ノアたちの家を訪れたのは、その日の昼過ぎだった。
「――君たちのところにも現れたか」
話を聞き終えたノアは、驚くどころか納得したように頷いた。
「……ご存じなのですか?」
リオンは思わず聞き返した。
「ああ」
ノアは手にしていた杯を食卓へ置く。
「私たちも一度だけ、亡者と遭遇したことがある」
「一度だけ……」
「ここへ来て二年くらい経った頃だったかね」
隣に座っていたオルガが腕を組む。
「いや、一年半くらいじゃなかったか?」
「どっちでもいいだろ。ずっと前なんだから」
「記録は正確であるべきだ」
「アンタは本当に細かいねえ」
いつものように言い合いを始める二人を見て、リオンは苦笑した。
その向かいでは、シラキが黙って茶を飲んでいる。
ルナとカークは庭で遊んでいた。昨日の出来事があったため、最初はルナを家から出すことに不安もあった。だが、シラキが周囲を確認し、祠にも新しいお告げがないことから、今日は大丈夫だろうということになった。
「それで……」
リオンは話を戻す。
「その時も、昨日と同じような亡者が?」
「ああ」
オルガが頷いた。
「痩せ細って、身体のあちこちが腐ったような連中だったよ。何十人もぞろぞろやって来てね」
「同じだな」
シラキが初めて口を開いた。
「俺たちのところに来た奴らもそんな姿だった」
「なら、たぶん同じ連中だろうね」
「その時は、どうされたのですか?」
リオンが尋ねる。
オルガは何でもないことのように答えた。
「ぶっ飛ばした」
あまりにも簡潔だった。
「……それだけですか?」
「それだけさ」
オルガは豪快に笑う。
「大斧を持って庭に出てね。近づいてきた奴から順番にぶっ飛ばした。しばらくしたら全部消えちまったよ」
リオンは思わずオルガを見る。
昨日、シラキが短機関銃で何十体もの亡者を倒した光景を思い出した。それを、この人は大斧一本で倒したと言う。
「亡者そのものは、大した脅威ではない」
ノアが説明を引き継いだ。
「長く地獄にいたためなのか、肉体も魂も酷く疲弊しているようだ。力も、生者だった頃とは比較にならないほど落ちている」
「そうなのですか?」
「ああ。見た目こそ恐ろしいが、とにかく弱い」
ノアは少し考える。
「極端な話をすれば、子どもでも倒せるかもしれない」
「子どもでも……」
リオンは眉を寄せた。それほどなのか。
確かにシラキも、戦いが終わった後に苦戦した様子はなかった。怪我どころか、服に傷一つついていなかったほどだ。
「もちろん、カークに戦わせるつもりはないよ」
オルガが付け加える。
「相手がどれだけ弱かろうが、子どもの前に立つのが親ってもんだろ」
「……そうですね」
リオンは微笑んだ。その言葉には素直に同意できた。
「しかし」
シラキが杯を置いた。
「それなら余計に分からんな」
「何がだ?」
ノアが興味深そうに彼を見る。
「創造主だ」
その言葉に、リオンも表情を引き締めた。昨日からずっと引っかかっていたことだった。
「創造主なら、亡者がここへ来ることくらい防げるんじゃないのか」
「私も、そう思います」
リオンは頷いた。
「この箱庭そのものを作られた方です。地獄から亡者が抜け出すことを止められないとは、とても思えません」
「だが、実際には来た」
シラキが言う。
「しかも俺たちだけじゃない。こいつらのところにもだ」
「そうですね……」
リオンは考え込んだ。
偶然ではない。創造主は亡者が現れることを知っていた。そして、おそらく防ぐこともできた。それなのに――あえて、止めなかった。
「試練、なのでしょうか」
リオンが呟く。
「試練?」
「はい」
神官だった頃、幾度となく耳にした言葉だった。
「私の世界では、神が人へ試練を与えるという考え方がありました。苦難を乗り越えることで、人は成長するのだと」
「なるほど」
ノアが頷く。
「ならば、我々が家族を守れるのか試している?」
「可能性はあると思います」
「俺は嫌いだな」
シラキが即座に言った。
「シラキさん」
「子どもを巻き込んでまでやることじゃない」
「それは……」
リオンは言葉に詰まった。
神官としてなら、神には神の考えがあると言ったかもしれない。けれど今の自分は、ルナの親でもある。もし昨日、シラキがいなかったら。もし亡者が家へ入っていたら。
そう考えると、素直に「創造主様からの試練なのです」と納得することはできなかった。
「そもそも」
ノアが口を開く。
「試練だと決めつけるのも早いだろう」
「他に理由があると?」
「ああ」
ノアの緑色の瞳が、わずかに輝く。リオンは嫌な予感がした。この顔は見たことがある。知らないことを見つけた時の顔だ。
「実に興味深い」
「ノア」
オルガの声が低くなる。
「なんだ?」
「楽しそうにするんじゃないよ」
「楽しんでいるわけではない。純粋な知的好奇心だ」
「同じだよ」
オルガの拳が持ち上がる。
「待て」
ノアが身を引いた。
「まだ何も言っていない」
「アンタは放っておくと地獄まで調べに行きそうだからね」
「行けるなら行ってみたい」
「ノアさん!?」
思わずリオンまで声を上げた。オルガが深いため息をつく。
「まったく……」
シラキだけは特に驚いていなかった。
「こいつなら言うと思った」
「シラキさんまで……」
リオンは額へ手を当てた。少しだけ空気が緩む。だが、疑問そのものが消えたわけではない。
「創造主が何を考えているのか」
ノアが改めて言った。
「私たちには、まだ分からない」
「……はい」
「試練なのかもしれない。あるいは、亡者にも何か意味があるのかもしれない。もしくは我々には想像もできない理由があるのかもしれない」
「本人に聞ければ早いんだがな」
シラキが言う。
「創造主様を本人呼ばわりしないでください」
「じゃあ神に聞けば早い」
「そういう問題では……」
リオンはため息をついた。
祠へ問いかければ答えてくれる、というものでもない。創造主からのお告げは一方的で、必要な時に必要なことだけが伝えられる。
「結局、今できることは警戒するくらいさ」
オルガが言う。
「また来たら追い返す。それでいいだろ?」
「そうだな」
シラキが頷く。
「次も俺が倒す」
「私も手伝うよ」
「必要ない」
「なんだって?」
「俺一人で十分だ」
オルガの眉がぴくりと動く。
「言ってくれるじゃないか」
「事実だ」
「シラキさん」
また別の問題が始まりそうだった。
「張り合わないでください」
「張り合ってない」
「なら、その言い方をやめてください」
「……分かった」
オルガが豪快に笑った。
「ははは! やっぱりアンタたち面白いねえ」
リオンは小さく息を吐き、窓の外を見る。庭では、ルナとカークが遊んでいる。
二人とも、昨日の亡者のことなど忘れてしまったかのように笑っていた。その姿を見ていると、難しいことを考えている自分たちが少し馬鹿らしく思えてくる。
創造主が何を考えているのか。なぜ亡者を止めないのか。亡者がこの箱庭へやって来ることに、何か意味があるのか。結局、その日はどれだけ話しても、はっきりとした答えは出なかった。
それでも時間は流れていく。亡者が現れた翌日も。その次の日も。森は静かだった。
ルナはカークと遊び、リオンは家事を覚え、シラキは薪を割る。時折ノアたちの家を訪ね、逆に彼らが遊びに来ることもあった。
そうして一日、また一日と。箱庭には、再び穏やかな時間が流れていった。
♢
それから数日が経った。
亡者が再び現れることはなく、箱庭には以前と変わらない穏やかな日々が戻っていた。その日もリオンたちはノアたちの家を訪れていた。ルナとカークは庭で遊び、大人たちは居間の食卓を囲んでいる。
「そういえば」
ノアが本を閉じた。
「君たちは、家族の記録を残しているか?」
「家族の記録、ですか?」
リオンは首を傾げた。
「ああ」
ノアは立ち上がると、壁際の本棚へ向かった。ぎっしりと本が並ぶ中から一冊を取り出し、食卓へ戻ってくる。
「例えば、こういうものだ」
差し出された本を、リオンは受け取った。
表紙には何も書かれていない。開いてみると、中にはノアのものらしい整った文字がびっしりと並んでいた。
「これは……」
「この箱庭へ来てからの記録だ」
「二年分ですか?」
「ああ」
ページを捲る。最初にカークと出会った日のこと。名前を教えた日のこと。初めて三人で食事をした日のこと。カークが熱を出した日のこと。オルガと喧嘩をした日のこと。家族三人で森へ出かけた日のこと。本当に些細な出来事まで、細かく記されている。
「すごいですね……」
リオンは感心した。
「全部書いてあるのですか?」
「当然だ」
ノアが胸を張る。
「記憶というものは不確かなものだ。どれほど大切な出来事であっても、年月とともに少しずつ薄れていく」
ノアは本へ手を添える。
「だが、文字にして残せば消えない」
「なるほど……」
「カークが初めて私を父と呼んだ日も残してある」
「そんなことまで?」
「ああ。何時頃だったかも書いてある」
「そこまで書かなくてもいいだろ」
オルガが呆れたように言った。
「重要なことだ」
「アンタにとってはね」
「重要だろう」
「まあ……大事ではあるけどさ」
オルガは少し照れくさそうに頬を掻いた。
リオンは微笑みながら、さらにページを捲る。途中からは文字だけではなく、簡単な絵も描かれていた。三人で食卓を囲んでいるところ。庭で遊ぶカーク。大斧を担いだオルガ。
そして――。
「これは……結婚式ですか?」
「ああ」
そこには並んで立つノアとオルガ、そして二人の間で笑うカークの姿が描かれていた。
「創造主とカークに見守られて、私とオルガが夫婦になった日の記録だ」
「へえ……」
リオンは思わず見入ってしまった。決して上手な絵ではない。人の身体は妙に細長いし、オルガの腕は実物以上に太い。
「ちょっと待ちな」
横から覗き込んだオルガの眉が動いた。
「なんだ?」
「アタシ、こんなに腕太くないよ」
「当時はこれくらいあった」
「ないよ!」
「記録を元に――」
「何の記録だい!」
オルガが拳を振り上げる。
「待て。貴重な本だ」
「だったら変な絵を残すんじゃないよ!」
ノアが慌てて本を庇う。その様子を見て、リオンは思わず笑ってしまった。
「ノアさんは、本当に本がお好きなのですね」
「ああ」
「好きなんてもんじゃないよ」
オルガが呆れたように言った。
「この男、生きていた頃からこんな調子だったらしいからね」
「そうなのですか?」
「ああ」
ノアは何でもないことのように頷いた。
「本を読むことは素晴らしい」
「限度ってもんがあるだろ」
「知識を得ることに限度などない」
「アンタ、それで死んだんだろ?」
「……」
ノアが黙った。リオンは目を瞬く。
「え?」
何か、とても聞き捨てならない言葉が聞こえた気がした。
「ノアさんは……どのように亡くなられたのですか?」
「本を読んでいた」
「はい」
「食事を忘れた」
「……はい?」
「そのまま餓死した」
「……」
リオンは固まった。冗談だと思った。しかし、ノアの顔は真剣だった。
「……本当に?」
「ああ」
「何日間、食べなかったのですか?」
「覚えていない」
「どうしてですか!?」
「本を読んでいたからだ」
「答えになっていません!」
思わず声が大きくなる。シラキが呆れたようにノアを見る。
「馬鹿だろ」
「シラキさん!」
さすがに失礼だ。そう思ったが――。
「アタシもそう思うよ」
「オルガさんまで!?」
「事実だからね」
「……」
リオンは何も言えなくなった。ノアだけが納得できないように腕を組んでいる。
「非常に興味深い本だった」
「それで死んだら意味ないだろ」
「最後まで読めた」
「そういう問題じゃないよ!」
オルガの拳がノアの頭へ落ちた。
「痛い」
「今度は本じゃなくて飯も忘れずに食べな!」
「今は忘れていない」
「アタシが食わせてるからだろ!」
どうやらこの夫婦は、リオンが思っていた以上に相性がいいのかもしれない。少なくとも、オルガが一緒ならノアが再び読書のしすぎで餓死することはなさそうだ。
「それで」
頭をさすりながらノアがリオンを見る。
「君たちは何か残しているのか?」
「いえ……」
リオンは考えた。
ルナが来てから、まだそれほど時間は経っていない。けれど、たくさんのことがあった。初めて出会った日。名前を付けた日。花冠をもらった日。三人でピクニックへ行った日。そして、先日の出来事も。どれも忘れるとは思えない。
けれど十年後も、二十年後も、本当に今と同じように覚えていられるのだろうか。
「……いいですね」
「ん?」
「私たちも、何か残してみたいです」
「なら、書けばいい」
ノアは当然のように答えた。
「紙なら余っている。持って帰るといい」
「ありがとうございます」
「絵も描くといい」
「絵ですか?」
「ああ。文字だけより、姿も残した方が分かりやすい」
リオンは先ほどの絵を見る。オルガの腕が、やはり異様に太い。
「……そうですね」
ノアに描いてもらうのだけはやめておこう。リオンはそう決めた。
♢
「動かないでくださいね」
「うん!」
家へ戻ったリオンは、食卓の上へ紙を広げていた。向かいにはルナとシラキが並んで座っている。
「何故俺まで」
「家族の絵なのですから当然でしょう?」
「そうか」
「そうです」
シラキは諦めたように座り直した。その隣では、ルナが嬉しそうに背筋を伸ばしている。
「リオン、まだ?」
「まだですよ」
「もう動いていい?」
「駄目です」
「……はーい」
ルナが再び姿勢を正す。リオンは笑いながら木炭を動かした。
絵を描くのは久しぶりだった。神官だった頃、子どもたちに頼まれて動物の絵を描いたことはある。それほど上手ではないが、ノアよりはまともに描ける――はずだ。
「シラキさん、もう少し笑ってください」
「笑ってる」
「無表情です」
「これが普通だ」
「では、少しだけ口元を上げてください」
「こうか?」
「……怖くなりました」
「どうしろと」
ルナが吹き出した。
「シラキ、変な顔」
「お前まで言うのか」
「ふふっ」
リオンも笑ってしまう。結局、シラキにはいつもの顔をしてもらうことにした。
しばらくして――。
「できました」
「見せて!」
ルナが椅子から飛び降り、こちらへ駆けてくる。
「まだ触らないでくださいね。汚れてしまいますから」
「うん」
ルナは食卓へ身を乗り出した。紙には三人の姿が描かれている。中央にルナ。その左右にリオンとシラキ。決して上手な絵ではない。それでも、誰が誰なのかくらいは分かる。ルナは長い間、その絵を見つめていた。
「……ルナ?」
どうしたのだろう。
そう思った時、ルナが小さな指で絵を指した。
「これ、わたし?」
「はい」
次にリオンを指す。
「リオン」
「はい」
そしてシラキ。
「シラキ」
「ああ」
三人を順番に見たあと、ルナはもう一度、紙へ視線を落とした。
「……これ」
小さな声だった。
「わたしの家族?」
リオンは一瞬、何も答えられなかった。思わず涙が出そうになった。
初めて会った時、ルナは二人を怖がっていた。自分の名前すら持っていなかった少女が、今では自分たちを見て「家族」と言っている。
「はい」
リオンは微笑んだ。
「私たちは、ルナの家族ですよ」
「……そっか」
ルナは嬉しそうに笑った。そして、もう一度絵を見る。
「わたしの家族……」
その言葉を確かめるように、小さく呟いた。
リオンはそんなルナを見つめながら思う。
創造主が何を考えているのかは、まだ分からない。なぜ亡者を箱庭へ入れたのか。何のために自分たちをここへ呼んだのか。分からないことは、まだたくさんある。
けれども、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
今、ここに三人の家族がいる。
それだけは、どんな本に書かれていなくても分かることだった。