ジョジョ三部に転生したら、スタンドが魔虚羅だった 作:東京大特価
魔虚羅の身体が膨れ上がるより先に、理髪店の天井が悲鳴を上げた。
三メートルの時点ですでに店内へ収まりきる大きさではない。肩が天井板を押し上げ、梁に亀裂が走る。承太郎は入口にいた子供をスタープラチナで外へ退かせると、ポルナレフへ怒鳴った。
「外へ出るぞ!」
「言われなくても!」
ポルナレフは気を失っているカーンを抱え、承太郎とともに店外へ飛び出した。
直後、魔虚羅の身体がさらに膨れ上がる。
梁が折れ、屋根が傾いた。壁が内側から押し崩され、瓦礫と埃をまといながら魔虚羅が路上へ踏み出した頃には、その身長は六メートル近くに達していた。
「……シンガポールのときと同じだな」
ポルナレフが顔を引きつらせる。
その向こうから、蓮司の身体を乗っ取ったアヌビス神が悠然と歩いてきた。右手には刀。崩れかけた店を一瞥してから巨大化した魔虚羅へ顔を向け、蓮司本人ならまず浮かべない笑みを見せる。
「なるほど。こいつがこの男のスタンドか。ずいぶん面白いものを持っているじゃあないか」
「おい、アヌビス!」
カーンを安全な場所へ寝かせたポルナレフが、シルバーチャリオッツを背後に出した。
「神代の身体を勝手に使ってんじゃねえぞ! 誰の身体に乗り移ろうが、もう一度叩き出してやる!」
アヌビス神の口元が歪む。
「なら、まず貴様から試してやろう」
左手を上げ、ポルナレフを指した。
「魔虚羅。あの男を殺せ」
魔虚羅は動かなかった。
「……何?」
もう一度、蓮司とまったく同じ声で命令する。
「ポルナレフを殺せ!」
それでも魔虚羅はポルナレフへ向かわない。
ゆっくりと頭部を動かし、別の方向へ向いた。
そこにいるのは承太郎。その背後には、スタープラチナが現れている。
「おい」
ポルナレフが一歩下がった。
「俺を殺せって言ったよな?」
「ああ」
「じゃあ何で承太郎の方を向いてんだよ」
アヌビス神の笑みが消える。
「魔虚羅、止まれ!」
蓮司の声が路上へ響いた。
しかし魔虚羅は止まらない。一歩踏み出しただけで、石畳が低く鳴る。
「なぜだ! この身体は完全に私が支配している! 声も手足も、この男のものだぞ!」
承太郎が帽子のつばを押さえた。
「てめーが取ったのは身体だけらしいな」
「何だと?」
「神代の声を出せても、神代じゃあねえ。そいつには分かるらしい」
アヌビス神が歯を食いしばる。
その直後、魔虚羅が踏み込んだ。
巨大な拳が承太郎へ振り下ろされ、スタープラチナが両腕で受け止める。鈍い衝撃が路上へ響き、承太郎の靴が石畳を削りながら後ろへ滑った。
「相変わらず、とんでもねえ力だな……!」
「感心してる場合か!」
ポルナレフがシルバーチャリオッツを前へ出す。
すると魔虚羅の頭部が、今度はそちらへ向いた。
「こっちもかよ!」
魔虚羅が腕を振る。ポルナレフは横へ飛び、シルバーチャリオッツが剣で腕の側面を打って軌道だけを逸らした。
拳が近くの石壁へ突き刺さり、亀裂が走る。
その隙を狙って、アヌビス神が承太郎へ斬りかかった。
「よそ見をするな!」
刀は看板の支柱をすり抜け、その向こうから承太郎の首へ迫る。スタープラチナが弾いたが、アヌビス神はすぐに切り返した。
「さっきの一度で、お前の動きも覚えたぞ!」
「チッ」
承太郎が後ろへ下がる。
魔虚羅も追う。
アヌビス神も追った。
だが、二つの動きはまるで噛み合っていない。
アヌビス神が承太郎の右へ回り込もうとすれば、魔虚羅は正面から踏み込んで進路を塞ぐ。魔虚羅の拳が承太郎を狙えば、その軌道上からアヌビス神自身が慌てて退かなければならなかった。
「邪魔だ、このデカブツ!」
蓮司の口から吐き捨てるような声が出る。
魔虚羅は当然のように無視した。
「連携できてねえな」
「黙れ!」
「神代の身体を取ったところで、スタンドまでてめーのものにはならなかったらしい」
アヌビス神が苛立ちに任せて刀を振る。
しかし、その動き自体は妙に滑らかだった。
蓮司は剣士ではない。それなのに、アヌビス神が重心を移せば身体が遅れずについていき、斬撃から次の一歩へ移る時にもほとんど姿勢が崩れない。
「……ほう」
アヌビス神自身が、わずかに声を漏らした。
「この身体……妙に私の動きに馴染むな。チャカやカーンよりも随分と反応がいい。この男、見た目以上に――」
「しゃべってる余裕があるのか」
「!」
スタープラチナの拳が迫る。
アヌビス神は刀で受けながら後ろへ跳んだ。
その直後、魔虚羅の腕が横から薙ぐ。今度はアヌビス神が身を屈めてかわすことになった。
「だから! 邪魔をするな!」
その怒声に答えるように、遠くから声が飛んできた。
「承太郎!」
ジョセフとアヴドゥルが走ってくる。
「なんじゃあれは!」
「魔虚羅がまた巨大化している……!」
アヴドゥルがマジシャンズレッドを出した。
炎を纏ったスタンドが現れた瞬間、魔虚羅の頭部がそちらへ向く。
「やはりか」
「何がじゃ?」
「シンガポールと同じだ。強いスタンドが現れると、そちらへ反応している」
次にシルバーチャリオッツ。
再びスタープラチナ。
魔虚羅は順に頭部を向ける。敵か味方かで選んでいるようには見えなかった。
「神代君はどうした!」
「あの刀に乗っ取られた!」
ポルナレフが叫ぶ。
「だったら刀を離せば戻るんじゃな!」
「たぶんな!」
「なら承太郎! それをやれ!」
「簡単に言うな」
承太郎は刀をかわし、続けて魔虚羅の拳もかわす。
アヌビス神はその様子を見て笑みを取り戻した。
「そうだ。お前は私とこいつ、両方を相手にしなくてはならん!」
「勘違いするな」
「あ?」
「てめーらは二人がかりじゃあねえ。勝手に同じ相手へ向かってるだけだ」
承太郎が一歩踏み込んだ。
スタープラチナが魔虚羅の拳の下を潜り、アヌビス神がそこへ刀を差し込もうとする。だが承太郎はさらに前へ出て、わざと魔虚羅とアヌビス神の間へ入った。
「何を――」
魔虚羅の腕が振られる。
狙いはスタープラチナ。
しかし、その軌道上には蓮司の身体もいた。
「うおっ!?」
アヌビス神が慌ててしゃがむ。巨大な腕が頭上を通り過ぎた。
「今だ」
スタープラチナの手が蓮司の右手首を掴んだ。
「しまっ――」
刀を振る角度を封じられる。
アヌビス神は左手で承太郎を殴ろうとしたが、それより速くスタープラチナの指が右手の甲を弾いた。
指が開き、刀が蓮司の手から離れた。
その瞬間、蓮司の身体から力が抜ける。
承太郎が倒れかけた蓮司を左腕で支え、スタープラチナは落下する刀を蹴って人のいない路地の中央へ飛ばした。
『チィッ!』
今度の声は蓮司の口からではない。
石畳へ落ちた刀そのものから響いた。
『まだ終わってはいないぞ! 誰かがこの私を手に取れば――』
「だったら誰にも触らせなきゃいい」
ポルナレフが吐き捨てる。
その間に、蓮司が何度か瞬きをした。
「……承太郎さん?」
「戻ったか」
「……刀を掴んだところから記憶がないんですけど」
「後で説明する」
頭はまだ重い。それでも、地面に落ちた刀が自分の声ではない声で喋っていることだけは分かった。
『空条承太郎! 誰でもいい! 一度私を取れ! 今度こそ――』
「誰が取るかよ」
ポルナレフが刀を睨む。
「こんなもん、河にでも放り込んじまえ!」
「待ってください」
蓮司が承太郎の腕から離れ、まだ少しふらつきながら口を挟んだ。
「何だよ」
「DIOの手下なら、何か知ってるかもしれません。捨てるより、捕まえておいた方がよくないですか?」
『ふざけるな! このアヌビス神を捕虜にするつもりか!』
蓮司は刀へ顔を向けた。
「そういうことになりますね」
『貴様……!』
「ほら、誰かの体を使わずとも、こうやって意思疎通できるみたいですし」
ジョセフが腕を組む。
「しかし、どうやって持ち運ぶんじゃ。触ったらまた操られるかもしれんぞ」
「鞘に戻して、直接触れないように箱へ入れるしかないでしょう」
「簡単に言うのう」
アヴドゥルも刀を見る。
「危険ではあるが、一理ある。DIO本人の能力まで知っているとは思えんが、部下について何か知っている可能性はあるな」
「おいおいおい! マジで持っていくのか!?」
「ポルナレフさんは反対なんですか?」
「当たり前だ! 俺はそいつに二回も殺されかけてんだぞ!」
『二度も私を倒しておいてよく言う!』
「うるせえ刀だな!」
「とりあえず喧嘩は箱に入れてからにしましょう」
「お前、目覚めてすぐ仕切るな!」
承太郎が崩れた理髪店を見る。
「鞘は中か」
「たぶん」
スタープラチナが瓦礫を退け、鞘を拾い上げる。刀そのものには触れず、近くに落ちていた長い木板を使って鍔を押した。
『何をする!』
刀が石畳を滑る。
反対側からアヴドゥルが鞘の位置を調整し、刃先だけを中へ入れた。
「そのままです」
「分かっとる」
承太郎がさらに木板で押す。
『やめろ! この私をそんな――』
刀身が半分以上収まる。
『やめ――』
最後に鍔が鞘口へ当たり、完全に収まった。
数秒の静寂のあと、鞘の中からくぐもった声がした。
『……覚えていろ、貴様ら』
「喋れるんですね」
『黙れ神代蓮司!』
「元気そうでよかったです」
「よくねえよ」
ポルナレフが即座に突っ込んだ。
刀は布を何重にも巻いたうえで木箱へ入れ、蓋を縄で縛ることになった。これなら少なくとも、誰かが間違って柄へ手を伸ばすことはない。
『この程度で私を封じられると思うな!』
「今のところ封じられてるじゃないですか」
『貴様は本当に腹の立つ小僧だな!』
蓮司は返事をしかけ、ふと背後へ顔を向けた。
六メートル近い魔虚羅が、まだスタープラチナへ向かって構えている。
「……魔虚羅?」
自分が呼び出した覚えのない姿に、蓮司の眉が寄る。
「止まれ」
魔虚羅がぴたりと動きを止めた。
その場にいた全員が一瞬黙る。
「戻れ」
巨体が消えた。
「……何であんなに大きくなってたんです?」
「それも後で説明する」
「嫌な予感しかしないんですけど」
◇
帆船へ戻ってから、蓮司はようやく自分が意識を失っていた間の話を聞かされた。
刀を掴んだ直後、アヌビス神に身体を乗っ取られたこと。蓮司の身体で承太郎へ斬りかかったこと。そしてその最中、魔虚羅が再び六メートル近くまで巨大化したこと。
「……俺、皆さんを襲ったんですか」
「ああ」
「すみません」
「軽いな!」
ポルナレフが即座に声を上げる。
「覚えてないので、これ以上どう謝ればいいのか分からないんですよ」
「そこはもうちょっと申し訳なさそうにしろ!」
「申し訳ないとは思ってます」
「顔に出せ!」
「無茶言わないでくださいよ」
「無茶言ってるか!?」
ジョセフが咳払いをした。
「話が進まんからその辺にしろ」
アヴドゥルが続ける。
「それから、アヌビス神は君の声で魔虚羅へ命令していた。ポルナレフを殺せ、と」
「何でまたポルナレフさんを」
「俺が売られた喧嘩を買ったからだよ!」
「なるほど」
「納得すんな!」
「さらに『止まれ』とも命令したが、魔虚羅は一度も従わなかった」
蓮司が少し黙る。
「……俺とまったく同じ声で?」
「ああ」
「でも、俺が起きてから止まれって言ったら止まったんですよね」
「完全にな」
「正確にはてめえが目を覚ました瞬間、攻撃自体は止めてたがな」
蓮司は少し考えてから、木箱の方を見る。
「声が同じでも駄目なんですね」
「どうやら魔虚羅は、声そのものではなく君の意思に従っているらしい」
アヴドゥルが腕を組んだ。
「少なくとも、身体を乗っ取られただけで魔虚羅まで敵に利用される心配は薄そうだ」
「そこは安心ですけど……代わりに俺の意識がなくなると勝手に暴れるんですよね」
「そっちの方が問題じゃな」
ジョセフの言葉に、蓮司も否定できなかった。
「シンガポールでは、我々が君を見つけた時にはすでに魔虚羅が巨大化していた。今回は、君の意識がアヌビス神に奪われた後に同じ状態になった」
「意識がなくなると、普段の制御が外れる……とかですかね」
「可能性はある。ただし、眠っているだけでは起きていない。今回は戦闘中で、魔虚羅もすでに出ていた」
「じゃあ、戦ってる最中に俺の意識がなくなると危ない、と」
「まだ二例だけだ。断定はできん」
「ですよね」
蓮司は少し考え、もう一つ引っかかっていたことを口にした。
「でも、何で承太郎さんたちまで襲うんです?」
誰もすぐには答えなかった。
「それが分からん」
アヴドゥルが答える。
「シンガポールでも、敵がいなくなった後にスタープラチナ、マジシャンズレッド、シルバーチャリオッツへ反応していた。今回も同じだ」
「敵味方じゃなくて、強いスタンドに反応してる?」
「そう見えた」
「……嫌な習性ですね」
「他人事みたいに言うな」
ポルナレフに言われ、蓮司は返す言葉がなかった。
「アヌビス神の命令を無視しただけなら、むしろ安心できたんですけどね……」
蓮司は少し顔をしかめた。
「何でその代わりに承太郎さんたちを襲うんですかね」
蓮司の視線の先には、問題の木箱が縄で厳重に縛られて置かれている。
『聞こえているぞ!』
「本当に元気ですね、あの刀」
「何でお前はそんな普通に話せるんだよ」
ポルナレフは心底理解できないという顔をしていた。
◇
その日の夜。
帆船は静かなナイル河を北へ進んでいた。
蓮司は甲板の端に座り、包帯を巻かれた右手を眺める。刀を掴んだ時の傷が、まだじくじくと痛んでいた。
魔虚羅を呼び出して方陣が回れば、この程度の傷は治る。だが、あれだけ暴れた直後では、何となく呼び出す気になれなかった。急いで治さなければならない傷でもないため、そのままにしている。
身体を乗っ取られていた間のことは、何一つ覚えていない。
聞かされたのは、自分が承太郎へ斬りかかったこと。魔虚羅が巨大化し、アヌビス神の命令すら無視して承太郎たちへ向かったこと。そして結局、自分の身体から刀を引き剥がしてくれたのも承太郎だったということだ。
考えてみれば、今回だけではなかった。
日本を出てから何度も敵と戦った。魔虚羅で攻撃を受け止めたこともあるし、誰かを庇ったこともある。自分が傷を負って時間を稼いだことだってあった。
けれど、改めて一つずつ思い返してみると、最後に敵を倒してきたのは大抵ほかの誰かだった。
タワー・オブ・グレーは花京院。ダークブルームーンもストレングスも承太郎。エボニーデビル、エンペラーとハングドマン、エンプレス、ホイール・オブ・フォーチュン、ジャスティス、ラバーズ、サン、デス・サーティーン、ジャッジメント、ハイプリエステス。
イエローテンパランスだけは魔虚羅が倒した。だが、それも自分が敵の能力を見抜いて勝ったわけではない。意識を失った後、巨大化した魔虚羅が勝手に戦った結果だ。
結局、自分の判断が攻略の要になったことはほとんどない。
魔虚羅が適応するより先に仲間が敵の能力を見抜いて倒すか、適応してもそれを決着へ活かせないか。
ンドゥールとの戦いもそうだ。ゲブ神の攻撃へ適応はしたが、その適応が勝利へ繋がったわけではない。敵本体へ辿り着いて倒したのは承太郎だった。
自分がいなければ、一体どうなっていたのだろう。
盾としては度々役割を果たせた。ゆえに自分がいなかった場合、誰かの怪我が増えたかもしれない。もっと苦戦した戦いもあったかもしれない。しかしそれでも、自分がいなければそこで旅が終わっていた、と言い切れる場面があったかと聞かれると、蓮司には思いつかなかった。
むしろ、考え始めるともっと嫌な可能性まで出てくる。
蓮司は原作を見たことがない。
だから、自分が知らない原作に「神代蓮司」という人間が存在していたのかどうかすら分からない。
転生者ではない「神代蓮司」がいて、今の自分とは違う人生を歩み、魔虚羅とは全く別のスタンドを持っていたのかもしれない。
あるいは、そもそも「神代蓮司」という人間自体が存在しなかったのかもしれない。存在していたとしても、この旅には参加しない筋書きだった可能性もある。
比べるための材料がない以上、自分が何を変えてしまったのかも分からない。
もし自分がいなければ、承太郎たちは本来もっと危険な戦いをしていたのかもしれないが、その分だけ追い詰められ、今より強くなっていた可能性もある。物語でよくあるように、土壇場で何かに覚醒し、新しい能力を手に入れることだってあったかもしれない。
そして、その力が最後にDIOを倒すために必要だったとしたら。
自分が攻撃を代わりに受けたり、危険を減らしたりしたことで、本来なら誰かが経験するはずだった戦いや成長の機会を奪っていることになる。
役に立っていないどころか、自分がこの旅に参加したこと自体が逆効果だったのではないか。
「……俺、やっぱり必要無かったんじゃないか?」
「何がだ」
背後から声がして、蓮司は振り返った。
承太郎が甲板へ出てきている。
「いつからいました?」
「今来た」
「じゃあ聞かなかったことにしてください」
「もう聞いた」
「……そうですか」
蓮司は河へ顔を戻した。
「なんていうか……ここまで来て思ったんですけど、俺がいなくても、あんまり結果って変わらなかったんじゃないですかね」
「……」
「守ったことはあります。攻撃を受けたこともあります。でも、俺がいなかったら絶対に負けてたって戦いは、たぶんないです。それどころか、本来なら皆さんがもっと強くなるきっかけを俺が潰してる可能性まである」
承太郎が眉を寄せた。
「くだらねえな」
「結構真面目なんですけど」
「起きてもいねえことまで数えてどうする」
「でも、その起きなかったことが必要だった可能性はありますよ」
「てめーがいなかった時の旅なんざ、今ここにいる誰にも分からねえ」
「……」
「分からねえもんを勝手に正解にするな」
蓮司は少し黙った。
「それ、慰めてます?」
「知らねえ」
「ですよね」
承太郎は帽子のつばを下げる。
「誰が何人敵を倒したか数えるために旅してんじゃねえ。今やることをやれ」
「今やること、ですか」
「ああ」
船尾の方から、くぐもった声が響いた。
『出せ! この私をいつまで箱に入れておくつもりだ!』
蓮司と承太郎がそちらを見る。
「……とりあえず、あれから情報を聞き出すとか?」
「それでいいだろ」
「嫌な『今やること』ですね」
承太郎は鼻を鳴らし、そのまま船室へ戻っていった。
蓮司はしばらくナイル河を眺めたあと、木箱の方へ顔を向ける。
答えが出たわけではない。
自分が必要だったのか、この旅についてきた意味があったのか。
今のところ、その問いにはっきり答えられるものを、蓮司はまだ持っていなかった。
『聞こえてるだろう神代蓮司! さっさとこの箱を開けろ!』
「……うるっさいな」
少なくとも、これから先は荷物が一つ増えそうだった。