Welcome to the Underground 作:暁英琉
「あ、サキュバスさん!」
夕飯――と言っても、ずっと地下にいるから「夕飯」と聞いているだけだけど――を食べた後、腹ごなしに近場をぶらついていると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
ぶかっとした黒いローブを身にまとった女性の魔物さん。フードで顔は見えないけれど、そもそもここでヒトが身にまとうようなローブを身に着けているのは彼女だけだ。
そんな彼女、サキュバスさんは僕の声にフードを取って振り返る。綺麗な金色の髪に透き通るような青い瞳、そして彼女がヒトでないことを示す側頭部から生えた二本の漆黒の角。この角は彼女が悪魔に近い種族であることを示しているらしい。悪魔というのがなんなのかはよくわからないけど、動物の角とは違うそれはかっこいいと思う。
「あら、奇遇ですね」
微笑みながら頭を撫でてくる。撫でられるのは好きだ。ワーウルフくんみたいに頭が爆発するくらいガシガシされるのも好きだけど、サキュバスさんの撫で方はなんだか懐かしい気がする。ここに来るまで撫でられた記憶なんてないのに、不思議。
「ちょっと散歩! サキュバスさんは“上”に行くの?」
「ええ。朝になる前には帰ってきますよ」
彼女が向かおうとしていた方向へ目を向ける。この先には地上の街に繋がる道らしい。もう一度地上に戻る気なんてさらさら起きないから、一度も通ったことないんだけど。
サキュバスさんはこうしてたまに外に行くみたい。なんでも街にしかないものがあるんだって。けど、夜はパン屋も八百屋も閉まってるはずなんだよね。何を買いに行くんだろ。行ったことないけど、たぶん服屋とかも閉まってると思うし……。
それにそもそも、ここには食べ物も服も道具も色々揃ってるんだよね。魔物さんたちの中には食べ物や道具を生み出す種族がたくさんいて、ここで食べたり使ったりしているものは大半が自分たちで用意したものって聞いている。トレントくんたちは美味しいきのみを分けてくれるし、野菜を作る魔物さんも多い。コカトリスくんは毎日おっきなタマゴを産んでくれるんだ。この間勉強した時にコカトリスくんのタマゴからはコカトリスくんの赤ちゃんが生まれるって聞いたからちょっと心配になったけど、いつも僕達が食べているのは無精卵? っていうので、赤ちゃんは生まれないみたい。ちょっとホッとした。
他にもバロメッツさんはふかふかの毛を分けてくれて、僕が今着ている服もその毛で作ってもらってる。肌触りが良くて外で着ていたボロ切れとは全然違う。雲泥の差ってやつ。
まあ、そんなこんなで、僕にはわざわざ街に行かないといけない理由っていうのが想像できないんだよね。
「ふふ、あなたがもう少し大きくなったら……多分教えてあげますよ」
「多分なんだ……」
試しに聞いてみても、いつもこんな感じの答えしか返ってこない。ちょっと後ろ髪を引かれるけど、あまり駄々をこねて嫌われたら嫌だ。だからここは大人しく言うことを聞くことにする。
「ふあ……」
そもそも、今はそれよりも眠い。お腹はいっぱいだし、今日も勉強で疲れた。なんで身体も動かさないのに勉強って疲れるんだろうね。魔物さんたちと遊んでるときはそんなに疲れないのになぁ。
「ふふっ。眠いなら先に歯みがきをするんですよ」
「うん……」
しぱしぱしてきた目を擦りながら頷く。歯みがきは結構好きだ。口の中がすっきりして気持ちがいい。それに、歯を磨かないとヒトは虫歯っていうのになって、歯がダメになるみたい。歯がないとご飯を美味しく食べられなくなっちゃうから、ちゃんと歯みがきはしないとね。これも魔物さんたちに教えてもらったこと。魔物さんたちは僕よりヒトのことに詳しい。
夜は寝る時間。太陽も月も見えなくて、僕には今が夜なのかわからないけど、自然と夕飯の後は眠くなる。規則正しい生活をしていると身体が自然に同じ時間に起きて同じ時間に眠くなるんだって。ドライアドさんが言ってた。
やっぱりちょっとサキュバスさんが街で求めているものが何なのか気になるけど、そんな興味は襲ってくる睡魔がまた押し流してしまう。まあ、どうせ朝には僕より先に起きてここにいるんだから知らなくてもいい。まず今はこの眠気をどうにかしてしまおう。
「おやすみ、サキュバスさん」
「おやすみなさい。また明日」
大きくあくびを漏らしながら踵を返す。本当に眠い。このままじゃ歯を磨き終わる前に寝ちゃうかも。前に一回だけ寝ちゃって、ワーウルフくんに笑われたんだよね。もう笑われたくないから寝るときはベッドで寝ないと。
なんとか部屋の近くにある水辺にたどり着くと、持ってきた歯ブラシを水で濡らす。木の棒に馬の毛をたくさん生やしたそれを口に入れ、シャコシャコと歯を磨いていく。柔らかい毛が口の中で踊って、ちょっとくすぐったい。くすぐったさに耐えながら上の歯、下の歯、奥歯と丁寧に磨き、最後に口を水でゆすげばさっぱりマウスの完成だ。
気持ちよくできたことに鼻を鳴らしたいところだけど、やっぱり今はとんでもなく眠い。さっさと自分の部屋に戻ることにする。
岩のように硬い土の壁、そこに付けられた木の扉の先が僕の部屋だ。扉を開けると、勉強の道具を入れる本棚に大きな机に椅子が二つ、服をしまう箱、そしてベッドがある。全部ワーウルフくんたちが用意してくれたもの。自分だけの部屋、というのにはまだ慣れないけど、住み心地は路地裏の比じゃないから気に入ってる。これも雲泥の差ってやつだ。
入って早々にベッドに倒れ込む。ふかふかの柔らかさに身体が沈み込んで、抑えていた睡魔が一気に押し寄せてきた。溶けるように意識が夢へと旅立っていく。
明日はなにをしようか。朝ごはんはなにかな。
そんな益体もないことを考えながら、僕は朝へ向けて身体を休めるのだった。
***
ぽてぽてと眠たげな足取りが遠ざかっていくのを眺める。この間のように歯みがき途中に寝てしまわないか少し不安だが、付き添おうものなら寝かしつけまでしてしまいそうだ。流石にそこまでするとこちらの時間がなくなってしまうので、フードを被って外へ向けて歩き出す。仮に彼が寝落ちしたとしても、そのときはワーウルフあたりが対応してくれるだろう。あいつもあいつでなかなかに世話焼きなところがある。まあ、そうでなければいくら種族的に適任とは言え、ヒトとの折衝役は引き受けないんだろう。
今から外に出ればちょうど深夜頃。ヒトはその大半が寝静まっている時間。あの子は魔物について知らないからヒトが寝静まるこの時間に街へ向かうことに疑問を抱いていたが、サキュバス、夢魔という種族にとってこの時間が一番ヒトの近くにいる意味がある。
絶好の食事時だ。
この地下にいるのはヒトとの争いを好まない穏健派の魔物たち。しかし、生きるためにヒトを襲わなくてはいけない種族というものもいる。サキュバスはその一つ。
淫夢を見せて、ヒトから精気を奪う。私たちはそうしなければ生きていくことができない。
面倒。どうしてもそう思う。命を奪うことはないとはいえ、ヒトを襲わねば生きられない。そんな私が穏健派の集団に所属していることに自嘲が漏れるときもある。そもそもその食事だって気を使わねばならない。多少お目溢しはあるとはいえ、過ぎれば街で問題となるだろう。最悪、地下の存在が露見する危険もある。まるで細い棒二本で小さな豆をつまみ上げるような神経を使う作業だ。
「まあ、もう慣れたものですが」
しかし、今は誤魔化せているが、あの子に自分の生態を説明するときがいつか来るかもと考えると、少しぞっとする。
それはつまり、あの子が自分の捕食対象たり得ると告白するようなものだ。
嫌われないだろうか。幸いなことに今は慕ってくれているが、距離を取られるようなことにはならないだろうか。せっかく初めて“性”によらない関係を築くことができているヒトなのだ。できることなら、この関係を壊したくはない。
けれど、だからと言ってずっと隠し通すというのも難しいだろう。勉強は嫌いなようだけれど、投げ出すことはほとんどないし、そもそも知識欲自体はある方のようだ。他にもサキュバスに近い種族のものはいるし、黙っていてもいつかは答えに行き着くだろう。……それはそれで嫌だ。せめて刃が振り下ろされるタイミングは自分で決めたい。
だから――
「だから、それまでは知らないままでいてくださいね」
言いようのない不安を少し吐き出して、地上へ急ぐ。
生きるための、疲れる食事のために。