暗く、冷たい底の抜けた闇の中に、私はいた。
──篁の名に恥じぬ生き方を。
──お前は帝国の盾たる、篁の正当な後継者なのだから。
耳元で、冷徹な家の重圧が呪いのように囁き続ける。まだ学生だった頃の私は、その重責に苛まれ、誰にも頼ることができず、ただ一人で膝を抱えて泣いていた。
息が詰まる。胸が苦しい。今にも私の心が、闇に溶けて消えてしまいそうになった、その時。
──『唯依!』
──『唯依、大丈夫だ!』
──『唯依、あなたには私たちがついています!』
私の名を呼ぶ、三つの温かい声が暗闇を切り裂いた。まばゆい光が世界を包み込み、私はハッと目を開けた。
「……あ……」
視界に飛び込んできたのは、見慣れた崇宰の別邸の天井。そして、私の顔をこれ以上ないほど心配そうに覗き込んでいる、大切な三人の顔だった。
「唯依! 大丈夫か!? すげえうなされてたぞ!」
「唯依……悪夢でも見たのか? 額に汗びっしょりだ」
「唯依、気分が悪いのならすぐに医師を呼びますが……」
恭夜とユウヤ、そして恭子姉様が、三人がかりで私のベッドの周りに慌てて駆け寄ってくれていた。眠っている私が苦しそうにうなされているのに気づき、全員が文字通り家事を放り出して飛んできてくれたのだ。
「ううん、大丈夫です……。ただ、昔の、一人で苦しんでいた頃の夢を見てしまって……」
私が小さく微笑みながらそう伝えると、恭夜はパッと表情を明るくして、私の手を力強く握りしめた。
「なんだ、そんなことか! じゃあ、そんな過去の悪夢なんか一瞬で吹っ飛ぶほどの、最高な『今』を見ないとな!」
恭夜はそう言うと、台所へとダッシュで戻っていった。今日のために、我が篁家伝統の味付けである「肉じゃが」を彼なりに研究して作ってくれていたのだ。焦げ付かないように、急いで火の調整をし直している。
「まったく、騒々しい奴だな。……唯依、お前は少し横になっていろ。洗濯の続きは俺がやっておくから」
ユウヤは不器用な手つきで洗濯籠を抱え直し、恭夜に負けじと家事を再開するために廊下へと向かっていった。
「唯依、お体に障ると危ないですからね。暖かくしていなさい」
恭子姉様は、まるでお調子者の弟たちを窘めるような優しい目をしながら、私の肩にふんわりと上質なブランケットをかけてくれた。
◇
あの賑やかで最高に温かい結婚式から、ちょうど一年。
日差しが優しく差し込む崇宰の別邸のテラスで、私はロッキングチェアに腰掛けていた。
台所からは、エプロン姿の恭夜が「よし、最高の出来だ!ユウヤ、姉さん、家事はそのくらいにしてこっち手伝ってくれ。」と慣れた手つきでいろいろと料理を作っている。それを見たユウヤが「なんでお前そんな手慣れてんだよ!?」と驚く。「ふふん。伊達に崇宰の武家教育を受けてないんだよ」「いや絶対関係ねぇだろ!」相変わらずあ~でもないこ~でもないと言い合い「ユウヤ!洗濯物は皺を伸ばしてから畳むように!恭夜も!慣れてるからって材料を使いすぎないようにしなさい!」と恭子姉様に叱られている
かけがえのない、私の大好きな人たち。
私は、姉様にかけられたブランケットの上から、ぽっこりと大きく膨らんだ自分のお腹を、愛おしそうにそっと撫でた。
私のお腹の中には今、恭夜と共に紡いだ、二つの新しい命が宿っている。
かつて、家の重圧をたった一人で背負い込み、孤独に泣いていた少女は今──世界で一番大切な人たちに全力で支えられ、守られながら、二児の母になろうとしている。
(……こんな幸せな日々が来るなんて。あの頃の私には、夢にも思わなかった……)
胸の奥から溢れ出す愛おしさと幸福感に耐えきれず、私の目から、ぽろりと嬉し涙がこぼれ落ちた。
「お、おい、唯依!? 大丈夫か!?また悪い夢を見たのか!」
それを見逃さなかった恭夜が、お玉を持ったまま大慌てでテラスへと駆け寄ってきた。ユウヤも恭子姉様も、心配そうにこちらを見つめている。
「ううん、違うの。違うのよ、恭夜。……嬉しいから。ただ、あまりにも幸せで、涙が出てしまっただけなの」
私は涙を拭い、駆け寄ってきた恭夜の首にそっと腕を回した。
恭夜は一瞬きょとんとした後、世界中の何よりも愛おしいものを見る目で、私を優しく抱きしめ返してくれた。
「驚かせんなよ……。だけど、そうだな。俺もお前と出会えて、本当の家族になれて、最高に幸せだ」
「ええ……。この溢れるほどの幸せを、これから生まれてくる私たちの子供たちに、おしみなく、いっぱいに注いであげましょうね」
「ああ。約束だ、唯依」
二人はそっと見つめ合い、お腹の二つの命に届くように、深く、温かい口づけを交わした。
不条理な血筋の呪いをすべて乗り越えた先にある、誰も遮ることのできない、眩しいほどの希望に満ちた未来が、今、私たちの目の前にどこまでも広がっている。
『胎動する翼、不条理の血を超えて』・完