第3話
その日の夜、私はベッドの上でスマートフォンを眺めていた。
画面には、スパイダーマンがビルからビルへ飛び移る映像が流れている。何度も見たことのある場面なのに、今日はどうしても目が離せなかった。片手を前に伸ばし、手首から糸を飛ばして、勢いよく街へ飛び出していく。その姿は、やはり格好いい。
「……これ、私にもできるのかな」
遙は自分の手首を見た。
昨日、偶然出した白い糸。あれから何度か試してみたが、出すこと自体はできるようになっている。ただ、狙った場所に飛ばすのはまだ難しく、勢いも安定しない。
「……ちょっとだけなら」
ベッドから起き上がる。
「ちょっと試すだけ」
そう言いながら、制服ではなく動きやすい服に着替えた。
リビングでは、芽衣と勉がまだテレビを見ている。
「おやすみー」
「もう寝るの?」
「うん。明日も学校あるし」
「はいはい。夜更かししないのよ」
「分かってるって」
私は階段を上がり、部屋へ戻った。
それから十分ほど経って、明かりが消える。
しかし、ベッドに入ったわけではない。
窓を少し開け、外を覗き込む。
「……よし」
東京の夜。
家々の明かりが広がり、少し遠くには高層ビルの光が見える。
こんな時間なら、誰にも見られないだろう。
私はそっと窓から外へ出た。
「……やっぱりちょっと怖いや」
ベランダの手すりに足を掛ける。
普通なら絶対にやらない
でも今の自分なら、壁に張り付くことだってできる。
「大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせながら、壁へ手をついた。
ぺたっ。
「よし」
そのままベランダの外壁をゆっくり下りていく。
地面に降りると、少しだけ胸を張った。
「……私、ほんとにすごいかも」
そして近くの人目につきにくい公園へと移動した。
まずは糸の練習だ。
「ちゃんと狙って……」
右手を前へ。
「いけっ」
シュッ。
白い糸が飛んだ。
しかし狙いより大きく外れ、近くの電柱にべちゃっと張り付く。
「……」
狙ってた木と電柱を見比べる。
「まあ、最初だし」
次は少し右。
「えいっ!」
シュッ。
今度は地面。
「…………難しくない?」
さらにもう一度。
シュッ。
今度は木の幹。
「おっ!当たった!」
嬉しくなって、糸を引っ張ってみる。
ぐっ。
「……あれ?」
びくともしない。
「これ、取れない」
もう一度引っ張る。
「んんっ……!」
ブチッ。
「うわっ!」
糸が突然切れれば、当然尻もちをついた。
「痛っっっ……」
お尻をさすりながら、木を見る。
「糸にも限界あるんだ……」
もう一度手首を見る。
「じゃあ、もっと練習しないと」
しばらく練習しているうちに、少しずつ狙いが定まってきた。
電柱。
木。
建物の壁。
まだまだ外れるけれど、最初よりはずっとマシだ。
「よし……」
遙は夜空を見上げた。
「じゃあ次は、スイング」
映画やアニメで何度も見た。
糸を高い場所へ飛ばし、身体を振り子のように振って前へ飛ぶ。
理屈は分かる。
「……円運動と振り子運動とクモ糸のバネ作用云々。まぁ、ニュートン力学一通り組み合わせるような感じでしょ。私中学時代、学年1位だし……余裕余裕」
近くの建物を見上げた。
「まず、糸をあそこに」
手首を向ける。
「いけっ!」
シュッ!
糸が飛ぶ。
建物の壁に張り付いた。
「よし!」
糸を握り
「じゃあ……いくよ……!」
助走をつけ、地面を蹴りあげた。
「せーのっ!!――わっ!」
一瞬、身体が浮いた。
「でき――」
次の瞬間。
ゴンッ!
「いったぁぁぁ!」
遙の身体が建物の壁に勢いよくぶつかった。
「痛っ! 痛い!」
壁に張り付いたまま、顔をしかめる。
「な、なんで!?」
答えは簡単だった。
糸が短すぎることと、最後まで手を離してないのだから。
「ううっ……もう一回」
もう一度さっきの場所へ降りて、
今度は糸をもっと長くする。
「これなら……」
シュッ!
糸が伸びる。
「よし!」
走る。
飛ぶ。
「今度こそ!」
――ビュンッ!
「わあああああ!」
さっきより速い。
速すぎる。
「止まって! 止まってぇ!」
身体が大きく振られる。
「うわっ!」
建物の角が近づいてくる。
「いやいやいや!ムリムリムリ!!!」
慌てて糸を切れば当然、重力に従いそのまま地面へ落ちる。
「ぎゃゃあっ!」
ドサッ!
「……」
しばらく動けない。
「……腰がぁ……腰が痛いよぉ……」
私は仰向けになったまま夜空を見る。
「スパイダーマンって、こんな大変だったんだ……」
けれど少し休んでから、また立ち上がった。
いくら泣き言を言っても、口元は笑っていた。
「でも……やっぱり楽しい」
今度はもっと低い位置から。
糸を短く。
速度も抑える。
シュッ。
糸を飛ばす。
伸ばす。
走る。
跳ぶ。
「……おっ」
さっきよりは上手くいった。
身体が少しだけ前へ進む。
「できた!」
遙は思わず笑った。
しかし喜んだ瞬間、糸の長さが変わった。
「え?」
身体が急に引っ張られる。
「うわっ!」
ぐるん。
遙の身体が回転する。
「ちょっと、待ってぇぇ!」
ドンッ!
今度は建物の壁ではなく、近くの看板に激突した。
「…………」
看板に張り付いたまま動かなかった。
「……向いてないのかな、私」
でも、すぐに首を振る。
「いや。まだ二日目だし」
看板からゆっくり降りる。
「二日目でできるほうがおかしいよね」
自らの手首から伸びる白い糸、それを指先でつまんでみる。
「これ、ちゃんと使いこなせるようになったら……」
高層ビル。
道路を走る車。
夜空。
昨日までなら、ただ見上げるだけだった景色。
でも今の私には、少しだけ違って見えた。
「……いつか、本当に跳べるかな」
私は小さく笑った。
その後も何度も練習した。
糸を飛ばしては外し、勢いをつけすぎては壁へ激突する。
振り子運動だけならともかく、クモ糸の弾性作用まで考慮すればスパイダーマンのスイングとは、
見た目ほど簡単な事ではなかった。
それでも私は諦めなかった。
最後には疲れ果てて、近くの建物の屋上で仰向けになった。
「……疲れたぁ」
風が頬を撫でる。
私は明るくなり始めた空を見上げた。
「明日も学校かぁ……」
そう呟いてから、少しだけ笑う。
「……でも、また練習しよ」
まだ上手くいかない。まだ何度も失敗する。
けれど、それでいい。
飛騨遙のスパイダーマンとしての最初の夜は、華麗なスイングではなく、壁への激突と尻もちと大量の失敗で終わった。
翌朝、私は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
「……んー」
布団の中で身体を伸ばす。
昨日の夜は散々だった。壁にぶつかり、看板にぶつかり、何度も地面に落ちた。肩も背中も痛かったし、最後にはお尻まで痛くなっていた。
だから当然、今日は全身筋肉痛だと思っていた。
ところが。
「……あれ?」
遙は身体を起こして、肩を回した。
痛くない。首を回してみる。
大丈夫。
腰も、背中も、昨日あれだけぶつけたはずなのに、何ともない。
「……なんで?」
ベッドから降りて、昨日一番強くぶつけた場所を触ってみる。確かに痛かったはずなのに、痣すら残っていない。
「えぇ……」
遙はしばらく自分の身体を見つめた。
昨日の夜、あんなに痛かったのに。
寝ている間に治った?
いや、そんなわけがない。
でも、現実に何ともない。
「……スパイダーマンって、そういうのもあるんだ」
遙はスマートフォンを手に取った。
検索してみる。
スパイダーマンの能力について書かれた記事や漫画の説明を眺めているうちに、超人的な身体能力だけではなく、普通の人間より遥かに優れた回復力についても目に入った。
「治癒能力……」
私は自分の皮をつまんだ。
「じゃあ昨日のあれも、寝てる間に治ったってこと?」
信じられない。
でも、そう考えるしかない。
遙は鏡の前に立って身体を確認した。
「……本当に何ともない」
少し怖い。
でも、それ以上に――。
「すっご……」
思わず笑みがこぼれる。
こんなことが本当に自分の身体で起きている。
しばらく鏡を眺めていたが、階下から芽衣の声が聞こえてきた。
「遙! 朝ご飯できてるわよー!」
「今行くー!」
慌てて制服に着替え、階段を下りる。
「おはよう」
「おはよ。今日はずいぶん元気ね」
芽衣が振り返る。
「昨日、疲れたって言ってなかった?」
「うん。でも寝たら治った」
「若いっていいわねえ」
勉が新聞を読みながら笑った。
「昨日の体育で張り切りすぎたんだったね。」
「まあね」
遙は何気なく答えながら、昨夜のことを思い出す。
あれだけ痛かったのに、本当に完全に治っている。
もしこれがスパイダーマンの力なら――。
私は箸を動かしながら、これから先の生活にワクワクしてきた。
学校へ着くと、昨日と同じように純子が話しかけてきた。
「おはよ。昨日大丈夫だった?」
「何が?」
「体育倉庫。あんな重いの持ち上げたじゃん」
「ああ、あれね。全然平気」
「ほんと?」
「うん」
遙は腕をぐるぐる回してみせる。
「ほら」
「……元気そうだね」
「でしょ?」
純子は少し不思議そうな顔をした。
「私だったら絶対筋肉痛になるけどなあ」
「まぁ、鍛え方が違うんだよ」
昨日のことを考えると、身体が何ともないのは本当に助かる。
これなら、今日も普通に過ごせそうだ。
そして、何より今の自分にとっての重大事はウェブスイングだ。
あれは悔しかった、本当に悔しかった。
何度やっても上手くいかないなんて本当に久しぶりのことで。
壁にぶつかるたびに痛かったけれど、その痛みも今は全部消えている。
「……また今夜挑戦しよう」
小さく呟く。
夜空を駆ける自分を想像したら、その日の授業なんてまるで耳に入らなかった。
そしてまた深夜。
家族が寝静まった頃、私はまた窓から外へ出た。
「よし……」
昨日と同じ場所へ向かうと案の定誰もいなかった。
もちろん完全に静かなわけではない。遠くから車の音が聞こえ、夜の東京にはまだ人の気配が残っている。
遙は人のいない場所を選び、手首を構えた。
「……いくよ」
シュッ。
白い糸が伸びる。
今度はちゃんと狙った場所に当たった。
「おっ」
昨日より上手くなっている。
嬉しくなった。
「もう一回!」
シュッ。
今度も成功。
「やった!」
昨日は何度も外していたのに、今日は少しずつ狙えるようになっている。
それだけでも楽しかった。
遙はしばらく糸を飛ばして遊んだ。
木に付けてみたり、壁に付けてみたり、糸を伸ばしたまま引っ張ってみたりする。
まだ分からないことだらけだ。
それでも、昨日よりは確実に上手くなっている。
「じゃあ……」
遙は空を見上げた。
「もう一回だけ」
昨日は何度も失敗した。
でも、今日は身体の動かし方を少し覚えている。
糸を飛ばす。
身体を走らせる。
そして……跳ぶ!!。
「……っ!」
身体が浮いた。
昨日とは明らかに違う、予想以上の高さと勢いに思わず声が出る。
けれどそんな状態でも、自分の姿勢と周囲の状況をしっかり把握した私は
再び手首から糸を伸ばし、しっかりと前方の建物に絡みつける。
そして、
「――いける!!」
身体が一気に前へ引かれた。
風が耳元で唸り、街の灯りが眼下に広がる。まるで夜空に吸い込まれていくような感覚。
まるで世界が自分の物になったかのような錯覚すら覚える。
「すごい……!」
次の瞬間。
「うわっ!」
糸が外れた。
「え?」
身体が落ちる。
「ちょっ――」
ドサッ!
だが墜落したそこは最初にゴールに決めていた5階建て雑居ビルの屋上だった。
私はそれに気づくと、笑いが込み上げてきた。
「できた!できたじゃん!」
小さな成功だったが、大きな一歩だった。
普通なら絶対に来られない場所から見る夜景は格別だった。
「……ふふっ………あははははっっっっ!!」
その笑い声は、夜風に乗って遠ざかっていった。
飛騨遙のスパイダーマンとしての練習は、まだ始まったばかりだった。