朝食の主導権争い(恭夜の猛攻)
始まりは、基地の食堂での何気ない朝の風景だった。
「ほら、唯依。お前、最近開発の書類仕事が多すぎて全然食ってねえだろ。篁の家に伝わる味付けに似せて、厨房のオヤジに頼んで俺が作ってきた特製の和食だ。ちゃんと全部食えよ」
恭夜がぶっきらぼうに、しかしこの上なく優しい手つきで唯依の前に小鉢を並べる。訓練校時代、今にも壊れそうだった唯依を支え続けた恭夜は、彼女の好みの味や、体調の微細な変化を完璧に把握していた。
「えっ……恭夜、私のためにわざわざ……? ありがとうございます」
「篁の家柄がどうとかは知らねえが、お前がボロボロになるのは見たくねえからな」
唯依が嬉しそうに頬を染め、箸を伸ばそうとした──その、刹那。
「おいおい、朝からそんな重い米なんか食えるかよ。篁、そいつの作ったブリキの餌なんかより、俺が淹れたこのコーヒーを飲んでくれ。アラスカの朝に最高に合う特級品だ」
ユウヤが完璧なタイミングで割り込み、淹れたての香り高いコーヒーと、軽く焼き上げたクロワッサンを唯依の目の前にスライドさせた。不器用なりに、アメリカ野郎なりのスマート(?)な朝の演出である。
「ブ、ブリキの餌ってなんだお前! 唯依は朝は米派なんだよ、すっこんでろアメリカ野郎!」
「過去のデータに縛られるなよ、スペア補佐官。アラスカの寒さにはカフェインと糖分が必要だって、最先端のデータが証明してる」
朝っぱらから、唯依を挟んでバチバチと目に見えるほどの火花を散らす二人。
「あ、あの、二人とも……? 私はどちらも有り難くいただきますから、そんなに睨み合わないでください……っ!」
観客席のざわめき:鈍感な仲間たちの覚醒
そんな三人の様子を、少し離れたテーブルから見つめる視線があった。
アルゴス小隊のタリサ、ヴァレリオ、ヴィンセント、そして唯依の側近である山城上総だ。
「……ねえ。なんかさ、最近ユウヤとあの平民補佐官、いつも以上に突っかかり合ってない? 機体のデータ取りの時も、どっちが総官(唯依)の指示に完璧に応えるかでリミッター飛ばしそうになってるしさ」
タリサが不思議そうにトーストを齧りながら首を傾げる。
「確かに、いつも以上の熱量だな。ただの喧嘩にしては、二人とも妙に総官の顔色を伺っているように見えるが……」
ヴィンセントがコーヒーをすすりながら冷静に分析する。
「おやおや、お二人さん、まだ気づかないのかい?」
ヴァレリオがニヤニヤと下劣な笑みを浮かべ、上総の方を向いた。
「山城の嬢ちゃんは、最初から知ってたんだろ? あの二人が、何のために『ドッグファイト』を演じてるのかをさ」
上総はフッと口元を和らげ、冷たいお茶を一口飲んだ。
「ええ。最初は恭夜だけが、訓練校の頃から唯依の『鎧』を剥ぎ取ろうと必死だったのだけれど……。どうやら海での遭難騒ぎのあと、ユウヤ少尉も完全に腹をくくったようね」
「はぁ!? え、ちょっと待って、それって……!!」
タリサが驚愕のあまりガタッと立ち上がり、指を差した。
「あの二人、総官のことが好きなわけ!? マジで!?」
「声が大きいわよ、タリサ」
上総が窘めるが、タリサの目は完全に輝いていた。
「うっそ、あのアメリカ野郎と平民補佐官が、一人の女を取り合ってんの!? 最高じゃん! こんな面白い娯楽、アラスカのどこを探したってねえよ!」
その日を境に、アルゴス小隊のテーブルは、二人の男の「アプローチ合戦」を採点して楽しむ、臨時の観戦特等席へと変貌した。
シミュレーター室の攻防(ユウヤの猛攻)
数日後のシミュレータールーム。
テストフライトのブリーフィングが終わり、唯依が席を立とうとした瞬間、ユウヤが先手を打った。
「篁。……今度の休み、基地の外の街に新型の制御パーツの視察に行くんだろ。俺が護衛としてついていってやる。アメリカ製の車の運転なら、そこのスペア補佐官より俺の方が上手いからな」
「えっ? あ、少尉、それは助かりますが……」
唯依が戸惑う中、すかさず恭夜がユウヤの肩をがっしりと掴んで引き剥がした。
「待てコラ、アメリカ野郎。唯依の街の買い出しの荷物持ちは、訓練校の時から俺の仕事だ。お前みたいな荒い運転の車に乗せたら、唯依が車酔いするだろ。俺が歩いてついていく」
「アラスカの雪道を歩くって正気か? どんだけ過保護なんだよ、お前は」
「うるせえ! お前みたいな下心が透けて見える奴に、唯依を任せられるか!」
「下心? 堂々と一人の女性をデートに誘うのが、アメリカの紳士の流儀だ。お前みたいに影からコソコソ守るだけのスペアとは違うんだよ」
「デ……っ!? デートって言ったか今お前!?」
恭夜の顔が真っ赤になり、ユウヤの胸ぐらを掴む。
その様子を、コントロールパネルの陰から覗き見るアルゴス小隊の面々。
「おーおー、ユウヤの野郎、ストレートに『デート』ってブチ込んだぞ! アメリカ野郎の面目躍如だな!」
ヴァレリオが小声で興奮する。
「だけど恭夜のあの焦り方も良いわね。手が出そうなほど嫉妬してる。……唯依、顔が真っ赤になって今にも煙が出そうだわ。がんばれ、恭夜」
上総が密かに手帳にスコアをつけながら、恭夜にエールを送る。
「っていうか、あいつら戦術機に乗ってる時よりいい動きしてない? ほら、ユウヤのあの回り込みのステップとかさ!」
タリサが完全にプロレス観戦のノリで楽しんでいた。
翌朝、ユーコン基地のブリーフィング室。
篁唯依は、手にした電子端末のデータが全く頭に入ってこない自分に、猛烈に焦っていた。
「……篁? どうした、顔が赤いぞ。アラスカの風邪でも引いたか」
「唯依、熱でもあるなら今日のテストフライトは中止にするが……」
目の前にいるユウヤと恭夜から同時に顔を覗き込まれ、唯依は「ひゃいっ!?」と、軍人らしからぬ奇妙な悲鳴を上げて一歩飛び退いた。
「な、なんでもありません! 私は至って健康です、近寄らないでください!」
バッと資料で顔を隠す唯依を見て、ユウヤと恭夜は不思議そうに顔を見合わせている。
これまでは「開発総官」としての重責と「篁の後継者」としての鎧で、男二人のバチバチした視線に全く気づいていなかった唯依。だが、ユウヤが『デート』と言い出した後の恭夜の慌てようを間近で見たことで、彼女の中でついに、鈍すぎた歯車がカチリと音を立てて噛み合ってしまったのだ。
(あ、あの二人は……まさか、私に……?)
一度気づいてしまうと、日常のあらゆる光景が違って見えてくる。
訓練中、唯依が資料の不備に少しでも顔をしかめれば、恭夜はすぐにデータをまとめ、「無理すんな、お前には俺がついてる」とぶっきらぼうに、だけどこの上なく優しい声をかけてくる。
一方でユウヤは、不器用ながらも「お前の理想を形にしてみせる」と、唯依の造った不知火・弐型を誰よりも完璧に乗りこなし、事あるごとに真っ直ぐな視線で自分を特別扱いしてくる。
今までは「優れた衛士としての信頼」だと思い込もうとしていた。
だが、違う。あの二人の瞳にあるのは、信頼のさらに奥にある、一人の女性へ向けられた熱い情熱だ。
「……篁、おい。やっぱり変だぞ、お前」
ユウヤが心配そうに、唯依の手首をそっと掴む。その大きな手の温もりに、唯依の心臓がドクンと跳ね上がった。
「ちょっと待てユウヤ、唯依が嫌がってんだろ。手が滑ったって言って頭グシャグシャにしてやろうか?」
すかさず恭夜が間に割り込み、ユウヤの手を払いのけて唯依の肩をそっと引き寄せる。その力強い腕の感触に、唯依は頭が完全にパンクしそうになった。
「二人とも……っ、もう私に構わないでください!!」
顔をリンゴのように真っ赤に染めた唯依は、二人の男を置き去りにして、脱兎のごとくブリーフィング室を飛び出していった。
「……おい、スペア補佐官。お前が余計なこと言うから怒らせただろ」
「あ? お前がベタベタ触るからだろ、アメリカ野郎!」
背後でまた始まった二人の相棒の喧嘩を聞きながら、唯依は廊下で胸に手を当てて、激しい鼓動を必死に抑えていた。
(どうしましょう……。あんな真っ直ぐに想われては、私は……開発総官として、どう接すれば良いのですか……っ!)
ブリーフィング室を真っ赤な顔で飛び出した唯依は、廊下の隅で熱くなった両頬を冷まそうと必死にパタパタと手で仰いでいた。
そこへ、コツ、コツ、と静かで上品な足音が二つ、近づいてくる。
「──あらあら。ずいぶんと可愛らしいリンゴが、廊下に落ちているわね?」
「本当に。ユーコン基地の寒さも、あの熱気の前には形無しのようね、唯依」
クススクと楽しげな笑い声を響かせながら現れたのは、義姉の崇宰恭子と、唯依の側近であり親友の山城上総だった 。
「き、恭子様……っ! 上総まで……! からかわないでください!」
唯依はさらに顔を赤くして、助けを求めるように二人を見つめた。だが、百戦錬磨の恭子様と、日頃からアルゴス小隊のバカ騒ぎを特等席で見守っている上総が、この絶好の機会(チャンス)を逃すはずもなかった。
二人は唯依の左右をがっちりと挟み込むようにして、逃げ道を塞ぎながら開発総官室へと連れ込んだ。
「さあ、唯依。総官としてではなく、一人の可憐な乙女として、お姉様に話してごらんなさい。……あの二人、どちらがあなたの心をそれほどまでに乱しているの?」
恭子様はソファに唯依を座らせると、身を乗り出して、いたずらっぽく瞳を輝かせた。
「ど、どちらだなんて、そんな……! 私はただ、二人があのように、その……不埒というか、過保護というか……っ」
「不埒ではなく、あれは『情熱的』と言うのよ、唯依」
上総が冷たいお茶を唯依の前に置きながら、ニヤリと口元を緩める。
「見ていて面白いわ。恭夜は訓練校の頃からあなたに過保護だったけれど、最近はユウヤ少尉まで完全に目の色が変わっているもの。データ取りの最中も、どちらがあなたの指示を完璧にこなすかで、機体のリミッターを外しかねない勢いだわ」
「う、上総までそんな……! 私は開発総官として、彼らを平等に、優れた衛士として見なければならないのに……あんな風に真っ直ぐに見つめられては、指示を出す声が震えてしまいます……っ!」
唯依はついに白旗を上げるように、顔を両手で覆ってソファに沈み込んだ。
一度気づいてしまった二人の熱い好意。思い返せば、恭夜のぶっきらぼうな優しさも、ユウヤの不器用な特別扱いも、すべてが自分へのアプローチだったのだ。
「ふふ、良いのですよ、唯依さん」
恭子は唯依の隣に座ると、その震える肩を優しく抱き寄せた。
「国を背負う重圧も、篁の名も、今だけは忘れなさい。二人の素敵な男の子に想われるのは、女の子としての最高の特権ですもの。……ちなみに私の弟(恭夜)はぶっきらぼうですが、一途さだけは保証しますわよ?」
「ちょっと恭子様、それはずるいです。私はアルゴス小隊の仲間として、ユウヤ少尉のあの必死なアプローチも応援したくなります。唯依があんな可愛らしい一面を見せるのは、彼の真っ直ぐな言葉でもありますから」
「あら、上総。それは私の可愛い弟への宣戦布告かしら?」
「まさか。男同士の真剣勝負を、特等席で観戦したいだけですわ」
陰で勝手に盛り上がる義姉と親友の会話を聞きながら、唯依は「もう、お二人とも……っ!」と涙目で怒るしかなかった。
しかし、二人の温かいからかいのおかげで、唯依の胸の中にあった焦燥感は、いつしか心地よい気恥ずかしさへと変わっていた。
(恭夜……、ユウヤ少尉……。私は、どうすれば良いのでしょう……)
二人の男の熱い視線を思い出し、唯依は再び小さくため息をついた。
アラスカの極寒の地で、少女の心は周りの心配を余所に、これ以上ないほど甘酸っぱく、熱く、色づいていくのだった。
アラスカの夜、基地の裏手にある自動販売機の明かりの下。
恭夜は冷たい缶コーヒーを自分の額に押し当てながら、深く、重いため息をついた。
「はぁー……クソ、面白くねえ」
その隣で、同じく冷たいお茶を手にしながら、山城上総がやれやれと肩をすくめている。
「珍しいわね、恭夜。あなたがそこまで情けないため息をつくなんて。またユウヤ少尉と唯依を巡って喧嘩でもしたの?」
「喧嘩ならいっそ楽なんだよ。……なぁ、上総」
恭夜は缶コーヒーを睨みつけたまま、苦々しく口を開いた。
「最近の唯依、ユウヤと話してる時、なんか楽しそうっていうか……あいつのストレートな言葉に、あからさまにドギマギしてんだろ。……俺には、あんな顔見せない。俺とあいつは、訓練校の時からずっと一緒にいすぎた。今の俺と唯依は……ただの『友達以上、恋人未満』のぬるま湯から、一歩も進めてねえんじゃないかって、不安なんだよ」
名を奪われ、スペアとして生きてきた恭夜にとって、唯依は暗闇の中の唯一の光だった。だからこそ、後から現れたユウヤの真っ直ぐなアプローチに、唯依が心を動かされているのではないかと、焦りと恐怖が止まらないのだ。
そんな恭夜の弱音を聞いた上総は、ふっと表情を和らげた。
彼女は一歩歩み寄ると、かつて訓練校で共に死線を越えた戦友として、恭夜の肩を優しくポンと叩いた。
「馬鹿ね、恭夜。唯依があなたをどれだけ特別に思っているか、本当に分かっていないの?」
「……あ?」
「あの子にとって、ユウヤ少尉のアプローチは『予期せぬ奇襲』だから動揺しているだけよ。だけど、あなたという存在は、あの子の『心の拠り所(ベース)』そのもの。一緒にいすぎたから進めないんじゃないわ。あなたという確かな土台があるから、あの子は今、アラスカで前を向いて笑えているのよ。自信を持ちなさい、私の誇る最高に過保護な相棒さん」
上総は恭夜の顔を覗き込み、励ますように、大人の包容力に満ちた優しい笑みを浮かべた。恭夜もその言葉に少しだけ救われたように、「……そうだといいんだけどな」と、ようやく小さく笑みを返した。
──だが、その時だった。
「──そこで、お二人は何を仲睦まじくお話しされているのですか?」
低く、地を這うような、恐ろしく冷たい声が響いた。
恭夜と上総がハッとして振り返ると、そこには自動販売機の影から姿を現した、篁唯依が立ち尽くしていた。
その瞳は、普段の凜とした輝きを完全に失い、ドス黒い「嫉妬の炎」でメラメラと燃え上がっている。彼女の視線は、上総が恭夜の肩に置いたままの手と、二人の妙に縮まった距離に釘付けになっていた。
「ゆ、唯依!? なんでここに……」
「夜風に当たろうと思ったら、私の側近と、私の……その、幼馴染の二人が、随分と親密そうに寄り添っていらしたものですから! 私の邪魔が入らない場所で、随分と楽しそうなお話ですこと!」
唯依は完全に我を忘れ、顔を怒りと嫉妬で真っ赤に染めながら、一歩一歩、恭夜たちに詰め寄っていく。
ユウヤに好感を持たれていることなどよりも今は、恭夜が他の女性(それも親友の上総)と二人きりで、優しく慰められている姿を見て、唯依の胸の中で「恭夜を誰にも渡したくない」という猛烈な独占欲が爆発してしまったのだ。
「上総! あなた、恭夜の肩から今すぐその手を離しなさい! 恭夜も恭夜です! あなたには私というものがありながら……っ、あ、頭をクシャクシャにするのは私だけではなかったのですか!?」
「おい唯依、落ち着け! 上総はただ俺の相談を──」
「言い訳など聞きません! もう、恭夜なんて大嫌いです、バカァ!!」
完全にパニックと嫉妬に狂った唯依は、涙目でそう叫ぶと、脱兎のごとく走り去っていった。
取り残された恭夜は、「お、俺なんか悪いことしたか……?」と呆然と立ち尽くす。
その横で、上総は自分の手を引っ込めながら、ニヤニヤと最高に楽しげな笑みを浮かべて恭夜の背中を強く叩いた。
「ほらね、言ったでしょう? 『友達以上、恋人未満』なんて、とんだ勘違いよ。あんなに余裕のない唯依、初めて見たわ。……頑張って追いかけなさい、新婚さん」
「新婚って言うな! ……クソ、唯依、待てーーーっ!!」
恭夜は冷めかけた缶コーヒーをポケットに突っ込み、夜の基地内へと全速力で駆け出していった。
その後ろ姿を見守っている上総は「フフッ、青春ねぇ~」といつもの手帳にスコアをつけるのであった。
後日、必死に誤解を解こうとする恭夜と嫉妬で怒り狂ったことが恥ずかしくて必死に忘れようと耳に手をあて走り去る唯依の姿が目撃されたという。
インフィニティーズ戦の勝利と、もう一つの極限任務
ブルーフラッグ演習において、あの「上空目視マーキング」という型破りな戦法で見事に米軍最強のラプターを叩き潰したアルゴス小隊。
その夜、ユーコン基地の食堂の一角を貸し切って、インフィニティーズ戦の大勝利を祝う盛大な祝勝会が催されることとなった。
「ヒッハーーー! 最高にスカッとしたね! あの鼻持ちならないエリートどもが、あたいたちの不知火・弐型に手も足も出ないで落ちていくんだもん!」
タリサがジョッキを片手に大はしゃぎし、ヴァレリオとヴィンセントも「最高の夜だな」と笑い合っている。
そんな賑やかな宴の最中、対等な恋のライバルであるユウヤに差をつけるため、密かに恐るべき「作戦」を始動させている男がいた。
──崇宰恭夜である。
(フン、操縦技術(ドッグファイト)じゃあの周りのアメリカ野郎に並ばれたがな……。男の価値はそれだけじゃねえってところを見せてやるよ)
恭夜は不敵な笑みを浮かべ、あらかじめ厨房のオヤジに交渉して許可を貰っていた基地の調理場へと向かった。
彼が今夜、ユウヤに勝つために投入する隠し球。それは、もしもの時のスペアとして崇宰家で叩き込まれた、徹底的な武家修業の隠れた成果──「一級品の料理の腕前」だった。
武家の教育とは、ただ剣を振り、戦術機を駆るだけではない。毒殺を防ぐための厳格な食材の利発、体調を極限まで管理するための栄養学、そして主君や身内をもてなすための完璧な調理技術。それら全てが、恭夜の身体には骨の髄まで染み込んでいた。
「よし、火加減は完璧だな……」
恭夜はエプロンを締めると、持ち前の超絶的なナイフ捌きで食材を瞬く間に切り刻み、アラスカの限られた食材を使って、篁家が伝統的に好む上品な出汁の利いた和食ベースの特製創作料理を次々と仕上げていった
第二の戦場:胃袋のドッグファイト
しばらくして、恭夜が両手に豪華な大皿を抱えて宴席に戻ってきた。
湯気と共に立ち上る、アラスカの基地では絶対に嗅ぐことのできない、出汁と醤油のなんとも言えない芳醇で優しい香り。
「おい、お前ら。ただのビールとジャンクフードじゃ味気ねえだろ。俺が特製で作ってやったから、好きなだけ食え」
「な、何だよこれ……! めっちゃ良い匂いなんだけど!?」
タリサが目を輝かせて真っ先に箸を伸ばし、一口食べた瞬間、その場に硬直した。
「……んんんーっ!? 美味すぎる! なにこれ、料亭!? あんた本当にただの平民補佐官か!?」
アルゴス小隊の面々が「美味い、美味い」と大騒ぎで群がる中、恭夜は目的の人物──篁唯依の前に、特別に美しく盛り付けられた一皿をそっと置いた。
「ほら、唯依。お前、最近開発総官の重圧で全然まともな飯が喉を通ってなかったろ。これ、お前の好みに合わせて作ったんだ。……食えよ」
「えっ……? 恭夜が、私のために……?」
唯依は驚きながらも、どこか懐かしい香りに誘われるように箸を取り、そっと口へと運んだ。
咀嚼した瞬間、唯依の碧い瞳が大きく見開かれる。
「……! これは、お父様が生前に私に作ってくださった、あの篁の味……。出汁の引き方から、みりんの加減まで、完璧です……!」
じわりと胸の奥に広がる温かさと、あまりの美味しさに、唯依の頬がこれ以上ないほど幸せそうに、とろけるように緩んでいく。完全に胃袋をガッチリと掴まれた顔だった。
「へへ、だろ? お前が喜ぶと思って、これだけは気合入れて作ったんだ」
恭夜が勝ち誇ったように腕を組み、ニヤリと笑う。
その光景を、横からギリィ……と歯の根が鳴るような音を立てて睨みつけている男がいた。ユウヤ・ブリッジスである。
「……チッ、やりやがるなスペア補佐官。まさか戦闘技術だけじゃなく、そんな姑息な家事スキルまで隠し持っていようとはな」
ユウヤは完全に先手を打たれた悔しさに唇を噛み締め、手元にあったクロワッサンをギチギチと握り潰しそうになっていた。アメリカ仕込みのスマートさでは、日本の伝統的な和食の味を再現する恭夜の「幼馴染の特権」にはどうしても太刀打ちできない。
「あらあら、ユウヤ少尉? 随分と悔しそうな顔をして。あなたの淹れる特級コーヒーも素敵だけれど、今の唯依のあの幸せそうな顔を見たら、今回は恭夜の完全な一本勝ちね」
上総が冷たいお茶をすすりながら、手帳のスコアに恭夜への大量加点を書き込み、ニヤニヤと楽しげに囁く。
「フン、勝負はまだ始まったばかりだ。次は俺が、アイツの度肝を抜くような最先端のアプローチを見せてやる」
ユウヤは闘志をさらに燃え上がらせ、恭夜を激しく睨みつけた。
血筋に縛られ、戦うことしか知らなかった二人の男たち。
しかし今夜は、戦術機のコックピットを飛び出し、一人の少女の笑顔──その胃袋を巡って、どこまでも泥臭く、愛おしいドッグファイトを繰り広げるのだった。
祝勝会が終わり、自分の部屋に戻った恭夜は、ドアを閉めた瞬間に「よっしゃあ!」とガッツポーズを決めてベッドに飛び込んだ。
「見たか、アメリカ野郎! 唯依のあの嬉しそうな顔……完全に俺の勝ちだな!」
自慢の料理が唯依に大好評だったことが嬉しくてたまらず、部屋で一人、ニヤニヤと大喜びしていたその時。部屋の明かりの届かないソファの陰から、クスクスと鈴の鳴るような、聞き覚えのある美しい笑い声が聞こえてきた。
「ふふ、ずいぶんとご機嫌ね、恭夜」
「うわっ!? 恭、恭子姉さん! なんで俺の部屋のソファにいるんだよ!」
暗がりから現れたのは、実の姉である崇宰恭子だった。湯上がりの艶やかな姿で、実の弟のあまりの喜びようを、からかうような目で愛おしそうに見つめていた。
「だって、可愛い弟が厨房で必死に包丁を振るっていると聞いたものですから。……まさか、崇宰家で叩き込まれたあの厳格な武家修業の成果が、そんな風に女の子の胃袋を掴むために役に立つなんてね。お姉様、驚いてしまいましたわ」
「うぐっ……! れ、歴史ある崇宰の技術をそんな風に言うなよ!」
恭夜は一瞬で顔を真っ赤にして、頭を掻きむしりました。
確かに、食材の選び方から、毒殺を防ぐための完璧な調理法、体調を整えるための栄養学まで、すべては崇宰家の「スペア」として生き残るために義務付けられた、地獄のような修業の日々で身につけたものだった。
からかわれてブツブツと言い訳をする恭夜の前に、恭子はゆっくりと歩み寄ると、その美しい手で、いつものように恭夜の髪を少し手荒に、けれどこの上なく優しくクシャクシャと撫で回しました。
「でも、本当に良かったわね。あんなに素敵な笑顔を浮かべる唯依さんを見られたのですもの」
姉の手の温もりを感じながら、恭夜はふと、自分の手のひらを見つめた。
かつては、崇宰の家に縛られ、自分の血を呪い、あの日々を「忌まわしいもの」とさえ思って生きてきた。武家というシステムそのものが大嫌いだった。
だけど──もし、あの地獄のような修業がなかったら、今夜、責任と重圧に押し潰されそうだった大好きな唯依を、あんな風に心の底から喜ばせてやることはできなかった。
「……そうだな。今までは、あんな修業なんて糞食らえだってずっと思ってた」
恭夜は照れくさそうに笑いながら、姉の手をそっと包み込む。
「だけど、今なら、あの厳しい修業の日々も……まぁ、悪くはなかったなって思えるよ。全部、唯依のあの笑顔に繋がってたんだからさ」
「ええ、本当に。あなたにその技術を授けておいて、本当に良かったわ」
恭子は満足そうに微笑み、弟の確かな成長と、その胸にある真っ直ぐな恋心を愛おしそうに見つめるのでした。
忌まわしかった過去の呪いが、唯依への想いによって、確かな「誇り」へと変わっていく。恭夜は、明日からもユウヤに負けないアプローチを続けようと、静かに心に誓うのだった。