冒険者ギルドへ戻った恵斗を迎えたのは、昨日までの賑わいとは明らかに異なる空気だった。
朝から依頼を探している冒険者たちは掲示板の前ではなく建物の奥へ視線を向け、受付に並んでいた者たちも声を潜めている。その視線の先では長椅子へ横たえられた男が治療を受けており、床には入口からそこまで続く乾きかけた血の跡が残っていた。
「新田さん、こちらです」
ミレーヌが受付から出てきた。普段なら一言くらい小言を挟みそうなものだが、今朝はそんな余裕もないらしく、恵斗を奥へ案内しながら声を落とす。
「夜明け前に北門へ着いた商隊の方々です。六台で王都へ向かっていたそうですが、戻ってきたのは二台だけでした」
「残りの四台は?」
「街道に置いてきたそうです。亡くなった方もいます」
恵斗の表情から、先ほどまでセリアと交わしていた軽口の名残が消えた。
「何に襲われたんです?」
「それが、まだ分からないんです。魔物だという人もいれば、盗賊だと言う人もいて……生き残った方々の話が食い違っているんです」
「なるほど」
恐怖と混乱の直後なら珍しいことではない。人間は目の前で起きた出来事を、そのまま記録する機械ではないからだ。
「直接話せます?」
「それで新田さんを呼びました。昨日の報告との関係があるかもしれないと、ギルド長が」
「分かりました。まず聞いてみます」
*
生還した商隊は十一人だった。
御者、護衛、商人が混在しており、怪我の程度も違う。治療を受けている重傷者を無理に起こす必要はないため、恵斗は比較的状態のいい三人から話を聞くことにした。
最初の男は商隊長だった。
五十歳前後の痩せた男で、左の額には包帯が巻かれている。恵斗が向かいへ座ると、男は疲れ切った顔を上げた。
「冒険者か?」
「一応。北の森から昨日戻ってきたばかりなんです。それで、そちらで見たものと関係があるかもしれないと思いまして」
「北の森……どこまで行った?」
恵斗は村と谷の位置関係を説明した。
商隊長の顔色が変わった。
「そこより北だ。俺たちが襲われたのは、さらに二日ほど街道を進んだ場所だよ」
「何が起きたか、最初から聞かせてもらえます?」
男は頷き、卓上の水を一口飲んだ。
*
「最初におかしいと思ったのは、森が静かだったことだ」
「静か?」
「鳥がいなかった。鹿も見なかったし、いつもならうるさいくらい鳴いている虫まで少なかった。護衛の連中も気味悪がっていたよ」
昨朝、セリアから聞いた話と一致する。
恵斗は口を挟まず、そのまま続きを促した。
「それでも街道は通れたから進んだ。夕方になる前に次の宿場へ着きたかったんだが……途中で道が塞がれていた」
「倒木ですか?」
「いや。荷車だ」
商隊長はそこで一度言葉を切った。
「別の商隊の荷車だった。横倒しになって、道を塞いでいたんだ。馬はいなかったし、人もいなかった。荷物だけが散らばっていた」
「争った跡は?」
「血があった。それと……矢だ」
「矢?」
「ああ。荷車に何本も刺さっていた。だから俺たちは盗賊だと思った」
ここで証言の食い違いが生まれた理由を、恵斗は少し理解した。
「それで?」
「護衛が前を調べに行った。その直後だ。森の中から矢が飛んできた」
*
商隊長の話では、最初の一射で護衛の一人が倒れたという。
そこからは混乱だった。
街道の両側から矢が飛び、護衛たちは荷車を盾にして応戦した。敵の姿は木々に隠れてほとんど見えず、それでも何人かは小柄な人影を見たという。
「ゴブリン?」
恵斗が尋ねると、商隊長は首を振った。
「そう思った。少なくとも最初はな」
「違った?」
「途中から、森の奥で何かが暴れ始めた」
男の指が僅かに震えた。
「木が倒れた。一本や二本じゃない。馬が怯えて、荷車を引いたまま走り出した。俺たちを襲っていた連中まで逃げ始めて……その後はもう、何がなんだか分からん」
「その何かを見ました?」
「俺は見てない。ただ、護衛の一人が見たと言っていた」
「その人は?」
商隊長が部屋の隅を指した。
右腕を吊った若い男が座っていた。
*
護衛は二十代後半ほどで、革鎧の胸には乾いた泥と血がこびりついていた。
「見たのは一瞬です」
恵斗が隣へ腰掛けると、男は先にそう言った。
「それでいいですよ。見たままを教えてください」
「大きかった。人間の倍……いや、もっとあったと思う。黒くて、四本脚で……」
「角は?」
「ありません」
灰角獣ではない。
「毛は?」
「分からない。でも、皮膚が黒かったように見えました」
「頭はどんな形でした?」
男は答えようとして眉を寄せた。
「……すみません。覚えてません」
「大丈夫。無理に思い出さなくていいです」
記憶の空白を質問で埋めれば、本人が実際には見ていない情報まで証言へ混ざる。恵斗はそこで外見について尋ねるのを止めた。
「そいつは何をしていました?」
「襲ってきた連中を食ってました」
周囲が静かになった。
*
「俺たちじゃなく?」
「最初は」
護衛は唇を舐めた。
「森から出てきた小さい奴を一匹踏み潰して、そのまま噛みついたんです。残りは逃げました。俺たちもその隙に馬を走らせたんですが、後ろの荷車は追いつかれた」
「それで四台を失った?」
「はい」
「追跡はどのくらい続きました?」
「分かりません。必死だったので……ただ、ずっと追ってきたわけじゃない。しばらくしたら音が聞こえなくなりました」
恵斗は頷いた。
少なくとも、積極的に人間だけを狙う生物とは限らない。だが、街道へ入り込んだ以上、それだけで十分な脅威になる。
「小さい奴らの方は?」
「緑色でした。弓を持ってた。たぶんゴブリンです」
こちらは予想どおりだった。
*
三人目の証言も大筋では一致していた。
北から南へ移動するゴブリン。
動物の減った森。
さらに、それを捕食する大型の魔物。
問題は、これらが一つの原因によって発生しているのか、それとも複数の異変が重なっているだけなのかという点だった。
「どう思います?」
聞き取りを終えたところで、ミレーヌが尋ねた。
「まだ分からないですね。ただ、俺が見たものとは別です」
「灰角獣とは?」
「特徴が違います。それに、あれは俺が会った個体より北にいる」
ミレーヌは不安そうに腕を組んだ。
「北から何種類もの魔物が下りてきている……?」
「そう考えると辻褄は合います。でも、理由までは分からない」
「ギルドでも調査隊を出すことになると思います」
「でしょうね」
「新田さんも参加します?」
恵斗はすぐには答えなかった。
*
調査そのものには興味がある。
しかし、自分はまだこの世界へ来て数日しか経っておらず、地理も魔物の生態もろくに知らない。火力なら提供できるが、未知の痕跡を読み解く能力については現地の猟師や冒険者の方が優れている部分も多いはずだった。
「編成次第ですね」
「珍しく慎重ですね」
「俺、そんなに無鉄砲に見えます?」
「自覚がないんですか?」
「昨日も似たようなこと言われたな……」
ミレーヌが小さく笑った。
「ギルド長と相談してみます。ただ、出発するとしても今日ではありません。北の宿場町にも使者を出しますし、参加する冒険者も選ばないといけませんから」
「それなら、俺も今日は休みます」
「そうしてください。本当に」
「そんな心配そうな顔しなくても、今日は森に行きませんよ」
「約束ですよ」
「約束します」
そこでようやく、ミレーヌの肩から少し力が抜けた。
*
ギルドを出た恵斗は、しばらく王都を歩いた。
調査隊が編成されるまで時間があるなら、この世界について知る機会に使った方がいい。武器を持って森へ入るだけでは、いつまで経っても魔物の名前すら分からないままだ。
向かったのは市場だった。
前日に歩いた時とは違い、今日は買い物そのものより人を見るつもりで歩く。香辛料を山のように積んだ露店、革製品を吊るした店、鉄鍋を叩いて客を呼ぶ職人、路上で果物を売る子供。人混みを眺めていると、王宮や冒険者ギルドだけでは分からないこの国の生活が見えてくる。
「兄ちゃん、そこの兄ちゃん!」
声をかけられて振り向くと、露店の老婆が手招きしていた。
「これ食ってみな」
「何です?」
「見りゃ分かるだろ。果物だよ」
「果物なのは分かります」
掌ほどもある紫色の実を渡された。
見た目だけなら巨大なプラムに近い。
「いくら?」
「食ってから決めな」
「それ、値段を聞いてから食べないと怖いやつじゃない?」
「細けえ男だね」
老婆が豪快に笑った。
*
齧ってみると、意外にも甘かった。
果肉には桃のような柔らかさがあり、後味には柑橘類に似た酸味が残る。
「美味い」
「だろ?」
「じゃあ二つください」
「三つ買いな」
「なんで増えた?」
「美味いって言ったじゃないか」
「商売の圧が強いな」
結局三つ買わされた。
恵斗が代金を払うと、老婆は満足そうに銀貨をしまいながら彼の顔を眺めた。
「見ない顔だね。南の人間かい?」
「もっと遠くです」
「訛りはないのに妙な男だ」
女神による翻訳のおかげなのだろうが、それを説明しても仕方がない。
「最近こっちに来たばかりなんですよ」
「なら、腹壊す前に言っとくけど、東通りの赤い屋根の店では魚を食うなよ」
「なんで?」
「亭主が魚を見る目だけは昔からない」
「それ本人に言っていいんですか?」
「亭主は私の息子だよ」
恵斗は思わず噴き出した。
*
そこから話が長くなった。
老婆の名はマーサといい、王都で三十年以上果物を売っているらしい。恵斗がこの辺りの店を知らないと分かると、頼んでもいないのに安い食堂、腕のいい仕立屋、ぼったくる靴屋、酒を水で薄める宿まで次々と教えてくれた。
「西通りのパン屋は朝一番に行きな。昼には固くなるからね」
「それ営業妨害にならない?」
「本当のことさ。それと南門の近くにある宿はやめときな。壁が薄い」
「壁が薄いくらいなら別に」
「隣の声が全部聞こえるよ」
「……なるほど。それは場合によるな」
「若いねえ」
「なんでそうなるんだよ」
マーサが皺だらけの顔を崩して笑った。
恵斗も笑う。
ただ果物を買っただけだった。
それでも妙に楽しかった。
*
「そういや兄ちゃん」
マーサは新しい客へ果物を渡しながら、何気ない調子で尋ねた。
「冒険者かい?」
「どうして?」
「腰の辺りの歩き方が普通じゃない。何か下げ慣れてる人間の歩き方だよ」
恵斗は少し驚いた。
装備は消している。それでも長年の癖までは消えないらしい。
「まあ、そんなところです」
「だったら北へは行くんじゃないよ」
先ほどまでの軽い口調が少しだけ変わった。
「最近、その話ばっかり聞くな」
「商人が来なくなってる。野菜も麦も北から入ってくるものがあるから、こっちはもう値段が上がり始めてるよ」
恵斗は露店に並んだ品を見る。
異変はすでに魔物の問題だけではなくなりつつある。
街道が止まれば物が止まる。
物が止まれば値段が上がり、その影響を受けるのは、こうして市場で暮らしている人々だった。
「ありがとう。気をつけます」
「そうしな。あんた、まだ三個分しかうちに金落としてないんだからね」
「心配する理由そこ?」
「当たり前だろ」
最後まで商売人だった。
*
市場を離れた恵斗は、買った果物の一つを齧りながら大通りを歩いた。
昨日までなら、北の異変について考えれば最初に浮かぶのは敵の規模や装備、地形、必要な火力だったかもしれない。
しかし今は少し違う。
村で出会ったリナたちがいる。
ギルドではミレーヌが働いている。
昨夜はセリアと酒を飲んだ。
市場ではマーサに果物を三つ買わされた。
ほんの数日前まで名前すら知らなかった世界に、少しずつ顔のある人間が増えている。
戦う理由というほど大袈裟なものではない。
それでも、何かが北から押し寄せてくるのなら、その先にいるのは地図上の「王都」ではなく、今朝まで笑っていた人間たちなのだという実感はあった。
*
午後になると、恵斗は王都の書店へ入った。
店内には革表紙の本が所狭しと並んでいる。印刷技術そのものは存在するらしいが、日本の書店とは比較にならないほど本は高価で、魔物について体系的にまとめた図鑑などは銀貨を何枚も要求された。
「高え……」
「知識は安くありませんからな」
店主らしい老人が奥から答えた。
「図鑑一冊で宿に何泊できるんだよ」
「宿は泊まれば終わりですが、本は一生残ります」
「上手いこと言うなあ」
「買いますかな?」
「……買います」
負けた気がした。
恵斗は魔物図鑑と王国周辺の地理について書かれた本を一冊ずつ購入した。
*
その夜。
恵斗は宿の食堂で夕食を済ませると、部屋へ戻って買ったばかりの図鑑を開いた。
灰角獣の頁はすぐに見つかった。
生息地は北部山岳。
縄張り意識が強く、雑食性。通常は人里へ近づかず、繁殖期を除けば単独または親子で行動することが多い。
昨日見た痕跡とも概ね一致している。
問題は、その次だった。
頁をめくっていくと、黒い四足獣の挿絵が目に入った。
体高は成人男性を超え、長い前脚と大きな顎を持つ。角はない。
朝、護衛が語った特徴に近い。
「黒牙獣……」
恵斗は説明を読む。
森林地帯に生息する大型肉食魔物。
単独で狩りを行い、鹿や猪、ゴブリンなどを捕食する。
ここまではいい。
次の一文で、恵斗の視線が止まった。
本来の生息域は、灰角獣よりさらに北だった。
*
恵斗は椅子へ深く座り直した。
ゴブリンだけではない。
灰角獣だけでもない。
今日の商隊を襲った黒牙獣まで、本来いるはずの場所から南へ移動している。
これで偶然と考えるには材料が増えすぎた。
図鑑を閉じると、窓の外から王都の夜の音が聞こえてきた。酒場の笑い声、馬車の車輪、遠くで鳴る鐘。そのどれもが、北の森で起きている異変とは無関係に日常を続けている。
恵斗は机の上に残っていた最後の果物へ手を伸ばした。
「さて……何が来てるんだろうな」
明日、ギルドへ行けば調査隊について何か決まっているだろう。
それまでは休む。
そう決めて果物を齧ったところで、恵斗は顔をしかめた。
「酸っぱ……」
三つ目だけ、外れだった。
第九話 了