バーテミウス・クラウチJrと夜の庭の恋人 作:へびのあし
夜空を模した天井には星が光り、眼前には幻の海が広がっていた。黒く淀んだ北の国の海岸を模したそこには、打ち上げられた海藻が磯の香りを漂わせている。
ホグワーツ城には秘密が多い。
永遠を思わせる長い歴史の間、ひたすら魔法を浴び続けてきたのだ。強力な魔法使いや魔女たちが作った秘密の部屋の一つや二つ、廊下を歩くだけですぐに行き当たる。
ミント・ナイトガーデンが薬菓子を調理するのに使用するこの部屋は、しもべ妖精に教えてもらったのだと言っていた。曰く、『海辺で料理をしたい気分だなぁ』が合言葉なのだとか。
コトコトとレモンジャムを煮込みながら、ミントは片手で小瓶を開けていつもの薬を摂取した。
一瞬木べらを任されたバーティは、半分冗談、半分本気で口にした。
「その薬、まだ飲むのか?」
「うん」
「もう支障がない程度には成長しただろう」
「残念ながら、まだ支障がある」
どこに支障があるというのか。
バーティは内心で首を傾げた。確かにまだ小柄ではあるし、常にローブのサイズがあっていないせいで袖が余ってだぶだぶしているが……それでもまあギリギリ大人の魔女として見ることができる程度には彼女は成長している。そもそも高い身長で威圧感を与えなければならないのは夫だけである。妻は小さく控えめに後ろにつき従っていればよいではないか?
まあいい、とバーティは思った。
ミントにとって大事な何かがあるのだろう。深入りする必要はない。些細なことなのだから。
「そういえば、例の通信販売の経過はどうなってる? 雨蛙チョコレートは安定しているが利益率が薄いんだったな。ホット唐辛子キャンディは元気爆発薬の隣に並べてくれたカタログがあったらしいが、そっちはどうなんだ」
「まずまずってところ。ホット唐辛子キャンディはかなり売れたかな。でも一時的だった。ちなみに今一番売れ行きが伸びてるのはスリーピー・アラート・ラベンダーケーキ。いい夢を見てぐっすり眠れるけど、各種警告機器商品の音に反応して瞬間的に覚醒する仕様にしてみたやつ」
やっぱり闇の時代だね、じわじわと忍び寄ってくる死神の音が聞こえるよ。そうミントは言った。
「死神? 随分と詩的だな」
「実は一昨日占ってみたんだよね。私たちの恋路はどうなるかって」
波の音が微かにさざめく。浜辺で焚火をしているような二人の間の鍋から、レモンの甘い香りが漂う。
バーティの息は少しばかり潜められた。ミントの視線はどこでもないどこかをさまよっている。
「バーティ」
「……なんだ」
「死神犬が訪れる。それはもうどうしようもない。私たちはどうあがいても二人一緒に大人にはなれない。……でも、どのように死に立ち向かうのかは私は自分で決めることにした」
また一つ、ずっと言っていなかったことを教えてあげる。
雪色の髪の魔女は甘く穏やかに微笑んだ。
「私は、私の商売の本当の実態を、今まで一度たりともバーティに開示していないんだよ。そう、当然、さっき私が通信販売について口走ったことも……完全な嘘ではないけれど、大事な部分はずっと隠していた」
いきなり何だ。おまえは何を言っている?
いぶかし気に眉をひそめたバーティに、ミントはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「私は趣味でお菓子を作っていたわけじゃない。自分自身の才能に任せて新商品を開発していたわけでもない。私の父は魔法薬菓子の専門家。おばあ様もそうだった。おばあ様の姉もそう。つまり私はずっと家業の手伝いをしていた。卒業後に仕事を継げるように準備していたんだよ」
「……意図がさっぱりわからない。そのような告白が何になる?」
「ナイトガーデン家は文字通り夜に身を潜めた一家だよ。さらにはホラス・スラグホーンとずぶずぶの仲で、それはつまり彼の友人であるアルバス・ダンブルドア校長の完全なる味方であることを意味する」
ゆっくりと、バーティの頭脳が回転し始める。誰よりも優秀で、教科書に書いてあったことで理解できないことなど何一つなかったその脳味噌が、何よりも早く答えに辿りつく。
バーティの顔色が静かに蒼白になってゆく。
「ナイトガーデン家の調理室は、そのまま『不死鳥の騎士団』の密会に使用されることすらある。……さて、バーティ。常に幸運薬を煎じ、いつそれを口にしているかわからない当主を襲撃するのは得策とは言えないよね。ならばその子供は? 私はもうあと一、二年あれば完璧な幸運薬を調合する逸材に化けるけれど、今はまだそうではない。ついでに私は未だ学生の身で、ホグワーツに通っている。得体のしれない魔術と薬品に守られた牙城に籠られればもう手出しはできないが、今ならまだ可能性があるかもしれない」
貴重なナイトガーデンの子だよ、とまるで歌を吟ずるようにミントは囁いた。
「さあ、闇の帝王の元へ連れて行こう。敵陣営の芽を摘めば、あの方はきっとお喜びになる。ふふ、そんな青い顔をする必要なんてないじゃないかバーティ。今宵は新月の晩……元々そのつもりだったんだろう?」
さすがは占い学で一番の成績を取った女、言うことが違う……などと、茶化すことができたならどれほど良かっただろうか。
「ああバーテミウス・クラウチJr……おまえは本当に優秀だけど、人を油断させるのが苦手だね。世界のほとんどを見下している支配欲、愛に飢えて全てを強奪しようとする欲望、みんな出会った瞬間に気付いたよ。隠そうとしても漏れでていた……さあ、なぜ私はおまえのそばにいたのだと思う? わからないだろう。私はずっと馬鹿で純朴な娘のふりをしていたんだから」
わからないだろう、わからないだろう。ミントは壊れたラジオのように繰り返した。
「バーティ。今さら考えてもあがいてもどうにもならないよ。辿れる運命は一つだけ。だけど安心していい。私は大人しくおまえの糧となって死んであげるから」
しかしまあ、騙くらかし対決では私の勝ちかな? さてどう思う、バーティ?
砂糖で煮込んだレモンが静かに焦げ始める。ミントは涙もろくなったのだろうか。ぼろぼろに顔を崩して泣いていた。いや違う。状況が最悪なんだ。その他大勢と同じように、ミントは極限状態にさらされて疲れ果ててしまったのだ。
呆然として幻の海の波の音を聞きながら、バーティはひたすらにミントの背をさすっていた。
ああ。狂っている。くるっている。
俺は何のために誰をなぐさめようとしているのだ?
*
姿くらまし、そして姿あらわし。
敬愛する闇の帝王に、己の恋人も陣営に加えていただけるように頼むため。そのはずだった。
たったの一日前までは。
今は何もわからなかった。
「ナイトガーデンの後継を連れて戻ったか」
「……は」
血のように赤い瞳の神様は、静かにバーティを見下ろしていた。鳥肌が立つほど圧倒的な魔力に守られた闇の帝王に見据えられると、それだけで暴れまわっていた心が冷えて凪いでいくような気がした。
帝王は知っていたのだ、とバーティは思った。このお方は元々そのつもりだった。バーティを試す手筈が整えられていた。
ああ。
なんということだろう。
このお方にかかれば、あらゆるひとびとは赤子になる。
みんなみんな子供になる。父親の思いのままにその可能性の小枝を手折って剪定し、美しく伸びゆく方向へと矯正する。これをすべてのひとにできるから、ゆえにこそ帝王は世界を変えることができるのだろう。
バーティは跪きながら、ただ黒土混じりの雪に覆われた地面を見つめていた。そこにはバーティの術で失神させ、抱えて連れてきた後にそっと横たえた彼女の体があった。
「おまえのことはレギュラスから聞いている。独力で服従の術を使いこなし、長期に渡りその魔力の鎖を維持し続けたと。ずいぶんと優秀な杖の腕を持つようだな?」
「……もったいなきお言葉」
「現在の法が禁じる最上位の呪文が、残り二つある。ヒトに向ければ一度で監獄行きの終身刑だそうだ。わかるか、バーティ?」
「はい。磔の呪文、そして死の呪文でございます」
その通りだ、と闇の帝王は重々しく言った。
「では、今から練習せよ」
「……は、」
はい、の言葉が喉の奥で詰まった。神に直接声をかけていただける多幸感の中で、素人のヴァイオリンが出すノコギリ音のような何かが引っ掛かった。
「ロードの役に立ちたいのならば、使いこなせ。それができることを証明した後に、おまえに印を与えよう」
わかっていたはずだった。迷いは消した。彼女自身がそれを望んだ。ゆえにバーティは選んだ。
世界のために、これからバーティは彼女を生贄にするのだ。
ノロノロとバーティは立ち上がった。
「エネルベート」
バーティが放った蘇生呪文により、失神状態からミントは回復する。
数度瞼が震え、ミント・ナイトガーデンの目がうっすらと開いた。
見慣れた顔だった。
雪の上に寝かせたために、ふわふわの銀髪には溶けた雪の透明な雫が付着していた。あまり身なりには気を遣わない魔女は、いつにも増してくしゃくしゃで土に汚れた格好だった。
彼女はゆっくりと手を地面につき、上体を起こした。
常に薬草をローブに仕込んでいるせいで、どんなに服を洗っても草の香りを漂わせる少女。小さく幼い見た目に似合わず、土壇場でいらぬ度胸を発揮することをバーティは知っている。
予想通り、ミントは己の処刑場へ連れてこられても一切ひるむことはしなかった。
あまりに彼女が普段通りの様子なので、バーティのほうが不安になったくらいだった。
彼女はゆっくり周囲を見回して、ある一点でその顔を動かすのをやめた。彼女の視線の先には帝王がいた。
「……バーティ。本当にロード・ヴォルデモートの元に連れてきてくれたんだ?」
「闇の帝王だ。気軽にこの方の名を呼ぶな」
「はいはい」
ミントは何を考えているのか、夜の衣を纏い佇む王を上から下まで眺めまわした。
「うん」
「……」
ミントは今、完全にバーティを無視していた。
彼女は立ち上がり、闇の帝王の前に立って一礼した。
「こんばんは。私はミント・ナイトガーデン。この世界を反吐が出るほど嫌ってた。でも、アルバス・ダンブルドアは好きで、バーティのことはもっと好き。素敵な家族もいることだし、近頃は私もけっこう幸せだ……うん、死ぬ前に一回聞いてみたかったんだ」
闇の帝王よ、とミントは静かに問いかけた。
「あなたは私のような者に対して、いったいどんな言葉をかけるのか?」
ミントの独特の自己紹介に対し、帝王はわずかに面白がるような表情を浮かべていた。
「ほう。死を覚悟してここに現れたのか? なかなか殊勝な態度だな?」
「占い学の教授に予言の使い方が上手だって太鼓判を押されたぐらいだから。まああの人も去年死んでるけど……とにかく私は自分で占い、そして今日この場を死に場所に選んだ。それだけのこと」
「どうせ死ぬなら意味はないな。己の身が朽ち果てる前に世界を変えてしまう努力をするのが真の強者だ」
「そう? じゃあ私が命乞いをすれば生かしてくれる?」
「愚か者。慈悲にすがるのみの弱者に居場所はない。だがまあ、そこの男と戦い、殺すことができたならば考えてやらぬこともないかもしれぬな?」
「バーティを殺せたら? おかしなことを言うね」
「ほう。何がおかしい」
バーティを捨て置き、ミントと闇の帝王が舌戦を始めた。そうとしか言えない光景だった。バーティは呆然と二人のやりとりを眺めていた。
「帝王よ、あなたはさっきからずっと、私の心に侵入している。そういう術を使っている。ならばわかるはずだ。私はバーティを殺さない。ああそうだ、わからないはずがない」
「……」
「それとも……そうか。あなたは本当に……ああ、なんてことだ」
ミントは囁くように言った。
「わからないのか」
心底憐れむ声で、ミント・ナイトガーデンは静かに口にした。
「なんて気の毒な」
瞬間、どろりと彼女の姿が溶けた。