酒場を選んだのはダリオだった。
冒険者ギルドから二本ほど通りを外れた場所にあり、表通りの店ほど大きくはないが、扉を開けた途端に焼いた肉と香草、それに麦酒の匂いが押し寄せてくる。夕食時だけあって店内はほとんど埋まり、長卓では仕事帰りらしい職人たちが声を張り上げ、壁際では旅装を解いた商人が葡萄酒を傾けていた。
「ここなら飯もまともだ。酒を水で薄めるような真似もしない」
ダリオが胸を張る。
「ずいぶん具体的な評価ですね」
「王都で安酒を飲むなら、店選びは命に関わる」
「そこまでですか」
「腹を壊した翌日に護衛依頼を受けてみろ。魔物より自分の腹が怖くなるぞ」
恵斗はそれ以上聞かなかった。
どうやら経験談らしい。
*
四人は奥の丸卓へ座った。
最初に運ばれてきたのは木製のジョッキだった。泡の少ない褐色のエールを一口飲み、恵斗は王都へ来たばかりの夜に、初めてこの世界の酒を口にした時のことを思い出した。
あの時は、ただぬるいと思った。
今もぬるい。
それでも、森から帰ってきた夜に飲む酒としては悪くなかった。
「乾杯くらいするか」
ガレスがジョッキを持ち上げる。
「何に?」
ダリオが尋ねる。
「全員生きて帰った。それで十分だろ」
誰も異論を挟まなかった。
四つの木製ジョッキが中央で軽く触れ合った。
*
酒が二杯目へ入る頃には、話題から北の森が消えていた。
代わりに始まったのは、ダリオが若い頃に護衛した商人の話だった。盗賊に襲われた際、荷物を捨てれば逃げ切れる状況だったにもかかわらず、商人が最後まで葡萄酒の樽だけは守ろうとしたらしい。
「結局どうなったんです?」
エレナが尋ねる。
「樽を転がして盗賊にぶつけた」
「嘘でしょう」
「本当だ。坂道だったからな。三人まとめて吹っ飛んだ」
ガレスが鼻で笑った。
「お前、前に聞いた時は二人だったぞ」
「一人増えたんだよ」
「何年越しに?」
「酒場で語られる話ってのは育つものなんだ」
「それは育ったんじゃなくて盛ったと言うんですよ」
エレナが呆れたように言う。
恵斗はジョッキを傾けながら笑った。
こういう時間は嫌いではない。
*
食事が運ばれてきた。
豚肉らしい厚切りの肉を炙り、豆と玉葱を煮込んだものが添えられている。黒パンは相変わらず硬かったが、肉から落ちた脂を吸わせれば十分に食べられた。
恵斗はかなりの速度で皿を空けていた。
エレナが途中で気づく。
「よく食べますね」
「今日は結構歩きましたから」
「昨日もその前も歩いていましたよ」
「だから今日も腹が減るんでしょう」
「なるほど」
彼女は自分の皿から肉を一切れ取ると、恵斗の皿へ置いた。
「食べきれないので、これもどうぞ」
「ありがとうございます」
それだけだった。
ダリオもガレスも何も言わない。
恵斗も余計な意味を探さず、肉を食べた。
*
ただ、エレナ自身には分かっていた。
自分が恵斗の隣へ座ったことも、食べきれない肉を最初から彼へ渡すつもりだったことも、偶然ではない。
理由を一つに決めるのは難しかった。
数日間行動を共にしたことで親しくなった。それは確かだった。
森の中で自分たちより遥か遠くを見通し、見たこともない武器を扱い、危険が迫れば誰より先に気づく。負傷者が出れば置き去りにせず、それでいて敵を前にした時には必要以上の情けを挟まない。
その一つ一つを、エレナは間近で見ていた。
そして黒牙獣が突進してきた夜から、ときおり思い出してしまう光景がある。
暗闇の中で銃を構えていた恵斗の横顔だった。
そこへ自分の意識が向く理由については、まだ考えないことにした。
*
三杯目を注文したのはガレスだけだった。
ダリオは翌日の仕事を理由に二杯で止め、エレナも同じだった。
「新田はどうする?」
「俺もここまでにします。明日、王宮から呼ばれるかもしれないので」
「真面目だな」
「二日酔いで王様に会いたくないだけですよ」
ダリオが笑う。
「それは確かに嫌だ」
ガレスは三杯目を飲みながら、少しだけ表情を変えた。
「明日から忙しくなるぞ」
今度は誰も笑わなかった。
北の話をしない時間は、そこで終わった。
*
「王国は軍を出すと思うか?」
ダリオが声を落として尋ねる。
恵斗はすぐには答えなかった。
「俺には王国側の基準が分かりません。ただ、確認のための部隊は出すと思います。あの人数を放置するのは難しいでしょう」
「戦争になるかね」
ガレスが言う。
「それは相手の目的次第でしょう。こちらへ攻めてくるなら話は早い。でも、本当に逃げてきているだけなら、いきなり戦えば状況を悪くする可能性があります」
「何百人も武器を持って国境を越えてきてるんですよね」
エレナが言った。
「王国側からすれば、逃げてきただけと言われても安心はできないでしょう」
「そうですね」
恵斗は頷いた。
難民と軍隊は、本来別のものだ。
しかし武装した兵士と民間人が同じ集団に混在し、その全体が国境へ向かっているなら、受け入れる側から見た境界は曖昧になる。
そして、曖昧なものほど戦場では事故を起こす。
*
「新田」
ガレスがジョッキを置いた。
「あんたならどうする?」
「俺が王様なら?」
「ああ」
「まず見ます」
「また偵察か」
「ええ。ただし今度は、もっと広く」
恵斗は卓上へ指を置き、見えない地図を描くように動かした。
「俺たちが確認したのは一地点だけです。魔族がどの範囲に分布しているのか、どの道を使って南下しているのか、先頭と最後尾がどこにあるのかも分からない。それに、彼らが逃げているという話が本当なら、さらに北側に別の何かがいる」
「それを確認してから軍を動かす?」
「少なくとも、何も知らないまま軍隊同士を近づけるよりはいいでしょう」
ガレスはしばらく考えてから頷いた。
「俺は猟師でよかったよ」
「俺も王様じゃなくてよかったです」
今度はダリオまで頷いた。
*
店を出た時には、すでに夜になっていた。
通りには店先のランタンが並び、昼間とは違う王都の顔が現れている。酒場から歌声が漏れ、路地の入口では酔客が友人に肩を貸されていた。
「俺はこっちだ」
ガレスが手を上げる。
「明日はギルドへ顔を出す。何かあったらそこで会える」
「俺も朝から仕事だ」
ダリオも別方向を指した。
「次は魔族の軍隊がいない依頼にしてくれ」
「依頼を選んだのはギルドでしょう」
「ならギルドに言っといてくれ」
「覚えていたら」
それぞれ短く別れを告げ、二人は夜の通りへ消えていった。
*
残ったのは恵斗とエレナだった。
「エレナさんはどちらへ?」
「宿を取っています。新田さんは?」
「俺もです。たぶん途中まで同じ方向ですね」
二人で歩き出す。
四人でいた時には気にならなかった沈黙が、二人になると少しだけ性質を変えた。
気まずいわけではない。
むしろ、話題を探さなくても歩ける程度には互いに慣れている。
しばらく進んだところで、エレナが口を開いた。
「明日、王宮へ行くんですよね」
「呼ばれれば」
「怖くありませんか」
「王様が?」
「王様もそうですけど、これから起きることが」
恵斗は歩調を変えなかった。
*
「怖いですよ」
エレナが横を見る。
「意外そうな顔をしないでください」
「していません」
「今しましたよ」
少し間を置いて、彼女は笑った。
「でも、安心しました」
「何がです?」
「怖いと思うことがあるんだなって」
恵斗は前を向いたまま答えた。
「怖がらない人間が危ない場所へ行ったら、たぶん早死にします。怖いから確認するし、準備するし、逃げ道も考える。必要なら戦わないことも選べます」
「それでも戦う時はあるんですね」
「あります」
「どういう時ですか」
恵斗は少し考えた。
「戦わない方がもっと悪くなる時でしょうね」
エレナはそれ以上尋ねなかった。
*
彼女の宿が見えてきた。
三階建ての石造りで、一階には食堂があるらしい。まだ灯りが点いており、窓越しに客の姿が見える。
「ここです」
「じゃあ、俺はもう少し先なので」
「新田さん」
呼び止められる。
振り返ると、エレナは宿の入口ではなく恵斗を見ていた。
「今回の依頼、ありがとうございました」
「こちらこそ。治療できる人が一緒で助かりました」
「そういう意味ではなくて……」
言葉が途中で止まった。
エレナ自身、何を言おうとしたのか整理できていないようだった。
やがて小さく息を吐く。
「いえ。今日はもう寝ます」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
彼女は宿へ入った。
*
恵斗は一人で歩き出した。
数歩進んだところで、背後の扉が開く音がした。
「新田さん」
また呼ばれた。
今度こそ恵斗は足を止める。
エレナが宿から出てきていた。
「どうしました?」
「少しだけ、付き合ってもらえませんか」
「何に?」
「もう一杯だけ飲みたいんです」
先ほど自分から二杯で止めた人間の言葉だった。
恵斗は宿の一階を見る。
「ここで?」
「ええ。まだ食堂が開いていますから」
断る理由はなかった。
「いいですよ」
二人は宿へ戻った。
*
食堂は酒場よりずっと静かだった。
宿泊客らしい数人がいるだけで、二人は窓際の小さな卓へ向かい合って座った。
エレナは葡萄酒を頼んだ。
恵斗は水にした。
「飲まないんですか」
「さっき止めたので」
「私だけ飲ませるんですね」
「飲みたいと言ったのはエレナさんでしょう」
「それはそうですけど」
葡萄酒が届く。
エレナは一口飲み、しばらく杯を見ていた。
酒が欲しかったわけではない。
恵斗にも、それくらいは分かった。
*
「森にいた時」
エレナが言った。
「何度か、あなたが怖かったんです」
恵斗は黙って続きを待った。
「私たちに対してではありません。黒牙獣を撃った時も、魔族を見つけた時も、普段と同じ人なのに、何かが違って見えました」
杯の縁を指でなぞる。
「でも、不思議なんです。怖いと思ったのに、あなたが近くにいると安心した」
恵斗は水を一口飲んだ。
「矛盾してますね」
「そうなんです」
エレナは笑った。
「だから困っています」
その笑みには、酒だけでは説明できない熱が混じっていた。
*
恵斗はようやく、ここ数日の彼女の視線が何を意味していたのかを理解し始めた。
恋愛感情だと決めつけるほどのものではない。
むしろ、もっと単純で身体的なものに近い。
危険な場所から帰った直後には、人間の感覚が普段と同じとは限らない。緊張が解けても身体だけが興奮を引きずり、酒がそれを緩めれば、普段なら抑えている欲求まで表へ出てくる。
恵斗にも覚えがないわけではなかった。
エレナが杯を置く。
「変なことを言いましたね」
「そうでもないですよ」
「本当に?」
「少なくとも、意味は分かります」
今度はエレナが黙った。
*
窓の外を人が通り過ぎた。
食堂の主人が遠くで食器を片づけている。
エレナは一度そちらへ視線を向け、それから恵斗へ戻した。
「私、明日は昼まで予定がありません」
その言葉は先ほどまでより明確だった。
恵斗も意味を取り違えなかった。
「俺は王宮から呼ばれる可能性があります」
「朝から?」
「それは分かりません」
「そうですか」
エレナは葡萄酒を飲み切った。
立ち上がる。
「では、部屋へ戻ります」
数歩進んでから振り返った。
「一人で戻るとは言っていません」
恵斗は彼女を見た。
酒に酔って判断できない状態ではない。言葉も足取りもはっきりしている。
「後悔しませんか」
エレナは少しだけ考えた。
「明日の私に聞いてください」
「それは責任重大だな」
「嫌なら、ここでおやすみなさいと言ってください」
恵斗は椅子から立った。
「それなら、一緒に行きましょう」
エレナは何も言わなかった。
ただ、今度は先に階段へ向かった。
*
二階へ上がる。
廊下には小さなランタンが一つだけ灯っていた。
エレナが自分の部屋の鍵を開ける。
扉を開いたところで、もう一度恵斗を見た。
数秒。
それでも、どちらも言葉を急がなかった。
恋人になる約束はない。
明日から何かを始めるという話もしていない。
数日間の危険な仕事を終え、互いに生きて帰り、今夜は相手を求めている。
それだけだった。
エレナが恵斗の手を取った。
部屋へ引き入れる。
扉が閉じた。
*
翌朝。
窓から差し込んだ光で、恵斗は目を覚ました。
知らない天井だった。
数秒遅れて昨夜の記憶が戻る。
隣ではエレナがまだ眠っていた。
普段きちんと整えられている髪はすっかり乱れ、毛布を肩まで引き上げている。
恵斗は身体を起こし、窓の外を見る。
王都はもう動き始めていた。
荷車が通り、店の戸が開き、遠くから鐘が聞こえる。
世界は昨日と同じように朝を迎えている。
北に何がいるのかも知らずに。
*
「……何時ですか」
背後から声がした。
「まだ朝です」
「それは見れば分かります」
エレナが毛布から顔だけを出す。
昨夜より少しだけ気まずそうだったが、後悔しているようには見えなかった。
「昨日の私、変なこと言ってませんでした?」
「いくつか」
「忘れてください」
「内容によります」
「全部です」
恵斗は笑った。
エレナも枕へ顔を伏せながら笑う。
それ以上、昨夜について確認する必要はなかった。
*
しばらくして、恵斗は身支度を整えた。
エレナも起き上がり、乱れた髪を手で直している。
「これからどうします?」
恵斗が尋ねる。
「私はギルドへ行きます。ルーカスさんの様子も見たいので」
「俺も一度寄ります」
「では、朝食を食べてから一緒に行きましょう」
「分かりました」
あまりにも普通だった。
それでよかった。
昨夜を理由に恋人のように振る舞う必要もなければ、何もなかったように他人へ戻る必要もない。
二人の距離は少し変わった。
名前をつけるほどではない。
エレナは鏡代わりの磨かれた金属板を見ながら髪を整え、ふと恵斗へ視線を向けた。
「一つだけ訂正します」
「何を?」
「昨夜のこと、後悔していません」
恵斗は頷いた。
「俺もです」
それだけで話は終わった。
*
朝食を終え、二人が宿を出たところで王都の空気が変わった。
城の方角から鐘が鳴っている。
一度ではない。
間隔を置いて、何度も続く。
通りを歩いていた人々が足を止めた。
店主が外へ出る。
衛兵が走っていく。
エレナの表情から眠気が消えた。
「この鐘は……」
「知ってるんですか」
「招集です。王都の兵士を集める鐘です」
恵斗は城を見る。
昨日の報告が動き始めた。
その時、通りの向こうから騎士が一人、こちらへ駆けてきた。
恵斗を見つけると、そのまま足を速める。
「新田恵斗殿!」
周囲の視線が一斉に集まった。
騎士は恵斗の前で止まり、息を整える。
「国王陛下がお呼びです。ただちに王宮へお越しください」
恵斗はエレナを見る。
彼女は小さく頷いた。
「行ってください。ギルドには私から伝えます」
「お願いします」
昨夜までの時間は、そこで終わった。
恵斗は騎士とともに王宮へ向かった。
第十四話 了