ヴェノムとねいろ編はこれで終わり、次から遥視点に戻ります。
登場キャラ
当麻多華と奥多宮乙葉:出典元オクトパスガール
ねいろオタクのデブ:出典元デッドプールサムライの転売ヤー
第19話
『食らいやがれ!』
眼前の少女めがけてヴェノムが丸太のように太い腕を大きく振り抜いた。当たれば必殺の一撃だったが、拳が届く寸前に少女は翼を広げて空へ舞い上がる。行き場を失った拳が起こした風だけが積み上がったコンテナの谷間を虚しく吹き抜けていく。
『チッ……ちょこまかと!』
空を飛ぶ相手に拳が届かないのなら、届くものを投げつければいい。
ヴェノムはすぐそばの貨物コンテナへ触手を伸ばし、黒い筋肉を盛り上がらせて力任せに持ち上げた。巨大な鉄の箱が地面から引き剥がされ、轟音とともに少女めがけて宙を飛ぶ。
ところが、少女は避けようともしなかった。翼をわずかに傾けて飛んできたコンテナの上へ回り込むと、そのまま両脚でがっしりと掴み取ってしまったのだ。
コンテナを抱えたまま悠々と高度を上げ、港を見下ろせる高さまで達すると、ゴミでも捨てるように無造作に脚を離した。
「クロちゃん、逃げて!」
『分かってる!』
ヴェノムは転がるように跳び退いたすぐ近くで鉄の塊が地面を砕き、コンクリートの破片が散弾のように飛び散る。
そんな光景を目の前に、意識を取り戻した密輸人や捜査員たちも、手錠をかけることさえ忘れて空を見上げている。
「とりあえず休戦だ! 頭を下げてろ!」
「言われなくてもそうする!」
砂ぼこりが晴れる前に金属の翼が風を裂く鋭い音とともに頭上を通過する。ヴェノムが反射的に身を沈めると、その背後では積み上がっていたコンテナが紙箱のように切り裂かれ崩れ落ちた。
「総員、撃て!!」
捜査員たちの号令に、密輸人までもが自棄になって引き金を引いた。怪物と少女のどちらを狙っているのかも分からないまま銃声が入り乱れ火花が散る。
しかし、反撃と呼べたのはそこまでだった。
少女が翼を大きく広げた途端、内蔵されたプロペラが猛烈な風を巻き起こし、男たちは枯れ葉のように吹き飛ばされた。銃を構え直すどころか、地面にしがみつくのが精一杯である。
空は少女のものだった。
いくらヴェノムが怪力を誇ろうと、地上から拳を振り回している限り、好きな高さへ逃げられる相手には届かない。しかも少女は、その圧倒的な優位を手放すつもりなど毛頭ないらしい。
十分な高度を保ったまま翼の下から何かを切り離すと、小さな飛翔体が白い尾を引いて降ってきた。
「……ミサイル!?」
『空から爆弾投げるのは反則だ!!!』
爆発音が港に響く。ヴェノムは跳び退き、爆風に煽られながらコンテナの陰へ転がり込む。
『ぐおおおおッ!!』
ところが、息をつく暇もなく二発、三発とミサイルが降り注いだ。逃げた先から次々に火柱が上がり、地面は抉れ、コンテナの残骸が黒煙の中へ吹き飛んでいく。
『降りてきて殴り合え!この臆病者
第19話
『食らいやがれ!』
眼前の少女めがけてヴェノムが丸太のように太い腕を大きく振り抜いた。当たれば必殺の一撃だったが、拳が届く寸前に少女は翼を広げて空へ舞い上がる。行き場を失った拳が起こした風だけが積み上がったコンテナの谷間を虚しく吹き抜けていく。
『チッ……ちょこまかと!』
空を飛ぶ相手に拳が届かないのなら、届くものを投げつければいい。
ヴェノムはすぐそばの貨物コンテナへ触手を伸ばし、黒い筋肉を盛り上がらせて力任せに持ち上げた。巨大な鉄の箱が地面から引き剥がされ、轟音とともに少女めがけて宙を飛ぶ。
ところが、少女は避けようともしなかった。翼をわずかに傾けて飛んできたコンテナの上へ回り込むと、そのまま両脚でがっしりと掴み取ってしまったのだ。
コンテナを抱えたまま悠々と高度を上げ、港を見下ろせる高さまで達すると、ゴミでも捨てるように無造作に脚を離した。
「クロちゃん、逃げて!」
『分かってる!』
ヴェノムは転がるように跳び退いたすぐ近くで鉄の塊が地面を砕き、コンクリートの破片が散弾のように飛び散る。
そんな光景を目の前に、意識を取り戻した密輸人や捜査員たちも、手錠をかけることさえ忘れて空を見上げている。
「とりあえず休戦だ! 頭を下げてろ!」
「言われなくてもそうする!」
砂ぼこりが晴れる前に金属の翼が風を裂く鋭い音とともに頭上を通過する。ヴェノムが反射的に身を沈めると、その背後では積み上がっていたコンテナが紙箱のように切り裂かれ崩れ落ちた。
「総員、撃て!!」
捜査員たちの号令に、密輸人までもが自棄になって引き金を引いた。怪物と少女のどちらを狙っているのかも分からないまま銃声が入り乱れ火花が散る。
しかし、反撃と呼べたのはそこまでだった。
少女が翼を大きく広げた途端、内蔵されたプロペラが猛烈な風を巻き起こし、男たちは枯れ葉のように吹き飛ばされた。銃を構え直すどころか、地面にしがみつくのが精一杯である。
空は少女のものだった。
いくらヴェノムが怪力を誇ろうと、地上から拳を振り回している限り、好きな高さへ逃げられる相手には届かない。しかも少女は、その圧倒的な優位を手放すつもりなど毛頭ないらしい。
十分な高度を保ったまま翼の下から何かを切り離すと、小さな飛翔体が白い尾を引いて降ってきた。
「……ミサイル!?」
『空から爆弾投げるのは反則だ!!!』
爆発音が港に響く。ヴェノムは跳び退き、爆風に煽られながらコンテナの陰へ転がり込む。
『ぐおおおおッ!!』
ところが、息をつく暇もなく二発、三発とミサイルが降り注いだ。逃げた先から次々に火柱が上がり、地面は抉れ、コンテナの残骸が黒煙の中へ吹き飛んでいく。
『降りてきて殴り合え!この臆病者がっ!!!』
ヴェノムは吠えながらも、どうにか爆発を避け続けていた。しかし、これでは一方的に追い回されるばかりで反撃の糸口が見つからない。
そんなとき、ねいろが爆風で散乱した積み荷の中に、あるものを見つけた。
「クロちゃん!!!あそこ!」
指し示した先には、密輸人たちが運び込んでいた銃火器が散らばっていた。拳銃にライフル、そして、ひときわ大きなマシンガンが何丁も転がっている。
『……! さすがだ、相棒!!』
黒い触手が一斉に伸びてマシンガンを一本、二本、三本と掴み上げ、気づけば五丁すべてが銃口を揃えていた。
『食らいやがれ、羽根野郎ォォォッ!』
轟音とともに五つの銃口が火を噴いた。
銃弾の雨が夜空を切り裂き、少女めがけて殺到する。彼女は翼を前方へ畳んで盾にすると、身体を横へ滑らせて弾丸の大半をかわし、残りを金属の表面で弾き返した。
甲高い衝突音が連続し、火花が夜空に散る。
それでもヴェノムは引き金を緩めず、少女が逃げる方向へ銃口を追わせ続けた。さすがに五方向から浴びせられる弾幕を無視することはできないらしく、少女は翼を盾にしたまま、じりじりと高度を上げていく。
「でも、……効いてないよ」
『分かってる! だが、あいつも降りてこられねえ!』
だが、弾薬は無限ではない。
やがて一丁、また一丁と銃声が途切れ、最後には引き金を引く音だけが虚しく響いた。ヴェノムが舌打ちする一方、弾幕が途切れたことを確認した少女は、空中で静止すると翼の付け根に吊っていたものを両腕で引き寄せた。
それは、銃と呼ぶにはあまりにも不格好な代物だった。少女の身長の半分ほどもある巨大な砲身。剥き出しの配線は黒いテープで雑に巻き留められ、継ぎ目には補強用の金属板が何枚も打ちつけられている。
どう見ても、ガラクタを寄せ集めて作った手製の大砲だった。
『タカちゃん! リアクター、接続できたよ!!……ほんとはもっと出せるはずなんだけどね』
『乙葉……言うな。ないものねだりをしても始まらない。これで終わらせる』
少女のバックパックから太いケーブルが砲身へと伸びていた。その装置の中で脈打つ青白い光は、本来なら小国一つ分の電力を賄えるはずの小型核融合炉――アーク・リアクターの輝きだった。
しかし、彼女たちが引き出せているのは、その膨大な出力のほんの一部にすぎない。人ひとりを空に浮かべ、武装を動かし、こうして大砲を撃つ。それだけでも寄せ集めの回路は悲鳴を上げ、炉そのものには底知れない余力が眠ったままになっていた。
宝の持ち腐れとは、まさにこのことだろう。
もっとも、その宝を使いこなせないからといって、目の前の怪物を殺せないわけではない。
青白い光がケーブルを伝って砲身へ流れ込み、継ぎ目から細かな火花が散り始める。内部で何かが激しく唸り、砲口の奥に小さな光の点が生まれた。
「あれ、まずいよ! 見た目はガラクタなのに……!」
『見れば分かる! ……クソッ、あんなもんまで持ってやがった!』
ヴェノムは弾の尽きた銃を投げ捨て、触手を引き戻した。あの光をまともに受ければ、いくら自分でもただでは済まない。だが、逃げ回ったところで狙い撃ちにされるだけだ。
ならば、受け止めてやればいい。あの光よりも太く、重く、頑丈なものを使って。
「クロちゃん、あのクレーン、持てる?」
『誰に言ってんだ』
ヴェノムは一気に跳躍しクレーンの下に着地すると、支柱に両腕を巻きつけた。足を踏ん張り、全身の筋肉を限界まで膨れ上がらせる。
『ぐ……おおおおおッ!!』
鋼鉄が軋んだ。
固定されていたボルトが次々と弾け飛び、接地面が甲高い悲鳴を上げて捲れ上がる。数十トンもの鉄の巨体が、ゆっくりと、しかし確実に岸壁から引き剥がされていった。
「は……?」
その光景を目の当たりにした常人たちは間の抜けた声を漏らすしかない。
「クレーンだぞ……あんなの、人が持ち上げるものじゃない……」
「いや、もう人じゃねえだろ、あれ……」
『ウオオオオオオッ!!』
轟く咆哮とともに、ヴェノムは巨大なクレーンを抱え上げた。長大な梁を正面に突き出し、両腕で支えながら少女を睨み上げる。
ちょうどそのとき、上空では砲身が限界を迎えようとしていた。継ぎ目という継ぎ目から光が漏れ出し、砲口の内側が白く塗り潰されるほどの輝きに変わっていく。
『砲身がもたないよ! タカちゃん、今!』
「――消えろ、怪物」
次の瞬間、砲口から、太い光の柱が発生した。空気が焼けつくような匂いとともに、光の通り道にあったものが次々と白い閃光に呑み込まれていく。
『うおおおおおおおッ!!』
ヴェノムはクレーンの梁を光の中心へ突き込み光線を受け止めた。直撃した光が鋼鉄の表面で激しく弾け、焔と閃光が四方へ飛び散る。クレーンはたちまち赤熱し溶け落ちていったが、ヴェノムは構わず押し込む。
衝突部から逸れた光が海面を走り、岸壁を抉り、コンテナの残骸を焼き払った。海からは巨大な水蒸気の柱が立ち上がり、港のあちこちで爆発にも似た衝撃が巻き起こる。
「うわああああっ!!」
捜査員も密輸人も区別なく地面に伏せた。頭上を熱風が吹き荒れ、飛び散った溶融金属が地面に落ちて火花を散らす。
「クロちゃん、まだ撃ってるよ!」
『分かってる! だが、こっちだって……まだまだだ!!!』
梁の先端が半分ほど溶け落ちたところで、ヴェノムは大きく踏み込み、溶け残った鉄の塊を少女めがけて投げ放つ。
『持ってけェェェッ!!』
梁が、光の柱に逆らうように夜空を駆け上がった。
少女は咄嗟に照射を止め、翼を翻す。
巨大な鉄骨が翼の縁を僅かにかすめ、猛烈な衝撃に体を揺さぶられながらも、どうにか直撃を免れた。投げられた梁はそのまま夜空を横切り、遠く離れた水面へと落下して巨大な水柱を噴き上げた。
港には焼けた金属の臭いが漂い、炎に照らされた黒煙がゆっくりと立ち上っていた。
少女の装備は既に限界を迎えていた。回路が焼ききれ、砲身に至っては今にも砕け散りそうだ。さらに、先ほどの攻撃が掠めた影響か、背中のスラスターは不規則に火を噴き、姿勢を立て直そうとするたびに金属翼がぎこちなく軋んだ。
対するヴェノムも無傷ではない。膝をつき、光線が掠めた腕と触手を再生させながら、荒い息を吐いている。
「……互角、なのか?」
コンテナの陰から顔を出した捜査員が、呆然と呟いた。
「いや……あれは、そういう次元じゃねえ」
隣にいた密輸人も、もはや逃げ出すことすら忘れていた。
そのとき、遠くからサイレンが聞こえてくる。
港の出入口に赤色灯が瞬き、複数の車両がこちらへ近づいてくる。警察の増援だけではない。その中には、ドローン会社の私設部隊の車両も混じっていた。
『タカちゃん!! もうすぐ応援が来ちゃうよ!!』
『……チッ。時間切れか』
インカムの向こうにいる―奥田宮乙葉―から報告を受けた少女――当麻多華は、使い物にならなくなった銃を海に投げ捨てた。
そして、地上で再生を続けるヴェノムを睨み下ろす。
「覚えていろ、怪物。次に会ったときは、必ず殺してやる」
『上等だ! 今度こそ食い散らかしてやる!』
多華は鼻を鳴らすと、翼からフレアを一斉に放った。
眩い光が夜空に広がり、港にいた誰もが反射的に目を覆う。その隙に少女は急上昇し、そのまま海上へ向けて飛び去っていった。
『……チッ、逃げやがった』
ヴェノムは悔しげに唸ったが、追いかける手段がない以上どうしようもなかった。しかも、サイレンはもうすぐそこまで迫っている。今から警察に囲まれれば、さすがに面倒なことになるだろう。
『……帰るぞ、ねいろ』
ヴェノムは海の方を向いた。
「どうやって?」
『泳ぐ』
***
海から這い上がったときには二人ともぐっしょりと濡れていて、窓から部屋に転がり込んだ拍子にフローリングへ潮の匂いのする雫がぽたぽたと落ちた。
ヴェノムが変身を解くと、ねいろは濡れた髪を絞りながら、悔しさも疲れも一緒くたにして笑っていた。肌には多少の腫れや火傷も残っていたが、本人はまったく気にしていない。
「あーあ、悔しい! 次こそあの鳥、絶対落とす! クロちゃん、マシンガン五丁じゃなくて十丁いけない?」
『……見せろ』
「え?」
『傷だ。見せろと言った』
有無を言わせない低い声に、ねいろは「えー、このくらい平気なのに」と口を尖らせつつ、ベッドの上に身を投げ出した。ヴェノムが足先から薄い膜を伸ばして傷口をひとつずつ包んでいくと、ひんやりした感触が滲みるような痛みを吸い取っていく。
「ふふ、クロちゃん。くすぐったいよ」
『黙ってろ。気が散る』
「はーい」
しばらくの間静かな時間が流れた。
ところが最後の傷を塞ぎ終えても、ヴェノムは体内に戻らない。不思議に思ったねいろが視線を向けると、彼は視線を逸らしたままぽつりと言った。
『……悪かった』
「ん? 何が?」
『ミサイル……お前にもダメージが通った』
ねいろは瞬きをして、それからにんまりと笑った。
「なーんだ、そんなこと? クロちゃんが気にしてたの」
そっぽを向いた黒い横顔に、ねいろはくすくすと喉を鳴らした。今夜のクロちゃんは妙におとなしくて、それがかえってまだ心配しているのだと教えてくれる。そう思ったとたん、胸の奥がきゅうっと甘く縮んで無性に触れたくなった。
「ねえ、……こっち来て」
両手でヴェノムの頬を包み、濡れた胸元へそっと引き寄せる。ひんやりした黒の向こうから、鼓動にも似た僅かな震えが肌越しに伝わってきた。シンビオートに心臓があるのかなんて、今はどうでもいい。
「……あったかいね」
『お前が冷えてるだけだ』
「そうかな?」
見上げる先で、白く細い目がかすかに揺れていた。ねいろはその奥をのぞき込んだ後、ゆっくりと目を閉じた。
「……、クロちゃん。今夜は、いいよ」
雲の切れ間から顔を出した月が、カーテン越しに淡い光を落とし、寄り添う二つの影を床に長く引き伸ばしていた。濡れた髪も、戦いの熱の名残も、重なった肌の温度に溶けて、もう気にならない。
夜の海みたいだ、とぼんやり思う。深くて冷たいのに、底のほうには確かな温もりがあって、いったん身を委ねてしまえばどこまでも沈んでいきそうで。黒い波が肌の上をゆっくり満ちては引くたびに、自分の輪郭がほどけて、彼と混ざり合っていくような気がした。吐息が震えるたびに塩の香りと熱がないまぜになって喉の奥に絡み、触れられた場所から順に、力が抜けていく。
ねいろがかすかな声で名前を呼ぶと、それに応えるように低い唸りが返ってくる。そのふたつだけが静まり返った部屋にいつまでも溶けていた。やがて月が沈み、窓の向こうが白みはじめるころ、二人は温もりを分け合うようにして、寄り添ったまま眠りに落ちていた。
翌朝、ねいろはヴェノムの触手に頬を寄せたまま目を覚ました。まだ少し眠くて、身体の芯にはほんのり甘い疲れが残っている。初めての疲れからもう少しだけこうしていたいと目を閉じたところへ、頭の上から声が降ってきた。
『起きろ。仕事だろ』
なんとか身体を起こし、洗面所の鏡を覗いたねいろは、首のあたりに残った痕に気づいた。
「あっ、これ。ファンデで消えるかな……」
『……悪かった』
「ううん。いいの」
鏡の中の自分にいたずらっぽく微笑みかける。衣装は襟が高めだし、これならきっと隠せるはずだ。
夕方ごろに控えているのは、音楽番組の生放送。支度を済ませて局へ向かい、いつもどおり笑顔でステージに立つ。そんな、何事もない一日になるはずだった。
***
「新日さん、そろそろ移動お願いします!」
「はーい!」
楽屋を出たねいろは、スタッフの案内で廊下を進んでいた。出番が近づくにつれて胸が高鳴ってくる。テレビの向こうには、自分の歌を楽しみにしてくれている人たちがいるのだから。
ところが、途中で案内役のスタッフに電話が入り、ねいろは先に進んでいるよう言われた。何度も訪れたことのあるスタジオだし、道順もだいたい覚えている。特に気にすることもなく一人で廊下を歩き始めた。
遠くから聞こえてくるリハーサルの音楽に合わせて鼻歌を口ずさみながら、角を曲がろうとした、そのときだった。
「あれ……?」
廊下の先に、ひとりの小太りな男が立っていた。
ここに人がいること自体は別におかしくは無い。けれど、その男にはどこか見覚えがあった。ねいろは足を止め、相手の顔をまじまじと見つめる。
「あっ、いつも握手会に来てくれてた人!こんにちは!どうしてここに?」
関係者以外は入れないはずの場所だが、首から下げたスタッフ証が目に入ると、ねいろは「ああ、搬入の人なのかな」とすんなり納得してしまった。男は笑い返さず、ただじっとこちらを見つめている。その視線が顔から首筋へとゆっくり降りていくことに、ねいろは気づかなかった。
「ねいろちゃん、最近、忙しそうだね」
「うん! お仕事いっぱいで嬉しいんだ。今日も頑張るから、見ててね!」
「……それ、何?」
「え?」
「首のとこ。今、動いた拍子に見えた」
男の目が、すうっと細くなった。慌てて襟を引き上げたねいろの手が、何よりも雄弁な答えになってしまう。
「……虫、虫に刺されちゃって」
「嘘だ」
声が震えていた。
「男だ……寝たんだろ!」
「……え?」
「寝たんだろって聞いてんだよ! 俺たちが応援してやってる間に、裏でよろしくやってたんだな!」
「い、いやっ! これは、あの……その……違うんだよ!!」
「じゃあ何なんだ!!!」
「それは……」
咄嗟のことで言葉に詰まっていると、男の顔がみるみる歪んでいった。
「……やっぱりな。否定もできねえんだ」
「違うの! ねいろ、嘘ついてるわけじゃ……!」
「とぼけんな! 最近ずっと上の空だったのも、握手会で俺のことなんかどうでもよさそうだったのも、全部これのせいかよ!俺が!!俺たちが、気づかないとでも思ってたのかよ!!!!」
血の気が引いていくのを感じながらも突き放すことができなかった。目の前にいるのは、自分を応援すると言ってくれたファンだったから。
「そんなつもりじゃないの。みんなのことは大事に思って……」
「……もういい。よく分かったよ」
その言葉を男は最後まで聞かなかった。
うつむいたまま距離を詰めてくる。その右手が上着の内側へゆっくりと滑り込んでいくのを、ねいろの目ははっきりと捉えていたが、何を探しているのかまでは考えが及ばなかった。握手会でいつも差し出されていたはずの手が今は見知らぬものを掴むために動いている、その事実がまるで理解できなかったのだ。
『そいつから離れろ』
頭の中に、クロちゃんの鋭い声が響いた。
(え?)
『今すぐだ!』
「男と遊んでるくせに清純ぶりやがって!!」
男の顔が跳ね上がった。血走った目と食いしばった歯が目の前に迫り、上着の内側から引き抜かれた手の中で何かが鈍く光った。
「――ッ、あ゛……!」
その直後、腹に凄まじい衝撃が走り身体がくの字に折れ曲がった。何か硬いものをぶつけられたと思った途端、焼けつくような痛みが腹の奥から広がる。息を吸おうとしても喉がひゅうひゅうと鳴るばかりで、うまく空気が入ってこない。
目の前には男の顔があり、その手には、腹に深々と突き刺さったナイフが握られていた。
刃が引き抜かれると同時に膝から力が抜け、ねいろは床に崩れ落ちた。震える手で傷口を押さえると、指の間から生温かいものが溢れ出す。
「……あ、れ……?……」
何が起きたのか、頭が追いつかなかった。痛くて、苦しくて、怖くて、熱い。
『ねいろ!』
叫びと同時に、真っ先に傷口を覆うように黒い物質が広がり、ヴェノムがねいろの身体を包み込んでいった。さらに伸びた触手が男の腕を打ち払うと、ナイフが床を滑る。
『おまえっっっ!!!!』
怒りに満ちた声とともにヴェノムは膨れ上がった。巨大な腕が伸び鋭い牙を並べた口が開く。男は恐怖で後ずさったが、ヴェノムは構わずその喉元へ迫ろうとする。
「クロ、ちゃん……待って……!」
けれど、ねいろは痛みに震えながらその変身を中断した。
『離せ、ねいろ! こいつを食い殺してやる!』
「だめ……!」
『何!?』
「約束、したでしょ……? ファンは、食べない……って……」
腹を押さえた指の隙間から温かいものがとめどなく溢れていく。それでもねいろは床に膝をついたまま、今にも男へ飛びかかりそうなヴェノムを必死に引き止めていた。
だって、この人は自分を応援してくれていた。
何度も会いに来てくれた。
だから、これは些細な誤解で間違いなのだ。そう思いたかった。
しかし、男の口からこぼれたのは、謝罪でも後悔でもなかった。
「……何だよ、その化け物」
「……え?」
「ねいろちゃん、そんなもん飼ってたのかよ」
「ク……クロちゃんは……」
「化け物と寝てたってわけか! アイドルが男と寝るだけでもふざけてんのに、相手は化け物かよ! ファンを騙して、裏じゃそんな気持ち悪いもんに媚びてたんだな!」
「ち、違う……!」
「何が違うんだよ!体から湧き出して!!!首に痕つけて!!!ちゃん呼び!!!証拠だろうが!」
「そ、それは……!」
言いかけて、ねいろは唇を噛んだ。
何を言えばいいのだろう。
クロちゃんは化け物なんかじゃない。自分を守ってくれる、大好きな相棒なのだと説明したところで、この人は信じてくれるのだろうか。
「俺たちが今までどんな気持ちで応援してたと思ってんだ!」
男はなおも叫び続けた。
「お前のために金使って、時間使って、ずっと支えてきたんだぞ! それなのに、俺たちよりそんな化け物が大事なのか!」
「何なんだよ! 俺たちはどうでもいいってことか!? もう必要ないってことか!?」
「ちが……うよ……っ。みんなの、ことだって……大事、で……」
「嘘つけ!!」
鋭い怒声に、ねいろの肩がびくりと震えた。
「お前なんか応援しなきゃよかった! 金返せよ! ファンを馬鹿にしやがって!」
「……っ」
「そんなもんに股開いて、恥ずかしくねえのかよ! 人間ですらねえんだぞ!? 頭おかしいんじゃねえのか!」
男の顔は憎しみに歪んでいるというより、信じていたものが目の前で崩れていくのを見ている人のそれだった。唇がわななき、目にはうっすらと涙さえ滲んでいる。だからこそ、その言葉は単なる罵倒ではなく、本当に傷ついた人の声としてねいろの胸に沈みこむ。
ねいろにとって、ファンは何よりも大切な存在だった。
ステージの上から見えるペンライトの光も、握手会で交わす短い会話も、届いた手紙も、全部大好きだった。自分をかわいいと言ってくれる人たちがいたから、母がいなくなってからも、ずっと笑ってこられた。
そして今は、そんなファンのみんなと同じくらい大切な存在がもうひとりいる。
クロちゃんだ。
どちらもかけがえのない存在で。だからこそ、失いたくなかった。
ねいろは腹部の傷を押さえながら、必死に懇願する。
「……クロちゃんは……ねいろが、ひとりぼっちだったときに……そばにいてくれたの……!」
「誰も助けてくれなかったときも……ずっと、一緒にいてくれた……! ねいろがさみしい時も、苦しいときも……楽しい時も、クロちゃんだけは、ねいろを守ってくれたの……!」
言葉を重ねるたびに傷が疼き、息が詰まる。それでも、これだけはどうしても伝えたかった。
「だから……っ、だから……!」
涙で滲む視界の向こう、男をまっすぐに見つめる。
「化け物だなんて!!!そんなふうに……言わないでよぉっ!!」
それは悲鳴だった。血の混じった喉の奥から人前で一度も出したことのない、裂けるような声が迸る。叫び終えたあとの静寂の中で、男はしばらく呆けたようにねいろを見つめていた。
「……違う」
「……え?」
「違う……ねいろちゃんは、そんな声出さない」
何かを確かめるように、もう一度首を振る。
「いつも笑ってるだろ。どんなときだって、かわいくて、優しくて……俺たちにそんな顔、見せたことなかったじゃないか」
「……」
「……ああ、そうか」
ふいに、男の表情が変わった。先ほどまでの怒りが消え、代わりに妙に晴れやかな笑みが浮かぶ。
「やっと分かったよ」
その声があまりにも優しかったので、ねいろはかえって背筋が冷たくなった。
「ねいろちゃんは悪くないんだ」
「……?」
「そいつだよ。そいつに騙されてるんだろ? 化け物に操られて、おかしくなってるだけなんだ」
「ちが……」
「そうだよな。ねいろちゃんが、自分からそんな気持ち悪いことするわけないもんな」
男はうんうんと頷いた。
まるで、ようやく難しい問題の答えを見つけたかのように。
「ごめんね、ねいろちゃん。俺、勘違いしてた」
そう言って、床に落ちていたナイフを拾い上げる。
「今助けてあげるよ」
切っ先が向いているのは、ねいろではない。
ヴェノムだった。
「そいつさえいなくなれば、また元のねいろちゃんに戻れる。そうだろ?」
「……いや」
「大丈夫。もう怖がらなくていいんだよ」
男は笑っていた。握手会で何度も見た、あの優しい笑顔で。
「亡くなったお母さんだって、今のねいろちゃんを見たらきっと悲しむよ。こんな化け物に縋って、こんなことまでして……」
「……っ!」
「でも大丈夫。俺がちゃんと元に戻してあげるから。お母さんだって、きっとそのほうが喜ぶよ」
「……やめて」
声がかすれた。
「やめて……お願い……」
信じていた光がいちばん深いところを刺してくる。何を叫べばこの人に届くのか、もうねいろには分からなかった。腹の痛みよりも、胸の奥が裂けていくほうがずっと苦しくて、涙で視界が滲み、自分の呼吸の音さえ遠くなっていく。
客席いっぱいに揺れていた光も、ひとりぼっちの夜にそばにいてくれた黒い腕も、ねいろにとってはかけがえのないものなのに。どちらか一方を選べと言われても、そんなことができるはずがない。
『ねいろ、もういい。手を離せ』
クロちゃんの声が聞こえた。
『こいつはもう、お前の言葉なんざ聞いてない』
「……だめ」
『ねいろ』
「だって……この人、ファンなんだよ……?」
握りしめた黒い腕に、いっそう力がこもる。
手を離せば、クロちゃんはこの人を殺してしまう。
でも引き止めていれば、この人はクロちゃんを刺そうとする。
どうすればいいのか分からなかった。
どちらも大切なのに。
どちらも、失いたくないのに。
「……いや……」
ねいろは小さく首を振った。
「……どっちも、やだよ……」
男がナイフを構えながら一歩踏み込んだ。
「大丈夫。すぐ終わるから」
優しい声だった。その優しさが、何よりも恐ろしかった。
「やめて……」
男は止まらない。
「お願い……」
クロちゃんの腕が動く。
止めなけゃ、でもどうやって。
腹が痛い。
胸が苦しい。
涙で何も見えない。
もう、何も考えられなかった。
………どうして。どうして、こんなことになっちゃったの。
胸の奥で何かが膨れ上がり、息をすることさえ辛くなる。
……もう嫌だった。
「もう……っ、もう……!」
涙で視界がぐちゃぐちゃになる。男は何かを叫んでいる。クロちゃんも何か言っている。けれど、何ひとつ耳に入ってこない。
「もう、やめてよおおおおおおおっ!!!!」
喉が裂けんばかりの絶叫とともに、ねいろはヴェノムを振り払い、男の胸元を掴んで力任せに引き寄せた。
「ね、ねいろちゃ――」
ぐしゃり。
肉を噛み裂く感触が顎から伝わってくる。男が悲鳴を上げ必死に身をよじっても、ねいろは手を離さなかった。
クロちゃんは何もしていない。
男を押さえつけ、その身体に歯を立てているのは、ほかでもない自分自身だった。
さっきまで必死に守ろうとしていた人なのに。
どうして、自分がこんなことをしているのだろう。
それすら、もう分からなかった。
やがて男の抵抗が弱まり、廊下に響いていた悲鳴が途切れても、ねいろは顔を上げなかった。
どれほどの時間が過ぎたのか。
ようやく顔を上げたとき、廊下は静まり返っていた。
口の中に、鉄の味が広がっている。
「…………あ……」
ねいろは呆然と自分の手を見下ろした。
震える指。
赤く汚れた口元。
そして、目の前に横たわる、もう二度と握手会へ来ることのない人。
「…………約束、した……のに……」
ファンは食べない。
そう言ったのは、自分だった。
誰よりも大切にすると決めていたのに。
クロちゃんが食べようとしたときだって、あんなに必死に止めたのに。
それなのに。
「ねいろ、が……」
声が震える。
「ねいろの……せいで……」
『違う。お前じゃない』
クロちゃんが答えた。
『あいつがお前を刺した。殺そうとしたのは向こうだ。だから――』
「……ちがう」
自分の意思で掴んで、自分の口で噛みついた。
その感触が、まだ残っている。
「……っ、う……」
胃の底から何かが込み上げてきた。ねいろは慌てて口元を押さえたが、指の間から嗚咽が漏れた。
ステージの上では、どんなにつらくても笑っていられた。お母さんの葬式だって、みんなの前では笑顔を絶やさないようにしてきた。
それがアイドルだから。
なのに、今はもう、どうしても笑えなかった。
「ごめんなさい……」
涙がぼろぼろと零れ落ちる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何度謝っても、返事はなかった。
ヴィジョンクエスト見てるんですけど面白いですね、フライデイがトニーの死にトラウマ持ってるので正直興奮した。
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もし貰えたらエタる可能性が大幅に減少します。なんなら、この作品じゃなくてBNDの感想でも大丈夫オッケーなくらい感想欲しいです。