リナは言われた意味を理解できないまま、それでも恵斗の表情に冗談を言っている気配がないことだけは察したらしく、両手で耳を塞いだ。
岩陰から谷底を見下ろせば、ゴブリンの集落は完全に混乱していた。突然現れた正体不明の敵に仲間を倒され、さらには捕らえていた人間まで奪われたことで、武装した個体が次々と中央へ集まっている。槍や剣を握った者だけでなく、木盾を構えた個体や短弓を携えた者もおり、洞窟から出てきた体格の大きな二体は、周囲のゴブリンへ怒鳴りながら何らかの指示を出していた。
少なくとも、戦意を失ってはいない。
恵斗はMINIMIを構えながら、その様子を冷静に観察した。
敵がどの程度の知能を持つのか、まだ判断材料は少ない。しかし、散発的に逃げるのではなく武器を持つ者が集まり、弓兵が後方へ下がり、盾を持った個体が前へ出ようとしている以上、最低限の集団戦術は理解しているらしい。
異世界の魔物だからと侮る理由はなかった。
だからこそ、こちらも相応の方法で戦う。
*
最初に動いたのは弓兵だった。
四体ほどが焚き火から離れ、闇の中へ向かって弓を構え始める。恵斗の正確な位置を把握しているわけではないらしく、それぞれが異なる方向を警戒していたが、先ほどの銃声から大まかな方角を推測している可能性はある。
恵斗は少女を自分より後方の岩陰へ残したまま位置を変え、射線上にリナが入らない場所から集落を捉え直した。
MINIMIの重量が腕と肩へ馴染む。
小銃とは違う。
HK416A5が一人の射手による精密な射撃を突き詰めた道具なら、こちらは一定の空間そのものを火力で支配するための武器だった。
そして眼下にいる相手は、その違いを知らない。
弓兵の一体が矢を放った。
闇へ吸い込まれた矢は、恵斗のいる場所から大きく外れて木々の中へ消える。二本目も同様であり、相手がこちらを視認できていないことは明らかだった。
一方、WANGLE越しの恵斗には彼らが見えている。
この時点で、同じ夜の中にいながら両者は対等ではなかった。
*
恵斗が引き金を引いた。
それまでHK416A5が響かせていた単発の銃声とは違い、短く連なった発砲音が谷を揺らした。
弓を構えていたゴブリンたちの周囲で土が弾け、その直後には複数の身体が折れるように崩れた。何が飛んできたのかを理解する暇さえ与えられず、残った一体が弓を放り出して地面へ伏せる。
恵斗はそこで射撃を止めた。
引き金を押し続ける必要はない。
相手を見ながら、必要なだけ撃つ。
弾薬が能力によって供給できるとしても、無駄撃ちをする理由にはならなかった。
銃声が途切れたことで、谷に数秒の空白が生まれる。
その静寂を破ったのは、体格の大きなゴブリンだった。
何かを怒鳴りながら棍棒を振り上げると、周囲の武装個体が一斉に動き始めた。
*
十数体が斜面へ向かって走り出した。
先頭には盾を持った個体が並び、その後ろから槍や剣を携えた者が続く。さらに後方では別の弓兵が射撃位置を探しており、少なくとも彼らなりに、遠距離から攻撃してくる敵へ接近する方法を考えていることが分かった。
恵斗はその光景を見ながら、ほんの僅かに感心した。
盾で射撃を防ぎながら距離を詰め、接近戦へ持ち込む。
剣や槍を中心とする戦闘体系なら、決して間違った判断ではない。相手が弓兵でも魔法使いでも、攻撃を凌いで懐へ入ってしまえば勝機は生まれるのだろう。
ただし、彼らの持つ木盾は銃弾を防ぐために作られたものではない。
恵斗はMINIMIを向けた。
先頭集団との間には、まだ十分な距離が残っている。
ゴブリンたちにとっては、敵へ到達するために走り続けなければならない空間だった。
恵斗にとっては、そのすべてがすでに交戦可能な距離だった。
*
再び発砲音が連なった。
先頭を走っていた盾持ちが身体を大きく揺らし、その後ろに続いていた個体も勢いを失って倒れる。前方の仲間が崩れたことで後続が避けようと左右へ散ったものの、それによって密集は崩れ、今度は一体ずつの姿がより明瞭になった。
恵斗は射撃を続けながらも、引き金を押し込んだまま銃口を横へ薙ぐようなことはしなかった。敵の動きを捉え、必要な場所へ火力を移し、射撃を止めて結果を確認してから次へ移る。
ゴブリン側から見れば、その差は残酷だった。
彼らは走らなければ攻撃できない。
恵斗は立っている場所から攻撃できる。
彼らが一歩進む間にも距離はほとんど縮まらず、代わりに仲間の数だけが減っていく。
剣を持った一体が倒れた仲間を飛び越え、甲高い声を上げながらさらに前へ出た。勇敢ではあったのだろう。少なくとも、目の前で仲間が次々に倒れている状況でなお前進する意思はあった。
だが、勇気は射程を伸ばさない。
次の短い射撃で、その個体も斜面へ倒れた。
*
「……なんなの、あれ」
岩陰から見ていたリナは、自分の声が震えていることにも気づかなかった。
彼女が知る戦いとは、もっと人間同士が近いものだった。
村の男たちが獣を追い払う時には槍を持って近づく。冒険者がゴブリンと戦う時も、剣を交え、盾で攻撃を受けながら少しずつ相手を倒すのだと聞いていた。弓を使えば多少は距離を取れるものの、矢を番えて狙う間には時間がかかり、外せば次を射るまでにさらに時間が必要になる。
目の前で行われているものは、そのどれとも違った。
ゴブリンたちは恵斗へ近づくことすらできない。
黒い武器から雷鳴のような音が連続するたび、まだ遥か遠くにいる者が倒れていく。盾を構えても止まらず、走っても届かず、弓を射ても暗闇のどこに敵がいるのかさえ分かっていない。
恵斗だけが相手を見ている。
恵斗だけが相手へ攻撃できる。
少女には、それが戦いというよりも、何か一方的な災害のように見えた。
*
突撃していた集団の半数以上が倒れたところで、残ったゴブリンたちの動きが変わった。
前進を止め、数体が集落へ逃げ戻り始める。
恵斗はそれを追わなかった。
武器を投げ捨て、背中を向けて逃げる相手まで撃つ必要はない。
一方で、まだ槍を握ったままこちらへ進もうとしている個体や、弓を構えて射撃を続ける者は別だった。恵斗の中ではその区別に迷いがなく、戦闘を継続する意思を示した相手へだけ射撃を続けた。
やがて斜面を登ろうとする者はいなくなった。
谷底では混乱が広がり、武器を捨てて森へ逃げ込む個体まで現れ始める。
恵斗はMINIMIから顔を離さず、しばらくその動きを観察した。
まだ終わっていない。
集落の奥。
洞窟入口にいた二体の大柄なゴブリンが残っている。
そのうち一体は、先ほどまで指示を出していた個体だった。
*
大柄なゴブリンは逃げなかった。
むしろ周囲の混乱へ怒鳴りつけ、地面へ落ちていた盾を拾うと、巨大な棍棒を握ったまま前へ出た。
普通のゴブリンより頭一つ以上大きく、身体も厚い。革だけではなく金属片を継ぎ合わせた防具を胸や肩へ装着しており、村人や駆け出し冒険者にとっては明らかに危険な相手だろう。
恵斗はMINIMIの照準を合わせた。
短く射撃する。
大柄な個体が衝撃を受けて身体を揺らした。
それでも倒れない。
「へえ」
恵斗の目が僅かに細くなる。
防具に当たったのか。
身体そのものが頑丈なのか。
未知の要素が一つ増えた。
ゴブリンは怒号を上げ、盾を前へ出したまま走り始める。
先ほどまでとは違い、恵斗の胸に僅かな高揚が生まれた。
通用しない。
その可能性が初めて現れたからだった。
*
恵斗は慌てなかった。
むしろ、口元に薄い笑みが浮かぶ。
「そうこなくちゃな」
異世界へ来てまで、何もかもが5.56mm弾一発で終わるとは思っていない。
魔法がある。
魔物がいる。
人間とは身体構造の異なる生物もいる。
ならば現代火器がどこまで通じるのかを、一つずつ確かめればいい。
恵斗は次の射撃を行った。
今度は一度で終わらせず、大柄な個体の動きを見ながら数発を続ける。
盾が弾け、身体が大きく揺らいだ。
それでも前へ出ようとする。
距離は縮まっている。
しかし、まだ十分に遠い。
恵斗には考える時間があった。
これこそが射程だった。
*
剣や槍の戦いなら、強敵が目の前まで来た時点で考える時間はほとんど残されていない。
相手の攻撃を受け、避け、反撃しながら答えを探さなければならない。
銃は違う。
敵がこちらへ届かない距離から、こちらだけが試すことができる。
5.56mmで足りないなら、別の弾を使えばいい。
それでも足りないなら、もっと大きな火力を持ってくればいい。
恵斗に与えられた《オペレーター》という能力は、その選択肢を異常なほど広くしていた。
彼はMINIMIを一度下げた。
大柄なゴブリンはまだ進んでくる。
その姿を見ながら、恵斗は別の武器を召喚することも考えた。
しかし、すぐにやめた。
「いや、まずはこいつで十分か」
性能を知るなら、途中で条件を変えすぎない方がいい。
*
再びMINIMIが火を噴いた。
今度の射撃を受けた大柄な個体は、ついに前進を止めた。
棍棒が地面へ落ち、巨体が膝をつく。
それでも立ち上がろうとしたため、恵斗は必要な射撃を加えた。
ようやく身体が地面へ倒れる。
動かない。
もう一体の大柄な個体は、その光景を見ていた。
しばらく恵斗のいる暗闇を睨んでいたものの、やがて棍棒を捨てた。
そして背中を向け、洞窟へ逃げ込む。
恵斗は撃たなかった。
「そっちは逃げるか」
銃口を僅かに下げる。
谷底では、すでに組織的な抵抗が崩れていた。
*
そこで初めて、恵斗は自分の呼吸が少し深くなっていることに気づいた。
心拍は上がっている。
手は震えていない。
思考も澄んでいる。
久しぶりだった。
訓練ではない。
誰かが採点しているわけでも、終了の号令を待っているわけでもない。自分が判断を誤れば、自分か、背後にいる少女が死ぬ可能性があった。
それなのに。
いや、だからこそ。
身体の奥に残っている感覚を、恵斗はよく知っていた。
高揚。
集中。
そして、わずかな充足。
自分の技能が必要とされ、それを使い切った時にだけ訪れる感覚だった。
人を殺したことを喜んでいるわけではない。
相手が人間でなくとも、生命を奪う行為そのものに快楽を覚えているわけでもない。
ただ、戦闘という極端な状況の中では、自分が何をするべきなのかが恐ろしく明確になる。
その明確さを、恵斗は昔から嫌いではなかった。
*
「終わったの……?」
背後からリナの声がした。
恵斗は現実へ引き戻されるように振り返った。
「大体は」
「大体?」
「洞窟の中にまだいる」
少女の顔が強張る。
「じゃあ、まだ戦うの?」
恵斗は少し考えた。
依頼はゴブリンの討伐。
集落にはまだ武装個体が残っている可能性が高い。
しかし、今の最優先は少女を村へ帰すことだった。
「今日はここまで」
「いいの?」
「君を連れて洞窟に入る方が危ない。あいつらが逃げるなら、それでもいい」
恵斗はMINIMIを消し、HK416A5へ戻した。
「それに、巣の場所は分かった」
少女へ手を差し出す。
「明るくなってから、改めて来ればいい」
リナはその手を取った。
*
村へ戻ったのは、深夜に近い時間だった。
森の向こうに松明の明かりが見えたところで、リナが突然走り出した。
「お父さん!」
村の入口に集まっていた人々の中から一人の男が飛び出し、少女を抱き止める。
「リナ!」
その場に泣き崩れる父娘を見て、恵斗は少し離れたところで足を止めた。
こういう場面に自分が割り込む必要はない。
村長が駆け寄ってきた。
「本当に……本当にありがとうございます」
「本人が頑張ってくれたんですよ。怪我も大きいのはなさそうですけど、一応ちゃんと見てあげてください」
「もちろんです」
「それと、ゴブリンの巣を見つけました」
村長の表情が引き締まった。
「やはり……」
「ギルドの情報より多いです。少なくとも数十体。今夜かなり減らしましたが、洞窟の中にどれだけ残ってるかは分からない」
「数十体を……?」
村長はそこで言葉を止めた。
恵斗が一人で戻ってきたこと。
リナも生きていること。
そして、森の向こうから村まで届いていた遠雷のような音。
それらがようやく一つに繋がったらしい。
「あなたは……一体、何をしたのですか?」
「仕事です」
「いや、そういう意味では……」
「明日説明します」
恵斗は笑った。
「今日は腹減りました」
*
翌朝。
村の広場には、恵斗と村長、それに数人の男たちが集まっていた。
夜のうちに逃げたゴブリンが村を襲う可能性を考え、恵斗は交代で見張りを立てるよう頼んでいたが、幸い何も起きなかった。
問題は巣だった。
「王都へ戻ってギルドへ報告するのが規則上は正しいんでしょうけど」
恵斗は村長から借りた簡単な周辺地図を眺める。
「それでは数日かかります」
「はい」
「その間に連中が逃げる可能性もある」
村長が頷いた。
「あるいは、報復に来るかもしれません」
「俺もそう思います」
昨夜、生き残ったゴブリンたちは恵斗の存在を知った。
彼らがどう判断するのかは分からない。
しかし、こちらから選べるうちに主導権を渡す理由もなかった。
「なので、俺がもう一度行きます」
「一人で?」
「一人で」
村長は昨夜の話を聞いた後だけに、それ以上止めなかった。
*
森へ入る前。
恵斗は村から十分に離れた場所で立ち止まった。
昨日の戦闘を頭の中で振り返る。
5.56mmは通常のゴブリンには十分すぎるほど有効だった。
大型個体にも通用したが、通常個体ほど簡単ではない。
そして今日は洞窟。
閉所。
昨日のように遠距離からMINIMIを使う場面とは条件が違う。
HK416A5でも戦える。
むしろ、狭い場所なら取り回しはこちらの方がいい。
ただし、洞窟内部にどれほど敵がいるのか分からない。
恵斗は少し考えた末、HK416A5を確認してから歩き始めた。
結局、これが一番馴染んでいる。
必要になれば別の装備を呼べばいい。
能力があるからといって、毎回違う武器を使う必要はなかった。
*
集落へ到着すると、昨夜とは様子が違っていた。
屋外にゴブリンの姿がない。
恵斗は斜面の上からしばらく観察したが、動くものは見当たらなかった。
逃げたか。
洞窟へ籠もったか。
あるいは、待っているか。
どれもあり得る。
恵斗はHK416A5を保持しながら斜面を下りた。
昨夜の戦闘跡を通過する。
地面には折れた槍や盾が残り、焚き火はすでに消えていた。
洞窟の入口へ近づく。
中は暗い。
WANGLEを下ろす。
視界が変わった。
奥へ続く岩肌が浮かび上がる。
*
その瞬間。
洞窟のさらに奥から、何かが聞こえた。
足音ではない。
もっと重い。
硬いものが岩へ擦れるような音。
恵斗は立ち止まった。
昨日見た大柄なゴブリンとも違う。
音の間隔からして、身体そのものが大きい。
そして、ゆっくりと近づいてくる。
「……なるほど」
恵斗の口元が僅かに上がった。
怖くないわけではない。
何が出てくるのか分からない以上、むしろ警戒するべき状況だった。
それでも、胸の奥では昨日と同じ熱が静かに戻ってきている。
未知の相手。
未知の能力。
そして、自分にはまだ使っていない装備がいくらでもある。
恵斗はHK416A5を構えた。
「次は何だ?」
暗闇の向こうで、巨大な影が動いた。
第五話 了