殉職したので異世界へ   作:xzxz010

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第四話修正しました。


第四話 最初の依頼

 王都で迎えた最初の朝、新田恵斗は宿屋の薄い寝台の上で目を覚ますと、しばらく天井を眺めながら、自分が本当に異世界へ来てしまったという事実を改めて噛み締めていた。

 

 窓の外から聞こえてくるのは車の走行音でもスマートフォンの通知音でもなく、石畳を踏む馬蹄と荷車の車輪、それに朝市を準備する商人たちの声だった。昨日までなら現実感の欠片もない光景だったはずだが、一晩眠っただけで人間というものは多少なりとも順応するらしく、今の恵斗が最初に考えたのは元の世界へ帰る方法でも女神の言葉でもなく、今日からどうやって金を稼ぐかという極めて現実的な問題だった。

 

 昨夜飲んだぬるいエールの味を思い出しながら身体を起こし、王宮から当座の生活費として渡された革袋を確認する。中身は銀貨が十数枚と銅貨がいくらか。物価については昨日聞いたばかりでまだ感覚が掴めていないものの、永久に暮らせる金額でないことだけは間違いない。

 

「異世界転移して翌朝から就活って、夢がねえなあ……」

 

 誰もいない部屋でぼやいてから、恵斗は顔を洗うため階下へ降りた。

 

     *

 

 王宮を出る際、役人から紹介された仕事はいくつかあったが、その中で恵斗が最も興味を持ったのが冒険者だった。

 

 冒険者ギルドという組織が魔物の討伐、商人や旅人の護衛、危険地域の調査、薬草や素材の採取などを仲介しており、身元を保証する者がいない旅人でも登録できるという。能力《オペレーター》によって装備を召喚できることが分かった以上、少なくとも自分の職歴を活かしやすい仕事であることは確かだった。

 

 王都の冒険者ギルドは中央市場から少し外れた場所にあり、三階建ての石造建築には朝から多くの人間が出入りしていた。革鎧を着込んだ剣士、長弓を背負った男、槍を持った女、ローブ姿で杖を携えた者までいる。昨日までは映画かゲームでしか見たことのなかった人間たちが、今日は朝飯を食べに行く会社員のような顔で往来しているのだから、眺めているだけでも飽きなかった。

 

「こういうの見ると、やっと異世界って感じするな」

 

 恵斗は少しだけ笑い、重い木製扉を押し開けた。

 

     *

 

 登録そのものは驚くほど簡単だった。

 

 問題が起きたのは、受付嬢から書類を渡された直後である。

 

「こちらへお名前と出身地を――」

 

「すみません。文字が読めません」

 

「……え?」

 

「喋れるんですけど、こっちの文字は全然」

 

 自動翻訳らしい女神の恩恵は会話には働くものの、文字まで読めるようにはしてくれなかった。受付嬢は一瞬困惑したものの、旅人や辺境出身者では読み書きのできない者も珍しくないらしく、すぐに代筆用の紙を取り出した。

 

「では、お名前をお願いします」

 

「新田恵斗です。新田が姓で、恵斗が名前」

 

「姓をお持ちなのですね」

 

「一応、俺のいたところじゃ普通でした」

 

「出身地は?」

 

 ここで少し困った。

 

「……日本」

 

「ニホン?」

 

「たぶん説明しても分からないと思います」

 

 受付嬢は首を傾げたが、それ以上深く尋ねることなく「遠方」と記載した。昨日、王宮で散々説明したことを、今度は市井の人間へ一から話して回るつもりは恵斗にもない。

 

 登録料を支払うと、小さな金属製の冒険者証を渡された。最下位等級から始まり、実績を重ねることで受注可能な依頼の範囲が広がるらしい。

 

「新人の方には採取や街中の仕事をおすすめしています。討伐依頼を受ける場合は、できるだけ経験者と組んでください」

 

「討伐も最初から受けられるんですね」

 

「低級魔物に限りますが。ただ、装備をお持ちでないようですので……」

 

 受付嬢の視線が恵斗の腰へ向かう。

 

 今の彼は昨日と同じ旅装で、剣も弓も持っていない。

 

「必要になったら出せます」

 

「出す?」

 

「ちょっと変わった能力がありまして」

 

「収納魔法のようなものですか?」

 

「似たようなものだと思ってください」

 

 説明するほど話が長くなるので、恵斗は笑って誤魔化した。

 

     *

 

 依頼板の文字を読めないため、結局は受付嬢に初心者向けの依頼を読み上げてもらうことになった。

 

 薬草採取、農家の害獣駆除、倉庫整理、街道沿いの巡回。最後に読み上げられたのが、王都北西にある小さな農村から寄せられたゴブリン討伐依頼だった。

 

「三日前から村の周辺で目撃が増えており、昨日には家畜小屋が襲われています。村から派遣された方のお話では、少なくとも十数体の群れが確認されたそうです」

 

「人的被害は?」

 

「今のところありません。ただ、村の方々だけでは巣の場所を特定できないため、冒険者へ調査と討伐を依頼しています」

 

 恵斗は少し考えた。

 

 ゴブリン。

 

 昨日、酒場で隣り合わせた冒険者から聞いた限りでは、小柄な人型魔物で、単体なら大した脅威ではないものの、集団になると槍や弓を使って人間を襲うという。

 

 現物を見ておきたいという好奇心もあった。

 

「それ、受けられます?」

 

「可能ですが、お一人ですか?」

 

「はい」

 

「確認されている数が多いため、できれば他の冒険者と――」

 

「危ないと思ったら帰ってきますよ。まず様子を見ます」

 

 実際、そのつもりだった。

 

 この世界の生物に5.56mm弾がどの程度通用するのかさえ、まだ分かっていない。ゲームの知識だけで「ゴブリンだから弱い」と決めつけるほど恵斗も楽天的ではなかった。

 

 受付嬢はなおも不安そうだったが、単独受注そのものを禁じる規則はないらしく、最終的には依頼票へ受付印を押した。

 

     *

 

 村までは徒歩で半日ほどだった。

 

 王都の城壁が見えなくなったところで街道を外れ、周囲に人影がないことを確かめた恵斗は《オペレーター》を発動した。陸自迷彩のコンバットシャツを皮切りに、プレートキャリア、ベルト、TANカラーのブーツが順番に身体へ現れ、腰のSafariland製ホルスターにはSIG P320、頭部にはFASTヘルメットとWANGLE、耳にはCOMTAC VIIが収まる。

 

 最後にHK416A5を召喚すると、昨日まで王都を歩いていた旅人の姿は完全に消えた。

 

 EOTechと三倍マグニファイア、M600系ウェポンライト、DBAL-A3、SureFire製サプレッサーを備えた小銃を身体の前へ吊り、装備同士の干渉がないことを確認する。慣れ親しんだ重量が身体へ戻ったことで、見知らぬ土地にいるにもかかわらず奇妙な安心感が生まれた。

 

「さて、仕事するか」

 

 その声から、酒場でぬるいエールに文句を言っていた男の気配が少しだけ薄れた。

 

     *

 

 昼過ぎに辿り着いた村は、王都の巨大な城壁を見た後では驚くほど小さかった。

 

 木柵に囲まれた家屋が三十軒ほどあり、その外側には畑と牧草地が広がっている。入口で事情を説明すると、恵斗はすぐに村長の家へ案内された。

 

「冒険者ギルドから来ました。新田恵斗です」

 

「一人……ですか?」

 

 白髪の村長が露骨に不安そうな顔をした。

 

「とりあえず調査からです。危険度が高すぎるなら、王都へ戻って増援を頼みます」

 

「そうですか……」

 

 その説明で多少は安心したらしい。

 

 村長によれば、最初に家畜が消え始めたのは五日ほど前だった。夜になると森の近くでゴブリンらしい影が目撃され、二日前には羊が三頭、昨夜には鶏小屋が襲われたという。

 

「村の人間が追い払った?」

 

「男衆が何人かで追いました。しかし、森へ入ったところで矢を射られまして……幸い怪我人はいませんでしたが、それ以上は追えませんでした」

 

「相手は弓を使うわけか」

 

「はい」

 

 恵斗は頷きながら頭の中へ情報を入れていく。

 

 今のところ、昨夜聞いた話から大きく外れるものはない。

 

「最後に見た場所、案内してもらえます?」

 

「もちろんです」

 

 村長が立ち上がろうとした、その時だった。

 

 家の外から怒鳴り声が聞こえた。

 

     *

 

「村長!」

 

 扉が勢いよく開き、若い男が転がり込むように入ってきた。

 

「森へ行った連中が戻りました! でも、リナが……!」

 

 村長の顔色が変わる。

 

「何があった!」

 

「ゴブリンです! 薪を拾っていたところを襲われて、みんな逃げたんですが、リナだけ捕まったって!」

 

 恵斗は椅子から立ち上がった。

 

「いつ?」

 

「ついさっきです!」

 

「場所は分かる?」

 

「北の森です。沢の近くで……」

 

「案内できる人は?」

 

「俺が行きます!」

 

 男が答えた。

 

 恵斗は一度だけ頷くと、そのまま外へ出た。

 

 状況が変わった。

 

 依頼はもはや家畜を襲う魔物の調査ではない。人間一名が敵対的な集団に拘束され、森の中へ連れ去られている。

 

 それが何を意味するのかは、世界が変わっても同じだった。

 

「女の子は何歳?」

 

「十五です!」

 

「ゴブリンは何匹いた?」

 

「五、六匹……もっといたかもしれません。突然出てきたから……!」

 

「武器は?」

 

「槍と弓です!」

 

 恵斗は歩きながら質問を続け、必要な情報だけを拾っていった。

 

     *

 

 村の北端で、襲撃から逃げ帰った三人と合流した。

 

 いずれも十代半ばから後半ほどの若者で、一人は転倒したらしく膝から血を流している。彼らの話を総合すると、薪を集めていたところへ複数方向からゴブリンが現れ、逃げ遅れたリナという少女が捕まったらしい。

 

「殺されてはいないんだな?」

 

「俺が最後に見た時は生きてました! 二匹が腕を掴んで、森の奥へ引っ張って……!」

 

「分かった」

 

「助けられますか?」

 

 恵斗は一瞬だけ男を見た。

 

「まだ生きてるなら、そのために行く」

 

 保証はしなかった。

 

 救出できると言い切れる情報など、今は何もない。

 

「案内は森の入口まででいい。そこから先は俺一人で行く」

 

「でも――」

 

「相手は弓を持ってるんだろ? 俺が連れて帰らなきゃいけない人数を増やさないでくれ」

 

 言い方は柔らかかったが、拒否を許す調子ではなかった。

 

     *

 

 森へ入って十分ほどで痕跡を見つけた。

 

 湿った地面には複数の小さな足跡が残り、その間に人間の靴らしい跡が混じっている。ところどころで草が大きく倒れていることから、少女は自分から歩いているのではなく、抵抗しながら引きずられているらしい。

 

 恵斗は速度を上げすぎなかった。

 

 追いつくことだけを考えて前へ出れば、こちらが先に発見される。相手の能力も地形も分からない以上、必要なのは速さと慎重さの両立だった。

 

 偵察隊で身につけた痕跡追跡の経験を使い、踏み折られた小枝や泥の乱れを拾いながら森を進む。途中からゴブリンの足跡はさらに増え、少なくとも最初に少女を襲った集団以外の個体が合流していることが分かった。

 

「思ったよりいるな……」

 

 声は小さい。

 

 COMTAC VIIを通して周囲の音を拾いながら進み、やがて恵斗は前方から聞こえた甲高い声に足を止めた。

 

     *

 

 木々の向こう、およそ百メートル先を二体のゴブリンが歩いていた。

 

 初めて目にするその姿は、恵斗が「ゴブリン」という言葉から想像していたファンタジー世界の怪物と驚くほどよく似ており、緑褐色の皮膚、小柄な身体、尖った耳という外見には場違いなほどの感慨さえ覚えた。しかし、初めて見る異世界の生物に対する好奇心と、武装した対象を前にした戦闘員としての判断は別物だった。

 

 一体は粗末な革防具の上から短弓を背負い、もう一体は石突きの付いた槍を持っている。二体ともこちらの存在には気づいておらず、進行方向も少女が連れ去られた方角と一致していた。

 

 恵斗は木の幹へ身体の一部を預けながらHK416A5を肩へ引き寄せ、三倍マグニファイアを光軸上へ倒した。倍率の上がった視界でもう一度二体を観察してみても、革防具以外に目立った防護装備はなく、魔法を使う素振りも見られない。何より、ここで発砲すれば銃声によって少女を拘束している本隊へこちらの存在を知らせる可能性があった。

 

 今は撃たない。

 

 二体が木々の奥へ消えるまで待ち、恵斗は距離を空けて追跡を再開した。

 

     *

 

 それから三十分ほど進んだところで、森の地形が変わった。

 

 緩やかな斜面の下に小さな谷があり、その奥には岩壁が露出している。恵斗は姿勢を低くしたまま斜面の縁まで進むと、茂みの陰から双眼鏡を召喚して谷を観察した。

 

 そこにあったのは、単なる野営地ではなかった。

 

 粗末ながら木柵が組まれ、その内側には枝と泥で作られた小屋が十棟以上並んでいる。焚き火の周囲を歩くゴブリンだけでも二十体近く確認でき、さらに岩壁には洞窟らしい開口部があり、そこからも何体かが出入りしていた。

 

 ギルドが把握していた「十数体」という数字は、明らかに少ない。

 

 恵斗は観察を続けた。

 

 武装した個体だけではない。小柄な個体や、武器を持たずに食料らしいものを運んでいる者もいるため、単純な戦闘集団というより定住地に近い。依頼書に「ゴブリン討伐」と書かれていたからといって、目に入るものを片端から撃つ気にはなれなかった。

 

 そして、集落の中央付近へ視線を移したところで、双眼鏡の動きが止まった。

 

     *

 

 人間がいた。

 

 木製の柱に両手を縛られ、地面へ座らされている。

 

 年齢は十代半ばほど。茶色い髪に、村で何度も見たものと似た簡素な服。頬には泥が付着し、袖の一部が裂けていたが、少なくとも自力で身体を動かしていることから意識はある。

 

「リナか」

 

 恵斗は双眼鏡を僅かに動かした。

 

 少女の周囲には常時三体ほどの武装個体がおり、少し離れた焚き火の近くにも複数のゴブリンがいる。さらに洞窟入口付近には体格の大きな個体が二体いて、こちらは普通のゴブリンより明らかに装備が良かった。

 

 恵斗の頭の中で、依頼の意味が完全に変わった。

 

 これはもう単純な討伐ではない。

 

 人質がいる。

 

 ホステージレスキュー。

 

 言葉だけなら、嫌になるほど知っている。

 

 ただし、ここは訓練施設でも建物内でもなく、相手も人間ではない。敵の言語、習性、警戒方法、夜間視力、魔法の有無、そのほとんどが分からない以上、自分の知っている手順をそのまま当てはめることに意味はなかった。

 

 目的だけは変わらない。

 

 人質を生きて帰す。

 

     *

 

 恵斗は双眼鏡を下ろし、斜面の陰まで後退した。

 

 ここでMINIMIを持ち出して集落全体へ火力を浴びせるのは簡単だった。少なくとも先ほど観察した革防具を見る限り、5.56mm弾に耐えられるとは考えにくいし、射程という一点だけでも相手の槍や短弓に対して圧倒的な優位がある。

 

 しかし、人質が集落の中央にいる以上、その優位を無造作に振り回すわけにはいかない。

 

 だからといって、火力を捨てる必要もなかった。

 

「先に連れ出せばいい」

 

 恵斗はそう呟いた。

 

 リナを確保し、安全な位置まで離脱させる。その瞬間から、人質という制約は消える。

 

 問題は、どうやってそこまで近づくかだった。

 

 恵斗は空を見上げた。

 

 日没まではまだ時間がある。

 

 ならば急ぐ理由はない。

 

 この世界のゴブリンが暗闇をどの程度見通せるのかは不明だが、自分にはWANGLEがある。加えて必要ならサーマルサイトも召喚できる。少なくとも「暗くなれば全員が同じように見えなくなる」という前近代の常識に、自分まで付き合う必要はなかった。

 

     *

 

 恵斗は日没までの数時間を、集落の観察に使った。

 

 見張りの位置が変わる。

 

 武装個体が洞窟へ入り、別の個体が出てくる。

 

 少女へ水が与えられた。

 

 すぐに殺すつもりではないらしいことが分かり、恵斗は少しだけ時間的余裕を得た。

 

 やがて森へ夕闇が降り始めると、ゴブリンたちは焚き火を増やした。集落の中央は炎で照らされる一方、柵の外側には深い影が広がっていく。

 

 恵斗はFASTヘルメットへ手を伸ばし、WANGLEを眼前へ下ろした。

 

 白管の視界が立ち上がる。

 

 昼間とは異なる世界が広がった。

 

 肉眼なら足元さえ怪しくなり始めた森が、恵斗にとってはまだ十分に活動可能な空間として残っている。

 

「さて……」

 

 声は落ち着いていた。

 

 その一方で、身体の奥では別の感覚が目を覚まし始めている。

 

 王都へ召喚されてから、何もかもが未知だった。王宮の人間、魔法、冒険者、通貨、食事、そしてぬるい酒に至るまで、自分はこの世界について何一つ知らない。

 

 だが、今だけは違う。

 

 敵がいて、守るべき人間がいて、その間に危険な空間が存在する。

 

 そこをどう通り、何を見て、どこで判断するか。

 

 その世界だけは、恵斗が長い時間を費やして学んできたものだった。

 

     *

 

 心拍が僅かに上がっている。

 

 恐怖がないわけではない。むしろ、未知の敵を相手にする以上、恐怖を感じない方がおかしい。

 

 それでも恵斗は、自分の感覚が研ぎ澄まされていく過程を心地よいと感じていた。

 

 特殊作戦群で過ごした年月の中で、何度も経験した感覚だった。普段なら意識へ入り込む雑音が消え、装備の重量さえ身体の一部へ溶け込み、視界に入る地形や人影が意味を持った情報として整理されていく。

 

 自分はこれを知っている。

 

 そして、嫌いではない。

 

 人を殺すことが好きなのではなく、血を見ることを望んでいるわけでもない。ただ、自分が積み重ねてきた技能のすべてが一つの目的へ収束し、余計な迷いが消えるこの瞬間には、日常生活では決して得られない充足があった。

 

「結局、俺はこういう人間なんだろうな」

 

 小さく笑った。

 

 異世界へ来たところで、そこまで別人になれるわけではない。

 

     *

 

 日が完全に落ちるまで待ってから、恵斗は動き始めた。

 

 HK416A5にはサプレッサーが装着され、WANGLE越しの視界ではDBAL-A3の赤外線レーザーを必要に応じて使用できる。もっとも、装備が優れているからといって姿そのものが消えるわけではなく、足音も残れば、枝を踏めば相手に気づかれる。暗視装置は夜を昼へ変える魔法ではなく、暗闇の中でこちらが情報を得やすくなる道具に過ぎなかった。

 

 それでも、その差は大きい。

 

 柵の外側にいたゴブリンの見張りは、暗闇へ顔を向けながら何度も目を凝らしていた。

 

 見えていない。

 

 一方、恵斗には見えている。

 

 その単純な差だけで、夜という環境は公平ではなくなった。

 

     *

 

 恵斗は集落へ近づきながら、昼間に確認していた少女の位置を再度探した。

 

 いた。

 

 柱の根元に身体を丸めている。

 

 周囲には二体。

 

 少し離れたところにも武装個体がいる。

 

 恵斗はそこで初めて、HK416A5の銃口を明確に一体へ向けた。

 

 こちらへ背中を見せているゴブリンが槍を持ったまま少女の近くを歩いている。

 

 今撃つ必要はない。

 

 もう一体も同じだった。

 

 発見できるから撃つのではない。撃てるから撃つのでもない。

 

 今必要なのは、少女へ到達するために排除しなければならない敵だけだった。

 

 恵斗はさらに距離を詰めた。

 

     *

 

 最初の交戦は、ゴブリン側から始まった。

 

 柵の陰を通過しようとした時、横合いから一体が現れた。

 

 互いの距離は近い。

 

 ゴブリンが目を見開き、手にしていた槍を持ち上げようとする。

 

 その動きを最後まで待つ理由はなかった。

 

 恵斗はHK416A5を身体の正面へ収めながら射線を作り、少女や他の人間が背後にいないことを認識した時点で発砲した。サプレッサーを通してなお鋭い音が夜気を叩き、5.56mm弾を受けたゴブリンは槍を振るう間もなく地面へ崩れた。

 

 恵斗は倒れた相手へ視線を残さない。

 

 銃声を聞いた別の個体が焚き火の向こうで立ち上がり、短弓へ手を伸ばしている。

 

 HK416A5がそちらへ向く。

 

 発砲。

 

 弓兵は矢を番えるところまで到達しなかった。

 

     *

 

 そこで集落が動いた。

 

 甲高い叫び声が上がり、武装したゴブリンたちが一斉に立ち上がる。

 

 彼らには何が起きているのか分かっていなかった。

 

 敵の姿が見えない暗闇から、聞いたことのない鋭い音が響き、そのたび仲間が倒れていく。弓を持った個体が闇へ向けて矢を放ったものの、狙いを定められているわけではなく、矢は恵斗から大きく離れた木へ突き刺さった。

 

 対する恵斗には、敵の姿が見えていた。

 

 WANGLE越しの視界で、武器を持ってこちらを探す個体と、混乱して逃げ惑う非武装個体を見分けることができる。HK416A5の銃口は必要な相手にだけ向き、照準が重なれば発砲し、その反応を確認する間にも次の脅威を探していた。

 

 剣を抜いた一体がこちらへ走り始める。

 

 距離を詰めなければ攻撃できないからだ。

 

 しかし、その行動そのものが、銃を持つ恵斗に対しては致命的だった。

 

 相手が剣を振るえる距離へ到達するためには、まだ何十メートルも進まなければならない。そのすべてが、恵斗にとってはすでに攻撃可能な空間だった。

 

 数発の銃声が続いた。

 

 剣士は間合いへ入ることなく倒れた。

 

     *

 

 その瞬間、恵斗は改めて理解した。

 

 この世界の戦士が弱いのではない。

 

 彼らの武器が偽物なのでもない。

 

 剣は人を殺せる。

 

 槍も、弓も、十分に恐ろしい。

 

 ただし、攻撃を成立させるために必要な条件が違いすぎる。

 

 彼らは恵斗へ近づかなければならない。

 

 姿を見つけなければならない。

 

 弓なら矢を番え、弦を引き、狙わなければならない。

 

 その過程を踏んでいる間にも、恵斗はすでに攻撃できる。

 

 技量以前に、戦闘が成立する距離と時間そのものが違っていた。

 

「……そりゃ勝負にならないか」

 

 言葉とは裏腹に、恵斗の意識は冷静だった。

 

     *

 

 少女の周囲にいた二体のうち、一体が異変に気づいて走り出した。

 

 もう一体は違った。

 

 リナの髪を掴んで引き起こし、短剣を首元へ押し当てる。

 

 恵斗の視線がそこで止まった。

 

 人質を盾にした。

 

 知能がある。

 

 そして、人間が仲間を見捨てにくいことまで理解している。

 

 ゴブリンが何かを叫ぶ。

 

 言葉の意味は分からない。

 

 だが、要求していることは理解できた。

 

 出てこい。

 

 武器を捨てろ。

 

 あるいは、これ以上近づくな。

 

 どれであっても大差はない。

 

 恵斗は遮蔽物の陰から少女とゴブリンの位置関係を見た。

 

 撃てない。

 

 少なくとも今の角度では、失敗した場合の代償が大きすぎる。

 

 それなら、角度を変える。

 

     *

 

 恵斗は後退した。

 

 逃げたわけではない。

 

 ゴブリンから見えない暗闇の中を移動し、別方向から少女を確認できる位置を探す。

 

 相手は焚き火の明かりを頼りに闇を見ている。

 

 恵斗は暗闇から光の中を見ている。

 

 同じ夜に立っていても、得られている情報量がまるで違った。

 

 数十秒後。

 

 少女を拘束している個体の身体が、先ほどとは異なる角度から見えた。

 

 ゴブリンはまだ暗闇へ向かって叫んでいる。

 

 短剣は少女の首元。

 

 身体の大半を人質の背後へ隠している。

 

 それでも完全ではない。

 

 恵斗はHK416A5を安定させた。

 

 呼吸を整える。

 

 この瞬間だけは、敵の数も周囲の叫び声も意識の中心から外れた。

 

 守るべき対象と、排除すべき対象。

 

 必要なのは、その二つを間違えないことだった。

 

 引き金を絞る。

 

     *

 

 ゴブリンの身体が少女から離れた。

 

 短剣が地面へ落ちる。

 

 リナは何が起きたのか理解できず、その場へ座り込んだ。

 

 恵斗はすぐに少女へ近づいた。

 

「リナ?」

 

 少女が顔を上げる。

 

「……誰?」

 

「村から迎えに来た。歩ける?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れたのか、少女の目から涙が溢れた。

 

「お父さん……?」

 

「待ってる。帰ろう」

 

 恵斗は拘束を解き、少女を立たせる。

 

「俺から離れないで。走れる?」

 

「う、うん……」

 

「じゃあ行こう」

 

 まだ終わっていない。

 

     *

 

 少女を伴って柵の外まで後退し、昼間に確認していた岩陰へ身を寄せる。

 

「ここから森をまっすぐ南へ行けば村へ戻れる。でも一人じゃ行かせない」

 

 リナが不安そうに恵斗を見る。

 

「じゃあ……」

 

「一緒に帰るよ」

 

 恵斗は答えながら集落へ視線を戻した。

 

 ゴブリンたちの叫び声はまだ続いている。

 

 人質は確保した。

 

 守るべき対象は自分の側にいる。

 

 そして向こうには、武器を手にした集団が残っている。

 

 恵斗の表情が僅かに変わった。

 

 先ほどまでとは条件が違う。

 

 ホステージレスキューは終わった。

 

 ここから先は、討伐依頼だった。

 

     *

 

 恵斗は少女を守れる位置を確保したうえで、能力《オペレーター》を意識した。

 

 光の粒子が夜の森へ集まり、やがて彼の手元にHK416A5とは異なる輪郭の火器が現れる。

 

 5.56mm機関銃 MINIMI Mk3

 

 恵斗はその重量を受け止めながら、眼下の集落を見た。

 

 槍を持ったゴブリンたちが集まり始めている。

 

 弓兵もいる。

 

 盾を構えた個体までいる。

 

 この世界では、それで十分に武装した集団なのだろう。

 

 村人なら逃げる。

 

 駆け出しの冒険者なら仲間を集める。

 

 剣士なら、どうやって数の差を覆すか考える。

 

 恵斗は違った。

 

 彼が考えていたのは、目の前の敵が強いかどうかではない。

 

 この程度の規模に、どの火力を使うのが適切なのか。

 

 それだけだった。

 

 そしてその思考に、自分でも驚くほど懐かしい充足を覚えている。

 

 恵斗は小さく息を吐いた。

 

「リナ」

 

「な、なに?」

 

「ちょっと耳塞いどいて」

 

「え?」

 

「今から、うるさくなる」

 

第四話 了

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