第4話
それから一週間が過ぎた。
私は毎晩、家族が寝静まったあとにこっそり家を抜け出していた。
最初の頃は糸を飛ばすだけでも一苦労だった。狙った場所に届かなかったり、張り付いたと思ったらすぐに剥がれたり、スイングをしようとして勢いがつきすぎ、そのまま壁に突っ込んだことも一度や二度ではない。
けれど一週間も続けていればさすがに少しは慣れてくる。
「……よし」
深夜の公園で周囲を見回し誰もいないことを確認すると、私は手首を上げた。
シュッ。
糸が夜空へ伸び木の高い枝に張り付く。
軽く助走をつけて地面を蹴った。
「――っ!」
身体が浮く。
糸に引かれて前へ振り出され、夜風が頬を撫でた。
「見えるっ……!」
最初の頃ならこのまま慌てて糸を切って地面に落ちていたところだ。けれど今は少しだけ余裕がある。身体を動かして振り子の勢いを受け流し、そのまま次の場所へ視線を向ける。
まだ映画のスパイダーマンのようにビルの間を自由自在に飛び回れるわけではない。
高い場所へ行くのも怖いし、速度だってそれほど出せない。それでも、少なくとも「糸に振り回されるだけ」ではなくなっていた。
「……できた」
5回ほどスイングをした後に地面へ着地した後、嬉しそうに笑った。
「昨日より上手くなってる」
だから、今度はもう少しだけ遠くへ。
「せーのっ!」
ほんの一週間前には、壁にぶつかってばかりだった。
それが今では、短い距離なら自分の意思で飛べる。
「もう一回!」
そうして私は夜の公園を跳び回った。
失敗することもまだまだある。糸が狙いより少しずれたり、着地のときにバランスを崩して芝生の上を転がったりもする。
でも、楽しかった。
何度失敗しても、次は少しだけ上手くなる。
その感覚がたまらなく嬉しかった。
翌週の月曜日。
朝のホームルームが始まる前、純子が何気なく話しかけてきた。
「ねえ、遙。最近、遥の家近くの公園行った?」
「駅近くの公園?行ってないけど」
ドキッとして一瞬だけ手を止めた。
「なんで?」
「なんか最近、あそこクモの巣すごいらしいよ」
「クモの巣?」
「うん。朝、通った人が言ってた。前はそんなになかったのに、最近やたら増えてるんだって」
「へえ……」
何でもない顔で返事をする。
けれど、頭の中には昨夜の光景が浮かんでいた。
木の枝。街灯。公園のベンチ。
確かに、糸を飛ばす練習をしている内に楽しくなってあちこちにバラまいてはいた。
見つからないように練習後に切って回収しているつもりだったが、どうやら残っていたらしい。
「それだけ?」
「あとね、夜にあの辺を歩いてた人が、空に人影みたいなのが見えたって」
「人影?」
「うん。でも一瞬だったらしくて。鳥か何かじゃないかって話」
「……ふーん」
なるべく興味がなさそうに答えた。
「なんかちょっと怖くない?」
「別に。鳥じゃない?」
「まぁ、そうだとは思うけどねぇ」
そこで話は終わった。
クモの巣が増えた、夜空に人影を見た人がいる。
どちらも、それだけなら大した話ではない。
公園にクモが巣を張ることなんて普通にあるし、酔っ払いが夜の空を飛ぶ鳥を人影と見間違えることだってあるだろう。
誰も、それ以上気にしていない。
けれど私だけは、少しだけ、いやかなり冷や汗をかいていた。
その日の夜。
自分の部屋の窓から外を眺めていた。
いつもならもう練習を始めている時間だ。
でも今日は、少し迷っている。
「……クモの巣かぁ」
自分の手首と、それから窓の外を見る。
「ちょっとくらいなら……」
結局、いつものように家を抜け出した。
ただ、今日は公園へ向かう前に少しだけ遠回りすることにした。
自分の練習場所が、少しずつ人の目に入るようになっている。
なら、もう少し気をつけないといけないかな。
そんなことを考えながら、東京の夜道を歩いていった。
しばらく夜の散歩を楽しんだ後、
私はいつもの公園へ向かおうとして足を止めた。
「……やっぱり、やめとこ」
昼間に純子から聞いた話が頭に残っている。
何度も同じ場所で練習していればいつか本当に見つかるかもしれない。そう思うと公園に行く気にはなれなかった。
「別の場所探そ」
スマートフォンを取り出した。
地図を眺めながら人が少なそうな場所を探す。
「こっちは住宅街だからダメ。こっちは明るすぎるし……」
いくつか候補を探しているうちに、いつもとは違う道へ入っていった。
しばらく歩く。
すると、次第に周囲が賑やかになってきた。
「……うーん?繁華街の向こうなら逆に人がいないかも?」
気づけば繁華街に出ていた。
深夜だというのに人が多い。店の明かりが並び、道路にはタクシーや車が行き交っている。酔っぱらった会社員らしき人たちの笑い声も聞こえてくる。
「ここは、練習する場所じゃないな……」
流石には苦笑した。
こんなところで糸を飛ばしたら、目立つどころの話じゃない。
「さっさと通り過ぎよ」
そう思って歩を進めた、その時だった。
ゾワッ。
「……え?」
背中を何かが撫でたような感覚。
足が止まる。
周囲を見回したが何もない。
人が歩いている、車も走っている。店から音楽が聞こえている。
なのに、身体だけが妙に緊張していた。
「……また?」
最近、ときどき感じるようになった感覚。
何かがおかしい。何かが来る。
そう思った瞬間だった。
交差点の向こうから、一台の車がものすごい勢いで走ってきた。
「……え?」
信号は赤なのに止まらない。
車体がふらついている。
視線を運転席へ向けると、運転手の顔は真っ赤でハンドルを握る手も妙にふらついている。
「車が来てるぞっっ!!!」
誰かが叫んだ。
車は交差点へ突っ込んでいく。
その先には、横断歩道を渡り始めた人たちがいた。
「――っっ!」
頭が真っ白になる。けれど、考えるより先に身体が動いた。
私は人混みをすり抜けて走る。速い、自分でも驚くほど速い。
「危ない!」
轢かれる寸前のところで1人の男性の腕を掴んで止めた。
「え?」
なにが起きたのか理解できていない男性は、私に腕をそのまま引っ張られ身体を横へ投げとばされる。
その直後、車が歩道へ突っ込んだ。
「きゃあああああっっ!」
「逃げてーーーー!」
(まだ一人いる!!!)
私はさらに走った。
イヤホンをしながら歩いている女性が、車の接近に気づいていないのだ。
けれど、流石に男性を助けた後では追いつけなかった。
車が迫り、私は間に合わない。
だから…………方法は1つしかなかった。
シュッ!
車の側面全体にクモ糸が絡みつく。
「そっちはダメっ!……」
私はそのまま軽く腕を引いた。
ギギッ!
車の進路がわずかにずれる。流石に力不足だったらしい。
「こんのぉっっ!」
今度は叫びながら力を籠めると、車は本来の進路から外れ、
歩行者のいない方向へと弾かれるように逸れた。
キィィィィッ!
タイヤが悲鳴を上げる。
そのまま車は歩道の手前にあったガードレールと街路樹部に激しく衝突した。
ガンッッ!ギュルルッルル!!
大きな金属音が町中に鳴り響く。
車はしばらくエンジンを吹かした後、ようやく止まった。
幸いなことに、横断歩道や歩道の人たちは、誰一人として車にぶつかっていないようだ。
そこで私もようやく安堵の息をつくことができ、
緊迫した状況の反動もあって車道の真ん中に座り込んでしまう。
「はぁ…………なんとか間に合った」
しばらくすると、誰かが震えた声で言いだした。
「今の……何?」
「車、急に曲がったよな……?」
周囲の人たちも車の不自然な軌道に違和感を覚えているようだ。
このままここにいても良いことはないだろう、
私はそう思って立ち上がり去ろうとした。
しかし、去る前にさきほど助けた女性がこちらに向かって真っすぐ近づいてくる。
その目は、はっきりと私を見ていた。
「……あ」
私は慌てて手と顔を隠した。
「あの、あなたさっき、私を……その糸みたいなので……」
「いや、その……違います」
とっさに首を振るも声が裏返る。
「たまたまです。たまたま何かに引っかかってて引っ張られたみたいで……!」
「でも、確かにあなたが……」
女性が一歩近づくたびに、心臓が跳ねた。
(やばい)
頭の中が一気に冷える。
見られている、ちゃんと見られている。
助けたことだけじゃない。
“糸を” だ。
「……っ」
私は一瞬だけ周囲を見た。
すでに人が集まり始めている。
スマホを向けている人もいる。
誰かが「大丈夫ですか!」と叫んでいる。その中で、女性だけがこちらをまっすぐに見ていた。
「……ごめんなさい。私、行かなきゃ」
小さく呟き
そして――。走った。
「ちょ、ちょっと!」
背中で声が聞こえた。
でも振り返らない、振り返れない。
人混みを抜け、路地へ飛び込む。
心臓がうるさいくらい鳴っている。
繁華街を抜け、路地へ入って、人目の少ない場所まで来ると、ようやく足を止める。
「はぁ……はぁ……」
胸に手を当てる。
心臓がまだ激しく鳴っている。
「……私、さっき……」
あの車が突っ込んでくるのを見て、きっと普段のわたしなら怖くて動けなかったはずなのに。次の瞬間には、身体が勝手に動いていた。
それに、あの嫌な感覚。
最近、危険が近づくと感じていたもの。
「……もしかして、これがスパイダーセンス……?」
答えは分からない。
でも、今日初めて分かったことが一つある。
この力は、ただ速く走ったり、壁を登ったり、空を飛んだりするためだけのものじゃない。危険を感じる、それも自分だけじゃなくて他人のも。
そして、誰かを助けることができる。
「……」
しばらく黙っていた。
怖かった。
事故に巻き込まれるかもしれなかった。
自分でも何をしたのかよく分かっていない。
それでも――。
「……助けられて、よかった」
小さく笑った。
そして何事もなかったように、家へと戻っていった。
ただ、この日を境に。
私にとって、スパイダーマンの力とは「自分だけの秘密のごっこ遊び」ではなくなっていくことになる。