朝食を終えると、リオンは食器を片付け始めた。ルナは自然とその後ろをついて歩く。
「お手伝いしますか?」
「……うん」
ぎこちない返事をする。それでも、リオンが笑うとルナも少しだけ表情を緩めた。
その様子を見ていたシラキは、小さく息を吐く。
どうやら完全に懐かれたのはリオンの方らしい。まあ、それでいい。自分は子どもの相手など得意ではない。
「少し外に出る」
それだけ告げて家を出た。庭へ出ると、森を抜ける風が心地よく頬を撫でる。
ポケットから煙草を取り出し、一本くわえる。火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。
昨日まで二人だけだった家に、小さな子どもの声が響いている。それだけで家の空気がこうも変わるものなのか、と少しだけ不思議に思う。煙が空へ溶けていく。
その時だった。
後ろで、小さな足音が止まった。振り返るとそこにいたのはルナだった。扉の陰から半分だけ顔を覗かせ、こちらを見ている。
「どうした」
問いかけると、ルナは少し肩を震わせた。やはり自分は怖がられているらしい。
シラキは苦笑しながら煙草を口から外す。そして地面へ落とし、靴で火を消した。
「これでいいか」
煙はもう立ち上っていない。ルナはその様子をじっと見つめていた。しばらく沈黙が流れる。
やがてルナが、小さく口を開いた。
「……ありがとう」
「……なんだって?」
思わず聞き返す。
ルナは指先を胸の前でぎゅっと握った。
「名前」
それだけだった。
「ありがとう」
小さく頭を下げる。
そして返事を待つこともなく、くるりと向きを変えた。ぱたぱたと小さな足音を立てながら、家の中へ戻っていく。
残されたシラキは、その背中を黙って見送っていた。
「……」
礼を言われるようなことをした覚えはない。ただ、思いついた名前を口にしただけだ。それなのに。
「参ったな」
思わず頭を掻く。
戦場では銃を握ればよかった。敵を倒せばよかった。だが、小さな子どもから向けられる「ありがとう」は、それよりもずっと扱いに困る。
照れくさいような。くすぐったいような。何とも言えない感情が胸の奥に残っていた。
シラキは小さく息を吐くと、もう一度頭を掻いた。
少しだけ口元を緩めながら、ゆっくりと家の中へ戻っていく。このあとリオンに煙草の吸殻をポイ捨てしたことを注意された。
♢
朝食を終えると、ルナは落ち着かない様子で部屋の中を歩き始めた。
棚を見上げ、窓から外を覗き、小さな机へそっと触れる。まるで、この家のすべてを確かめるようだった。リオンはその姿を微笑ましく見守る。
「気になるものがたくさんありますか?」
ルナはこくりと頷く。
「……おうち」
その一言だけで、リオンの胸が温かくなった。昨日までは、ここはただの家だった。けれどルナは、もう「おうち」と呼んでくれている。
やがてルナは、自分の部屋へ駆け込んだ。窓からは柔らかな光が差し込んでいる。そこに小さなベッドと棚。机と椅子。昨日、二人で整えたばかりの部屋だ。
「……わたしの?」
振り返るルナに、リオンは微笑む。
「はい。ルナのお部屋ですよ」
少女は部屋を見回し、嬉しそうにベッドへ腰掛ける。恐る恐る布団へ触れ、小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、リオンは思う。この部屋を用意して、本当に良かった、と。
しばらくすると、ルナは家の外へ出た。
森の匂いや風の音。鳥のさえずり。何もかもが珍しいのか、小さな足で庭を歩き回る。探検を楽しんでいるようだ。
ふと、その足が祠の前で止まった。
「これ……?」
不思議そうに首を傾げる。リオンは隣へ立った。
「これは祠です」
「ほこら?」
「創造主様へ感謝を伝える場所ですよ」
ルナは石をじっと見つめる。
「創造主様?」
「はい」
リオンは静かに頷く。
「私もシラキさんも、一度命を落としました」
ルナは驚いたように目を見開く。
「でも創造主様が私たちをこの箱庭へ導き、新しい役目を与えてくださいました」
優しくルナを見る。
「そして、あなたも」
「……わたしも?」
「はい」
「創造主様が、あなたをここへ送ってくださったのです」
ルナはしばらく祠を見つめていた。やがて小さな両手を胸の前で組む。
「……ありがとう」
誰に教えられたわけでもない。その小さな感謝は、静かな風に乗って空へ溶けていった。
リオンは思わず微笑む。創造主も、きっと喜んでいるだろう。
♢
昼食は朝と同じように慎ましかった。
けれど、ルナの表情は朝とは違っていた。一口食べるたびに目を輝かせる。
「……おいしい」
その言葉に、リオンも自然と笑みがこぼれる。
隣ではシラキが静かに食事をしていたが、時折ルナへ向ける視線はどこか穏やかだった。
昼食を終えた後、ルナは庭へ出ていた。
最初は遠慮するように、家の近くを歩くだけだった。
けれど、柔らかな風が吹き、木々の間から差し込む光を浴びるうちに、少しずつ表情が変わっていく。
「あ……」
小さな声を漏らし、ルナが足を止めた。そこには、色とりどりの花が咲いていた。金色の瞳が輝く。
「綺麗……」
その呟きに、リオンは微笑んだ。
「そうですね」
ルナは花の前へしゃがみ込む。しかし、触れていいのか分からないように、そっと手を伸ばして止める。
「触ってもいいの?」
その問いに、リオンの胸が少し痛んだ。この子は、何をするにも許可を求める。
怒られないか。嫌われないか。いつも誰かの顔色を見ている。
「もちろんですよ」
リオンは優しく答えた。
「この庭の花は、ルナが見ても、触れてもいいものです」
ルナはしばらく花を見つめた。そして、恐る恐る一輪の花へ触れる。
「……柔らかい」
小さな笑顔が浮かぶ。その表情を見て、リオンも嬉しくなった。
「ルナ。花冠を作ったことはありますか?」
「花冠?」
首を傾げる。
「はい。花で作る飾りです」
リオンは近くの花をいくつか摘む。
「こうして、茎を絡ませて……」
ゆっくりと作り方を見せる。ルナは真剣な表情で見つめていた。
「やってみますか?」
「……うん」
小さな返事をする。
リオンの隣に座り、ルナは花を手に取る。やはり最初は上手くいかなかった。茎を折ってしまったり、花の向きがばらばらになったりする。
「あ……」
失敗したことに気づき、ルナの表情が曇る。
「ごめんなさい」
その言葉に、リオンはすぐ首を振った。
「謝らなくていいんですよ」
「でも……」
「初めてなら、上手くできなくて当たり前です」
リオンは微笑む。
「大切なのは、誰かのために作ろうと思った気持ちです」
ルナはその言葉を聞き、もう一度花へ向き直った。小さな手で、一つずつ丁寧に編んでいく。時間をかけて。何度もやり直して。やがて――
「できた」
ルナの手の中には、小さな花冠があった。少し形は歪だったけれど、そこには彼女が一生懸命作った時間が詰まっていた。
「綺麗ですね」
リオンが言うと、ルナは嬉しそうに花冠を見る。そして、少し迷った後。
「……リオン」
「はい?」
ルナは花冠を差し出した。
「ありがとう」
その一言に、リオンは目を見開く。
まだ出会って一日も経っていない。それでも、この子は少しずつ誰かを信じようとしている。
「ありがとうございます」
リオンは優しく受け取った。
「シラキさんにも渡してあげたらどうですか?」
そう言うと、ルナは少し驚いた顔をした。庭の端では、薪を整理していたシラキがこちらを見ていた。
「俺にも?」
無表情な顔だが、わずかに戸惑っているのが分かった。
ルナはたどたどしくももう一つ、花冠を作った。
ルナは少し緊張しながら近づく。そして、小さな手で花冠を差し出した。
「……名前、くれたから」
「……」
シラキはしばらく花冠を見る。その手へ、小さな少女が作ったものが渡される。シラキは静かに受け取った。
「ありがとう」
短い言葉。けれど、ルナは嬉しそうに尻尾を揺らした。
リオンはその様子を見つめ、微笑む。
この子はまだ、家族というものを知らない。けれど今。少しずつ、誰かへ気持ちを渡すことを覚え始めている。
それはきっと、家族になるための最初の一歩なのだと思った。
♢
夕方になるとリオンは薪へ火を入れ、大鍋へ水を張った。
湯気が立ち上る頃には、木桶にも温かな湯が満ちていた。
「ルナ」
「?」
「身体をきれいにしましょう」
ルナは少し緊張した様子だったが、リオンが自分の腕を濡れ布で拭いて見せると、安心したように頷いた。温かな布が黒い肌へ触れる。
「……あったかい」
思わず零れたその言葉に、リオンは優しく微笑む。
「気持ちいいでしょう?」
ルナも小さく笑った。
「……うん」
その笑顔を見て、リオンは胸を撫で下ろした。
♢
夕食を終える頃には、ルナは何度も欠伸をしていた。
「眠くなりましたか?」
こくり、と頷く。部屋へ連れていき、布団を掛ける。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
ルナはぬいぐるみを抱き寄せる。その表情に、朝の怯えはもうなかった。安心しきったような顔だった。しばらくぼーっと天井を眺めていると次第に瞼が閉じていった。リオンは部屋の灯りを落とし、そっと扉を閉めた。
居間へ戻ると、シラキが椅子へ座っていた。
「寝たか」
「はい」
リオンも向かいへ腰を下ろす。しばらく静かな時間が流れた。やがてシラキが口を開く。
「……何とかなりそうだな」
リオンは小さく笑う。
「ええ」
昨日まで、自分たちは親になる覚悟しか持っていなかった。けれど今日、その一歩を踏み出した。
もちろん、不安はまだある。失敗する日もあるだろう。それでも――
「きっと大丈夫です」
リオンがそう言うと、シラキも静かに頷いた。
「ああ」
窓の外では、夜空に月が浮かんでいた。
その淡い光は、ルナという名前を優しく祝福しているように見えた。
♢
布団はふかふかだった。
ルナは胸へぬいぐるみを抱き寄せながら、ぼんやりと天井を眺めていた。眠気に抗えず目を閉じると、リオンが部屋を出ていく音が聞こえた。
今日は、たくさんのことがあった。
目を覚ました時、そこは知らない部屋だった。知らない男の人と、優しそうなお姉さんがいた。怖かった。あの時は、逃げなければと思った。
けれど、お姉さんは怖がるルナへ優しく声をかけてくれた。
『大丈夫ですよ』
その言葉を思い出すと、今でも少しだけ胸が温かくなる。
男の人は少し怖い顔をしていた。けれど、その人はルナに名前をくれた。
――ルナ。
小さく口にしてみる。
「……ルナ」
不思議な名前だった。けれど、その響きが嫌いではなかった。
今まで、ルナには名前がなかった。呼ばれる時は「おい」や「おまえ」といった言葉ばかりだった。だから、自分だけの名前があるということが、まだ少し信じられない。
「……ルナ」
もう一度呟く。今度は、ほんの少しだけ嬉しかった。
家の中も見て回った。自分だけの部屋があった。自分だけのベッドがあった。誰にも追い出されなかった。それが、とても不思議だった。
外には小さなお祈りの場所もあった。創造主様という、とても偉い存在が自分をここへ送ってくれたのだと、リオンが教えてくれた。ルナはそこで「ありがとう」と言った。ちゃんと届いたのかは分からない。けれど、言わずにはいられなかった。
昼ご飯も美味しかった。お腹いっぱい食べても、誰にも怒られなかった。
庭では花冠を作った。リオンが作り方を教えてくれた。最初は上手くできなかったけれど、何度もやり直して、ようやく一つ完成させることができた。
リオンへ渡すと、嬉しそうに笑ってくれた。
シラキへ渡した時は、少し変な顔をしていた。
でも、「ありがとう」と言ってくれた。それが嬉しかった。
夕方には、温かいお湯で身体をきれいにしてもらった。あんなに温かいお湯に入ったのは初めてだった。
今日は、初めてのことがたくさんあった。怖いこともあった。けれど、それ以上に嬉しいことがあった。
ルナはぬいぐるみをぎゅっと抱き締める。部屋の外から、小さな話し声が聞こえてきた。リオンの優しい声とシラキの低い声だ。
二人とも、まだそこにいる。そのことが分かるだけで、ルナは安心できた。朝まで胸の奥にあった固いものが、少しずつ溶けていくようだった。
それでも、ふと不安になる。目を覚ましたら、この家はなくなっているのだろうか。リオンも、シラキもいなくなっているのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
ルナはぬいぐるみを抱く腕に、少しだけ力を込めた。
怖い。
けれど――今日は、信じてみたかった。明日も、リオンは笑ってくれる。シラキも、きっと「おはよう」と言ってくれる。
そう思うと、不思議と怖くなくなった。ルナはゆっくりと布団へ潜り込む。
柔らかな布団に身体を包まれながら、もう一度ぬいぐるみを抱き締めた。
瞼が重くなっていく。
やがて、穏やかな寝息が小さな部屋へ静かに響き始めた。
その表情に、朝のような怯えはもうなかった。
ルナはその夜、生まれて初めて――安心して眠ることができた。