穏やかな朝。
リオンはいつものように井戸へ向かっていた。
手にした木桶へ水を汲み、ゆっくりと引き上げる。朝の森は静かだった。鳥の声と木々を揺らす風の音が響き、昨日のピクニックで聞いた川のせせらぎまで遠くに聞こえてくる。
「よいしょ」
桶を地面へ置く。これも、この家で暮らし始めてからの日課になっていた。自分が水を汲み、シラキが薪を用意して朝食を作る。まだ数日しか経っていないというのに、すっかりこの生活にも慣れてきた。
「さて、もう一回」
リオンが再び井戸へ手を伸ばそうとした、その時だった。
視界の端に、淡い光が映った。リオンは手を止める。光が見えたのは、庭の奥にある祠だった。石造りの祠が、再び淡い白い光を放っている。
「創造主様?」
リオンは慌てて桶を置き、祠へ駆け寄った。そして祠の中央にある石が、淡く輝いていることに気づいた。文字はまだ浮かんできていない。
「これは……」
リオンは祠の前へ跪く。以前、ここへ文字が浮かび上がった時と同じだ。また創造主からのお告げなのだろうか。
「どうした」
背後から声がした。振り返ると、シラキが家の方から歩いてくる。またタバコを吸っていた。いや、今はそれどころではない。
「シラキさん。祠が……」
「光ってるな」
シラキも祠を見つめる。
「何かあったのか?」
「分かりません。ですが、以前と同じなら創造主様からのお告げかもしれません」
「なら、待つか」
「そうですね」
二人で祠を見つめる。しばらくすると、光が一際強くなった。石に刻まれた文字が淡く浮かび上がる。
リオンは息を呑んだ。そこに現れたのは、短い言葉だった。
『隣人への道を開く』
「隣人……?」
リオンが首を傾げる。シラキも文字を読みながら腕を組んだ。
「俺たち以外にも、この箱庭に人がいるということか」
「おそらく……」
リオンは祠を見つめる。
創造主は、この箱庭を子どもたちの魂が安心して暮らせる場所にするために作ったと言っていた。そして、自分たちのように子どもたちの親となる者もいる。
ならば――。
「私たちと同じような方が、近くにいるのでしょうか」
「そういうことだろうな」
文字の横に、新たな光が浮かび上がる。それは小さな光の点だった。祠から森の奥へ向かって、淡い光がいくつも続いている。
「道……でしょうか?」
「たぶんな」
リオンは立ち上がった。胸の奥が少しだけ弾んでいる。
今まで、この森の中には自分たちの家しかないと思っていた。けれど、違った。同じように創造主から役目を与えられた人たちがいる。それならやるべきことは一つ。
「ご挨拶に行きましょう」
「今から?」
「はい」
リオンは迷いなく頷いた。
「せっかくお隣に住んでいるのですから。これから長いお付き合いになるかもしれませんし」
「……まあ、そうだな」
シラキも頷く。
「なら、ルナも連れていくか」
「もちろんです」
その時、家の方から小さな声が聞こえてきた。
「リオン?」
二人が振り返る。家の扉からルナが顔を覗かせていた。まだ寝起きなのか、髪は少し乱れている。眠そうに目を擦りながら、二人を見ている。
「どうしたの?」
「ルナ。おはようございます」
「おはよう」
リオンは微笑む。
「実はですね。新しい人たちに会いに行こうと思っているのです」
「新しい人たち?」
「はい。私たちと同じように、この箱庭で暮らしている方がいるようなのです」
ルナの眠そうだった目が、ぱっと開く。
「会いたい!」
ルナが家から飛び出してくる。そのままリオンのところへ駆け寄ると、期待に満ちた顔で見上げてきた。
「どんな人かな?」
「それは会ってみないと分かりませんね」
「優しい人かな?」
「きっとそうですよ」
リオンが笑う。ルナは嬉しそうに尻尾を揺らした。
「じゃあ、準備する!」
「はい。急がなくて大丈夫ですよ」
ルナが家へ戻っていく。その様子を見送ったシラキが、ふと口を開いた。
「武器は?」
「……はい?」
「銃だ。持っていくか?」
「いりません」
リオンは即答した。
「即答だな」
「昨日も申し上げましたよね。ここは創造主様の箱庭です」
「だが――」
「いりません」
「そうか」
シラキは残念そうに呟く。
「武器は置いていきましょう」
「……分かった」
シラキは家へ戻り、戸棚の上に置いてある短機関銃へ視線を向けた。
「留守番を頼む」
「武器に話しかけないでください」
後ろからリオンの呆れた声が飛んでくる。
「別に話しかけてない」
「今、明らかに話しかけていましたよ」
「気のせいだ」
「そういうことにしておきます」
リオンは苦笑する。やがてルナが小さな鞄を抱えて戻ってきた。
「準備できた!」
「では、行きましょうか」
「うん!」
三人は家を出た。リオンが祠の前へ立つ。淡い光はまだ森の奥へ続いていた。
「こちらですね」
「道、分かるの?」
「光が案内してくれるようです」
リオンが先頭に立つ。その隣をルナが歩き、少し後ろをシラキがついてくる。
「ねえ、リオン」
「はい?」
「隣人って、どんな人かな?」
「私にも分かりません」
「お友達になれるかな?」
「きっとなれますよ」
リオンはそう答えた。自分たちも、最初は見知らぬ者同士だった。それでも今では、一つの家で暮らしている。ならば新しい隣人とも、きっと良い関係を築けるはずだ。
「まずは、ちゃんと挨拶をしないといけませんね」
「うん!」
ルナが元気よく返事をする。
木漏れ日の中を、三人は森の奥へ進んでいく。その先に待つ新たな家。そして、まだ見ぬ隣人。リオンは胸を躍らせながら、一歩一歩、光の道を進んでいった。
♢
木々の間から、見覚えのない家が姿を現した。
「あそこですね」
リオンが足を止める。
森の中に建つ家は、自分たちの家よりも少し大きかった。石造りの壁に木製の扉。庭には薪が積まれ、家の脇には小さな畑まで作られている。
「誰かいるかな?」
ルナがシラキの後ろから顔を覗かせる。
「どうでしょう」
リオンが答えた、その時だった。
庭で遊んでいた少年が、こちらに気づいた。茶色い髪は少しぼさぼさで、まだ十歳ほどだろう。少年は手にしていた木の枝を落とすと、驚いたように三人を見つめる。
「……誰?」
少年の声に、リオンは笑顔を作った。
「こんにちは。私たちは――」
「母さん!」
少年はリオンの言葉を遮り、家へ向かって叫んだ。
「知らない人がいる!」
少年が家へ駆けていく。
「待ってください!」
リオンが呼び止めようとする。だが、その声より早く家の扉が勢いよく開いた。
「カーク!」
低く響く女の声。次の瞬間、巨大な大斧を手にした女が姿を現した。
「……!」
リオンの身体が強張る。
女は人間ではなかった。大きな身体。黒い髪と黒い瞳。そして額から伸びる二本の角。オークだ。女は大斧を構えたまま、庭へ出てくる。
「下がってな、カーク!」
「母さん!」
少年が慌てて女の後ろへ隠れる。リオンは反射的に両手を上げた。
「待ってください! 私たちは敵では――」
その瞬間。シラキがリオンの前へ出た。
「シラキさん!」
腰からナイフを抜き、低く構える。
表情から先ほどまでの穏やかさは消えていた。完全に戦う人間の顔だった。
「それ以上近づくな」
シラキが静かに告げる。オークの女も大斧を構え直す。
「そっちこそ、その物騒なもんをしまいな!」
「そっちが武器を下ろしたらな」
「何だって?」
「二人とも!」
リオンが慌てて二人の間へ声を飛ばす。
空気が張り詰めていた。ほんの少しでも何かが起これば、互いに武器を振るう。
ルナはリオンの背後で震えていた。
「リオン……」
「大丈夫ですよ」
リオンは振り返らずに答える。
「私がいますから」
そう言いながらも、リオン自身の心臓も激しく鼓動していた。
オーク。彼女の元の世界では、人間と敵対していた種族なのかもしれない。
だが、ここは創造主の箱庭だ。この人たちは自分たちと同じように、創造主から役目を与えられている。ならばわかり合えるはずだ。
「私たちは、あなた方と同じです」
リオンはできるだけ穏やかな声で告げる。
「創造主様に導かれ、この箱庭で子どもたちを育てるために――」
「待てオルガ」
別の声が響いた。家の中からだった。
「あなたたち。もしかして……隣人か?」
ゆっくりと男が姿を現す。
白い髪。長く伸びた髪を背中へ流し、緑色の瞳を持つ細身の男だった。
耳は長く尖っている。エルフだ。男は一冊の分厚い本を手にしていた。
「ノア!」
オルガと呼ばれたオークの女が振り返る。
「まだ出てくるんじゃないよ!」
「いや、大丈夫だ」
ノアと呼ばれたエルフは、三人をじっと見つめた。
「彼らは敵ではない」
「どうして分かるんだい?」
「本に書いてある」
「本?」
ノアは手にしている本を開く。そのページには、祠で見たものと同じ白い文字が浮かんでいた。
「今、創造主からのお告げがあった」
「お告げ……?」
リオンが目を見開く。
「そうだ」
ノアは本を皆に見せる。
「隣人との道が開かれる。今日、隣人が訪れる――そう書かれていた」
リオンは祠で見た光景を思い出した。やはり同じだ。
「私たちのところにも、同じようなお告げがありました」
「そうか」
ノアは納得したように頷く。
「ならば、間違いない。彼らは我々の隣人だ」
「……」
オルガは大斧を見る。そして、シラキを見る。
「武器を下ろすかい?」
「そっちが先に下ろすならな」
「……分かったよ」
オルガがゆっくりと大斧を下ろした。それを確認してから、シラキもナイフをしまう。
「シラキさん」
「分かってる。こちらから問題は起こさない」
リオンが安心したように息を吐く。
「よかった……」
ルナも恐る恐る顔を出した。
するとカークと呼ばれた少年と目が合う。
「……」
「……」
二人とも黙って見つめ合う。やがてカークが小さく手を振った。
「こんにちは」
「……こんにちは」
ルナも小さく手を振り返す。その様子を見て、リオンの緊張も少しずつ解けていった。
「改めまして。私はリオンと申します」
頭を下げる。
「こちらがシラキさん。そして、この子がルナです」
「よろしく」
シラキが短く言う。
「ルナです……」
ルナも小さく頭を下げた。
「私はノアだ」
エルフの男が答える。
「こっちは妻のオルガ。そして――」
「カーク」
カークが自分から名乗った。
「十歳」
「そうですか」
リオンは微笑む。
「よろしくお願いします、カーク」
「うん」
オルガが大斧を壁へ立てかける。自分たちは敵ではないという証だろう。
「まあ、立ち話もなんだ。中へ入りな」
「よろしいのですか?」
「隣人なんだろ?」
オルガは豪快に笑った。
「だったら仲良くしようじゃないか」
その言葉に、リオンはほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
「ルナ」
「?」
「行こう」
「うん」
ルナがリオンの手を握る。
シラキは二人の後ろを歩きながら、家の周囲をさりげなく見回していた。まだ完全に警戒を解いたわけではないらしい。
こうして三人は、初めて隣人の家へ足を踏み入れた。
箱庭で初めて出会った、自分たち以外の家族。
ここから、新しい交流が始まろうとしていた。