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宰相ジャハールがルキウスに呼び出されたのは翌日の夕刻であった。
場所は東翼の従者控えの間である。今はもう使っていない部屋で、半ば物置と化していた。
小部屋は窓がなく、灯りは卓上の燭台が二本きり。ジャハールが先に着いて立っていると、ほどなく扉が開いた。
ルキウスは挨拶を省いた。扉を閉め、卓の前に立ち、ジャハールを見る。
「フェリクスからどこまで聞いている?」
前置きもなければ世間話もない。
「息子から聞いた話をそのまま申し上げます」
「頼む」
「殿下に懸想したメイドが分を超えた振舞いをした。殿下が手を打つよう命じ、フェリクスが手筈を整えた。クレメント殿にそのメイドを凌辱させ、口外すれば殿下に知られると脅し、暇を取らせた。──フェリクスは、殿下の命によって行った、と言っていました」
ルキウスの表情は動かない。
「後始末はフェリクスに頼まれて儂がやりました。エーリカと親しくしていた同僚のメイドが三名ほど。金を渡し、もっともらしい理由をつけ、まとめて暇を出した。フェリクスには人事に関する権限はありませんからな」
「それが全てか」
「全てです」
ルキウスは頷いた。頷いてから燭台の炎を一度だけ見て、口を開いた。
「私は凌辱などさせていない」
ジャハールは黙った。
「追い出せとは言った。分を弁えぬ振舞いが目に余った。追い出せ──それだけだ。メイドを手籠めにしろなどとは一言も言っていない」
──嘘か、いや……
追い出せとだけ言った。それは恐らく真実なのだろう。語調、声色、視線の置き所──真偽の色というものは、あらゆる箇所に滲み出てくるものだ。一国の宰相ともなれば、それくらいは察する事が出来て当然である。
ルキウスもまた、自分の言葉が宰相の耳にどう響くかを計算していた。
「フェリクスが嘘をついていたという事になるな」
ルキウスが言った。
「……さようでございますな」
ジャハールは意図的に声に不興の色を滲ませた。これは一種のけん制だ。
「此度の一件の後、改めて周辺を洗い直した」
ルキウスの声が事務的な調子に変わった。
「クレメントがエーリカに懸想していたようだ。以前から執着があったらしい。言い寄り、拒まれ、力に及んだのはクレメント自身の意思だ」
ジャハールの瞼がわずかに動いた。
──クレメントがエーリカに懸想していた、だと?
後始末の工作は日数をかけた仕事だった。エーリカの周辺を洗い、親しい者を特定し、金を渡し、暇を出す。その過程で拾った情報は少なくない。
だがクレメントの名は一度も出なかった。エーリカとクレメントを結びつける話は欠片もなかった。
先ほどの「凌辱などさせていない」には嘘の匂いがなかった。だが「クレメントが懸想していた」──これは拵え物だ。真実を一つ差し出して信を得た上で、次の嘘を通そうとしている。
ジャハールはそれを見抜いた。
見抜いたが口には出さなかった。出したところで「洗い直した結果そう判明した」と返されるだけだ。
ルキウスはジャハールの沈黙を肯定と受け取ったわけではない。だが気づいた上で黙っているならば、それでいい。黙っているという事は乗る余地があるという事だ。
「──で、殿下はどういう形をお望みですかな」
「クレメントがエーリカに懸想し、言い寄り、力に及んだ。全てクレメントの単独犯だ」
「フェリクスは」
「知らなかった」
ジャハールの呼吸が一つ止まった。
「クレメントの暴挙を事後に知り、友の所業に心を病んだ。そしてそのまま──」
ルキウスはそこで言葉を切った。
ジャハールは黙ったまま、筋書きの全体を頭の中で組み立てた。
クレメントの単独犯。フェリクスは知らなかった。友の罪を知って心を病み、亡くなった。ルキウスは事後に全容を把握し、義を通す為に公開を決めた。
全ての瑕はクレメントに集まる。クレメントは死んだ。否定する口はない。フェリクスは被害者になる。宰相家は守られる。ルキウスはこの話の外にいる。
そして──瑕が集まるのはクレメント個人だけではない。
クレメントは軍務卿ガルムの息子だ。
ジャハールとガルムの関係は宮廷の誰もが知っている。宰相と軍務卿──文官の長と武官の長は、この国では構造的に対立する。予算の配分、人事の優先、有事の指揮権。どの案件を取っても利害がぶつかる。ジャハールとガルムの不仲は個人の感情ではなく、椅子そのものが向き合っているのだ。
その軍務卿の家に全ての泥が被さる。
ジャハールがこの筋書きに乗れば、政敵の家が傷つく。ルキウスはそれを分かった上で持ちかけている。恩だけではない。餌でもある。
「──殿下」
「うむ」
「ガルム卿は黙りますまい」
ルキウスの指先が卓の上で一度だけ叩かれた。
「ガルム卿は長男であるワグナー殿を寵愛しておられる。クレメント殿にはほぼ無関心といってよい。なにせ
「受けまい。だから筋書きが要る」
ルキウスが答えた。
「クレメントの単独犯であれば、ガルム卿の監督責任は問われるが家ぐるみの醜聞にはならんだろう。責を問う声はあるだろうが、私が黙らせる」
「ガルム卿の立場で考えれば」とジャハールは引き取った。「次男の醜聞は痛い。ですがそれ以上に痛いのは、此度の件で殿下との関係に亀裂が入る事です。ワグナー殿の将来を思えば、殿下との関係を損なうわけにはいきません。怒りはしましょうが──呑みましょうな」
「あなたもそう見るか」
「ただし」
ジャハールは一拍置いた。
「宰相家の息子は被害者、軍務卿の息子は加害者──その構図で儂が草案を書いて世に出す。ガルム卿は殿下には逆らえませんが、儂に対しては私怨を持ちましょう。此度の件が収まった後もそれは残ります」
「承知している」
「承知なさっているならば結構。ただ、儂とガルム卿の関係がこれ以上悪化した折に、殿下がどちらにつかれるおつもりかは、今のうちにお聞かせいただきたい」
「ジャハール殿の側に立つ。それは約束する」
ジャハールはそれ以上追わなかった。約束の重さは時が量る。今ここでいくら言質を取っても、政局が変われば口約束など紙よりも軽くなる。ジャハールはそれをよく知っていたし、ルキウスもジャハールがそう考えている事をよく知っていた。
「お力添えいたしましょう」
呑んだ。
「ただ、殿下にお伝えせねばならぬ事がございます」
「何だ」
「フェリクスの死因です。病とお伝えしておりましたが、嘘でございます」
ルキウスの顎がわずかに引かれた。
「息子の部屋は荒らされておりました。窓は本棚で塞がれ、姿見は叩き割られておった。鏡の破片で──自らの目を抉っておりました」
ジャハールの喉がわずかに上下した。
ルキウスの顔は動かなかった。眉も瞳孔も。
だがルキウスの中では話が繋がっていた。あの書斎で見たもの──腐った頬、空洞の眼窩。フェリクスを殺したのは刺客でも毒でもない。人ならざるものだと確信する。
「友の暴挙を知って心を病んだ──心を病めば体も病むものです。殿下の筋書きに乗るならば、弱ったフェリクスが病魔に取りつかれ、そのまま亡くなった事にすれば辻褄は合いましょう」
「……そうだな」
その端的な返事にジャハールの腹の底で何かが冷えた。宰相としての腹ではない。父親としての腹だ。
息子がどう死んだか。目を抉り、鏡を割り、窓を塞いだ。その死に様を伝えた父親に対して、この男は「そうだな、辻褄は合う」と答えた。辻褄。筋書きの辻褄。息子の死はこの男にとって筋書きの部品でしかないのだ。
「殿下。此度の件を公にするならば、もう一つ考慮すべき事がございます」
「うむ」
「フェリクスが死に、クレメント殿が狂死した。立て続けです。何者かがエーリカの件を知り、二人を狙った──刺客を雇った者がいると儂は見ております」
「ほう、刺客──か」
「エーリカの父親は地方の自作農です。刺客を雇う金はない。ならば金の出処は別にある。殿下、エーリカは美しい娘でした。社交の場で給仕に立つ事もあった。あの容姿に目を留めた貴族が他におったとして──エーリカの身に起きた事を嗅ぎつけ、金を出したとすれば辻褄は合います」
「貴族が──メイドの為にか」
「荒唐無稽に聞こえましょうな。ですが美しい女に入れ込んだ男が何をしでかすかは、儂は三十年の宰相稼業で三度ほど見ております」
ルキウスは黙って頷いた。
「公にして殿下が義を通した形になれば、報復の大義名分は失われましょう。それも公開の利です」
「分かった。草案を頼む」
「畏まりました」
「もう一つ。ダグラス公の件だが。先の一件で、どうも不興を買ったらしい。何か良い案はあるか」
「ダグラス公は少々難物ではございますが」
ジャハールの声は淡々としていた。
「此度の件を筋の通った形で公にすれば、牙も引っ込みましょうな」
ルキウスは黙って聞いていた。
「そもそも殿下がアレシア嬢に何かをしたわけではないのでしょう? 殿下の側近が王城であのような姿を晒し、アレシア嬢を危険な目に遭わせた事についての苛立ちはあるでしょうが。ならばダグラス公に殿下が直接お会いになるのがよろしいかと。そして筋書きを伝えるのです」
「直接、か」
「あの男は書面を信じません。人を見る男です。殿下が直に顔を見せて、筋を通す姿勢をお示しになれば、それだけでも多少は。──無論、殿下が清廉潔白であれば、の話ですが」
「何一つ、隠してはいないとも」
「そうですか」
「そう疑うな。では近いうちにダグラス公を訪ねよう」
「それがよろしいかと」
ジャハールは一礼した。
扉を開け、廊下に出る。冬の夜気が首筋を撫でた。
靴音が石壁に反響する中、ジャハールの腹の底にはまだあの冷たさが残っていた。
『そうだな、辻褄は合う』──あの声が耳の奥にこびりついている。