べますね」

 

「今日は結構歩きましたから」

 

「昨日もその前も歩いていましたよ」

 

「だから今日も腹が減るんでしょう」

 

「なるほど」

 

 彼女は自分の皿から肉を一切れ取ると、恵斗の皿へ置いた。

 

「食べきれないので、これもどうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 それだけだった。

 

 ダリオもガレスも何も言わない。

 

 恵斗も余計な意味を探さず、肉を食べた。

 

     *

 

 ただ、エレナ自身には分かっていた。

 

 自分が恵斗の隣へ座ったことも、食べきれない肉を最初から彼へ渡すつもりだったことも、偶然ではない。

 

 理由を一つに決めるのは難しかった。

 

 数日間行動を共にしたことで親しくなった。それは確かだった。

 

 森の中で自分たちより遥か遠くを見通し、見たこともない武器を扱い、危険が迫れば誰より先に気づく。負傷者が出れば置き去りにせず、それでいて敵を前にした時には必要以上の情けを挟まない。

 

 その一つ一つを、エレナは間近で見ていた。

 

 そして黒牙獣が突進してきた夜から、ときおり思い出してしまう光景がある。

 

 暗闇の中で銃を構えていた恵斗の横顔だった。

 

 そこへ自分の意識が向く理由については、まだ考えないことにした。

 

     *

 

 三杯目を注文したのはガレスだけだった。

 

 ダリオは翌日の仕事を理由に二杯で止め、エレナも同じだった。

 

「新田はどうする?」

 

「俺もここまでにします。明日、王宮から呼ばれるかもしれないので」

 

「真面目だな」

 

「二日酔いで王様に会いたくないだけですよ」

 

 ダリオが笑う。

 

「それは確かに嫌だ」

 

 ガレスは三杯目を飲みながら、少しだけ表情を変えた。

 

「明日から忙しくなるぞ」

 

 今度は誰も笑わなかった。

 

 北の話をしない時間は、そこで終わった。

 

     *

 

「王国は軍を出すと思うか?」

 

 ダリオが声を落として尋ねる。

 

 恵斗はすぐには答えなかった。

 

「俺には王国側の基準が分かりません。ただ、確認のための部隊は出すと思います。あの人数を放置するのは難しいでしょう」

 

「戦争になるかね」

 

 ガレスが言う。

 

「それは相手の目的次第でしょう。こちらへ攻めてくるなら話は早い。でも、本当に逃げてきているだけなら、いきなり戦えば状況を悪くする可能性があります」

 

「何百人も武器を持って国境を越えてきてるんですよね」

 

 エレナが言った。

 

「王国側からすれば、逃げてきただけと言われても安心はできないでしょう」

 

「そうですね」

 

 恵斗は頷いた。

 

 難民と軍隊は、本来別のものだ。

 

 しかし武装した兵士と民間人が同じ集団に混在し、その全体が国境へ向かっているなら、受け入れる側から見た境界は曖昧になる。

 

 そして、曖昧なものほど戦場では事故を起こす。

 

     *

 

「新田」

 

 ガレスがジョッキを置いた。

 

「あんたならどうする?」

 

「俺が王様なら?」

 

「ああ」

 

「まず見ます」

 

「また偵察か」

 

「ええ。ただし今度は、もっと広く」

 

 恵斗は卓上へ指を置き、見えない地図を描くように動かした。

 

「俺たちが確認したのは一地点だけです。魔族がどの範囲に分布しているのか、どの道を使って南下しているのか、先頭と最後尾がどこにあるのかも分からない。それに、彼らが逃げているという話が本当なら、さらに北側に別の何かがいる」

 

「それを確認してから軍を動かす?」

 

「少なくとも、何も知らないまま軍隊同士を近づけるよりはいいでしょう」

 

 ガレスはしばらく考えてから頷いた。

 

「俺は猟師でよかったよ」

 

「俺も王様じゃなくてよかったです」

 

 今度はダリオまで頷いた。

 

     *

 

 店を出た時には、すでに夜になっていた。

 

 通りには店先のランタンが並び、昼間とは違う王都の顔が現れている。酒場から歌声が漏れ、路地の入口では酔客が友人に肩を貸されていた。

 

「俺はこっちだ」

 

 ガレスが手を上げる。

 

「明日はギルドへ顔を出す。何かあったらそこで会える」

 

「俺も朝から仕事だ」

 

 ダリオも別方向を指した。

 

「次は魔族の軍隊がいない依頼にしてくれ」

 

「依頼を選んだのはギルドでしょう」

 

「ならギルドに言っといてくれ」

 

「覚えていたら」

 

 それぞれ短く別れを告げ、二人は夜の通りへ消えていった。

 

     *

 

 残ったのは恵斗とエレナだった。

 

「エレナさんはどちらへ?」

 

「宿を取っています。新田さんは?」

 

「俺もです。たぶん途中まで同じ方向ですね」

 

 二人で歩き出す。

 

 四人でいた時には気にならなかった沈黙が、二人になると少しだけ性質を変えた。

 

 気まずいわけではない。

 

 むしろ、話題を探さなくても歩ける程度には互いに慣れている。

 

 しばらく進んだところで、エレナが口を開いた。

 

「明日、王宮へ行くんですよね」

 

「呼ばれれば」

 

「怖くありませんか」

 

「王様が?」

 

「王様もそうですけど、これから起きることが」

 

 恵斗は歩調を変えなかった。

 

     *

 

「怖いですよ」

 

 エレナが横を見る。

 

「意外そうな顔をしないでください」

 

「していません」

 

「今しましたよ」

 

 少し間を置いて、彼女は笑った。

 

「でも、安心しました」

 

「何がです?」

 

「怖いと思うことがあるんだなって」

 

 恵斗は前を向いたまま答えた。

 

「怖がらない人間が危ない場所へ行ったら、たぶん早死にします。怖いから確認するし、準備するし、逃げ道も考える。必要なら戦わないことも選べます」

 

「それでも戦う時はあるんですね」

 

「あります」

 

「どういう時ですか」

 

 恵斗は少し考えた。

 

「戦わない方がもっと悪くなる時でしょうね」

 

 エレナはそれ以上尋ねなかった。

 

     *

 

 彼女の宿が見えてきた。

 

 三階建ての石造りで、一階には食堂があるらしい。まだ灯りが点いており、窓越しに客の姿が見える。

 

「ここです」

 

「じゃあ、俺はもう少し先なので」

 

「新田さん」

 

 呼び止められる。

 

 振り返ると、エレナは宿の入口ではなく恵斗を見ていた。

 

「今回の依頼、ありがとうございました」

 

「こちらこそ。治療できる人が一緒で助かりました」

 

「そういう意味ではなくて……」

 

 言葉が途中で止まった。

 

 エレナ自身、何を言おうとしたのか整理できていないようだった。

 

 やがて小さく息を吐く。

 

「いえ。今日はもう寝ます」

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみなさい」

 

 彼女は宿へ入った。

 

     *

 

 恵斗は一人で歩き出した。

 

 数歩進んだところで、背後の扉が開く音がした。

 

「新田さん」

 

 また呼ばれた。

 

 今度こそ恵斗は足を止める。

 

 エレナが宿から出てきていた。

 

「どうしました?」

 

「少しだけ、付き合ってもらえませんか」

 

「何に?」

 

「もう一杯だけ飲みたいんです」

 

 先ほど自分から二杯で止めた人間の言葉だった。

 

 恵斗は宿の一階を見る。

 

「ここで?」

 

「ええ。まだ食堂が開いていますから」

 

 断る理由はなかった。

 

「いいですよ」

 

 二人は宿へ戻った。

 

     *

 

 食堂は酒場よりずっと静かだった。

 

 宿泊客らしい数人がいるだけで、二人は窓際の小さな卓へ向かい合って座った。

 

 エレナは葡萄酒を頼んだ。

 

 恵斗は水にした。

 

「飲まないんですか」

 

「さっき止めたので」

 

「私だけ飲ませるんですね」

 

「飲みたいと言ったのはエレナさんでしょう」

 

「それはそうですけど」

 

 葡萄酒が届く。

 

 エレナは一口飲み、しばらく杯を見ていた。

 

 酒が欲しかったわけではない。

 

 恵斗にも、それくらいは分かった。

 

     *

 

「森にいた時」

 

 エレナが言った。

 

「何度か、あなたが怖かったんです」

 

 恵斗は黙って続きを待った。

 

「私たちに対してではありません。黒牙獣を撃った時も、魔族を見つけた時も、普段と同じ人なのに、何かが違って見えました」

 

 杯の縁を指でなぞる。

 

「でも、不思議なんです。怖いと思ったのに、あなたが近くにいると安心した」

 

 恵斗は水を一口飲んだ。

 

「矛盾してますね」

 

「そうなんです」

 

 エレナは笑った。

 

「だから困っています」

 

 その笑みには、酒だけでは説明できない熱が混じっていた。

 

     *

 

 恵斗はようやく、ここ数日の彼女の視線が何を意味していたのかを理解し始めた。

 

 恋愛感情だと決めつけるほどのものではない。

 

 むしろ、もっと単純で身体的なものに近い。

 

 危険な場所から帰った直後には、人間の感覚が普段と同じとは限らない。緊張が解けても身体だけが興奮を引きずり、酒がそれを緩めれば、普段なら抑えている欲求まで表へ出てくる。

 

 恵斗にも覚えがないわけではなかった。

 

 エレナが杯を置く。

 

「変なことを言いましたね」

 

「そうでもないですよ」

 

「本当に?」

 

「少なくとも、意味は分かります」

 

 今度はエレナが黙った。

 

     *

 

 窓の外を人が通り過ぎた。

 

 食堂の主人が遠くで食器を片づけている。

 

 エレナは一度そちらへ視線を向け、それから恵斗へ戻した。

 

「私、明日は昼まで予定がありません」

 

 その言葉は先ほどまでより明確だった。

 

 恵斗も意味を取り違えなかった。

 

「俺は王宮から呼ばれる可能性があります」

 

「朝から?」

 

「それは分かりません」

 

「そうですか」

 

 エレナは葡萄酒を飲み切った。

 

 立ち上がる。

 

「では、部屋へ戻ります」

 

 数歩進んでから振り返った。

 

「一人で戻るとは言っていません」

 

 恵斗は彼女を見た。

 

 酒に酔って判断できない状態ではない。言葉も足取りもはっきりしている。

 

「後悔しませんか」

 

 エレナは少しだけ考えた。

 

「明日の私に聞いてください」

 

「それは責任重大だな」

 

「嫌なら、ここでおやすみなさいと言ってください」

 

 恵斗は椅子から立った。

 

「それなら、一緒に行きましょう」

 

 エレナは何も言わなかった。

 

 ただ、今度は先に階段へ向かった。

 

     *

 

 二階へ上がる。

 

 廊下には小さなランタンが一つだけ灯っていた。

 

 エレナが自分の部屋の鍵を開ける。

 

 扉を開いたところで、もう一度恵斗を見た。

 

 数秒。

 

 それでも、どちらも言葉を急がなかった。

 

 恋人になる約束はない。

 

 明日から何かを始めるという話もしていない。

 

 数日間の危険な仕事を終え、互いに生きて帰り、今夜は相手を求めている。

 

 それだけだった。

 

 エレナが恵斗の手を取った。

 

 部屋へ引き入れる。

 

 扉が閉じた。

 

     *

 

 翌朝。

 

 窓から差し込んだ光で、恵斗は目を覚ました。

 

 知らない天井だった。

 

 数秒遅れて昨夜の記憶が戻る。

 

 隣ではエレナがまだ眠っていた。

 

 普段きちんと整えられている髪はすっかり乱れ、毛布を肩まで引き上げている。

 

 恵斗は身体を起こし、窓の外を見る。

 

 王都はもう動き始めていた。

 

 荷車が通り、店の戸が開き、遠くから鐘が聞こえる。

 

 世界は昨日と同じように朝を迎えている。

 

 北に何がいるのかも知らずに。

 

     *

 

「……何時ですか」

 

 背後から声がした。

 

「まだ朝です」

 

「それは見れば分かります」

 

 エレナが毛布から顔だけを出す。

 

 昨夜より少しだけ気まずそうだったが、後悔しているようには見えなかった。

 

「昨日の私、変なこと言ってませんでした?」

 

「いくつか」

 

「忘れてください」

 

「内容によります」

 

「全部です」

 

 恵斗は笑った。

 

 エレナも枕へ顔を伏せながら笑う。

 

 それ以上、昨夜について確認する必要はなかった。

 

     *

 

 しばらくして、恵斗は身支度を整えた。

 

 エレナも起き上がり、乱れた髪を手で直している。

 

「これからどうします?」

 

 恵斗が尋ねる。

 

「私はギルドへ行きます。ルーカスさんの様子も見たいので」

 

「俺も一度寄ります」

 

「では、朝食を食べてから一緒に行きましょう」

 

「分かりました」

 

 あまりにも普通だった。

 

 それでよかった。

 

 昨夜を理由に恋人のように振る舞う必要もなければ、何もなかったように他人へ戻る必要もない。

 

 二人の距離は少し変わった。

 

 名前をつけるほどではない。

 

 エレナは鏡代わりの磨かれた金属板を見ながら髪を整え、ふと恵斗へ視線を向けた。

 

「一つだけ訂正します」

 

「何を?」

 

「昨夜のこと、後悔していません」

 

 恵斗は頷いた。

 

「俺もです」

 

 それだけで話は終わった。

 

     *

 

 朝食を終え、二人が宿を出たところで王都の空気が変わった。

 

 城の方角から鐘が鳴っている。

 

 一度ではない。

 

 間隔を置いて、何度も続く。

 

 通りを歩いていた人々が足を止めた。

 

 店主が外へ出る。

 

 衛兵が走っていく。

 

 エレナの表情から眠気が消えた。

 

「この鐘は……」

 

「知ってるんですか」

 

「招集です。王都の兵士を集める鐘です」

 

 恵斗は城を見る。

 

 昨日の報告が動き始めた。

 

 その時、通りの向こうから騎士が一人、こちらへ駆けてきた。

 

 恵斗を見つけると、そのまま足を速める。

 

「新田恵斗殿!」

 

 周囲の視線が一斉に集まった。

 

 騎士は恵斗の前で止まり、息を整える。

 

「国王陛下がお呼びです。ただちに王宮へお越しください」

 

 恵斗はエレナを見る。

 

 彼女は小さく頷いた。

 

「行ってください。ギルドには私から伝えます」

 

「お願いします」

 

 昨夜までの時間は、そこで終わった。

 

 恵斗は騎士とともに王宮へ向かった。

 

第十四話 了

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。