魔王城の廊下は、戦いの爪痕に満ちていた。
砕け散った石壁。床に刻まれた無数の傷跡。そして、赤黒い血が長く尾を引くように石畳を染めている。
その血の先で、一人の神官が静かに膝をついた。聖杖が乾いた音を立てて床へ転がる。
リオンは壁にもたれかかるように身体を預け、そのまま力なく座り込んだ。純白だった神官服は鮮血に染まり、呼吸をするたび胸元が小さく上下する。
「リオン!」
駆け寄ってきた勇者一行の声が廊下に響く。真っ先に彼女の前へ膝をついたのは聖女だった。
「勇者様、聖女様……」
リオンは弱々しく微笑む。その表情には苦痛よりも、どこか安堵の色が浮かんでいた。
「どうやら私は、ここまでのようです。最後まで務めを果たせず……申し訳ございません」
「駄目よ、リオン!」
聖女は震える手を彼女へ伸ばす。
「私の回復の奇跡で――」
しかし、その手をリオンがそっと握った。温かな手だった。彼女は静かに首を横へ振る。
「それこそ駄目です」
優しい声音だったが、その意思は揺るがない。
「私はもう奇跡を使えません。魔王との戦いが控えているのに……何もできない私なんかのために、奇跡を使わないでください」
「そんなっ……」
聖女の瞳に涙が浮かぶ。リオンもまた胸が痛んだ。
彼女は誰より仲間思いで、誰より優しい人だ。その優しさを知っているからこそ、自分のために貴重な奇跡を失わせるわけにはいかなかった。
静かに勇者が歩み寄る。リオンと目線を合わせるように片膝をつき、まっすぐ彼女を見つめた。
「今まで一緒に戦えたこと、誇りに思う。リオン」
その一言だけで十分だった。旅の日々が脳裏によみがえる。笑い合った日々。泣きながら祈った夜。仲間と肩を並べて魔物へ立ち向かった時間。どれもが、かけがえのない宝物だった。
「私もです、勇者様」
自然と笑みがこぼれる。勇者もまた静かに頷いた。
「必ず魔王を討伐する。リオンは、ゆっくり休んでくれ」
「約束ですよ?」
「ああ。約束だ」
その返事を聞いた瞬間、不思議なほど心が軽くなった。
「ふふっ……では、ご武運を」
「ああ。行ってくる」
勇者は立ち上がり、なおも涙を流す聖女の手を取る。歩き出したその背中へ、聖女が振り返って叫んだ。
「戦いが終わるまで待っていなさい! 死ぬんじゃないわよ!」
その声は廊下いっぱいに響き渡る。最後まで騒がしく、最後まで優しい人だった。リオンは思わず小さく笑う。
「最後まで……優しいお方……」
二人の背中が遠ざかっていく。その姿を見届けると、急速に視界が霞み始めた。音が遠ざかる。身体の感覚が消えていく。
勇者様なら、きっと。最後にそう願った瞬間、世界は静かな闇へと包まれた。
♢
柔らかな温もりが身体を包んでいた。
目を開けると、そこは光だけで満たされた世界だった。
空も地面も境界がなく、ただ暖かな光の中を自分がふわりと漂っている。
ここは死後の世界だろうか。そう途切れ途切れの意識の中、考える。
「そうだ。お前は死んだのだ」
男とも女ともつかない、不思議な声が辺り一面から響いた。
心を読まれたことにリオンは思わず身を震わせる。
意識がはっきりするにつれ、目の前にある光の存在感も増していった。
恐る恐る口を開く。
「私がお仕えしている……地母神様でしょうか」
「私に特定の名前はない。ただ、人々は私を神や創造主と呼ぶ」
地母神より神格の高い、創造主が出てきたことに驚きで息を呑む。まさか、自分が直接創造主と会うことになるとは思いもしなかった。
「お前の魂は、今どき珍しいほど青空のように晴れやかだ。そして澄んでいる」
「ありがとうございます……」
リオンは思わず深く頭を下げた。創造主に褒められるなど畏れ多い。
「このまま天国へ送ってもよい。だが、一つ頼みがある。もちろん強制ではない」
「頼み……ですか」
顔を上げると、光が静かに揺れた。
「リオン。お前は親に恵まれぬ子どもや孤児をどう思う」
その問いに、旅の途中で出会った子どもたちの姿が胸へ浮かぶ。
戦火で家族を失った幼い兄妹。親から虐げられ、それでも笑おうとしていた少女。
寒空の下、一人で震えていた少年。忘れたことなど一度もなかった。
「……言葉では言い表せません。本来なら、そのような子どもたちが存在してはいけないのです」
「ふむ」
静かな声が返る。
リオンは思わず問い返した。
「創造主様なら、それをなくすこともできるのではありませんか」
「確かに可能である」
その答えに、胸が高鳴る。
「ならば、なぜ……!」
思わず声が大きくなる。
「なぜ、あのような不条理を許すのですか!」
「私は生命の可能性を信じている。ゆえに、介入するつもりはない」
「そんな……」
肩が落ちる。静寂が流れた。やがて創造主は、静かに言葉を続ける。
「……だが、私にも思うところはある」
「生まれる前に死ぬ子ども。物心つく前に死ぬ子ども。環境ゆえ希望も信仰も知らずに死ぬ子ども。彼らに必要なのは裁きではない。安寧であり、救いだ」
リオンは顔を上げた。
「そこで私は、一つの箱庭を作った」
光が柔らかく揺れる。
「子どもたちが安心して暮らせる死後の世界。家族の愛を知ることのできる世界だ」
「それは……とても素晴らしいことだと思います」
「そこで、お前には子どもたちの親となってほしい」
リオンは息を呑む。
「彼らの心を、魂を救ってほしいのだ」
「……」
「もちろん断っても構わない。このまま天国へ――」
「いえ」
リオンは創造主の言葉を遮った。迷いは一切なかった。
「迷える魂を救うのも神官の務めです。その箱庭へ送ってください」
光が小さく震える。
「……分かってはいたが、本当に綺麗な魂だ」
どこか呆れたようで、しかし嬉しそうな声だった。
「手元に置いておきたいくらいだ」
リオンは思わず笑みを浮かべる。
「ふふっ。ありがとうございます」
「では箱庭へ送ろう。すでに送った者たちと協力し、子どもたちの魂を救うのだ」
一際強い光が世界を包み込む。
「汝らに祝福あれ」
視界が真っ白に染まり、意識は再び光の中へ溶けていった。
♢
「――おい、大丈夫か」
低く落ち着いた男の声が、意識の底へ静かに届いた。その声に導かれるように、リオンはゆっくりと瞼を開く。最初に目へ飛び込んできたのは、見たこともない奇妙な顔だった。
黒く丸い目のような硝子。口元から突き出た円筒状の突起。人の顔とは思えない異形の姿が、自分を覗き込んでいる。
「……っ!」
息を呑む。心臓が大きく跳ね、反射的に身体を後ろへ引いた。両手で地面を押し、夢中で後ずさる。頭では「逃げなければ」という思いだけが渦巻いていた。
「ああ」
異形の男は慌てた様子もなく、小さく息をついた。
「ガスマスクをつけたままだったか。すまん」
そう言うと、男は頭に手を添え、その奇妙な仮面を外した。
現れたのは二十代半ばほどの青年だった。
短く整えられた黒髪に、切れ長の瞳。愛想よく笑うタイプではなく、どちらかといえば仏頂面に近い。しかし、その眼差しには警戒よりも気遣いが宿っており、不思議と威圧感はない。
リオンは恐る恐る息を吐く。どうやら魔物ではないらしい。落ち着きを取り戻そうと、周囲へ視線を向けた。
「ここは……」
思わず声が漏れる。そこは、彼女が今まで見てきたどの土地とも違う景色だった。
一面に広がる柔らかな草原。風に揺れる色とりどりの草花。大きく枝葉を広げた木々が木陰を作り、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。耳を澄ませば、近くを流れる川のせせらぎが心地よく響いていた。空はどこまでも青く澄み渡り、暖かな陽光が全身を優しく包み込んでいる。
先ほどまで命の奪い合いが行われていた魔王城とは、まるで別世界だった。
あまりにも穏やかな景色に、リオンはしばらく言葉を失う。青年はそんな彼女を急かすことなく見守っていた。やがて一歩近づくと、静かに右手を差し出す。
「シラキだ。よろしく頼む」
ぶっきらぼうな自己紹介だった。それでも、その差し出された手には敵意も下心も感じられない。
一瞬だけ戸惑ったものの、リオンはそれが握手を求める仕草なのだと気づく。彼女はおずおずと手を伸ばした。そっと重ねた手は、驚くほど温かかった。
「私はリオンと申します。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
握った手に力が込められる。強すぎず、弱すぎず、相手を安心させるような握手だった。その温もりに触れた瞬間、張り詰めていた緊張が少しだけほどけていく。
シラキは軽く頷くと、握手を解いた。
「創造主から話は聞いている。長旅で疲れただろ。まずは家へ行くぞ」
「家……ですか?」
「ああ」
シラキは当然のように答え、森の奥へ視線を向ける。
「これから、お前が暮らす場所だ」
リオンはその言葉を胸の中で静かに繰り返した。
――家。
それは、自分が子どもたちへ与えることになる場所。
そして、自分自身にとっても新たな居場所となる場所だった。