アルディア王国の王都が見えてきたのは、昼を少し回った頃だった。
街道の向こうに巨大な城壁が姿を現し、そのさらに奥には王城の尖塔が青空へ伸びている。数日前には何もかもが現実離れして見えた景色だったが、村でゴブリンと戦い、森を歩き、現地の人間と同じ食卓を囲んだ後では、恵斗の目にも少しだけ「帰ってきた場所」のように映った。
城門では荷馬車が列を作り、門番が一台ずつ積荷を確認していた。恵斗も冒険者証を見せて中へ入り、石造りの建物が並ぶ大通りを歩いていく。完全装備は城壁が見える前に消してあり、今の姿は数日前と同じ旅人そのものだった。
まず向かうべきは冒険者ギルドである。
報酬も欲しいが、それ以上に北西の森で確認した異変を伝えておく必要があった。
*
「あっ」
受付へ近づいた途端、見覚えのある受付嬢が恵斗を見つけた。
「新田さん!」
「どうも。生還しました」
「生還しました、じゃありませんよ。予定より遅いから心配していたんです」
「一泊余計にしただけじゃないですか」
「その一泊で何かあったらどうするんです?」
「その時は依頼書に『帰ってこない』って追記しといてください」
「縁起でもないこと言わないでください!」
思った以上に本気で怒られた。
恵斗は笑いながら両手を軽く上げる。
「すみません。ちゃんと理由があります」
「……聞きます」
受付嬢は頬を膨らませたまま、記録用の紙を引き寄せた。
*
報告には思ったより時間がかかった。
ゴブリンの巣を発見したこと、依頼書に記載された数より遥かに多かったこと、村の少女が一時的に連れ去られたものの救出できたこと、その後の戦闘によって群れの大半が巣を放棄したことまで説明すると、受付嬢の筆が何度も止まった。
「ちょっと待ってください。最初から確認しますけど……これ、全部お一人で?」
「リナを探すところから先は一人ですね」
「討伐数は?」
「正確には数えてません」
「おおよそで構いません」
「二十……いや、もう少しいたかな」
受付嬢が無言で顔を上げた。
「なんです?」
「新田さん、登録したの三日前ですよね?」
「そうですね」
「普通、新人の方は薬草を摘むんです」
「俺も最初はそういう仕事を勧められました」
「誰がゴブリンの集落を一人で襲ってこいと言いました?」
「誰も言ってませんね」
「でしょうね!」
周囲の冒険者が笑い始めた。
*
ただし、北西の森について話し始めると、受付嬢の態度は変わった。
ゴブリンが一つの群れではなく、複数の集団から構成されていた可能性があること。幼体を伴って南下していたという猟師の証言。そして、さらに北西では大型魔物まで南へ移動している痕跡を確認したこと。
「その大型魔物というのは?」
「名前が分からないんですよ。四足で、全長五メートルくらい。角が二本あって、かなり頑丈でした」
「……まさか、灰角獣?」
「たぶん俺に聞いても分からないです」
「あ、そうでした」
受付嬢は奥の棚から分厚い本を持ってくると、何枚か頁をめくって一枚の絵を見せた。
「これに似ていました?」
そこには、恵斗が森で遭遇したものによく似た大型獣が描かれていた。
「こいつです」
「やっぱり……」
「珍しいんですか?」
「珍しいというより、普通はもっと北の山岳地帯にいる魔物です。王都近郊まで下りてくることはほとんどありません」
恵斗は眉を寄せた。
予想していた答えだったが、実際に現地の人間から聞くと意味が変わる。
「やっぱり、あいつも逃げてきた可能性があるわけか」
「可能性はあります。ただ、これは私だけでは判断できません。ギルド長へ報告を上げます」
「お願いします」
「新田さんは?」
「俺?」
「まさか今から北へ行くとか言いませんよね?」
恵斗は受付嬢の顔を見る。
「俺をなんだと思ってるんです?」
「三日前に登録して、初仕事でゴブリンの巣へ単独で入って、誘拐された女の子を助けて、翌日にオーガを倒して、その翌日に灰角獣まで倒して帰ってきた人です」
「……そう並べると、ちょっと頭おかしいな」
「自覚してください」
また周囲から笑い声が上がった。
*
依頼は正式に達成として処理された。
少女を救出した件について村長から書面が出されていたらしく、通常の討伐報酬に加えて追加報酬まで支払われることになった。革袋へ入った銀貨を受け取った恵斗は、その重みを掌で確かめる。
異世界で初めて、自分で稼いだ金だった。
「なんか嬉しいな」
「そういうところは普通なんですね」
「俺を何だと思ってるんです?」
「さっき答えました」
「そうだった」
受付嬢が吹き出した。
「ところで、お名前を聞いてませんでしたね」
「今さらですか?」
「俺の名前は知ってるのに、俺はずっと『受付の人』って呼んでるんですよ」
「そういえば……ミレーヌです」
「ミレーヌさん」
「はい」
「三日前からお世話になってます」
「本当に今さらですね」
二人で笑った。
*
ギルドを出た恵斗は、そこでようやく今日やるべきことがなくなったことに気づいた。
北西の異変についてはギルドへ報告した。
依頼も完了した。
明日以降の予定も決まっていない。
何より懐には報酬がある。
「……休むか」
異世界へ来てからというもの、王宮へ召喚された翌日には冒険者登録をして、そのまま村へ向かい、ゴブリンを追って森へ入り、人質を救出し、翌日には洞窟を調べ、その次の日にはさらに北西まで偵察へ出ている。
自分で振り返ってみても働きすぎだった。
恵斗は大通りを歩きながら、今日は仕事に関係することをしないと決めた。
*
まず食った。
市場で肉を串に刺して炭火で焼いたものを買い、歩きながら齧る。何の肉か尋ねたところ店主から知らない動物の名前を返されたので、それ以上は聞かないことにした。
次に風呂へ行った。
王都には共同浴場があり、数日間森を歩いた身体をようやくまともに洗うことができた。日本の銭湯ほど湯は熱くなかったが、肩まで浸かった瞬間には思わず声が漏れた。
「これだよ……」
向かいにいた禿頭の老人が怪訝そうにこちらを見る。
「兄ちゃん、そんなに風呂が好きなのか?」
「俺の故郷じゃ、風呂はちょっとした宗教みたいなもんです」
「変な国だな」
「否定できません」
そのまま老人と話し込み、王都で安く飲める酒場を教えてもらった。
*
夕方には、その酒場にいた。
大通りから一本外れた路地にある店で、観光客向けというより地元の職人や商人が仕事帰りに集まる場所らしい。壁も床も年季が入っていたが料理は安く、老人の推薦どおり酒も悪くなかった。
問題はやはり温度だった。
「ぬるい……」
「兄ちゃん、それさっきから三回言ってるぞ」
隣の席に座っていた大工らしい男が笑った。
「俺の故郷では冷やすんですよ」
「酒を?」
「酒を」
「なんで?」
「美味いから」
「冬まで待て」
「半年待たないとビール飲めないのかよ」
卓を囲んでいた男たちが笑った。
いつの間にか恵斗もその輪へ混ざっていた。
*
話題は仕事から女、税金、王都の物価、最近値上がりしたパンへと節操なく移っていった。
この世界へ来て初めてだった。
誰も恵斗の能力について尋ねない。
誰もゴブリンの話をしない。
特殊作戦群も、自衛官も、日本も知らない。
彼らにとって恵斗は、酒場でたまたま隣に座った妙な外国人でしかなかった。
「嫁はいるのか?」
大工の一人に尋ねられた。
「いません」
「恋人は?」
「それもいません」
「なんだ、じゃあ今夜暇じゃねえか」
「今まさに暇を満喫してるところですよ」
「だったら酒飲んで終わりじゃ勿体ねえだろ」
嫌な笑い方をされた。
恵斗はジョッキを置く。
「その顔は何を企んでる顔です?」
「いい店を教えてやろう」
「酒場ならここで十分ですよ」
「酒じゃねえ」
男が親指を立てて背後を指した。
恵斗は数秒考えた。
「ああ」
理解した。
「そういう店か」
「そういう店だ」
*
王都の夜は、恵斗が想像していたより明るかった。
もちろん電灯など存在しない。それでも繁華街には店先のランタンが並び、酒場から漏れる光と行き交う人々の声によって、日没後も街は眠っていなかった。
「いや、別に本当に行くとは言ってないんですけど」
「ここまで来て何言ってんだ」
「おっさんたちが勝手についてきただけでしょう」
「若い男が異国から来て一人で寂しく酒飲んでるんだ。王都の礼儀ってもんを教えてやらんとな」
「絶対そんな礼儀ないだろ」
すでに酔っている大工三人に囲まれ、恵斗は笑いながら歩いていた。
やがて案内されたのは、繁華街の一角にある三階建ての建物だった。
娼館。
もっと陰鬱な場所を想像していたが、外観だけなら上等な宿屋と大差ない。入口には赤いランタンが灯され、扉を開けると香油の匂いと楽器の音、それに何人もの男女が話す声が流れてきた。
「じゃ、ごゆっくり!」
「おい、待て」
「俺たちは嫁がいる」
「だったら最初から連れてくんな!」
三人は笑いながら逃げていった。
「……あいつら」
恵斗は頭を掻いた。
*
「お一人?」
声をかけてきたのは、四十代ほどの身なりの整った女性だった。
「ええ。なんか連れてこられまして」
「ふふ。初めて?」
「この国では」
「あら」
女性が面白そうに笑う。
「では、うちの決まりから説明しましょうか」
料金と店の規則を聞き、恵斗は少し安心した。少なくとも怪しげな裏商売という雰囲気ではなく、王都では公然と営業している商売らしい。
広間には何人かの女性がいた。
派手な衣装を着た者もいれば、意外なほど普通の服装をした者もいる。
恵斗が少し迷っていると、一人の女性と目が合った。
二十代半ばほどだろうか。
栗色の髪を肩まで伸ばし、深緑色のドレスを着ている。他の客へ積極的に声をかけるでもなく、壁際の椅子で葡萄酒を飲んでいた。
「……あの人で」
「セリアね。分かりました」
女性が彼女へ声をかけた。
*
「セリアよ」
「恵斗です」
「ケイト?」
「恵斗」
「……ケイト」
「まあ、それでいいです」
早々に諦めた。
セリアは口元を緩める。
「変わった名前ね」
「よく言われます」
「どこの人?」
「すごく遠いところ」
「どれくらい?」
「説明すると酒がもう一杯必要になるくらい」
「じゃあ頼みましょうか」
「商売上手だな」
セリアが笑った。
それが妙に自然だった。
*
結局、二人はすぐに二階へ上がらなかった。
酒を飲みながら話した。
セリアは王都の生まれではなく、西にある小さな町の出身だった。三年前からこの店で働いており、稼いだ金の一部を故郷の母親へ送っているという。
「嫌じゃないの?」
恵斗が尋ねると、セリアは少し考えた。
「仕事が?」
「うん」
「嫌な客の日は嫌よ。でも、それはどんな仕事でも同じじゃない?」
「まあ、確かに」
「あなたは?」
「俺?」
「何の仕事してるの?」
恵斗は困った。
「今は冒険者」
「今は?」
「前は……兵士みたいなものかな」
「戦争に行ったことある?」
その質問には、すぐ答えなかった。
「まあ、それなりに」
セリアはそれ以上聞かなかった。
代わりに恵斗の手を取った。
「硬い手」
「そっちも」
「女の手に言うことじゃないでしょう」
「いや、働いてる手だなって」
「口説いてる?」
「たぶん下手なんで、違うと思います」
「本当に下手ね」
二人で笑った。
*
その夜、恵斗は久しぶりに一人では眠らなかった。
何があったのかを詳しく語る必要はない。
ただ、戦闘装備も武器もなく、次に何が起こるかを警戒する必要もない夜は、異世界へ来てから初めてだった。
窓の外では王都の喧騒が少しずつ遠ざかり、やがてランタンの明かりも減っていった。
恵斗が眠りにつく直前、隣から声がした。
「ケイト」
「ん?」
「まだ起きてる?」
「ギリギリ」
「あなた、変な人ね」
「今日それ何回目?」
「数えてない」
「じゃあ明日から数えよう」
「また来る気?」
「冷たい酒が出るなら」
「出ないわよ」
「じゃあ考えとく」
セリアが笑った気配がした。
*
翌朝、恵斗は見知らぬ天井を見上げながら目を覚ました。
一瞬だけ場所が分からなかった。
隣を見る。
セリアが眠っている。
「……ああ」
思い出した。
身体を起こそうとすると、隣から腕が伸びてきた。
「まだ早い」
「起きてたの?」
「今起きた」
「俺、帰らないと」
「どこへ?」
恵斗は答えようとして、止まった。
今日の予定はない。
「……どこにも」
「じゃあ寝てなさい」
「はい」
素直に戻った。
数分後。
「ケイト」
「ん?」
「あなた、冒険者なんでしょう?」
「一応」
「だったら聞いたことない?」
「何を?」
セリアの声から、眠気が少し消えた。
「最近、北から来る商人が減ってるの」
恵斗は目を開けた。
*
「北?」
「うん。店のお客さんに商人も多いから分かるの。北の街道を使う人が、ここ一週間くらい急に減ったって」
「理由は?」
「知らない。でも昨日来た人は、街道沿いの宿場で妙な噂を聞いたって言ってた」
「どんな?」
セリアは枕へ顔を半分埋めたまま答えた。
「森から動物がいなくなってるって」
恵斗は天井を見た。
ゴブリン。
灰角獣。
そして今度は、北の街道。
別々の場所から入ってきた情報が、少しずつ同じ方向を指し始めている。
「……なるほどな」
「何か知ってるの?」
「ちょっとだけ」
「仕事?」
「たぶん」
セリアが溜息をついた。
「兵士って、どこの国でもそうなのね」
「何が?」
「女の隣で仕事の顔するところ」
恵斗は思わず笑った。
「ごめん」
「罰として朝ご飯奢って」
「それくらいなら」
「高いところね」
「ちょっと待て」
セリアが声を上げて笑った。
*
一時間後。
二人は娼館から少し離れた食堂で朝食を取っていた。
焼きたてのパン、卵、燻製肉、それに野菜のスープが並んでいる。
「本当に高い店じゃないじゃん」
「冗談よ」
「警戒した俺が馬鹿みたいだ」
「戦争に行った兵士が朝ご飯の値段には怯えるの?」
「財布に対する攻撃は防弾装備じゃ防げないんだよ」
「ボーダン?」
「忘れて」
また説明することが増えそうだった。
恵斗はパンを千切ってスープへ浸した。
*
食事を終え、店の前で別れる時、セリアは恵斗を見上げた。
「また来る?」
「王都にいるなら」
「仕事じゃなく?」
「今度は最初から酒飲みに来るよ」
「ここ、酒場じゃないんだけど」
「昨日の半分くらい酒飲んでただろ」
「あなたが喋るからでしょう」
「楽しかった?」
セリアは少しだけ考えるふりをした。
「まあまあ」
「じゃあ俺もまあまあ」
「感じ悪い」
笑いながら恵斗の胸を軽く叩く。
「死なないでね」
その言葉だけは冗談ではなかった。
恵斗は一瞬だけ黙り、それから笑った。
「努力します」
「そういう答え方する人、信用できない」
「じゃあ、帰ってくるよ」
「うん」
それで十分だった。
*
セリアと別れた恵斗は、朝の王都を歩いた。
市場では商人が店を開き、パン屋からは焼き上がったばかりの香りが漂っている。子供たちが路地を走り、荷車を引く男が邪魔だと怒鳴り、その横では果物を売る老婆が客と値段を巡って口喧嘩していた。
昨日まで守っていた村と同じだった。
規模は違う。
暮らしている人間の数も違う。
それでも、ここには生活がある。
自分がこの世界へ来た理由など、まだ分からない。
魔王を倒せと頼まれたわけでもない。
勇者でもない。
帰る方法さえ存在しないと女神から告げられている。
ならば、急いで人生の目的を決める必要もないのかもしれなかった。
依頼を受けてもいい。
旅をしてもいい。
酒を飲んでもいい。
誰かと笑って、たまには女と一夜を過ごしたっていい。
そして、目の前で誰かが困っているなら、自分にできる範囲で手を貸せばいい。
恵斗はそんなことを考えながら、大通りへ出た。
*
そこで、冒険者ギルドの方向から一人の少年が走ってきた。
ギルドの制服を着ている。
少年は周囲を見回し、恵斗を見つけると露骨に安心した顔をした。
「新田さん!」
「俺?」
「探しました!」
「どうしたの?」
少年は息を整えながら答えた。
「ミレーヌさんが、すぐギルドへ来てほしいって!」
恵斗は眉を上げた。
「何かあった?」
「北の街道から、負傷した商隊が戻ってきました」
数分前まで頭の片隅にあったセリアの話が、一気に現実味を帯びた。
「分かった。行くよ」
恵斗は少年と並んで歩き始めた。
「ところで新田さん」
「ん?」
「なんで朝から娼館街にいたんです?」
足が止まった。
「……少年」
「はい?」
「世の中には、知らなくていいこともある」
「でも服に香水の匂いが――」
「ギルド急ぐぞ」
「え、ちょっと!」
恵斗は少年の背中を押した。
朝の王都は今日も騒がしい。
どうやら、ゆっくり休めたのは一晩だけだったらしい。
第八話 了