第1話
放課後の理科室には、夕方の西日が差し込んでいた。
「遙ーー、まだ帰らないの?」
友人の水野純子に教室の入口から声をかけられ、私、飛騨遙は振り返った。
「うん、もうちょっとだけ。先生に頼まれた標本の片付けが残ってるから」
「真面目だねぇ。じゃ、私先帰るよ」
「待ってよ、純子!」
実は授業をサボった罰掃除なのだがそれを言う必要は感じなかった。
慌てて声をかける。
「そんな急がなくてもいいじゃん。駅までは一緒に行こっ」
「じゃあ早くしてよ。今日コンビニ寄りたいんだから」
「はいはい、今やりますー」
机の上に並んだ標本箱を片付けながら、私はふと窓の外を見た。
東京の街は夕暮れに染まり、校庭ではまだ運動部の生徒たちが走り回っている。
いつもの放課後。いつもの景色。
明日も明後日も、たぶん同じような一日が続いていく。
そのときだった。
「……あ」
机の上を、小さな蜘蛛が歩いている。
「どうしたの?」
「蜘蛛」
「えっ、どこ?」
純子が一歩下がる。
「そこそこ。机の上」
「うわ、本当だ。先生に言おうよ」
「大丈夫だって。ちっちゃいし」
「遙、そういうところ妙に強いよね」
「だって蜘蛛くらいで騒いでたら笑われるじゃん」
私は蜘蛛を逃がそうと、近くにあった紙をそっと差し出した。
しかし、蜘蛛は紙の上へ乗るどころか突然こちらへ跳んだ。
「きゃっ!」
チクリ。
「痛っ!」
私は反射的に目元を押さえた。
「え、噛まれた?」
「たぶん……」
「大丈夫!?」
「うん。目の下を軽く噛まれたみたい。でも、ちょっと痛いだけ」
「病院行ったほうがいいんじゃない?」
「そんな大げさな。ほら、もう痛くない」
そう言って私は笑った。
純子はまだ心配そうだったが、自分が平気そうにしているのを見て、渋々頷いた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。それより帰ろ」
「……まあ、遙がそう言うなら」
二人は理科室を出た。
そのときの私は、本当に何も心配していなかった。
まさかこの蜘蛛が、自分の人生を変えることになるなんて知るはずもなく。
「じゃ、また明日ね」
「うん。また明日」
駅前で純子と別れ、数分ほど歩いたところで妙な違和感を覚えた。
「……なんか、身体軽くない?」
夜更かししてたせいで朝から少し眠かったはずなのに今は妙に元気だ。
試しに少しだけ走ってみる。
タッ、タッ、タッ――。
「わっ!」
想像していたより遥かに速い。
「ちょ、待って待って!」
慌てて足を止める。
「……私、こんな速かったっけ?」
首を傾げながら歩き出したその瞬間。
頭上から何かが落ちてきた。
手が勝手に動く。
ぱしっ。
「……え?」
手の中にあったのは洗濯ばさみだった。
上を見あげると、マンションのベランダから洗濯物が風に揺れている。
「今の……私が取った?」
落ちてくることなんて見ていなかった。
それなのに身体が勝手に反応した。
「……変なの」
私は洗濯ばさみを近くの植え込みに置き、家へ向かった。
「ただいまー」
「おかえり。遅かったじゃない」
キッチンから母親の芽衣の声が返ってきた。
「学校でちょっと片付けしてたの」
「そう。手洗ってきなさいよ。もうすぐご飯だから」
「はーい」
靴を脱いだ私は廊下を歩きながら目元を触った。
蜘既に蛛に噛まれた跡はほとんど消えている。
「……なんだったんだろ」
「何が?」
「うわっ!」
突然後ろから声をかけられ私は驚いて飛び上がった。
「な、なんでもない!」
芽衣が怪訝そうに眉を上げる。
「びっくりしすぎじゃない?」
「いや、その……ちょっと考え事してて」
「ふーん」
芽衣は顔を覗き込んできくる
「具合悪い?」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん」
「ならいいけど。勉さんももう帰ってくるから、着替えたら下りてきてね」
「わかってるよ」
私は自分の部屋へ駆け込んだ。
そして鞄を置いたところで、昼間の違和感を思い出した。
「……身体、軽かったな」
机の横に置いてあった椅子を持ち上げてみる。
ひょい。
「…………え?」
片手で持てた。
椅子を置く。
今度は勉強机を持ち上げる。
ひょい。
「…………」
片手で持っている。
やっぱり軽い。
遙は机を床に戻した。
「これ、こんな軽かったっけ?」
昨日までなら、両手で持ち上げても少し浮くくらいのはずだった。
小学校入学の時に買ってもらった由緒正しい、そこそこ重めの頑丈な机なのだ。
なのに今は、ほとんど重さを感じない。
「私、力持ちになった?」
冗談のつもりで呟いた。
その瞬間、手のひらが机に張り付いた。
「……あれ?」
手を引く。
離れない。
「あれれ?」
もう一度。
強く引っ張る。
机のほうが持ち上がった。
「うわっ!」
慌てて手を離した。
ドンッ!!!
「……」
しばらく机を見つめる。
「…………いやいや」
ありえない。
でも、実際に起きている。
恐る恐る壁へ手をついた。
ぺたっ。
「……」
足をつける。
ぺたっ。
「…………」
身体を少し持ち上げてみる。
落ちない。
「えっ」
もう一度。
やっぱり落ちない。
「え、ちょっと待って。これ……」
壁を一歩登った。
そしてもう一歩。
「登れる……」
さらに一歩。
「えっ、登れるんだけど!」
「何これ……!」
そのまま壁を登り、天井近くまで来たところで恐る恐る下を見た。
「……高っ」
怖い。
でも、それ以上に面白い。
「すごい……」
私は思わず笑ってしまった。
そして、その笑顔がふっと止まる。
「……蜘蛛だ」
蜘蛛に噛まれた。
身体能力が上がった。
怪力。
壁に張り付ける。
頭の中に、あるヒーローの名前が浮かんだ。
「……スパイダーマン?」
数秒の沈黙。
「……いやいやいや!」
慌てて壁から降りた。
「ないないない! そんなわけないって!」
自分で言っているうちに、だんだん笑えてくる。
「だってスパイダーマンだよ? 漫画だよ?」
この世界にもスパイダーマンはいる。
コミックも漫画も映画もゲームだって普通に存在する。
勿論私だって知っている。
蜘蛛に噛まれた少年が力を得る。それは、壁を登る。怪力。
そして――蜘蛛の糸。
「…………」
自分の手首を見た。
「いや、さすがに糸までは出ないでしょ」
そういいながら、例のポーズを試そうとした
そのとき。
ガチャッ
部屋のドアが開いた。
「はるかーー、ご飯――」
「きゃあっ!」
「なにっ?!」
芽衣と私の目が合った。
私は壁際に立っていて、芽衣はドアの前で固まっている。
「……何してるの?」
「えっと……」
「壁を、見てた?」
「うん」
「なんで?」
「……そこに壁があったから?」
「何それ」
我ながら苦しすぎる言い訳だったが通用したらしい
芽衣が呆れた顔をする。
結局私は怒って誤魔化した。
「今行くから!もう勝手に部屋に入らないでよね!」
「もう、10回は声をかけたんですけどね。早くしてね」
ドアが閉まったところで、ようやく胸を撫で下ろした。
「危な……」
その直後、下から父親である勉の声も聞こえてきた。
「遙! まだかーい!一緒にたべよーー」
「今行くー!」
もう一度、自分の手を見た。
今までまでなら、ただの手だった。
でも今は違う。
何か、とんでもないものがこの身体の中にある。
「……明日、どうしよう」
小さく呟いて、私は部屋を出た。
「いただきます」
三人で夕食を囲む。
勉が箸を持ちながら私の様子を窺ってくる。
「そういえば遙、今日なんか静かじゃないか?」
「そう?」
「いつもなら学校の話とかするだろ」
「……まあ、普通だよ」
芽衣も遙を見る。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だって」
「目のところ、赤くない?」
「えっ」
反射的に目元を隠した。
芽衣の目が細くなる。
「やっぱり何かあるじゃない」
「いや、これは……」
「学校で何かあったのかい?」
父が心配そうな顔でこちらを覗き込んでくれば、
流石に隠すのも心ぐるしかったのでとりあえず白状することにした
「……蜘蛛に噛まれたの」
「蜘蛛?」
勉が箸を止めた。
「どんな蜘蛛だい?」
「分かんない。黒くて、赤い模様があった気がする」
母は心配そうな声でこちらを慮ってくれた
「病院行ったほうがいいんじゃない?」
「でも、もう跡もほとんど消えてるし」
「それでも一応毒――」
「大丈夫だってば!」
あんまり聞かれるとボロをだしてしまいそうで、少し強く言ってしまった。
私ははすぐに後悔した。
「……ごめん」
芽衣は怒らなかった。
「別に怒ってないのよ。ただ、心配なの」
「うん……」
勉も少し考えてから、柔らかく笑った。
「なら明日の朝も具合悪かったら病院行こう。今日はもう無理しないで」
「分かった」
「よし。じゃあ食べよう」
「うん」
その何気ない会話が、妙に嬉しかった。
自分だけがおかしな身体になってしまったような気がしていたけれど、食卓に座ればいつもと変わらない。
母親がいて、父親がいて、自分がいる。
だからこそ、余計に不思議だった。
こんな普通の家に住んでいる普通の女子高生が、どうして。
「……スパイダーマンなんだろ」
「ん?」
勉が顔を上げる。
「今なんか言ったか?」
「な、何でもない!」
私は慌ててご飯を口に入れた。
「ふーん?」
芽衣が少し笑う。
「今日の遙、やっぱり変ね」
「変じゃないって!」
三人の笑い声が食卓に広がった。
夜。
自分の部屋に戻った私は、ベッドに寝転びながらスマートフォンを眺めていた。
『スパイダーマン 能力』
と調べれば山のように情報が出てくる。
超人的な身体能力。
壁への吸着。
危険察知能力。
そして………クモ糸を手首から出す。
「……本当に一致してる」
天井を見上げた。
「これ、偶然って言えるのかな……」
今日のことを一つずつ思い出す。
蜘蛛。
怪力。
反射神経。
壁。
全部が繋がっている。
そしてわたしは恐る恐る右手を前へ出した。
「……糸とか、出たりして」
もちろん何も起こらない。
「だよね」
苦笑して手を下ろす。
その瞬間だった。
シュッ。
「…………」
遙の右手首から、白い糸が一本だけ飛び出した。
糸の先端は、部屋の壁に貼ってあったポスターへくっついた。
思わず全身が固まった。
「…………」
ゆっくり自分の手首を見る。
「……嘘」
ポスターを見る。
もう一度、手首を見る。
「…………嘘でしょ」
糸を恐る恐る引っ張った。
ポスターが、ぺりっと壁から剥がれる。
「出た……」
声が震えた。
「本当に出た……!」
怖い。
信じられない。
だけど、嬉しい。
私の顔に自然と笑みが浮かんだ。
「……私、本当にスパイダーマンになっちゃったんだ」
その夜、飛騨遙は初めて、自分が普通の女子高生ではなくなってしまったことを実感した。
けれど、まだ何も知らない。
この力がどこまで使えるのかも。
何ができて、何ができないのかも。
そして何より――この力を持った自分が、これから何をすることになるのかも。
分かっているのは一つだけ。
明日は学校がある。
「……体育、休みたいなぁ」
遙はベッドの中でそう呟き、布団を頭までかぶった。
その顔は、少しだけ楽しそうだった。