朝の光が森を照らしていた。鳥のさえずり。木々の葉が風に揺れる音。遠くから聞こえる川のせせらぎ。
リオンは桶を片手に、井戸の前へ立っていた。
まだこの生活には慣れていない。
魔王城での戦いから、まだ一日しか経っていないのだ。あの血と悪意に満ちた場所から、こうして穏やかな朝を迎えていることが不思議でならなかった。
けれど、何故か不安はなかった。
隣にはシラキがいる。
まだ出会って間もない相手だ。それでも、彼が不器用ながらも優しい人間であることは分かってきた。
桶へ水を汲み上げる。澄んだ水面が朝日を反射した。
「……綺麗ですね」
思わず呟いたその時だった。
ふと、庭の隅へ視線が向く。昨日、二人で作った小さな祠。そこから淡い光が漏れていた。
「……!」
リオンは息を呑む。
創造主様。すぐにその存在が頭に浮かんだ。
桶を置き、祠へ駆け寄る。石の表面には、昨日と同じように文字が浮かび上がっていた。
『シラキ』
『リオン』
そして、その下へ続く。
『本日、一人の魂を箱庭へ迎える』
リオンの胸が大きく跳ねる。
文字はさらに続いた。
『その子は用意された居場所で目覚める』
『親となる者たちよ。その子を迎え入れよ』
光が消える。リオンはしばらく祠を見つめていた。
昨日まで、自分たちは「親になる」と口にしていた。けれど、それはまだ覚悟の言葉だった。
今日から違う。本当に、一人の子どもの人生を預かることになる。
「……シラキさん」
リオンは急いで顔を上げた。
家の前から、薪を割る音が聞こえる。そちらへ向かうと、シラキが斧を振り下ろしていた。
「シラキさん」
呼びかけると、彼は手を止め、振り返る。
「どうした」
「祠が……」
それだけで伝わったようだった。シラキは静かに斧を置き、リオンの後についてくる。
二人で祠の前へ立つ。シラキは文字を確認すると、短く息を吐いた。
「来るのか」
「はい」
リオンは頷く。
緊張しているのは、自分だけではないのかもしれない。そう思うと、少しだけ心が落ち着いた。
「行きましょう」
「ああ」
二人は家へ向かう。向かう先は、昨日掃除したばかりの小さな部屋。子どものために用意した場所だ。
扉の前で、リオンの手が止まる。なぜか、魔王城へ向かった時よりも緊張していた。
あの時は、戦う覚悟があった。けれど今から向き合う相手は、守るべき存在だ。
「……開けます」
リオンはゆっくりと扉を開いた。
そこには一人の少女が眠っていた。年齢は六歳ほどだろうか。小さな身体を布団に包み、静かな寝息を立てている。
それを見てリオンは息を止めた。
黒い肌。小さな角。人間よりも尖った耳。小さな身体の後ろで、丸くなった尻尾。
それは、自分の世界で「魔族」と呼ばれていた種族の特徴によく似ていた。
「……魔族」
無意識に言葉が漏れる。
頭の中に、旅の中での体験が蘇る。
魔王軍の中枢を担い、人間と敵対した種族だ。戦場で刃を交えた相手でもある。
けれど目の前にいる少女はただ、小さいだけの子どもだった。
少女は穏やかな顔で眠っている。その胸元には、昨日リオンが子どもを迎えるため作ったぬいぐるみが抱かれていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥が締め付けられる。
この子は生まれた時から、この姿だっただけ。それだけで、誰かに拒まれたのだ。
「……」
言葉が出なかった。
神官として、多くの命を見てきた。苦しむ人々を救おうとしてきた。
それでも目の前の少女が背負ってきた孤独を思うと、胸が痛んだ。
隣を見る。シラキは何も言わず、少女を見つめている。その横顔から感情を読み取ることはできなかった。
少女が小さく身じろぎする。
「……ん」
二人の視線が少女へ集まる。
ゆっくりと瞼が開く。まだ何も知らない瞳が、二人を映した。
少女はしばらく呆然とした後、小さな身体を震わせた。
その反応に、再びリオンの胸が痛む。
この子は目覚めた瞬間から、怯えなければならない場所を生きてきて、そして死んだのだ。
リオンはそっと膝をついた。目線を少女に合わせる。
「……大丈夫ですよ」
自分でも驚くほど、優しい声が出た。
「ここは、あなたを傷つける場所ではありません」
少女は答えない。ただ、不安そうに二人を見つめている。
リオンは静かに微笑んだ。
まだ家族ではない。まだ親と呼ばれる資格もない。
それでもこの子が初めて見る大人になるのならば。せめて、安心できる存在でありたかった。
「あなたを傷つける人はいませんよ」
少女は答えない。
ただ、金色の瞳だけがリオンをじっと見つめていた。
警戒している。信じていいのか分からない。そんな目だった。
リオンはゆっくりと手を差し出す。
「触ってもいいですか?」
すぐには返事がなかった。けれど、しばらくして少女はほんの少しだけ頷いた。
リオンは慎重に手を伸ばす。小さな手に触れる。
冷たい。まるで、ずっと一人で寒さに耐えていたような手だった。
「……大丈夫です」
リオンは微笑む。
「もう一人ではありませんから」
その言葉に、少女の瞳がわずかに揺れた。
その時だった。
「名前は?」
背後から声が響く。それに対して少女の身体が大きく震えた。
リオンが振り返る。そこにはシラキが立っていた。
「シラキさん……」
思わず困った顔になる。
彼に悪意がないことは分かっている。ただ、今の少女にとっては無表情で大柄な男から突然声をかけられることが、恐怖に感じられたのだろう。
少女はリオンの後ろへ隠れるように身体を寄せる。その尻尾が怯えるように揺れていた。
「……」
シラキは少し困った顔をする。
「普通に聞いただけなんだが」
「普通ではありません」
リオンは思わず言った。
「今のこの子にとっては、シラキさんは怖いのです」
「……そうか」
シラキは素直に引き下がった。その様子に、リオンは少し意外に思う。
反論すると思っていた。けれど彼は、自分の間違いを認めることに躊躇しなかった。
「すまない」
シラキが少女へ向けて言う。
短い謝罪。けれど、少女は驚いたように目を瞬かせた。大人が謝るということを、知らなかったのかもしれない。
しばらく沈黙が続く。やがてリオンは、もう一度尋ねた。
「お名前を教えていただけますか?」
少女は俯く。小さな唇が震える。
「……ない」
「え?」
「名前……ない」
名前。
それは、その人が存在している証のようなものだ。それすら与えられていないなんて、そんなことがあるのか。
「そう、ですか……」
どうすればいいのか分からず、リオンは言葉を失う。
すると隣にいたシラキが、静かに少女を見る。
「……ルナ」
「え?」
リオンが振り返る。シラキは少女の瞳を見ていた。
「月みたいな目をしている」
少女の金色の瞳。暗闇の中でも消えない、小さな光。
「だから、ルナでいいんじゃないか」
「……」
少女は自分の名前を確かめるように、小さく呟いた。
「ルナ……」
その声は、初めて聞く自分自身の名前を大切に扱うようだった。
リオンは思わず微笑む。
「素敵なお名前ですね」
ルナは二人を見る。
まだ完全に警戒が消えたわけではない。それでも、ほんの少しだけ。
その金色の瞳には、先ほどまでなかったものが浮かんでいた。
戸惑い。そして、わずかな期待。
シラキはそんな少女を見つめ、静かに言った。
「これからよろしくな、ルナ」
その言葉に、少女の尻尾がほんの少しだけ揺れた。
それは、この家で初めて見せた小さな変化だった。
♢
朝の光が、小さな食卓を優しく照らしていた。
並べられた椅子は三つ。昨日まで二つしかなかったその場所に、今日はもう一つ増えている。
リオンは向かいに座る小さな少女――ルナを見つめた。
黒い肌。小さな角。尖った耳。背中から伸びる細い尻尾。初めて見た時は魔族なのかと思った。けれど、今目の前にいるのはただの小さな女の子だった。
緊張した様子で椅子に座り、周囲を何度も見回している。まるで、ここにいていいのか確かめているようだった。
「今日も簡単なものだけだ」
シラキが言う。
食卓へ並べられているのは、焼いたパン、野菜の入ったスープ、そして果物。
決して豪華な食事ではない。けれど、ルナにとっては違った。
目の前に置かれた料理を、金色の瞳がじっと見つめている。驚きと期待。そして、戸惑い。その全てが小さな表情の変化から伝わってきた。
「……食べても、いいの?」
か細い声。
その言葉だけで、どれほどの時間をこの子が過ごしてきたのか想像できてしまった。
「もちろんですよ」
リオンは優しく微笑む。
けれど、すぐには手を伸ばさなかった。まず、いつものように静かに目を閉じる。
「創造主様。今日も食事をいただけることに感謝いたします」
祈りを終え、目を開く。隣を見ると、ルナが不思議そうにこちらを見ていた。
「これは、食事をいただけることへの感謝の祈りです」
リオンは説明する。
「食べられることは、当たり前ではありませんから」
ルナはしばらく黙っていた。そして、小さく視線を落とす。
「……ありがとう?」
「はい」
リオンは頷いた。
「では、食べていいですよ」
その言葉に、ルナの身体がわずかに強張った。許可を待っていたのだ。その事実が、リオンには痛いほど分かった。
恐る恐る手を伸ばす。小さな指がパンへ触れる。一口。ゆっくりと噛む。
その瞬間、ルナの目がわずかに見開かれた。
「……おいしい」
小さな呟き、それだけだった。だが、その一言には驚きと喜びが詰まっていた。
スープにも手を伸ばす。温かな湯気が顔へ触れる。ルナは夢中になるように食べ始めた。
その姿を見て、リオンの胸に温かなものが広がる。
よかった。そう思った。
しかし――突然だった。
ルナの手が止まる。
「……」
スープの入った器を見つめたまま、小さな身体が震え始める。
「ルナ?」
リオンがそっと声をかける。
すると、ルナの金色の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「……どうしたのですか?」
リオンは慌てて席を立つ。
ルナは涙を拭おうとするが、次から次へと溢れて止まらない。
「……見たことは、あった」
震える声で、ルナはぽつりと呟いた。
「え?」
「お父さんと、お母さんがいて……みんなで、ご飯食べてるの」
言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「町で……見た」
リオンは息を呑んだ。
「みんな……笑ってた」
ルナは食卓を見つめる。
「こんなの……あったかいご飯も、みんなで食べるのも……幸せなんだって、知ってた」
その小さな肩が震える。
「でも……」
ぽたり、と涙が器へ落ちる。
「わたしのじゃ、なかった」
リオンは胸が締めつけられる思いだった。
この子は幸せを知らなかったのではない。知っていたのだ。
ただ、それはいつも遠くから眺めるだけのものだったのだ。ガラス越しに見る灯りのように。決して、自分には届かないものとして。
「だから……」
ルナは俯く。
「夢みたいで……こわい」
その一言に、リオンはすべてを理解した。
優しい食事も、温かな家も、自分の名前も。こんなものは、自分には似合わない。
いつかまた取り上げられる。そう思ってしまうほど、この子は長い間、一人で生きてきたのだ。
「ルナ」
リオンは少女の隣へ座り、そっと目線を合わせる。急に抱きしめたりはしない。ただ、安心させるように微笑んだ。
「ここは、町で見ていた幸せを、遠くから眺める場所ではありません」
ルナが涙で濡れた瞳を向ける。
「あなたも、この食卓の家族です」
その言葉に、ルナの瞳が大きく揺れた。向かいでは、シラキが何も言わずに二人を見守っている。慰める言葉は口にしない。それでも、その場を離れようとはしなかった。
「ゆっくりでいいんですよ」
リオンは優しく言う。
「今日から、一緒に覚えていきましょう」
ルナは唇を噛みしめ、小さく頷いた。その後も涙はしばらく止まらなかった。
けれど、その涙は少しずつ、悲しみだけのものではなくなっていった。