負ければトレーナーもひんしのバトル──ポケモン《コール&マイン》 作:じゅぺっと
スズカとLINEを交換してから二週間後。
私はまた、あの地下へ戻っていた。
戻りたいわけじゃない。
けれど、戻らなければ進めない。
アヤに会うためにも。
あの子が何を考え、何を作り、どうして私をここへ呼んだのかを知るためにも。
コール&マインの薄暗い通路は、相変わらず湿った冷気と、鉄と消毒液の匂いが混ざっていた。何度通っても慣れない。ここは空気そのものが、地上とは別の倫理でできているように思える。
係員に導かれ、控室の椅子に腰を下ろす。
壁に埋め込まれた小さなモニターには、すでに今夜の対戦情報が映っていた。
【対戦相手:キバヤ
指定ポケモン:マクノシタ
形式:一対一
特別規定:打撃系ダメージはトレーナーの肉体へ等価反映。ひんしになった場合、トレーナーに『気合パンチ』が直撃する】
思わず眉をひそめる。
「……悪趣味だ」
電気戦のような痙攣でもない。
氷戦のような極寒でもない。
殴られた痛みが、そのまま人間へ返ってくる。
嫌なルールだった。
その一方で、妙にわかりやすくもある。
ポケモンが受けた一撃を、人間も受ける。
比喩も、装飾も、言い逃れもない。これまでのどの試合より、生身の暴力に近い。
「技の登録は済ませた」
この施設では試合中に説明されないが、バトルの前に、そのポケモンが覚えられる技の中から四つを指定しておく決まりになっている。戦闘中、登録されていない技を命じても、ポケモンは命令を受け付けない。
そういう戦略的な説明を観客には省く。
いかにこの施設が、バトルそのものよりも――トレーナー同士の痛めつけ合いを見せることに重きを置いているかがよくわかる。
「では、試合開始までお待ちください」
AIの無機質な応答が返ってくる。
私は背もたれに身を預け、静かに息を吐いた。
そのとき、不意に控室の扉が開いた。
「あなたがリーリアさんね。あたしはキバヤ。よろしく」
顔を上げる。
立っていたのは、二十代前半ほどの女だった。背筋はまっすぐで、目元は妙にきつい。髪を無造作に後ろで束ね、白いシャツの袖を肘まできっちり折っている。教師というより、訓練教官めいた空気だった。少しの乱れも許さない、そんな圧がある。
――キバヤ。
今日の私の対戦相手だ。
だが、わざわざ試合前に挨拶へ来るとは思わなかった。
「ああ、よろしく」
私が短く返すと、キバヤは私の座る姿勢を一目見て、薄く笑った。
「姿勢はいい。背筋も伸びてる。でも、態度は悪い。先生への礼儀がなってないな」
初対面の相手に向ける言葉ではない。
だがその響きには、ただの挑発とは違う、生理的に嫌な“指導”の気配があった。
「……私はあなたを先生に持った覚えはないんだが。教師なのか?」
「今日から君を指導するんだ。教員免許も持ってる」
そう言って、彼女は名刺でも出すみたいにスクール免許を見せてきた。
一瞬のことだったが、偽物ではなさそうだった。
「教師がこんなところで子ども相手にバトルか。教員採用試験に道徳の科目はなかったのか?」
皮肉のつもりだった。
けれどキバヤは、まるで褒め言葉でも受けたみたいに堂々と答えた。
「それは違うよ、リーリア。むしろこのロール&マインこそ、現代において最も道徳的なバトルと言えるだろう」
「……本気で言っているのか?」
「では、早速最初の授業を始めよう」
そう前置きして、キバヤは持論を一方的に語り始めた。
「現代の子どもは、痛みを知らなすぎる。大人たちのせいで、痛みを学ぶ機会を奪われていると言ってもいい」
「……体罰信者か」
昔は教師がしつけの名目で生徒へ暴力を振るうのが当たり前だった、と大人たちから聞いたことがある。
私には正気の話とは思えなかった。
だがキバヤは、私の言葉など意に介さない。結論が出ているのだろう。
「子どもたちはもっと痛みを覚えるべきなんだ。慣れるべきなんだよ。教師は生徒に立派な大人になれと言う。でも、立派な大人になるために競争社会へ出れば出るほど、痛みの機会は増え、その強さも増していく」
「……暴論だ」
「リーリア。君は身なりがいいし、知識もある。そんな君の生活を支えているお父上は、痛みのない甘ったるい社会にいると思う?」
父の顔が脳裏に浮かぶ。
ポケモン絡みの事件を扱う裁判官。私が幼い頃からずっと忙しくて、たまに顔を合わせても仕事のことばかり気にしていた。ゆっくり遊んでもらった記憶は、ほとんどない。
それでも母はいつも言っていた。
お父さんは、私たちのために、人間とポケモンの社会のために、必死に働いているのだと。
「だが、このロール&マインなら、子どもたちは適切に痛みを学ぶことができる。二年前から、ずいぶんルール整備も進んだんだ」
「……二年前から?」
その時期に、私は敏感に反応した。
二年前。
アヤが私の前から姿を消した時期と一致する。
恐らく、あの子がここへ来たのも、その頃だ。
「あなたが私の先生だと言うなら、一つ教えてほしい」
「なんでも聞きなさい!」
「アヤという名前に聞き覚えはあるか? 二年前からここに来ているはずなんだ」
その名を口にした瞬間、キバヤの表情がぴくりと固まった。
ほんの一瞬だった。
でも、見逃すほど私は鈍くない。
「……彼女は、自慢の教え子だよ」
やがてキバヤは、少し誇らしげに言った。
「私との最初の敗北を糧にして、目覚ましい活躍をした。BWランクにも上がってね」
「……BWランク」
ロール&マインでは、一勝ごとに賞金百万円。
そして一定以上の戦績を収めた者は、上位ランク――BWランクへ上がり、賞金は一千万になるらしい。
相応のリスクもあるはずだが、詳細はまだ知らされていない。
知るには、その条件を満たす必要がある。
「もっと詳しく――」
「それはだめだ」
キバヤはきっぱり遮った。
「生徒のプライバシーを、教師がみだりに明かすわけにはいかない。私から言えるのはここまでだ」
「……そういうところだけは現代教師ぶるんだな」
「君は態度が悪いが、口は回る」
キバヤは腕を組み、満足そうに頷いた。
「そろそろ時間だ。私は自分の控室へ戻るとしよう」
それだけ言って、彼女は踵を返した。
アヤのことを聞けないのなら、もう用はない。
なら、あとはバトルで勝つだけだ。
ここで立ち止まるわけにはいかない。
アヤが本当にこの場所にいるのなら、勝ち上がって近づくしかない。
【さぁ今夜も始まりました、ポケモンロール&マイン!
今回は格闘タイプ指定戦、マクノシタ同士のバトル!
ダメージを受けるたび、トレーナーにはマクノシタによる打撃を体験していただきます!
そして、もしマクノシタがひんしになった場合――『きあいパンチ』でトレーナーにもひんしになっていただきます!】
実況の声が、地下の闘技場に響き渡る。
【そして選手は――既にBWランクへの出場権を手にしながら辞退を続けている、歩く体罰! キバヤ先生の入場です!】
キバヤは淡々と歩いてくる。
媚びも笑顔もない。肩を回し、首を傾け、試合前に軽く体をほぐすその姿は、教師というより、むしろ現役の格闘家そのものだった。
【対するは“リーリア”! 二連勝中の新鋭!
理不尽な体罰から逃れ、勝利を収めることはできるのか!?】
私は白い帽子のつばに軽く触れ、それからフィールドを見渡した。
足元は固い。
逃げ場は広くない。観客からはちょうど見下ろしやすい広さで、そのぶん隠れる余地もない。
「さあ、いよいよ実践授業だ。楽しみだな」
「……あいにく、あなたは私の先生じゃないし、楽しませるつもりもない。ただ、勝つだけだ」
マクノシタたちが前へ出る。
互いに姿勢を低くし、分厚い脂肪を揺らしながら構えるその姿は、まるで力士の立ち合いみたいだった。
「さて、マクノシタは進化前ながら体力に優れたポケモンだ。つまり――」
「先に音を上げるのは、人間。そう言いたいんだろう」
「予習はバッチリのようだな。だが、予習だけで勝てるほどバトルは甘くない」
【それでは始めましょう!
マクノシタ限定、格闘タイプ一対一バトル――スタート!!】
「ドレインパンチだ!」
開始と同時に、キバヤが命じた。
やはり長期戦狙いか。
回復しながら削っていくつもりなのだろう。
「……じごくづき!」
相手の拳と、こちらの突きが交差する。
お互いに命中した。
【さあ、お互いに技が決まった!
格闘同士は半減にならない! しかし悪技であるじごくづきは、格闘タイプには今ひとつ! これはリーリア選手のプレイングミスか!?】
次の瞬間、私の目の前にいたダメージ反映用のマクノシタが拳を構えた。
小さい体格に見えて、その脂肪のついた腕は重い。
振り抜かれた一撃が、力士のつっぱりみたいに私の肩を叩いた。
「っ――!」
右肩に、鈍く重い衝撃が走る。
打撃そのものだった。
電気戦のような痺れでもない。氷戦のようなショックでもない。肉の上から骨ごと殴られた感覚が、そのまま身体の奥へ飛び込んでくる。
「君の使った『じごくづき』は、相手の音技を封じる技だ」
キバヤが冷静に言う。
「対戦相手の喉を潰して、指示を封じるつもりだったんだろう」
「……随分、慣れてるんだな」
キバヤは平然と立っていた。
しっかりと喉元を庇い、ダメージを殺している。まともに効いているようには見えなかった。
「それが通じるのは、未熟な子ども相手だけだ。先生には通用しない」
「このバトルじゃ、ポケモンがひんしになれば人間も強制的にひんしになる。だから、まずはポケモンを倒れないように立ち回るべき……そういうことか」
「察しがいいな」
キバヤが薄く笑う。
「ドレインパンチ」
「……じごくづき!」
再び、突きと拳が交差する。
乾いた音が何度も響く。
観客には、単なる殴り合いに見えるだろう。
けれどそのたびに、私の胸元、肩、頬に細かな衝撃が断続的に返ってくる。息が浅くなる。数発で、頬の内側が熱を持ち始めた。
キバヤは依然として平然としている。
「赤点だな。工夫がない」
「……回復技ばかり繰り返すあなたに言われる覚えはない」
「では、少し変えてやろう。ローキックだ」
「っ……こちらもローキック!」
マクノシタ同士の下段蹴りが交差する。
互いの足が払われ、二匹とも大きく体勢を崩した。
厚い脂肪に覆われたマクノシタには、そこまで大きなダメージではないのかもしれない。
けれど、私に返ってくる足払いは別だった。
「がっ……!」
反応する間もない。
足元を払われ、身体が浮き、そのまま床に叩きつけられる。
「人は痛みを覚えて成長する。子どもが知恵を絞って大人に反抗しても、大人には見え透いている――そう学べたかな?」
【なんとキバヤ選手、マクノシタの足払いを受けてなお、空中で姿勢を持ち直し平然と着地! さすが鬼教師です!】
私は片膝をついたまま顔を上げた。
キバヤは私を見下ろし、獰猛な笑みを浮かべている。
「もう勝負はついた。だが、君は降参しないだろう?」
「……降参したら、試合が終わったあとに直接殴るつもりなんだろう」
「殴るんじゃない」
キバヤは笑った。自分のほうが優位だと確信している笑みだった。
「バトルの責任から逃げた悪い子を、しつけるだけさ」
清々しいほどの自己正当化だった。
反吐が出る。
そこから先、試合はほとんど一方的になった。
強い。
重い。
打ち込まれる拳のたびにマクノシタがたたらを踏み、同時に私の身体も打たれる。
ときおり混じる足払いで床を転がされ、そのたびに肘や肩の奥まで鈍く軋む。
頬が痺れる。
口の中を切ったらしく、鉄の味が広がった。
観客席がどよめく。
痛そうだからだろう。単純で、下品で、だからこそわかりやすい。
【キバヤ選手、攻める攻める! リーリア選手、これは苦しい!
ポケモン同士はまだ体力を残しているが、トレーナー側の消耗が早い!】
その通りだった。
マクノシタ同士はまだ立っている。
だが、先に悲鳴を上げているのは私の身体のほうだった。
ついに片膝をつく。
腹の奥が潰れたように苦しい。息を吸おうとすると、胸郭そのものが痛んだ。
視界の端で、キバヤがわずかに笑う。
「……あなたは全然、平等じゃない」
私は吐き捨てるように言った。
この女は勝ちたいわけじゃない。
正確には、勝つだけでは足りないのだ。
勝てる場面でも、もっと痛い打ち方を選ぶ。
すぐ終わる一撃より、長く苦しむ形を選ぶ。
「あなたはただ、自分より弱い立場の人間を一方的に殴りたいだけだ」
「……まだ教育が足りないようだな」
キバヤは肩をすくめる。
「私は正しく生徒と向き合いたいだけなのに」
「だったら、こんな場所で止まっていないでBWランクに上がればいい」
痛めつけたい。
もっと苦しませたい。
その欲がある限り、この女は最短の勝利を選ばない。
私は歯を食いしばって立ち上がる。
「マクノシタ……踏み込め」
キバヤの声が低く落ちる。
相手のマクノシタが前へ出る。
今度こそ決めに来る。
いや、決める“前”の、いちばん痛い一撃を選ぶはずだ。
「アームハンマー」
来た。
大振りで、重い。
決定打に足る威力。だが、そのぶん遅い。
「こらえる!!」
私は叫ぶ。
攻撃でも防御でもない、ただ一度だけ確実に耐えるための技。
マクノシタのアームハンマーが、こちらのマクノシタと――私に直撃する。
【な、なんと高威力技をその身で受け止めた! リーリア選手、体罰を受け入れたか!?】
全身の骨が軋む音がした。
思わず舌を噛みそうになる。意識が飛びそうになる。
それでも、まだ倒れない。
私も、マクノシタも、ひんしにはなっていない。
「受けていい――そのまま、きしかいせいだ!!」
削り切られた体力。その限界の縁から、私のマクノシタが全身ごと拳を突き上げる。
鈍い衝突音が、フィールド全体に響いた。
「っ――!?」
キバヤの顔色が、初めて変わる。
相手のマクノシタが脂肪のついた体が揺らし、そのまま大きくのけぞった。
「……ポケモンの技には、おおざっぱに威力表というものが存在する。ドレインパンチは75、ローキックは60。そして気合パンチは150だ。その気合パンチを受ければ、人間は確実にひんしになるように設定されているんだろう」
そして、きしかいせいという技にはある特徴がある。
「こらえるによって体力を限界まで削った場合のきしかいせいの威力は──200。完全に人間の許容範囲をオーバーだ」
「ま……待て! 先生を殺す気か!?」
限界まで削られていたからこそ威力を増した一撃。
キバヤの目の前にいるダメージを与えるためのマクノシタが、今までのはじゃれあいといわんばかりに腕を大きく回す。
「確かに、人生には痛みがつきまとう。だがそれは、立場の強いものが弱いものに一方的に与えるものであっていいはずがない。それは、ただの暴力だ。教育ではない」
「待っ……!」
そして次の瞬間。
キバヤの身体が、ほぼ同時に折れた。
「が――っ!!」
格闘経験なんて関係ない。
受け身も、喉の守りも、急所の知識も関係ない。ポケモンが本気になった瞬間の純粋な出力差は、人間の技術で受けきれるものじゃない。
キバヤは膝から崩れ落ちた。
腕で支えようとして、支えきれない。呼吸の仕方を忘れたみたいに喉が引きつっている。
実況が一拍遅れて叫ぶ。
【き、決まったァーッ!!
リーリア選手、土壇場からの大逆転! 決まり手は“きしかいせい”!
限界まで削られた体力をそのまま威力へ変換した一撃! キバヤ選手、これは立てない!!】
観客席が沸く。
どよめきと歓声が混ざり、天井の高い闘技場に反響する。
私はその場で肩を上下させた。
息が苦しい。顎が痛い。腹も、膝も、肩も、全部が鈍く軋んでいる。
それでも、私は立っていた。
キバヤはなおも起き上がろうとしていた。
その執念だけは本物だと思う。けれど、もう身体がついてこない。
「痛みを教えるだの、鍛えるだの……そう言いながら、結局あなたは子供が苦しむ姿を見たかっただけだ」
私は荒い呼吸の合間に言う。
「あなたは、平等からいちばん遠い」
キバヤは何か言い返そうとした。
でも、もう声にならなかった。
そのまま、完全に崩れ落ちる。
【勝者、リーリア!
格上のキバヤを倒したことで、リーリア選手は上位卓選別条件へ到達! 1000万円卓への道が、いま開かれましたァーッ!!】
1000万円。
その言葉だけが、ひどく遠く聞こえた。
腕も、脚も、まともではない。
このまま自力で帰れる状態じゃないのは、自分でもわかる。
勝った。
なのに、気分は少しも軽くならない。
この場所は、アヤの理想を食い潰して、こんな怪物まで飼いならしている。
それを思うと、勝利より先に嫌悪が胸に溜まる。
係員が駆け寄ってくる。
担架。治療班。慌ただしい足音。
拒否して自分の足で帰りたいのややまやまだが──多分、折れている。残念だがここで治療を受けるしかない。
次は上だ。
アヤに近づくほど、この場所の中心にあるものが見えてくる。
そしてきっと、見たくないものも。
私は唇の端の血を拭った。
痛みはまだ消えない。
それでも、進むしかなかった。