暗闇の奥から聞こえてくる音は、ゴブリンが歩く時のそれとは明らかに違っていた。硬いものが岩肌を擦る低い音に、重量のある足取りが一定の間隔で重なっており、その響き方から考えても、昨日遭遇した大型個体よりさらに大きな何かが洞窟の奥から近づいているらしい。
恵斗はHK416A5を肩へ収めたまま、WANGLE越しに前方を注視した。暗視装置によって増幅された視界にも限界はあり、洞窟が右へ緩く屈曲しているため、その向こう側までは見通せない。だからこそ、正体の分からないものを確認するために自分から角を飛び出す必要もなかった。
やがて岩壁の向こうから、太い腕が現れた。
続いて肩、頭部、胴体が姿を見せる。
身長は二メートルを明らかに超えていた。ゴブリンと同じ緑褐色の皮膚を持ちながら体格は比較にならず、胸から腹にかけて厚い筋肉に覆われ、肩には鉄板を継ぎ合わせたような防具を身につけている。右手に握られているのは、先端へ大きな鉄塊を取り付けた棍棒だった。
「オーガ……ってところか?」
名称が正しい保証はないが、見た目としてはそれ以外の呼び方を思いつかなかった。
*
大型個体も恵斗に気づいた。
低い唸り声が洞窟に響き、棍棒を握る腕へ力が入る。
恵斗は照準を胸部へ合わせて発砲した。
サプレッサーを介した銃声が閉所へ響き、5.56mm弾を受けた巨体が僅かに揺れたものの、昨日の大型ゴブリンとは反応が違う。恵斗は相手が倒れないことを確認すると射撃を継続し、命中に伴って皮膚や防具の一部が損傷しているにもかかわらず、大型個体がなお前進してくる様子を観察した。
弾が効いていないわけではない。
しかし、即座に行動を止めるほどでもない。
「硬いな」
驚きよりも先に興味が湧いた。
相手が棍棒を振るえる距離へ入れば話は別だが、まだ間には空間がある。その距離が残っている限り、恵斗には状況を評価して次の手段を選択する余裕があった。
そこで彼は、無理にHK416A5だけで解決しようとはしなかった。
*
恵斗は射線を維持しながら後退し、洞窟の外へ向かった。
大型個体も追ってくる。
棍棒を引きずるたびに岩が削れ、低い音が洞窟へ響く。
狭い場所で大型火器を使う理由はない。後方危険区域を必要とする無反動火器ならなおさらであり、こちらにはわざわざ不利な環境で戦う義務などなかった。
敵がこちらへ来るのなら、都合のいい場所まで連れてくればいい。
恵斗が洞窟から出て数秒後、大型個体も朝の光の中へ姿を現した。
昨夜の戦闘で荒れた集落を踏み越え、巨体がこちらへ向きを変える。
十分な空間がある。
恵斗はさらに距離を取った。
*
「さて、何がいい」
ここでMINIMIを出すこともできたが、結局は同じ5.56mm弾である。昨日の大型ゴブリンより明らかに頑丈な相手へ弾数だけを増やすより、異なる火力を試した方がいい。
恵斗の頭には複数の候補が浮かんだ。
110mm個人携帯対戦車弾。
84mm無反動砲。
01式軽対戦車誘導弾。
いずれも陸上自衛隊が実際に保有する対装甲火器であり、LAMは約13kg、01式軽対戦車誘導弾も約11.4kgの携帯火器として存在する。84mm無反動砲については、対戦車弾だけでなく榴弾や多目的弾といった異なる用途の弾薬も陸自の調達資料に存在している。
もっとも、相手は戦車ではない。
そして今は能力の確認も兼ねている。
恵斗は大型個体との距離を見ながら、選択肢を一つに絞った。
「LAMでいいか」
能力を意識すると、光の粒子が集まり、筒状の110mm個人携帯対戦車弾が形を成した。
*
それを見た大型個体に意味が分かるはずもない。
相手に見えているのは、自分より遥かに小さな人間が、先ほどまで持っていた黒い武器とは別の筒を突然肩へ担いだという光景だけだった。
大型個体が吠えた。
そして棍棒を振り上げ、恵斗へ向かって走り始める。
恵斗は相手だけでなく周囲の地形にも注意を払い、射撃に適さない位置関係になっていないことを確かめながら構えた。
ここで初めて、彼の胸の奥に期待に近い感情が生まれた。
剣でも槍でもない。
魔法ですらない。
人間が装甲車両を破壊するために作った火力を、異世界の怪物へ向ける。
「悪いな」
照準の向こうでは、オーガらしき怪物がなおも走っている。
「文明レベルが違うんだ」
*
発射とともに、それまでの小銃とはまるで異なる轟音が森を揺らした。
大型個体の身体が激しく崩れ、先ほどまでHK416A5の射撃を受けながら前進していた巨体が地面へ転がる。棍棒は手を離れて数メートル先へ落ち、その後に怪物が再び立ち上がる気配はなかった。
恵斗はすぐに近づかず、距離を保ったまま状態を観察した。
動かない。
少し待っても変化はなかった。
「……そりゃそうか」
予想していたとはいえ、結果を目の当たりにすると凄まじい。
先ほどまで5.56mm弾を受けながら接近してきた怪物が、火力の段階を一つ変えただけで戦闘能力を失った。
恵斗は消費したLAMを見ながら、小さく息を吐いた。
この世界の怪物が現代火器を無効化するわけではない。
少なくとも今のところは、必要な火力を選べばいい。
その事実は《オペレーター》という能力の意味を、昨日よりさらに大きなものへ変えていた。
*
恵斗はHK416A5へ戻し、再び洞窟へ向かった。
大型個体が出てきたからといって、中が空になった保証はない。むしろ昨日逃げ込んだゴブリンが残っている可能性を考えれば、ここから先の方が慎重になる必要がある。
WANGLEを下ろして内部へ入ると、しばらく進んだ先で洞窟が二方向へ分かれていた。
右側からは僅かに風が流れている。
左側にはゴブリンらしい痕跡が残っている。
恵斗は立ち止まり、どちらへ進むべきか考えた。
昨日の目的は人質救出だった。
今日の目的は、村に対する脅威が残っているかを確認し、必要なら排除することにある。
洞窟を隅から隅まで探索することそのものが目的ではない。
その時、右側の通路のさらに奥から微かな光が見えた。
*
恵斗は慎重に進み、やがてその正体を知った。
出口だった。
洞窟は山の反対側まで繋がっている。
「逃げ道か」
外へ出ると、森の斜面へ複数の足跡が続いていた。
数は多い。
昨夜生き残ったゴブリンたちは、洞窟へ籠城したのではなく、こちら側から脱出したらしい。
恵斗は追跡するか考えたものの、すぐにその必要性を否定した。依頼はこの地域を脅かしている群れへの対処であり、森のどこまでも追いかけて絶滅させることではない。まして、武器を捨てて逃げた個体まで探し出して殺す理由はなかった。
問題は別にある。
これほどの数が、なぜ突然村の近くへ集まったのか。
恵斗は足跡の向こうへ視線を向けた。
*
洞窟内部を確認してから村へ戻ると、昼を少し過ぎていた。
「戻ったぞ!」
入口の見張りが叫び、それを聞いた村人たちが集まってくる。
昨日までなら、見知らぬ冒険者が帰ってきただけだった。
今日は違う。
リナを連れ帰った男だった。
子供たちまで遠巻きについてくる。
「どうでした?」
村長が尋ねた。
「巣はほぼ放棄されてます。残ってた大きいのが一体いたんで、それは倒しました」
「大きいの?」
「二メートル以上ありましたね。ゴブリンの仲間なのか別種なのかは俺には分かりません」
村長の隣にいた男が青ざめた。
「まさか、オーガでは……」
「ああ、やっぱりそういう名前なんだ」
「倒したのですか?」
「はい」
「一人で?」
昨日から何度この質問をされたか分からない。
恵斗は少し笑った。
「一人で行ったんだから、一人で倒すしかないでしょう」
「そういう問題では……」
村長が額を押さえた。
*
その日の夕方、村ではささやかな宴が開かれた。
家畜を奪われ、少女まで連れ去られた数日間の緊張から解放された反動なのだろう。広場には料理が並び、恵斗にも次々と酒が渡された。
「またぬるいのか……」
「何か言いました?」
リナが隣から覗き込んでくる。
「いや、こっちの酒はこれが普通なんだなって」
「冷たいお酒なんてあるんですか?」
「俺の国だと、これに似た酒は冷やして飲むことが多かった」
「氷を入れるんです?」
「いや、瓶とか缶ごと冷やす」
「カン?」
「あー……そこから説明するのか」
リナが笑った。
昨日、柱へ縛られていた時とはまるで違う表情だった。
それを見て、恵斗も笑う。
戦っている時間は嫌いではない。
だが、何のために戦ったのかを目の前で確認できる時間も悪くなかった。
*
「そういえば」
リナの父親が酒を持ってきた。
「ギルドへ報告されるのですよね?」
「明日には王都へ戻るつもりです」
「でしたら、これも伝えていただけませんか」
「何を?」
男は少し考えてから答えた。
「ゴブリンが増え始める前、森の奥から逃げてきた猟師がいたんです。北西の山で妙なものを見たと言っていました」
恵斗の表情から酔いが少し消えた。
「妙なもの?」
「森の中を、大勢のゴブリンが南へ移動していたそうです。何かに追われるように」
「追われる?」
「本人にも分からなかったそうです。ただ……」
男が声を落とした。
「そのさらに向こうから、木が倒れる音がずっと聞こえていたと」
恵斗はジョッキを卓上へ置いた。
昨日の群れは、この村を襲うために集まったのではない可能性がある。
別の何かから逃げてきた。
そして、その「何か」はまだ北西にいる。
*
恵斗は少しだけ考えた後、思わず口元を緩めた。
「恵斗さん?」
「いや」
リナが怪訝そうに見ている。
「なんでもない」
そう答えながらも、頭の中ではすでに別のことを考えていた。
オーガに5.56mm弾は通用した。
LAMなら十分すぎるほどだった。
だが、この世界にはそれより大きな魔物がいる。
昨夜聞いた話では、トロルもワイバーンも、そして竜さえ存在するという。
ならば、いつか小銃では足りない相手も出てくるのだろう。
それでも問題はない。
陸上自衛隊の携帯火器だけを見ても、84mm無反動砲や01式軽対戦車誘導弾といった選択肢があり、さらに空を飛ぶ大型目標という条件になれば、一人で操作可能な91式携帯地対空誘導弾まで存在する。
もちろん、それらを使う必要が来るかどうかは分からない。
だが、選択肢はある。
剣と魔法の世界に対して、恵斗が持ち込んだものは一挺の小銃ではなかった。
何十年もの時間をかけて積み重ねられた、現代軍事技術という巨大な体系そのものだった。
恵斗はぬるいエールをもう一口飲みながら、北西に広がる山々へ目を向けた。
「……まあ、明日考えるか」
今夜くらいは酒を飲んでもいい。
異世界へ来てから、まだ三日目なのだから。
第六話 了