翌朝、恵斗が目を覚ました時には、村はすでに動き始めていた。窓の外では農具を担いだ男たちが畑へ向かい、家畜小屋からは羊の鳴き声が聞こえてくる。ほんの二日前までゴブリンの襲撃に怯えていたとは思えない光景だったが、それだけに、この小さな集落で暮らす人々にとって日常を取り戻すことが何より重要なのだろう。
昨夜は勧められるまま酒を飲んだものの、幸い二日酔いになるほどではなかった。もっとも、こちらのエールについては最後まで好きになれる自信がなく、恵斗は井戸水で顔を洗いながら、冷えたビールという文明の恩恵について人生で初めて真剣に考えた。
「おはようございます」
振り返ると、リナが籠を抱えて立っていた。
「おはよう。昨日は眠れた?」
「はい。自分の家ですから」
「そりゃ何より」
「恵斗さんは?」
「俺もよく寝たよ。ただ、あの酒はどうにかならないのかな」
「まだ言ってるんですか?」
呆れたように笑われた。
*
朝食を終えると、恵斗は王都へ戻る準備を始めた。
本来なら、そのまま冒険者ギルドへ討伐結果を報告すれば依頼は終了する。しかし、昨夜リナの父親から聞いた話が引っかかっていた。北西の山から、多数のゴブリンが何かに追われるように南下していたという証言である。
今回の群れが村の近くへ現れた原因が単なる縄張りの拡大なら、巣を放棄させた時点で問題はひとまず解決したと考えられる。一方で、別の脅威に追われて移動してきたのであれば、その原因が今度は村へ近づいてくる可能性を無視できない。
恵斗は村長へ、その猟師に会わせてもらえないか頼んだ。
「もちろんです。ただ、王都へお戻りになるのでは?」
「戻りますよ。その前に話だけ聞いておきたいんです。ギルドに報告するなら、分かってることは多い方がいいでしょう」
「なるほど……少々お待ちください」
ほどなくして連れてこられた猟師は四十代ほどの男で、森へ入る仕事を長く続けているらしく、日に焼けた顔と節くれだった手をしていた。
*
「見たのは六日前です」
男は卓上に広げられた粗末な地図へ指を置いた。
「この辺りには鹿が集まる谷があるんですが、そこへ行く途中でゴブリンを見ました。最初は十匹くらいだったんですが、その後ろから次々に出てきましてね。女や子供まで混じっていたから、狩りに出た連中じゃないと思います」
「移動していた方向は?」
「南東です。この村の方角ですね」
「追ってくる奴は見た?」
「いいえ。ただ、山の向こうから何度も木の倒れる音がしました。それで気味が悪くなって、俺も帰ってきたんです」
恵斗は地図を見る。
情報だけなら、それほど多くない。
しかし、武装した個体だけでなく幼体まで含めた集団が生活圏そのものを捨てて移動していたとなれば、少なくとも通常の狩猟行動とは考えにくかった。
「この辺まで歩いてどれくらいです?」
「俺なら半日ちょっとですね。ただ、道はありませんよ」
「地形は?」
「途中までは普通の森です。そこから先は岩が増えて、谷も深くなる。雨の後は特に危ないですね」
恵斗は頷いた。
「十分です。ありがとうございます」
「行くんですか?」
「少しだけ見てきます」
男は眉を寄せた。
「少しだけ、って距離じゃありませんよ」
「じゃあ、なるべく少しで済ませます」
猟師はしばらく恵斗を見た後、諦めたように肩を落とした。
*
村を出て人目がなくなると、恵斗は必要な装備を召喚した。
昨日までと基本構成は大きく変えない。ただし、今回は戦闘そのものより情報収集が目的であり、長時間歩くことを考えて余計な重量は増やさなかった。HK416A5を身体の前へ吊り、プレートキャリアとベルトの装着状態を確認すると、飲料水と最低限の携行品を収めた小型のアサルトパックを背負う。
森へ入ってからは、猟師に教えられた地形を辿った。
道らしい道はないものの、人間や動物が通った痕跡はいくつもあり、斜面の傾斜や植生を見れば進みやすい場所はある程度判断できる。恵斗は必要以上に速度を上げず、周囲の変化を拾いながら北西へ進んだ。
途中で何度か古い足跡を見つけた。
小さい。
ゴブリンのものだろう。
ただし一方向だけではなく、森の各所から南東へ集まるように残されている。
単独の群れではない可能性が高かった。
*
二時間ほど進んだ頃、恵斗は木の幹に残された傷を見つけた。
最初は獣が爪を立てた跡かと思ったが、近づいて確認すると様子が違う。樹皮だけでなく内部の木質まで大きく抉られており、傷そのものも恵斗の胸ほどの高さから始まっている。
周囲を見ると、同じような傷を持つ木がもう一本あった。
さらに地面には、落ち葉の下へ沈み込むような大きな窪みが残っている。
恵斗はその場へしゃがみ込み、形を確認した。
足跡らしい。
しかし、熊とは違う。
昨日倒したオーガとも一致しない。
しかも古くない。
落ち葉が完全には戻っておらず、窪みの底には湿った土が露出している。
「これか」
猟師が聞いたという音の主かどうかは分からない。それでも、この森にゴブリンより遥かに大型の生物がいることだけは確かだった。
恵斗は周囲へ視線を巡らせた。
ここまで来る途中で見つけたゴブリンの痕跡は、すべてこの場所から遠ざかる方向へ続いている。
情報同士が繋がり始めていた。
*
恵斗はそこで進路を変えた。
足跡を真正面から追いかけるのではなく、地形を利用して少し高い位置へ移動する。相手がどの程度の感覚器官を持っているか分からない以上、風向きにも注意しながら斜面を進み、やがて周囲を見渡せる岩場へ辿り着いた。
小型双眼鏡を取り出して谷を観察する。
木々が密生しているため、地上を直接見通せる範囲は狭い。
それでも異常はすぐに見つかった。
谷の一角だけ、何本もの木が同じ方向へ倒れている。
自然倒木にしては範囲が狭く、折れた幹の高さも不揃いだった。何か大型のものが無理やり通ったようにも見える。
恵斗は双眼鏡をゆっくり動かしながら、周囲を確認した。
動くものはない。
そこで別の観測器材を召喚した。
携帯可能な熱線映像装置を使い、植生の隙間を一つずつ確認していく。
鳥や小動物らしい小さな熱源がいくつか見える。
さらに奥へ視線を移したところで、恵斗の手が止まった。
*
大きい。
木々に遮られて全身は見えないが、少なくとも人間ではなかった。
熱源はゆっくり移動しており、ときおり樹木の陰へ完全に隠れる。そのたびに恵斗は無理に追わず、次に姿を現す位置を予測して観察範囲をずらした。
やがて、木々の切れ間へその姿が現れた。
四足。
背は人間より高い。
胴体は異様に太く、頭部からは角のようなものが前方へ伸びている。
距離があるため細部までは分からないものの、少なくとも昨日のオーガより遥かに大きかった。
恵斗は撃たなかった。
こちらへ向かっているわけでもなければ、今すぐ村を襲う様子もない。そもそも、あれがゴブリンを追い払った原因なのかさえ確定していない。
必要なのは、もう少し情報だった。
*
恵斗は岩場から離れ、相手の進行方向を避けながら谷へ下りた。
先ほど見つけた巨大な足跡と、熱源として確認した生物が同一なら、地上にはさらに痕跡が残っているはずだった。
予想は当たった。
折れた低木、踏み潰された草、泥へ深く残された足跡が一定方向へ続いている。歩幅も大きく、相当な重量があるらしい。
そして、その進路の先には別のものがあった。
鹿だった。
正確には、鹿だったものが地面へ横たわっている。
大型の個体だったらしく角も立派だが、胴体には大きな損傷があり、周囲には食べられた跡が残っている。
恵斗は距離を保ったまま観察した。
「肉食か」
少なくとも草だけを食べる生物ではない。
さらに周辺を確認すると、古い骨もいくつか見つかった。
ここが一時的な捕食場所なのか、それとも縄張りの一部なのかは分からない。ただ、ゴブリンが幼体まで連れて逃げた理由としては十分あり得る。
*
その時、遠くで枝の折れる音がした。
恵斗は反射的に音の方向へ身体を向けたが、すぐに動かなかった。
先ほど観察した大型生物の位置と、自分が今いる場所との関係を頭の中で組み直す。
音は正面ではなく、やや右。
風はこちらから向こうへ流れている。
そして、先ほどまで大型生物が移動していた方向から考えると、こちらへ戻ってきている可能性がある。
恵斗は鹿の死骸を見た。
「飯場だったか」
もしそうなら、自分は他人の食卓の横に立っていることになる。
長居する理由はなかった。
*
恵斗は来た経路をそのまま戻らず、斜面側へ移動して距離を取った。
数十メートル進んだところで再び枝が折れ、今度は地面を踏む重い振動まで僅かに伝わってくる。
速度が上がっている。
こちらに気づいたのか。
それとも単に餌場へ戻っているだけなのか。
判断材料はまだ足りない。
恵斗は移動を続けながら周囲を確認し、視界の開ける場所を探した。密林の中で正体不明の大型生物と接触するより、互いの位置を把握できる場所へ出た方がいい。
前方に小さな沢がある。
その向こう側は樹木が少なく、数十メートルほど開けていた。
恵斗は沢を越え、反対側の岩場まで移動してから振り返った。
*
森が揺れた。
低木が左右へ押し退けられ、その奥から巨大な頭部が現れる。
双眼鏡越しに見た時より、遥かに大きい。
全長は五メートルを超えているだろう。四足で歩いているにもかかわらず肩の位置が人間の頭より高く、太い首の先には前方へ湾曲した二本の角が伸びている。身体は灰褐色の硬そうな皮膚に覆われ、口を開いた瞬間には草食獣には必要なさそうな牙が見えた。
怪物は沢の手前で止まった。
恵斗も動かない。
距離はおよそ六十メートル。
怪物が鼻を鳴らし、こちらへ頭を向けた。
目が合った。
少なくとも、こちらの存在には気づいている。
*
恵斗はHK416A5を構えたものの、すぐには撃たなかった。
相手が大型であることと、敵対していることは同義ではない。未知の生物を見つけるたびに撃っていては、この世界の生態系そのものを敵に回しかねない。
怪物もすぐには動かなかった。
沢を挟んで、しばらく双方が相手を観察する。
やがて怪物が頭を低くした。
前脚が地面を掻く。
恵斗の認識が変わった。
動物に詳しくなくとも、それが友好的な仕草ではないことくらい分かる。
さらに怪物が一歩踏み出した時点で、恵斗は後方へ素早く視線を走らせた。退路は確保できているものの、相手の走力が分からない以上、背中を向けて競走する選択はしたくない。
怪物がもう一度地面を蹴った。
*
突進だった。
五メートルを超える巨体からは想像しにくい速度で沢へ踏み込み、水飛沫を上げながら一気に距離を縮めてくる。
恵斗はHK416A5を発砲した。
複数の5.56mm弾が前面へ命中し、怪物の身体が衝撃を受ける。それでも勢いは大きく落ちなかった。
昨日のオーガと同じだった。
弾が効いていないのではなく、こちらへ到達するまでに行動を止められない。
しかも今回は、昨日より速い。
恵斗は撃ち続けることに固執しなかった。
数発の結果を見た時点で、HK416A5だけで正面から止めようとする判断を捨てる。
横へ動きながら岩場を利用して突進線から外れると、怪物は急激に方向を変えきれず、そのまま恵斗がいた場所を通過した。
*
巨体が岩へ激突した。
鈍い衝撃が地面を伝わり、砕けた石片が周囲へ飛ぶ。
それでも怪物は倒れない。
身体を振りながら向きを変え、再び恵斗を探している。
恵斗はその動きを見ながら距離を取り直した。
最初の観察で、少なくとも二つ分かった。
5.56mm弾そのものは通る。
しかし、正面から短時間で突進を止めるには不足している。
ならば、同じことを繰り返す理由はない。
恵斗はHK416A5を身体へ寄せたまま能力を発動した。
*
次に彼の手へ現れたのは、昨日のLAMではなかった。
より大きな口径を持つ無反動火器だった。
84mm無反動砲。
この距離で、動き続ける大型生物を相手に悠長なことをするつもりはない。恵斗は周囲の地形と後方を確認し、射撃できる位置へ身体を移した。
怪物がこちらを見つけた。
頭を下げる。
また来る。
恵斗は待った。
怪物が走り始め、こちらとの距離を縮めてくる。
先ほどとは違い、恵斗は小銃を撃たなかった。
必要な火力は、もう選び終えている。
*
轟音が谷を叩いた。
発射された弾が怪物へ命中すると、その巨体は突進の勢いを維持できず大きく崩れた。地面へ倒れた身体が土と落ち葉を巻き上げながら滑り、数メートル進んだところでようやく止まる。
恵斗はすぐに近づかなかった。
距離を維持したまま相手の状態を確認する。
先ほどまで地面を揺らしていた巨体に、再び立ち上がる様子はない。
それでも恵斗はしばらく観察を続け、安全を確認してからようやく武器を下ろした。
「……こっちはちょうどいいな」
昨日のオーガへLAMを使った時とは違う。
相手の大きさ、速度、頑丈さを考えれば、今回は過剰というより必要な火力だった。
*
恵斗は倒れた怪物を調べた。
近くで見ると、改めてその大きさが分かる。四肢は人間の胴ほど太く、皮膚も場所によっては数センチ近い厚みがありそうだった。HK416A5で撃った痕跡も残っているため、5.56mm弾が無効だったわけではない。
ただし、これだけの質量を持つ生物が高速で突進してくる以上、致命傷を与えられることと、こちらへ到達する前に止められることは別問題だった。
恵斗は怪物から少し離れ、周囲を見渡した。
こいつ一頭だけなのか。
それとも複数いるのか。
そこが重要だった。
もし単独なら、ゴブリンが縄張りを捨てた原因として説明できなくもない。しかし、同じ生物が北西の森に何頭もいるなら、話は変わってくる。
そして、答えは思ったより早く見つかった。
*
怪物が現れた方向へ慎重に進んだ恵斗は、一時間ほど後に谷の奥へ辿り着いた。
そこには足跡があった。
一種類ではない。
先ほど倒した個体と同じ大きさのものに加え、それより明らかに小さな足跡が複数残っている。
親子か。
群れか。
どちらにしても一頭ではない。
さらに、その痕跡は北から南へ向かっていた。
恵斗はしばらく地面を見た後、北側の山へ顔を上げた。
大型生物まで移動している。
ならば、ゴブリンを追い払ったのが今倒した怪物だと考えるのは早い。
むしろ、こいつら自身も何かに押し出されている可能性がある。
*
「……マトリョーシカじゃねえんだから」
思わず独り言が漏れた。
ゴブリンを追えば大型の魔物が出てきて、その大型魔物を調べれば、さらに北から移動してきた痕跡が見つかる。
原因を一つ剥がすたびに、奥から別の原因が出てくる。
恵斗は北西の山を見た。
ここから先へ進むこともできる。
しかし、今日は偵察であり、すでに村へ持ち帰るには十分な情報を得ている。未知の脅威を追い続け、帰還時刻も支援も決めずに山奥へ入り込むのは、好奇心と偵察を履き違えている。
「今日はここまでだな」
恵斗は踵を返した。
*
村へ戻った頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
「また何か倒したんですか?」
入口で待っていたリナが、恵斗を見るなりそう尋ねた。
「なんで第一声がそれなんだよ」
「だって昨日もそうだったじゃないですか」
「俺を何だと思ってるんだ」
「変な音がする武器で魔物を倒す人」
「間違ってないのが腹立つな」
リナが楽しそうに笑った。
恵斗もつられて笑いながら村へ入り、そこで待っていた村長へ今日確認したことを説明した。
ゴブリンが北から逃げてきた可能性が高いこと。
さらに大型の魔物も南下していること。
そして、その移動が一種類だけではない可能性があること。
村長の表情は、話が進むほど険しくなった。
*
「王都へ知らせるべきでしょうか」
「そのつもりです」
恵斗は答えた。
「少なくとも冒険者ギルドには報告します。あとは向こうがどう判断するかですね」
「また戻ってきていただけますか?」
村長の問いに、恵斗は少し考えた。
「必要なら」
「……ありがとうございます」
「まだ何もしてませんよ」
「十分していただきました」
村長はそう言って頭を下げた。
恵斗は困ったように頭を掻き、その場を離れた。
*
翌朝、恵斗は王都へ向かった。
村の入口ではリナと父親、それに何人もの村人が見送りに来ていた。
「また来てくださいね!」
リナが手を振る。
「今度はもっと冷たい酒を用意しといてくれ」
「無茶言わないでください!」
「じゃあ期待しないで待ってるよ」
笑いながら手を振り返し、恵斗は街道へ出た。
王都までは半日。
依頼を完了させ、報酬を受け取り、今回確認した異常を報告する。
その後については、まだ決めていない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
北西の森で起きているのは、単なるゴブリンの増加ではない。
何かが生き物を南へ押し出している。
それが何なのかを、恵斗はまだ知らない。
そして今の彼は、それを知らないまま放っておけるほど、この世界に無関心でもなくなっていた。
第七話 了