リオンは朝食の片付けを終えると、窓の外へ視線を向けた。朝の光が、森の木々の間から窓へ差し込んでいた。今日も空はよく晴れている。風も穏やかで、鳥の声が心地よく響いていた。
「そうだ」
ふと、リオンの頭に一つの考えが浮かぶ。
「ピクニックに行きましょう」
「……ぴくにっく?」
ルナが首を傾げた。聞き慣れない言葉だったのだろう。
「はい。お弁当を持って、外で食事をするのです」
「外で……ご飯?」
ルナの金色の瞳が輝く。
「はい。いつも家の中で食べていますから、今日は少し遠くまで行ってみませんか?」
「行く!」
返事は早かった。尻尾まで嬉しそうに揺れている。その様子を見て、リオンは思わず笑みを浮かべた。
「ふふっ。では、決まりですね」
向かいで食事をしていたシラキが、そんな二人を眺めていた。
「ピクニックか」
「シラキさんはご存じなのですか?」
「言葉くらいはな」
シラキはそう答えた。
「実際にやったことはないが」
「そうなのですか?」
「ああ。外で飯を食うだけだろう?」
「そうですが……」
身も蓋もない返事にリオンは少し考える。
「それだけではありませんよ」
「違うのか?」
「もちろんです」
リオンは少し楽しそうに笑った。
「普段とは違う場所へ行って、景色を楽しみながら食事をするのです。お話をしたり、散歩をしたりするのも楽しいですよ」
「……なるほど」
シラキは腕を組んだ。
ルナはすでに興味津々だった。
「お花のところ?」
「ええ。綺麗な場所を探しましょう」
「いっぱい走ってもいい?」
「もちろんです」
「お弁当も食べる?」
「はい」
「……楽しそう!」
ルナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、リオンの心も自然と弾む。
昨日までは、ただ家の中で過ごしていた。けれど今日は、少しだけ遠くへ行ってみる。それだけのことなのに、まるで大きな冒険へ出かけるような気持ちになった。
「では、準備をしましょう」
「うん!」
ルナが勢いよく立ち上がる。
リオンも立ち上がり、ピクニックへ持っていくものを考え始めた。
食べ物はもちろん必要だ。パンに果物。それから、簡単な料理も用意した方がいいだろう。水筒も必要になる。敷物も忘れてはいけない。
「これを持っていきましょう」
リオンが籠へ荷物を詰めていく。その隣では、ルナも小さな手で一生懸命準備をしていた。
「これもいる?」
「はい。持っていきましょう」
「これも?」
「それは……」
ルナが抱えているのは、ぬいぐるみだった。
リオンは少し考える。
「……そうですね。一緒に連れていきましょうか」
「うん!」
ルナは嬉しそうにぬいぐるみを抱きしめた。その様子を眺めながら、リオンは微笑む。どうやら今日のピクニックは、ルナにとって大切な思い出になりそうだった。
そんな二人から少し離れた場所では、シラキも準備をしていた。
何を持っていくのだろう。そう思って見ていると――
「……?」
シラキが長い筒のようなものを取り出した。見覚えのない物、いや、初めて会った時に肩にかけていた。
「シラキさん?」
「ああ」
シラキは当然のように答える。
「これを持っていく」
「……それってシラキさんの世界の武器ですよね」
「ああ。短機関銃だ」
手にしていたのは、短機関銃と呼ばれる物だった。
「……」
リオンは固まった。
「……それは必要なのでしょうか?」
「必要だろう」
「何にですか?」
「何かあった時に使う」
「何か、とは?」
「何かだ」
あまりにも曖昧な答えだった。リオンは困った顔をする。
「ここは創造主様の箱庭ですよ?」
「ああ」
「数日前に、創造主様から直接説明を受けたでしょう?」
「聞いた」
「この場所には、子どもたちが安心して暮らせるように作られているのですよね?」
「そうだな」
「でしたら、武器は必要ないのではありませんか?」
「……」
シラキは短機関銃を見る。そしてリオンを見る。
「だが、念のためだ」
「必要ありません」
「……」
「置いていきましょう」
リオンはにっこりと微笑んだ。シラキはしばらく黙っていた。
「……本当に?」
「本当にです」
「何か起きても?」
「何も起きません」
「絶対に?」
「絶対に、です」
シラキは納得していない顔をした。それでも、リオンの視線に押されるように、渋々と短機関銃を戸棚の上に置いた。
「……分かった」
どこか不満そうだった。リオンは苦笑する。
「そんな顔をしないでください」
「別に」
「していますよ」
「してない」
「しています」
「……」
シラキは黙り込んだ。そのやり取りを見ていたルナが、くすくすと笑う。
「シラキ、怒られてる」
「……」
シラキがルナを見る。ルナは慌ててリオンの後ろへ隠れた。けれど、その顔には笑みが残っている。
シラキは小さく息を吐いた。
♢
「忘れ物はないか?」
「はい」
「うん!」
三人は家を出た。リオンが籠を持ち、ルナはぬいぐるみを抱えている。シラキは手ぶらだった。
森の中へ続く道を歩き始める。朝の陽射しが木々の間から差し込み、葉の隙間からこぼれた光が地面に揺れていた。
「わあ……!」
ルナが目を輝かせる。
鳥が飛び立つ。風が木々を揺らす。遠くから川のせせらぎが聞こえる。
昨日まで家の周りで遊んでいたルナにとって、少し先へ進むだけでも新鮮な景色だった。
「リオン!」
「はい?」
「ピクニックって、どこでするの?」
「それはですね――」
リオンは笑顔で答える。
「みんなで楽しめる場所を探すところから、ピクニックなのですよ」
「じゃあ、探す!」
ルナが先頭へ駆け出す。
「ルナ、あまり遠くへ行ってはいけませんよ」
「はーい!」
元気な返事が森の中へ響く。
その後ろを、リオンとシラキがゆっくりと歩いていく。
まだ何も起きていない。ただ、三人で歩いているだけだ。それでもリオンは、なぜか心が温かくなるのを感じていた。
昨日まで二人だった。今は三人。そして今日、新しい思い出を作ろうとしている。
「……いい天気ですね」
リオンが空を見上げる。
「ああ」
シラキも空を見上げた。ルナは少し先で振り返る。
「早くー!」
「今行きますよ」
三人の姿は、木漏れ日の中へゆっくりと消えていった。
♢
森の中をしばらく進むと、木々の向こうから水の流れる音が聞こえてきた。次第にその音は大きくなり、やがて木々の隙間から青く澄んだ水面が見える。
「川ですよ」
リオンがそう言うと、ルナがぱっと顔を上げた。
「川?」
「はい」
三人が森を抜ける。そこには、森の中を縫うように流れる小さな川があった。透明な水が太陽の光を反射しながら、さらさらと音を立てて流れている。川底には丸い石がいくつも転がり、その間を小さな魚が泳いでいた。
「わぁ……」
ルナの瞳が輝く。
初めて見る光景なのだろう。少女は川へ駆け寄ると、しゃがみ込んで水面を覗き込んだ。
「お魚いる!」
「本当ですね」
リオンも隣へ腰を下ろす。ルナは嬉しそうに水へ手を伸ばした。
「冷たい!」
指先で水を掬い、ぱしゃぱしゃと遊び始める。その様子を見て、リオンの頬も自然と緩んだ。
「今日はここで遊びましょうか」
「いいの?」
「ええ。せっかくのピクニックですから」
「うん!」
ルナは満面の笑みを浮かべた。その笑顔を見ているだけで、ここまで来た甲斐があったと思える。
少し離れた場所では、シラキが大きな木へ背を預けていた。無表情のままポケットから煙草を取り出し、火をつける。白い煙がゆっくりと青空へ昇っていった。
「……シラキさん」
「なんだ」
「また煙草を吸っているんですか?」
「ああ」
シラキは当然のように答える。リオンは小さくため息をついた。
「せっかくのピクニックなのですから、もう少し楽しんでもいいと思いますよ」
「俺はこれで楽しんでいる」
「そうですか……」
どうやら本人にとっては本当に楽しんでいるらしい。するとシラキは懐から小さな金属製の筒を取り出した。
「それに今日は携帯灰皿も持ってきている」
どこか誇らしげな顔だった。
「……」
リオンは思わず沈黙する。
「それは偉いですけど……」
「だろう?」
何故か少し得意げなシラキ。
「そういうことじゃないんですよね……」
リオンが苦笑する。シラキは首を傾げた。
どうやら本当に分かっていないらしい。そんな二人のやり取りをよそに、ルナは川を覗き込んでいた。
「リオン!」
「はい?」
「あそこにお魚いる!」
「本当ですね」
川の中を覗くと、小さな魚が数匹泳いでいる。
ルナは目を輝かせた。
「捕まえられるかな?」
「どうでしょう。魚はすばしっこいですからね」
「そっか……」
残念そうに川を見つめるルナ。すると、背後からシラキの声がした。
「それなら簡単だ」
「え?」
リオンが振り返る。シラキは煙草をくわえたまま、胸元のポーチへ手を伸ばしていた。取り出したのは、見たことのない小さな金属製の球体だった。
「これを川へ投げればいい」
「……?」
ルナが首を傾げる。リオンも、その物体をじっと見つめる。
金属製の球体。その上部からは小さな部品が飛び出している。何なのかは分からない。分からないが――。嫌な予感だけはした。
「シラキさん」
「なんだ」
「それは……何ですか?」
「手榴弾だ」
リオンの笑顔が固まる。てりゅうだん。手榴弾。爆発物。
「それを川に投げれば魚が取れる」
「駄目です」
即答だった。
「何故だ?」
「何故ではありません」
リオンは立ち上がり、シラキの手元にある金属製の物体を指差す。
「どう見ても魚を捕る道具ではありません」
「爆発で魚は取れるぞ」
「そういう問題ではありません!」
思わず声が大きくなる。ルナが驚いたように二人を見る。リオンは慌てて声を落とした。
「……そもそも、ここは創造主様の箱庭ですよ。そんな物騒なものを川へ投げる必要はありません」
「しかし、魚は取れる」
「だからと言って爆発させる必要はないでしょう!」
「爆発すれば魚が浮いてくる」
「そういう話ではありません!」
シラキは手榴弾を手にしたまま、しばらくリオンを見る。やがて、諦めたように肩をすくめた。
「分かった」
ポーチへ手榴弾を戻す。
「魚は諦める」
「そうしてください」
リオンは胸を撫で下ろした。その隣では、ルナが不思議そうな顔をしている。
「シラキ」
「なんだ」
「てりゅうだんって、なに?」
「魚を――」
「危ないものです」
リオンが即座に遮った。
「ルナは覚えなくていい言葉ですよ」
「……うん」
ルナは素直に頷く。そして再び川へ視線を戻した。
「お魚、泳いでるね」
「ええ」
リオンも笑顔で頷く。隣ではシラキが煙草を吸っている。
川は何事もなかったかのように、穏やかなせせらぎを響かせていた。
今日のピクニックが、このまま平和に終わることをリオンは心の底から願った。
♢
川辺でしばらく遊んだあと、リオンが敷物を広げた。
「そろそろお昼にしましょうか」
「おひる!」
ルナが嬉しそうに駆け寄ってくる。三人で敷物の上へ座ると、リオンは持ってきた籠を開いた。
中から取り出されたのは、いつものパンだけではなかった。薄く切ったパンに野菜や肉を挟んだサンドイッチ。赤や黄色の果物。そして、何やら黄色い塊が入った皿。
「これは?」
シラキが尋ねる。
「スクランブルエッグのようなものです」
「ようなもの?」
「……はい。本当はオムレツを作ろうと思ったのですが」
リオンが少し気まずそうに視線を逸らす。よく見ると、卵らしきもののところどころが黒く焦げていた。
「料理は……あまり得意ではないんです」
リオンが申し訳なさそうに言う。完璧に思えたリオンの意外な一面だった。
シラキは皿を眺め、それからルナを見る。ルナも同じように料理を眺めていた。
「食べられれば問題ない」
シラキが言う。
「うん。食べられればいい」
ルナも頷く。
「……お二人とも、もう少しこう……」
リオンが困ったように笑う。
「味とか見た目とか、気にしてもいいんですよ?」
「俺は気にしない」
「わたしも!」
ルナが元気よく答える。
「……そうですか」
リオンは少しだけ呆れたように笑った。
三人で祈りを捧げ、それぞれ料理へ手を伸ばす。
サンドイッチは普通にうまい。果物も甘い。そして問題のスクランブルエッグらしきものは――。
「……」
シラキは一口食べる。
「……」
リオンが不安そうにこちらを見ている。
「どうですか?」
「食べられる」
「それだけですか?」
「食べられるから問題ない」
リオンが複雑そうな顔をする。隣ではルナも一口食べていた。
「うん。おいしいよ」
「本当ですか?」
「うん!」
ルナの言葉に、リオンの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、シラキも小さく口元を緩めた。
食事を終えると、ルナは敷物の上へ座ったまま、何かを探し始めた。
「何をしているんだ?」
「お花」
ルナの手には、昼前に摘んだ花がいくつか握られている。
「花冠作るの」
そう言って、ルナは花を並べ始めた。
リオンに教えてもらったやつだろう。小さな手で茎を絡ませ、一つずつ丁寧に編んでいく。その姿を眺めながら、シラキはふと空を見上げた。
青い空。穏やかな風。子どもの笑い声。
あまりにも平和だった。だからこそ、不意に思い出す。自分がいた世界を。
血と硝煙の臭い。銃声と怒号。いつ死んでもおかしくない場所で、ただ生き残るために戦っていた日々。そんな世界から、自分はここへ来た。
何もかもが違う。ここには戦争もない。敵もいない。ただ、穏やかな時間が流れている。
シラキは自分の手を見る。
この手は、これまでどれだけのものを壊してきただろう。そんな自分が、本当にここにいていいのだろうか。
神が用意した箱庭。死んだ子どもたちが安心して暮らすための場所。そこに自分のような人間がいていいのか。
「……」
答えは出なかった。
だが――。
「シラキ」
ルナの声がした。
「ん?」
振り返る。
ルナがこちらへ歩いてくる。
その手には、花冠があった。以前作ったものよりも、ずっと大きい。
「これ」
「俺に?」
「うん」
ルナが花冠を差し出す。
「前のは小さかったから」
「……」
シラキは花冠を見る。色とりどりの花が不格好ながらも丁寧に編まれている。
「今度は大きいの」
ルナが少し照れたように笑う。シラキは、しばらく何も言えなかった。
そして――。
「……ありがとう」
花冠を受け取る。自然と口元が緩んでいた。自分でも驚くほど、穏やかな笑みだった。ルナが嬉しそうに尻尾を揺らす。
「似合うよ」
「そうか?」
「うん」
「それなら、良かった」
そう言いながら、シラキは花冠を自分の頭へ乗せる。ルナが笑う。リオンも少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
その光景を見て、シラキは思った。
――ここにいていいのか。
そんなことを考える必要はないのかもしれない。少なくとも、この二人が自分を必要としてくれる限り。
シラキは静かに目を細めた。
この穏やかな時間を。この笑顔を。この小さな少女を。そして、この場所を。絶対に守る。何があろうと。どんな相手が来ようと。そのためなら――どんな手段も厭わない。
そう、心の中で誓った。
頭に乗せた花冠が、風に揺れていた。