「逃げろ!」
誰かの絶叫が地下駅構内へ響き渡る。薄暗い照明が点滅し、非常灯の赤い光がコンクリートの壁を不気味に照らしていた。
地上はとうの昔に終わっていた。
空気は汚染され、大地は黒く腐り、得体の知れない不定形の異形の怪物たちが世界を支配している。
人類は地下へ潜った。地下鉄駅を砦とし、数百人が肩を寄せ合いながら生き延びていた。それが人類最後の居場所だった。
「東通路が突破された!」
「防衛班、応戦しろ!」
「子どもたちをシェルターへ! 急げ!」
怒号が飛び交う。混沌状態だ。
シラキはガスマスク越しに荒い呼吸を繰り返しながら短機関銃を構えた。戦友たちも一斉に銃口を向ける。
闇の奥から、それは現れた。人の形をしている。だが、人ではない。ツギハギの四本の腕。身体を縦断するような裂けた口。無数の眼球が身体中で赤く輝きながら、天井を這うように走る。不定形の化け物たちだ。
「撃てぇッ!」
乾いた銃声が駅構内を埋め尽くした。閃光が暗闇を照らす。薬莢がそこら中に飛び散る。嗅ぎ慣れた火薬の臭い。
怪物の身体へ無数の弾丸が突き刺さる。それでも止まらない。一匹が跳んだ。
「うわぁ!?」
若い兵士が押し倒される。次の瞬間、肩口から胴体ごと噛み千切られた。血飛沫が噴き上がる。
まだ息のある兵士が絶叫した。
「助け――ッ!」
その声は途中で途切れた。怪物が頭部を丸呑みにしたからだ。
「クソが!」
シラキは叫びながら引き金を引き続ける。短機関銃が激しく暴れ、銃口から炎を吐き続ける。やっとの思いで一匹を倒すが、嘲笑うかのように次々と押し寄せる。
「医療班だ! 怪我人を!」
「もう死んでる!」
女性の悲鳴。老人の叫び。泣き叫ぶ子ども。
怪物は生きたまま人間へ喰らいつき、肉を引き裂き、骨を砕き、臓物を撒き散らす。駅だった場所は、皆の家だった場所は、地獄へ変わっていた。
「シラキ!」
聞き覚えのある声だった。
振り返る。十年以上背中を預けてきた戦友がいた。だがその胸から、黒い腕が突き出ている。
「……逃げろ」
戦友は笑った。
「お前だけでも――」
言い終わる前に身体が引き裂かれた。
頭の中が真っ白になる。何かが切れた。
「この化け物どもがぁぁ!」
シラキは雄叫びを上げた。短機関銃を腰だめに構え、弾が尽きるまで撃ち続ける。
怪物が倒れる。また一匹。さらに一匹。それでも止まらない。
弾倉が空になった。金属音だけが虚しく鳴る。それでも引き金を引き続ける。何度も。何度も。何度も――
♢
シラキは勢いよく身を起こした。
呼吸が荒い。額から汗が流れ落ちる。胸の奥では心臓が暴れるように脈打っていた。
「……またか」
小さく呟く。
右手は無意識に何かを握る形のまま固まっていた。銃の感触が、まだ掌に残っている気がした。
視線を隣へ向ける。もう一つの寝台では、リオンが静かな寝息を立てていた。
規則正しい呼吸。穏やかな寝顔。昨日この箱庭へ来たばかりだというのに、安心しきった表情で眠っている。
その姿を見ているうちに、自分の荒れた呼吸も少しずつ落ち着いていった。
「……起こすか」
そう呟いたものの、リオンはこの世界に昨日来たばっかりだ。疲れているだろう。
「もう少し寝かせておくか」
寝返りを打ったリオンが、小さく毛布を抱き寄せる。その姿はどこか幼く、思わず口元が緩みそうになる。
シラキは音を立てないよう寝室を出た。そのまま玄関から外に出る。
朝の空気はひんやりとしていた。木々の葉が風に揺れ、小鳥が囀る。夢で見た血の臭いも、硝煙も、断末魔も、ここには存在しない。
ポケットから煙草を一本取り出す。慣れた手つきで火をつけ、深く煙を吸い込む。
肺を満たした煙をゆっくり吐き出すと、白い煙は朝日に溶けるように空へ消えていった。
「……平和、か」
夢の中では、手を伸ばしても誰一人救えなかった。
だが、この世界では違う。創造主から託された役目は、怪物を撃ち殺すことではない。傷ついた子どもたちに、家族を与えること。そのために、自分はここへ呼ばれたのだ。
煙草をもう一度くゆらせながら、シラキは静かに朝焼けを見つめていた。
♢
朝の日差しが部屋の中へ差し込む。柔らかな光に包まれながら、リオンはゆっくりと目を覚ました。
「……ん」
見慣れない天井に、一瞬だけ困惑する。しかし、すぐに思い出した。
自分は魔王城で命を落としたこと。創造主に導かれ、この箱庭へやって来たこと。そして、これから傷ついた子どもたちの親になるということ。
「……夢ではないのですね」
小さく呟く。すると、外から小さな物音が聞こえた。隣に視線を向けると、そこには空になったベッドがあった。
「シラキさん?」
不思議に思い、部屋を出る。すると家の外から、わずかに煙の匂いが漂ってきた。
嫌な予感を覚え、外へ出る。そこには、昨日と同じように椅子へ座り、煙草を吸うシラキの姿があった。
「やはり吸っていたのですね」
「……起きたか」
シラキは振り返る。
その表情はいつも通り無愛想だったが、リオンにはどこか疲れているようにも見えた。
「身体に良くないものなのですよね?」
「ああ」
「でしたら、控えた方がよろしいのでは……」
責めるつもりはなかった。ただ、心配だった。
昨日会ったばかりの相手だというのに、不思議と放っておけない気持ちになっていた。
シラキは手に持った煙草へ視線を落とす。
「癖みたいなものだ」
「癖ですか」
「ああ」
短い返事。
けれど、その言葉の奥には何か理由があるように感じられた。
シラキは時折、遠くを見るような目をする。まるで、ここではないどこかを見ているような。きっと彼は、リオンには想像もできないほど多くのものを背負ってきたのだろう。そう思った。
「……ですが」
リオンは優しく言う。
「生きていることを確認するためなら、もっと身体を大切にしてもいいと思います」
シラキの目が、わずかに見開かれる。その反応に、リオンは少し驚いた。
まるで、そんな言葉をかけられるとは思っていなかったように見えたからだ。
「考えておく」
シラキはそう答えた。素っ気ない返事。けれど、拒絶ではなかった。
「はい」
リオンは嬉しくなって、小さく笑った。
♢
朝食は簡素なものだった。焼いたパン。野菜の入ったスープ。そして少しの果物。
シラキにとっては、終末の世界では考えられないほど穏やかな食事だった。
二人は向かい合って席につく。リオンは食事へ手を伸ばす前に、静かに目を閉じた。
「創造主様。今日も食事をいただけることに感謝いたします」
その姿を、シラキは黙って見ていた。しばらくして、リオンが目を開ける。
「どうかしましたか?」
「いや」
シラキはスープを見る。
「この世界にも、神はいるんだったなと思っただけだ」
元いた世界にも宗教はあった。だが、シラキにとって神とは遠い存在だった。祈ったところで、死んだ仲間は戻らない。失ったものは戻らない。だから信じることをやめた。
しかし、この世界では違う。神は実在する。そして自分たちに役目を与えた。
「信じるようになりましたか?」
リオンが尋ねる。
「……分からない」
正直な答えだった。
「だが、少なくとも嘘ではないと思っている」
リオンは優しく微笑んだ。
「それで十分だと思います」
♢
朝食を終えると、シラキは庭へ出た。
何をするのかと思いながら後を追うと、彼は周囲を見渡し、手頃な石をいくつか拾い始めた。
「何をするのですか?」
リオンが尋ねる。
「祠を作る」
「祠……ですか?」
「ああ」
シラキは短く答えると、拾った石を庭の隅に一つずつ積み始めた。
リオンはその姿を見つめ、少し意外に思った。
シラキという人は、もっと実用的なものだけを大切にする人だと思っていた。けれど、彼は祈りを捧げる場所を作っている。その事実が、少しだけ嬉しかった。
リオンも隣へ座り、石を運ぶ。
「こういうことをする人だとは思いませんでした」
思わず口にすると、シラキは少しだけ手を止めた。
「俺もだ」
その返答に、リオンは思わず小さく笑う。
「でも、いいことだと思います」
「そうか」
「はい」
二人で石を積み上げていく。やがて、小さな祠が完成した。
その瞬間だった。積み上げた一番上の石が、淡い光を放つ。
「……!」
二人が息を呑む。
光はゆっくりと石の表面へ広がり、そこへ文字が浮かび上がっていく。最初に現れたのは、二つの名前だった。
『シラキ』
『リオン』
そして、その下へ続く。
『明日、一人の魂を箱庭へ送る』
リオンの胸が大きく脈打った。
「……子ども」
思わず呟く。
石へ浮かぶ文字は、さらに続いた。
『その子は家族を知らずに生涯を終えた』
『二人には、その子の親となってほしい』
やがて光が消える。静寂だけが残った。
リオンはしばらく石を見つめていた。
親。
その言葉が、胸の中へ重く落ちる。
「……親、ですか」
自分でも驚くほど、小さな声になった。
「私は神官として、多くの人を助けてきました」
視線を落とす。
「ですが……母親になったことはありません」
もちろん、子どもを愛した経験がないわけではない。孤児たちの手を取り、祈りを捧げ、笑顔を守ろうとしてきた。
けれど。一人の子どもの人生を預かることとは、きっと違う。
隣を見る。シラキもまた、黙ったまま石板を見つめていた。
「俺もだ」
短い言葉。しかし、その声には迷いが滲んでいるように聞こえた。
「俺は人を守るために戦った」
シラキは自分の手を見る。
「でも、それは銃を持って敵を撃つことだった」
握られた拳。そこには、リオンには分からないほど多くの戦いが刻まれているように見えた。
「子どもを育てるなんて、やったことがない」
風が吹く。完成したばかりの小さな祠の前で、二人は立ち尽くしていた。
魔王と戦うことよりも。命を懸けて敵へ立ち向かうことよりも。誰かの人生を預かるということは、別の覚悟が必要なのかもしれない。
リオンはゆっくりと顔を上げた。不安がないわけではない。怖くないわけでもない。それでも。
「……それでも」
彼女は祠を見る。
「その子が誰かを必要としているなら」
そして、隣にいるシラキを見る。
「私は、その人になりたいです」
シラキはしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。
「……ああ」
その声はいつも通り淡々としていた。けれど、リオンには不思議と頼もしく聞こえた。
「やれることをやろう」
リオンは静かに頷いた。
まだ自分たちは親ではない。何が正しいのかも分からない。
それでも。明日やって来るその子のために二人は初めて、家族になるための一歩を踏み出した。