第2話
翌朝。
「遙ー! 起きなさい。遅刻するわよー!」
「んー……」
布団の中で、私は目をこすった。
「あと五分……」
「昨日も言ってたでしょ」
「今日は本当にあと五分……」
「じゃあお母さん、朝ご飯食かたづけちゃうからね」
「それはダメ!」
気合を入れて飛び起きた。
「おはよ!」
「おはよう。ほら、早く顔洗ってきなさい」
「はーい!」
いつもの朝だった。
ただ一つ、昨日までとは違うことがある。
私は洗面所の鏡の前で、自分の手首をじっと眺めていた。
「……夢じゃないよね」
昨夜、壁を歩いた。
机を軽々持ち上げた。
そして、手首から糸まで出た。
全部覚えている。
「……ほんとに、スパイダーマンなんだ」
「遙ー! ご飯!」
「今行くー!」
慌ててリビングへ向かう。
朝食の席では、父親の勉が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
「おはよう」
「おはよ、父さん」
「お、今日は早いな」
「お母さんに叩き起こされちゃった」
「人聞き悪いわね。普通に起こしただけよ」
「普通じゃないって。あと五分って言ったのに」
「その五分が毎日長いのよ」
いつもの朝。
なのに、遙は箸を持つ自分の手を妙に意識してしまう。
これで机を持ち上げられる。
壁にも張り付ける。
もしかしたら、もっとすごいこともできる。
「……」
そう思うと、口元が少しだけニヤけた。
「どうした?」
勉が怪訝そうに見る。
「え?」
「いや、なんか嬉しそうだから」
「な、なんでもない!」
「昨日からずっと変よね」
芽衣まで笑う。
「学校で何かあったの?」
「何にもないってば!」
「そう?」
「そうなの!」
遙は慌てて味噌汁を飲んだ。
「……熱っ!」
「だから急いで食べるなって」
「だって時間ないんだもん!」
そのまま私は学校へと向かった。
「おっはよー!」
教室に入ると、純子が手を振った。
「おはよ、遙」
「眠い……」
「昨日遅かった?」
「うん、そんなところ」
「でも、なんかニヤニヤしてる」
「してないよ!」
「してるって」
「してない!」
私は笑いながら否定した。
でも、胸の中では昨夜のことを思い出している。
壁。
糸。
怪力。
そして、スパイダーマン。
もしかしたら今日は、もっといろんなことができるかもしれない。
「そういえばさ」
純子が言った。
「今日、体育じゃん」
「…………」
笑顔が消えた。
「……体育」
「うん。たしか体力測定だったよね」
「……そうだった」
完全に忘れていた。
「最悪……」
「なんで? 体育好きじゃん」
「いや、今日はちょっと……」
遙の頭の中に昨夜の机が浮かんだ。
ひょい。
軽々持ち上がった。
「……どうしよう」
「何が?」
「体調不良でさぼれないかなぁ?!」
「よくわかんないけど、先週さぼったばっかだから無理じゃないの」
体育の時間
「それじゃあ今日は体力測定をするぞー」
体育教師の声がグラウンドに響いた。
男子も女子も、それぞれの種目に分かれて準備を始める。
「まずは100メートル走から」
「えぇ……」
私は小さく呻いた。
隣の純子が笑う。
「遙、そんな嫌そうな顔しなくても」
「だって……」
「いつも普通に速いじゃん」
「今日は普通じゃないかもしれないの」
「何それ」
遙は答えられなかった。
順番が来る。
「位置について!」
スタートラインに立って前を見る。
ゴールは100メートル先。
昨日のことは忘れて普通に走ればいい、力を入れすぎないように。
「よーい……」
ドン!
「えっ」
一瞬だった。
風が顔に当たったと思えば身体が勝手に前へ進む。
速い。
速すぎる。
「ちょっ……!」
遙は慌てて減速しようとした。
でも止まらない。
「待って待って!」
そのままゴールを駆け抜ければ、計測係の子がストップウォッチを止めた。
「……10秒1」
周囲がざわついた。
「え?」
「今の誰?」
「飛騨じゃん」
「速っ!」
自分でも目を丸くしている。
「……え?」
自分の足を見る。
「今、私……何秒?」
「10秒1」
ゴールで待っていた純子が呆然とした顔で答えた。
「女子のタイムじゃないでしょ、それ」
「いや、私も知らないよ!」
「どうやって走ったの?」
困った、とても困った。
死ぬほど力をぬいていたつもりだけど、まだ足りなかったらしい。
幸い、私は普段から日本記録手前くらいのタイムは出せていたし、
計測係の子の押し間違いということでなんとかこの場は切り抜けさせてもらった。
ごめんね、記録の子。今度何か奢るから
「次、走り幅跳び!」
教師の声が飛ぶも、嫌な予感がした。
(……これ、絶対まずいな)
そして跳べば
「――え?」
身体が宙へ浮いた。
視界が一気に高くなる。
「え、ちょっと!」そして、砂場へ着地。
ザッ!
記録係がメジャーを伸ばす。
「……6メートル12!」
「えぇっ!?」
今度は男子も叫んだ。
「6メートル!?」
「女子だよな?」
「飛びすぎじゃね?」
教師まで固まっている。
「飛騨……今の、どうやった?」
「どうって……」
砂場を見る。
「……普通に?」
「普通に6メートル飛ぶ女子はいない」
「ですよね……でも世界記録は確か、もう少し行ってたはずですよ!」
自分は何の言い訳をしてるんだろうか、少し情けなくなってきた。
次の種目はボール投げだった。
ボールを握る、嫌な予感しかしない。
(かるーく、かるーく投げるんだぞ、私!)
「いけっ!……」
慎重に腕を振った。
ひゅっ。
ボールが飛んでいく。
飛んでいく。
ぽてっ……
「…………」
誰も喋らない。
幸い、ボールが校庭の端まで飛ぶことはなかった。
「……何メートル?」
「……6メートルです!」
「…………」
私は両手で顔を覆った。
「もうやだぁ……」
親友の純子が肩を叩く。
「遙」
「なに……」
「今日のあんた、なんかおかしいよ」
「知ってるよぉ……」
体育が終わる頃には、私はクラス中の注目を集めていた。
いや、それ自体はいつものことではあるのだが。
せめて今日くらいは普通に過ごしたかった。
私は思わず自分の手を見た。
この力のことをまだ何も知らない。
どこまで強いのか、どこまで速いのかも。
でも、一つだけ確信がもてた。
昨日の蜘蛛は、ただの蜘蛛じゃなかった。
そして自分の身体も、もう昨日までの自分ではない。
その日の昼休み。
教室では、遙の体育の記録が早くも話題になりクラスメイトから囲まれていた。
「飛騨、マジで陸上やったほうがいいって」
「絶対メダル狙えるよ」
「いやいや、そんな大げさな……」
私はお茶を濁していたところ、
窓の外から一台の消防車が走っていくのが見えた。
サイレンが遠ざかっていく。
遙は何となく、その姿を目で追った。
そして――。
背中の奥が、ぞわりとした。
「……え?」
不思議な感覚。
何かがおかしい。
何かが、起きる。
そんな予感とともに私は窓の外を見つめたが、けれど何も起きなかった。
まだ本人は知らない。
この奇妙な感覚こそが、スパイダーマンの能力の中でもっとも厄介なものの一つだということを。
そして今日。
遙の「普通の高校生活」は、早くも終わりを迎えようとしていた。
休み時間
昼休みになっても、私の周りには人が集まっていた。
朝の体育で出した記録があまりにも目立ってしまったせいだ。
「飛騨って、前からあんなに速かったっけ?」
「いや、知らないけど……」
「100メートル10秒ってヤバくない? しかも走り幅跳び五メートル超えてたよな」
「私だってびっくりしてるんだから、そんなに聞かないでよ」
私は笑って誤魔化しながら弁当を広げた。褒められるのは嫌じゃない、むしろちょっと嬉しい。
でも、みんなが知らないだけで、今日の記録は自分の実力じゃない。
蜘蛛に噛まれてから身体がおかしくなったおかげだ、そう思うと素直には喜べなかった。
「遙、今日どうしたの?」
ようやく周囲の反応も落ち着いた頃に、隣に座った来た純子が、
卵焼きをつまみながら顔を覗き込んでくる。
「どうしたって?」
「朝からずっと調子よすぎるじゃん。体育だけじゃなくて、なんか妙に元気だし」
「そうかなあ。昨日ちゃんと寝たからじゃない?」
「昨日って何時に寝たの?」
「十一時くらい」
「普通じゃん」
こういうときは余計なことを言わないほうがいい。
昨日から何度もそう自分に言い聞かせている。
壁を歩けることも、手首から糸が出ることも、身体能力が急に上がったことも、全部自分だけの秘密だ。
「でも、遙って前々から運動部から勧誘されてるでしょ?もう観念して入ったら?」
「絶対イヤ」
「なんでよ。全国狙えるかもよ?」
「練習面倒だもん、そりゃ練習したらメダルくらいとれるだろうけど。獲ったところで何もないし」
「相変わらず嫌味な奴、これが才能マン」
「それ言わないで……」
いつもの会話で二人して笑っていると、不意に背中を冷たいものが走った。
「……え?」
箸が止まる。
何かがおかしい。
蜘蛛に噛まれてから何度か感じている、あの嫌な感覚だった。
何かが起こる。そんな予感だけが、理由もなく身体の奥から湧き上がってくるのだ。
「遙?」
「……ううん、なんでもない」
何食わぬ顔で弁当へ視線を戻した。
気のせい。そういうことにしてしまおうとした、その直後だった。
校舎のどこかから、けたたましい音が響いた。
ガシャーン!
「何!?」
教室中の生徒が一斉に顔を上げる。そして私はもう我慢できず反射的に立ち上がっていた。
「ちょっと見てくる!」
「え、遙?」
純子の声を背中に聞きながら、は廊下へ飛び出した。
音のした方向へ走る。
階段を駆け下り、さらに一階へ向かうにつれて、さっきの嫌な感覚がどんどん強くなっていく。
校舎裏へ出たところで、足を止めた。
そこでは体育倉庫の脇に置かれていた大きな金属製の棚が倒れていて、その下から男子生徒の声も聞こえている。
「誰か! 助けて!」
「大丈夫!?」
遙が駆け寄ると、男子生徒は足を棚に挟まれて身動きが取れなくなっていた。
周りにいた生徒たちもどうしていいか分からず、先生を呼びに走っているようだ。
「足が、足が抜けないんだ!」
「今、先生呼んでるからな!」
倒れた棚を見ると確かにかなり重そうだ。普通なら一人で動かせるようなものじゃない。
でも、昨日の机を思い出す。今朝の100メートル走も、走り幅跳びも、ボール投げもそうだった。
もしかしたら、自分なら動かせる。
そう思った瞬間、少しだけ迷った。
ここで力を使えばまた目立つ。
せっかく体育のことも「たまたま調子がよかった」で誤魔化しているのに、
こんなものまで持ち上げたら絶対に怪しまれる。
けれど、棚の下から聞こえてくる声を聞いているうちに、迷っている場合じゃないと思った。
「ちょっと、みんな下がって!」
「飛騨?」
「いいから!」
棚に両手をかけ、深く息を吸い、力を込める。
「……っ!」
ギギギ、と金属が軋んだ。
「え……?」
周囲から驚きの声が上がる。なんなら自分でも驚いていた。重い。確かに重い。でも、持ち上がらないほどじゃない。
「今なら出られるよ!」
遙が声をかけると、男子生徒は慌てて棚の下から這い出した。「早く!」と叫びながら、さらに力を込める。棚が大きく浮き上がり、そのまま横へ倒れた。
ガシャーン!
静まり返った。
私は自分の手を見た。
やってしまった。
明らかに普通の女子高生が出せる力じゃない。
「飛騨……今の、一人でやったの?」
近くにいた男子が呆然と聞いてくる。
「え?」
「いや、今の棚」
「……ああ」
頭をフル回転させた。何か言わなきゃ。けれど、うまい言い訳なんて思いつかない。
「火事場の馬鹿力……とか?」
「いやいやいや、そんなレベルじゃないだろ!」
「そうかな?」
「そうだよ!」
笑ってごまかした。
「まあ、たまたま力が出たんじゃない?」と軽く言って、その場から離れようとする。
ちょうどそのとき、教師が駆けつけてきた。
「飛騨! 今のは――」
「あっ、先生! この子、怪我してます!」
「いや、それは分かったが……」
「じゃあ私、教室戻りますね!」
「ちょっと待て!」
私は聞こえないふりをして走り出した。
教室へ戻ると、純子がすぐに駆け寄ってきた。
「遙!」
「な、なに?」
「さっき何したの?」
「何って?」
「体育倉庫。棚持ち上げてたでしょ」
「ああ……あれ?」
できるだけ平然とした顔を作った。
「なんか、力入れたら持ち上がった」
「いや、それがおかしいんだって!」
「そうかな?」
「そうだよ。あんなの普通持ち上がらないよ」
「でも持ち上がっちゃったし」
「だからなんで?」
「……たまたま?」
「たまたまって何?」
「私にも分かんないよ」
純子は納得していないようだったが、もうそれ以上何も言わなかった。
ここで余計な説明をすればするほどボロが出る気がしたからだ。
「まあ、いいじゃん。誰も怪我しなかったんだし」
「それはそうだけど……」
純子はまだ遙をじっと見ている。
「……なんか怪しい」
「ひどい!」
「だって今日の遙、絶対おかしいもん」
「たまたまだって」
私は笑顔で答えた。
けれど心臓は、ものすごい速さで鳴っていた。
放課後は純子と駅まで歩いた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日ね」
「今日は寄り道しないの?」
「今日は帰る。ちょっと疲れた」
「そっか。じゃあね」
「ばいばーい」
別れたあと、私は一人で歩きながら大きく息を吐いた。
「……疲れたぁ」
身体が疲れたというより、頭が疲れた。
朝からずっと能力のことを隠している。体育の記録をごまかして、棚を持ち上げたことをごまかして、
周囲の質問も全部適当に流した。
これからもずっとこんなことを続けるのだろうか。
ポケットからスマートフォンを取り出した。
検索画面には、昨日調べたページが残っている。
『スパイダーマン 能力』
画面を眺めたあと、すぐに閉じた。
「……やっぱり似すぎてる」
蜘蛛に噛まれたことも、身体能力が突然変わったことも、壁に張り付けることも、糸が出ることも。そして今日感じた、あの妙な感覚。
全部が偶然だとは、とても思えない。
でも、それを誰かに話すつもりはなかった。
話したところで信じてもらえるわけがないし、もし本当に信じられてしまったら、それはそれで怖い。
夕暮れの東京を歩きながら、ふと自分の手首を見た。
「……これ、ちゃんと使えるようになったら、どうなるんだろ」
昨日は怖かった。
今日は少しだけ慣れた。
そして今は――ほんの少しだけ、試してみたいと思っている。
もちろん、誰にも見られない場所で。
誰にも知られないように。
自分が何者になったのかを確かめるために。
遙は小さく笑って、家へ向かって歩き出した。