負ければトレーナーもひんしのバトル──ポケモン《コール&マイン》 作:じゅぺっと
目が覚めたとき、最初にわかったのは、部屋が寒いことじゃなかった。
スズカとのバトルから二日経っている。
手の凍傷はもう治っているはずなのに、あの寒さだけが体の芯に沈んで、骨の隙間に残っているような気がした。
天井を見上げたまま、私はしばらく動けなかった。暖房は昨夜からつけっぱなしにしていたはずなのに、指先の感覚が妙に鈍い。布団の中で手を握ってみても、ちゃんと握れているのか、一瞬わからなくなる。
「……大丈夫だ」
そう呟くと、ベッドの脇でこちらを見ていたピッピが小さく鳴いた。
この子は私の手持ちだ。
親が最初に与えてくれてから、ずっと一緒にいる。
「大丈夫。私は死なないよ」
自分に言い聞かせるように続けて、私はピッピの頭を撫でた。
「それに、これくらい……ポケモンバトルをするポケモンの痛みに比べたら、なんてことない」
私は、この子がバトルで傷つくのが嫌だった。
ひんしになるなんて、どうしても耐えられなかった。
でも、ポケモンを持つなら嗜みとしてバトルを覚えなさい、と親は言った。
だから私は、なるべくこの子を戦わせず、借りたポケモンで勝負してきた。そうしていたのに、なぜか私はほとんど負けなかった。
「……君を傷つけたくなかった。ポケモンたちを傷つけたくなかった」
ピッピの背を撫でながら、私は小さく息を吐く。
「いや……ポケモンたちを傷つけているくせに、自分は何のリスクも負わない人間になりたくなかったんだ」
それだけだったはずなのに。
その違和感を口にするたび、周りとの距離は少しずつ開いていった。
唯一それを聞いて批判せず話してくれた友人と理想を語り合って、その果てに今、私は人間もひんしになるポケモンバトル場へ通っている。
「……温かいものでも飲もう。君の好きなエネココアでも淹れるか」
ケトルに水を入れ、カップを二つ用意する。
けれど持ち上げた瞬間、指先が思ったより動かず、陶器が小さく鳴った。
危うく落としかけて、心臓がひどく跳ねる。
……こんなことで。
自分で自分にいら立つ。
私はスズカのふぶきに耐えて、ひやみずを通して、先に相手を落とした。
勝ち方だって間違っていなかったはずだ。冷風より、肌に張りつく冷水のほうが人間から熱を奪う。あの場のルールでは、それがいちばん危険だった。ただそれだけの話だ。
ただ、それだけなのに。
勝った試合から二日経っても、こんなふうに震える指でカップひとつまともに持てない。
私は白湯を淹れ、湯気の立つカップを両手で包むように持って椅子に座った。
窓の外は曇っている。遠くから車の音と、人の話し声がかすかに聞こえた。どこにでもある朝の音だ。あの冷え切った空間で、人が倒れるのを見た夜なんて、まるで関係のない世界の音。
ピッピが足元へ寄ってきて、私の膝に顎を乗せる。
私は白湯を一口飲んだ。熱いはずなのに、唇が温度を認識するまで少し時間がかかる。
そのとき、部屋の扉がこんこんと鳴った。
私は思わず顔を上げた。
「……間違いか? それとも、運営……?」
両親が来るなら、必ず連絡してくる。
友人のほとんどいない私に、このアパートの場所を知っている人間は少ない。係員か、運営か、それとも――。
カップを置き、ピッピに目で少し待っていてくれと伝えて立ち上がる。足音を忍ばせ、扉の覗き穴をそっと覗いた。
そこにいたのは、予想していなかった相手だった。
「……え」
「おっはよー! かわいいスズカちゃんだよー!」
扉を開けると、まるで二日前のことなど何もなかったみたいに、スズカがにこっと笑った。片手には紙袋、もう片手にはコンビニ袋。普通の若い女の子みたいな格好をしているのに、笑顔だけは妙に図太い。
「どうして……」
「どうしてって、ポケモンバトルした友達の家に来たの。昨日の敵は今日の友って、誰かが歌ってたでしょ?」
スズカは首をかしげる。
「あなたとの勝負、すごく勉強になったし。あと、あなたの部屋ここだって聞いたから」
「誰に」
「私を一晩買った人」
あまりにもあっさり言うので、一瞬意味が遅れた。
おととい、低温室の向こうで意識を落とした相手。唇の色をなくして、歯を鳴らしながら崩れ落ちた姿は、まだはっきり覚えている。それがたった二日で、差し入れ片手に私の部屋を訪ねてくるなんて。
スズカは私の警戒など意に介さず、袋を少し持ち上げてみせた。
「入れてくれない? 立ち話するには廊下、寒いし」
その言い方に少しだけ呆れて、私は扉を大きく開けた。
追い返すより、目の届くところに置いておいたほうがまだましだと思った。
「……散らかってるけど」
「気にしない気にしない。ていうか綺麗じゃん。真面目ー」
スズカは遠慮なく部屋に上がり込み、暖房の前のいちばん温かそうな位置にさっさと座った。まるで前から知っていた部屋みたいな顔をしている。紙袋からスナック菓子を取り出してテーブルに並べ、「はい、おみやげ」と笑った。
私は扉を閉めてもしばらくその場から動けなかった。
「……元気そうだな」
「そりゃそうでしょ。ひんしのダメージは一晩で治るんだし。ポケモンバトルと一緒だよ」
スズカはけろっと言って、コンビニ袋からホットレモンを一本差し出した。
「ほら。冷えにいいやつ」
少し迷ってから受け取る。
カップ越しの熱が、じんわり指に沁みた。
「あ、ピッピだ。かわいい子だね」
スズカが気づいて手を振ると、ピッピは見知らぬ人間を警戒して、私の後ろにそっと隠れた。
「あなたに似てるね」
「そうか? 似合わないとよく言われるよ」
ピッピはかわいい。
その中でも、私のピッピはとびきりかわいい。素直で、天然で、人を疑うことをあまり知らない。
それに比べて私は、ひねくれていて、打算的で、可愛くない。そう言われて育ってきた。
「警戒心強いけど、人が嫌いって感じじゃないとこ」
私は返事に詰まった。
そんなに私は、常に身構えて見えるのだろうか。
「ねえ」
スズカが不意に、真顔に近い声で言った。
「真面目そうなのに、なんであそこにいるの?」
ふざけた調子のままなのに、その問いだけが妙にまっすぐだった。
「賞金目当てって感じじゃないし。目立ちたいタイプでもないでしょ。なのに、勝ち方だけはすごく冷静。ああいう場所に来る理由としては、ちょっと珍しいなって思って」
ごまかそうと思えば、ごまかせる。
お金が必要だから。巻き込まれたから。行きがかりで。適当な理由はいくらでもある。
でも、スズカはそんな薄い答えで引き下がる目ではなかった。
軽そうに見えて、人をよく見ている。
「……君はどうなんだ? 玉の輿狙いとは言っていたが、何がきっかけであそこに?」
とっさに聞き返して時間を稼ぐ。
返ってきたのは、思ったよりずっとまっすぐな答えだった。
「……私ね。生まれが寂しい町だったんだ」
スズカはテーブルに頬杖をついたまま言った。
「昔は観光地として栄えてたらしいけど、小さい頃にはもう、お金持ちなんて寄りつかなくなってた」
「それで、お金目当てに……?」
「そう。賞金もあれば嬉しいけど、それよりVIPの目に留まるほうが大事。綺麗で、度胸があって、ちょっと壊れにくい女って印象づけられたら、人生変わるかもしれないし」
冗談めいた口調なのに、冗談ではなかった。
「地元で普通に生きてても、会えない人がいて、触れられない世界があるでしょ。選ばれる側に立てないなら、向こうから見える舞台に立つしかない。あの場所なら、どんなトレーナーもポケモンを借りて平等に戦える」
「平等……」
その言葉は、私と友人が好んで使ったものだった。
あの施設は歪んでいても、たしかに“平等”を看板にしている。
「命を懸けてまで?」
「命を懸けないと見てもらえないこともあるんじゃない?」
スズカはさらりと言って、ホットレモンをひと口飲んだ。
「まあ、あなたみたいなタイプには下品に聞こえるかもだけど。でも、身の丈に合わない幸せを掴むなら、それなりの覚悟はいるでしょ。もちろん、他人を傷つけるぶん、自分も傷つく覚悟も」
私は何も返せなかった。
軽薄だと切り捨てるには、その言葉は少しだけ切実すぎた。
あの場所に来る人間は、みんなバトルが好きで、誰かを傷つけたいから来ているわけではない。勝ちたい理由も、お金が欲しい理由も、生き残りたい理由も、それぞれ違う。
スズカは足を組み替え、少しだけ笑った。
「で? 私は言ったよ。次はあなたの番」
私は窓の外を見た。
曇ったガラスの向こうを、車が一台ゆっくり通り過ぎていく。
言いたくない。
口にしたら、それが本当に自分の理由になってしまう気がした。
けれど、スズカはちゃんと話した。
ならこちらも、相応の言葉を返さなければ不公平だ。
「……昔、友達がいたんだ」
ぽつりと零す。
「たった一人の友達が」
スズカは黙った。
茶化さない。その沈黙に少しだけ救われる。
「ポケモンバトルのことを、私よりずっと真面目に考える子だった。私に才能があるのに、埋もれるなんてもったいないって言ってくれた」
目を閉じると、遠い日の光景がにじんだ。
放課後のベンチ。
まだ日が高くて、買ったばかりのパンの袋が風でかさかさ鳴っていた。
近くの広場では、子どもたちがポケモンバトルごっこをしている。本物のリーグ戦じゃない。ただの真似事だ。でも、ポケモンたちは楽しそうに走り回っていて、それが少しだけ眩しかった。
『君にはポケモンバトルの素晴らしい才能があるのに、どうして本気で楽しまないんだい?』
『アヤ……またその話?』
『君が心が言葉になるまで何度でも聞くよ』
隣に座っていた彼女が、そういった。
私はジュースのストローをくわえたまま、少し考えた。
私も幼かったからうまく言葉にできなかったけど。
『……だって、ポケモンは痛いのに、私は痛くないから』
アヤはきょとんとして、それから笑わなかった。
真面目な顔のまま、広場の向こうを見た。
その日、バトルごっこをしていた片方の子が、勝つために何度も同じ指示を出していた。小さなポケモンが転び、立ち、また転ぶ。それを見ているのが少しつらかった。
『ポケモンセンターがあるっていっても、痛いものは痛い』
そう言うと、アヤは静かに頷いた。
『ポケモンはひんしの怪我をするのに、指示する人間は安全なんて、変だよ』
『たしかにその通りだね』
アヤは得心したようにうんうんと頷いた。
『つまり君は、ポケモンが傷つくのが嫌なんじゃなくて、ポケモンと人間が平等じゃないのが嫌なんだ。なんてかわいいんだろう!』
『かわいい……?』
アヤの声は熱を帯びていた。
いつもの穏やかさの奥で、何かが燃えているみたいだった。
『ポケモンに傷つく指示を出すなら、同じだけ痛みを知るべきだよ。勝つ責任も、負ける怖さも、ポケモンだけに押しつけちゃ駄目だ。その通り! ぜひ実現しよう!』
はしゃぐアヤを見るのは、あれが初めてだった。
『そんなの、無理だよ』
『どうして?』
『だって……人とポケモンが平等なバトルなんて、作れるわけない。大人たちだって、みんな反対する』
するとアヤは少しだけ目を見開いて、それからまっすぐ私を見た。
『私たちなら作れるよ』
あまりに迷いのない言い方に、私は思わず笑ってしまった。
『君は強いし、ちゃんと痛みを考えられるから。強いだけの人より、ずっと向いてる』
そんなふうに言われたのは、たぶん初めてだった。
気恥ずかしくて、私は視線を逸らす。
『買いかぶりすぎ……』
『してないよ』
アヤは本気だった。
ふざけても、冗談にもならないくらいに。
『誰かが最初に作らなきゃ、ルールは変わらない。大人は都合のいいバトルしか残さないから』
そのときの横顔を、私は今でも覚えている。
正しさを信じている顔だった。少し危ういくらい、澄んでいて、まっすぐで。
だからこそ、たぶん気づけなかった。
その理想が、どこまで行けば壊れるのか。
やがて、アヤは突然いなくなった。
理由も言わず、行き先も告げず。
残されたのは、短いメッセージだけだった。
ごめん。先に、形にしてみる。完成したら、招待するよ。
そして二年後、届いた招待状。
導かれた先にあったのが、あのコール&マインだった。
気づくと、部屋には暖房の音だけが小さく鳴っていた。
私は自分の指先を見た。
いつの間にか、紙カップが少しへこんでいる。無意識に力を込めていたらしい。
「アヤに会いたくて、私はあそこにいる」
言えるのは、そこまでだった。
本当はもっとある。問いただしたいことも、怒りも、確かめたいことも。けれど全部を言葉にすると、まだ崩れてしまいそうだった。
スズカは少し黙ってから、驚くことを言った。
「昨日、私を買った人もアヤって言うんだ。なんか雰囲気も似ててさ」
「……なんだって?」
思わず顔を上げる。
スズカはふざけている様子ではなかった。
「自信満々で、リーリアと戦ってどうだったって聞かれて。私も仲良くしたいって答えたら、このアパートを教えてくれたんだ。両想いだね」
「……その言い方はやめてくれ」
「だってそうでしょ。話を聞く限り、あなたは招待を無視することもできたわけだし」
スズカは肩を揺らして笑う。
「違法バトルだって警察に通報することもできた。もっとも、あの規模なら無意味そうだけど。でもそれより、アヤが私のためにこれだけのものを用意したのに、自分が通報して終わりでは……唯一の友人にあまりに不公平だと思った」
「あなたらしくていいね。きっとアヤも、そこのピッピちゃんも、あなたと会えて幸せだと思う」
「……茶化さないでくれ」
「茶化してないよ」
スズカは持ってきた菓子をほとんど一人で平らげて、最後の一つを口に放り込んでから言った。
「私は玉の輿狙い。あなたは親友との再会。並べるとだいぶ変だけど、運命の人を探してるのは同じだね」
「……そうかもしれないな」
「ねえ。あなたはアヤのことを唯一の友達って言うけど、もうあなたとスズカちゃんも友達みたいなものでしょ? 一緒にお茶会したんだから」
「……君のふてぶてしさはブニャット並みだな」
思わず苦笑してしまう。
私みたいな堅物に、自分から友達になりに来る人間なんてアヤ以外にはいなかった。けれど、案外悪い気はしない。
スズカは立ち上がると、最後に私の手を握った。
「今度また対戦することがあったら、リベンジするつもり。でも、どっちがひんしになっても恨みっこなし。せっかくこんな場所でできた友達なんだから、仲良くしようね」
「……善処するよ」
「そこは嘘でも、こちらこそよろしくって言うとこでしょ」
「じゃあ、よろしく」
「よろしい!」
最後まで明るく言って、スズカは玄関へ向かった。
「今日はそろそろ帰るね。ていうか、LINE交換しよ?」
「……ああ」
扉が閉まる。
部屋は急に静かになった。
ピッピが足元へ寄ってきて、心配そうに私を見上げる。
私はしゃがみ込み、その背をそっと抱いた。
あたたかい。
ピッピの体温は変わっていないのに、スズカと話したおかげで、温もりを感じる心を少しだけ取り戻せた気がした。
だからこそ思い知らされる。
昔、私たちが語っていたのは、こういうぬくもりを守るための理想だったはずだ。誰かを壊して見世物にするためじゃない。
アヤがどう思っていたかはわからないが、私はそうだ。
それなのに、アヤは「先に形にしてみる、私たちはずっと友達だよ」と言った。
そして本当に形にしてしまった。
窓の外では、雲の切れ間から少しだけ光が差していた。
私はピッピを抱いたまま、ゆっくり目を閉じる。
アヤに会わなければならない。
確かめなければならない。
どうしてあんな場所を作ったのか。
どうして私をそこへ呼んだのか。
そしてもし本当に、あの席のどこかでこちらを見ているのだとしたら。
「……なぜ、直接話してくれないんだ。アヤ。今日の友は明日もずっと、友達でいてくれるんじゃなかったのか」
その答えを聞くまでは、私は戦いから降りられない。
ようやくポケモン二次創作小説っぽくなってきたような気がします。