二日目の朝、目を覚ますと、ふくらはぎと背中に薄い張りが残っていた。痛むというほどではなく、昨日の三十分と二時間半がきちんと身体まで届いていたのだと分かる程度のものだ。寝台の縁に腰かけて足首を回し、ゆっくりと息を吐く。居住区の重力は訓練区画と変わらないはずなのに、機体の中で受けたそれのほうが、ずっとしつこく身体に残っている。
食堂は、想像していたよりずっと賑やかだった。約二百名のベテランたちが、卓ごとに昨日の話で盛り上がっている。「泥濘で足を取られて三回転んだ」「こっちは歩かせるだけで三十分かかった」と、愚痴とも自慢ともつかない声が飛び交い、あちこちで笑いが起きる。誰もが太腿やふくらはぎをさすりながら、それでも顔は明るい。
トレイを持って空いた席を探していると、背後から声をかけられた。
「これはこれは、英雄殿。昨日は苦戦されたそうで」
振り向くと、昨日絡んできた曹長格の男が、片足を少し庇うようにして立っていた。口元には皮肉めいた笑みが浮かんでいる。周囲の卓から、面白がるような視線がいくつも集まった。
「苦戦しています。歩かせるだけで精一杯でした」
正直にそう答えると、男は一瞬きょとんとして、それから鼻を鳴らした。
「……正直でいらっしゃる。勲章をお持ちの中尉殿なら、涼しい顔で歩かれるものと思っておりました」
男はそう言って、向かいの席を指した。
「ご一緒しても構いませんか」
「どうぞ」
男は腰を下ろすなり、顔をしかめた。
「実を申しますと、自分も今朝、寝台から降りるのに太腿が悲鳴を上げまして。年は取りたくないものです」
思わず口元が緩んだ。男も苦笑いを浮かべ、周囲の卓からも笑いが起きる。値踏みするような視線はまだそこかしこに残っていたが、その半分は、同じ重さを味わった者同士の目に変わっていた。
午前の座学は、講堂の壁一面に映し出された地球の地図から始まった。昨日は気圧と気候の話が中心だったが、今日は大陸ごとの地形と、それが戦闘に何をもたらすかが主題だった。
「宇宙では、止まろうと考えなければ機体は止まらん」
教官が指示棒で乾燥地帯をなぞりながら言った。
「地上では逆だ。止まるな、と考えていなければ止まる。足を止めた機体は的になる。これを頭ではなく、操縦の癖として染み込ませろ」
砂漠では砂塵が関節部に入り込み、密林では視界と足場がどちらも奪われる。湿地は接地するたびに機体を沈ませ、山岳では稜線がそのまま遮蔽物にも死角にもなる。教官は地形ごとに、連邦軍の地上部隊がどこに戦車や砲兵を置きたがるかを併せて説明していった。宇宙では「何もない」ことが前提だった戦場が、地上では「何かがある」ことを前提に組み立てられている。
メモを取りながら、ふとルウムでの戦い方を思い返した。センサーの追従の遅れを、相手の初動を読むことで埋める。その読みは、遮るもののない空間だから成り立っていた部分が大きい。稜線や林の陰から敵が現れる地上で、同じ読みがそのまま通用するとは限らない。
教官は最後に、大気圏突入にも触れた。突入時の最大負荷は4から5G、機体は降下用のカプセルに固定され、パイロットは座席の上で耐えるしかない。講堂の空気が、わずかに固くなった。
午後は1.0Gのシミュレーターで、座学の内容を実践に落とし込む反復だった。稜線に機体を這わせ、半身だけを出して照準を合わせ、撃ってすぐ引っ込める。泥濘では接地の沈み込みで歩幅が狂い、砂丘では足元が崩れて機体が滑る。操縦桿を倒す量とフットペダルを踏み込む量を、地形ごとに加減し直さなければならない。
昨日の歩行練習で掴みかけた感覚が、ここで少し役に立った。バーニアに頼らず、ペダルの踏み込みだけで足を運ぶ。泥濘では踏み込みを浅く、砂丘では素早く抜く。教官は後ろで無言のまま画面を見ていたが、一度だけ「悪くない」と短く漏らした。
隣の筐体からは、今朝食堂で絡んできた曹長格の男の舌打ちが聞こえた。
「くそ、足が勝手に前へ出やがる。宇宙じゃ止まれ止まれと身体に叩き込んだってのに……」
その独り言に、教官が「だから座学で言ったろう」と返す。周囲で小さな笑いが起き、すぐに静まった。
シミュレーターは終始、疲れるのは頭ばかりだった。身体にかかる負荷は昨日の実機よりずっと軽い。終わったあとも、膝が笑うことすらなかった。
夜は格納庫に戻り、HLVへの収納と固定の手順を反復した。降下用の大型カプセルの格納ベイまでJ型を歩かせて所定の位置に据え、固定アームを展開して機体を抱え込ませる。ロックを一つずつ掛けていくたびに、整備員の声が響いた。
「左肩ロック、確認」
「左肩ロック、確認しました」
「右肩」
「右肩ロック、確認しました」
最後のロックを叩いて、年嵩の整備員が言った。
「降下中はな、機体もパイロットも荷物だ。荷物が暴れたらカプセルごと終わりだ。だから手順で縛る。手順を身体に入れとけ」
三度やり直して、四度目でようやく規定時間内に収まった。ハッチを閉じて座席にもたれると、この二日で初めて、身体の芯に疲れが降りてくるのが分かった。ただ、その疲れは「重い」というより、「心地よく眠くなる」類のものだった。
三日目は、訓練区画の低Gエリアで回復にあてられた。重力は0.1G。ここには大きなプールが設けられていて、全員がそこでのストレッチと、衛生兵によるマッサージを受ける手筈になっていた。
水に入ると、身体がほとんど抵抗なく浮いた。手足を動かすたびに水面が大きくゆっくりとうねり、いつまでも収まらない。筋肉を伸ばすと、ふくらはぎと背中の張りがほどけていくのがはっきり分かった。
あちこちで、ベテランたちの安堵の息が漏れている。
「これだよこれ、これが身体の本来の居場所だ」
「二日分の借りが、これで全部返ってきたな」
昨日舌打ちをしていた曹長格の男も、水面に仰向けになって、目を閉じたまま笑っていた。
「勲章をお持ちの中尉殿、いかがです、宇宙は」
声をかけられ、思わず苦笑が漏れる。
「……気持ちいいです。宇宙に帰ってきたみたいで」
「でしょうな。三日に一度でも、こういう日がなければやっておれません」
プールを上がると、マッサージ台で衛生兵が脚を揉みほぐしてくれた。数値を確認しながら、感心したように言う。
「バイタルはきれいですね、中尉。心拍も血圧も、初日から全然乱れていません」
台に横たわって天井を見上げていると、身体が一つ残らず緩んでいくのが分かった。宇宙の感覚が、水と低重力に溶けて戻ってくる。それがたまらなく心地よかった。
だからこそ、背筋が冷えた。
この三日間で身体が受けた負荷は、機体に乗っていた時間を合わせても、ルウムの一度の出撃より軽い。そこへ0.1Gの休息が挟まれれば、身体はまた宇宙の側へ基準を戻してしまう。二十日かけて1.3Gまで上げると教官は言った。それでも突入時は4から5Gで、地上に降りれば、1.0Gの中で機動と衝撃が入り混じる。その切り替わりのたびに、身体の感覚は狂う。ルウムで通用した狙いも回避も、身体が返してくる感覚を信じていたからできたことだ。その感覚が一度でもずれれば、そこから先はすべてずれる。
このぬるさのままでは、実戦の高Gの変化に晒された時、必ずブレが出る。そうとしか思えなかった。
衛生兵の手が止まった。
「中尉、脈が少し上がりましたね。何か気になることでも?」
「……いえ、大丈夫です」
そう答えながら、頭の中ではもう、誰に何を言うべきかが組み上がりつつあった。
夕食を終えたあと、格納庫でJ型の点検記録をまとめている教官のもとへ足を運んだ。事情を話すと、教官は手を止めないまま聞き、最後にペンを置いた。
「体のことは軍医長の管轄だ。こちらの口から許可は出せん」
それだけ言うと、教官は立ち上がった。
「ついて来い。医者には自分の口で言え」
軍医長の部屋は、格納庫棟の奥の医務区画にあった。五十がらみで、眼鏡の奥の目が鋭い。壁一面の画面には、参加者全員のバイタルの記録が並んでいる。
「お時間をいただけませんか。お願いがあります」
「聞くだけ聞こう」
「全体の進行とは別に、負荷を上げた居残りの訓練を受けさせていただけないでしょうか。今のメニューのままでは、地上に出た時の重力の変化に身体が追いつかない、そう感じています」
「却下だ」
即答だった。
「始めたばかりの若造に高負荷を許す医者はいない。血管は根性では太くならん。勲章があろうが同じだ。焦るな」
「焦りではありません。この三日のバイタルを、見ていただけませんか」
軍医長の眉が動いた。画面の一つを引き寄せ、しばらく数値を追う。
「……確かに、余力を示してはいるな」
眼鏡を押し上げて、軍医長は続けた。
「だが医者の目から見れば、余力のあるうちに上げるのが一番危ない。余力を使い切った人間は自分で止まる。余力のある人間は止まらずに倒れる」
「倒れるなら、ここで倒れたいです。地上で倒れれば、一人の問題では済みません」
部屋が静まった。入口の脇で腕を組んでいた教官が、低い声で口を開く。
「軍医長。この男は、甘く見てここへ来たわけではありません」
軍医長は長く息を吐いた。しばらく画面とこちらを交互に見てから、ようやく口を開く。
「……条件を四つ付ける。一つでも破ったら、その場で打ち切る」
「はい」
「一つ、私か軍医官の立ち会いがない時は、一切やらせない。強制停止は私が判断する。異議は認めん」
「はい」
「二つ、負荷は段階的に上げる。上げ幅は私が決める、勝手に増やすな。高負荷の日の翌日は必ず休息、その次の日は回復に充てる。この順序は崩さん」
「はい」
「三つ、睡眠と食事と水分は私の指示通りにしろ。居残りは就寝の二時間前には終える。薬は使わん、使わずに済ますのがこちらの仕事だ」
「はい」
「四つ、身体の違和感は些細なものでも隠さず申告しろ。隠し事や嘘が一度でもあれば、その場で終わりだ」
軍医長は、ゆっくりと目を上げた。
「以上だ。承諾するか」
「承知しました。よろしくお願いします」
「礼はいらん。預かるのは身体だけだ。開始は明日、皆の訓練が終わったあと、1.2Gからだ」
廊下に出ると、教官が壁際で待っていた。
「自分から負荷を上げてくれと言いに来た奴は、初めて見た」
返す言葉が見つからず、黙って頭を下げた。教官は小さく鼻を鳴らした。
「甘く見た奴が後半で音を上げると言ったが、あれは撤回せん。志願者だろうが勲章持ちだろうが、音を上げる時は上げる。そのつもりで行け」
「はい」
自室に戻り、寝台に横になった。天井の向こうで、コロニーの回転音がかすかに低く鳴っている。
明日から、1.2G。ほんの二割の違いが、どんな重さで返ってくるのか。想像はつかなかった。ただ、昼間の心地よい浮遊感の記憶とは、もう別の場所に立っているような気がした。
目を閉じる。灰色のJ型の座席が、暗闇の中でぼんやりと浮かんだ。
四日目の朝、食堂に入ると、空気が昨日までと微妙に違っていた。卓ごとの話し声が、こちらの姿を認めた途端にわずかに低くなる。昨夜、軍医長の部屋に呼ばれたことが、誰かの耳に入ったらしい。
トレイを受け取って席を探していると、曹長格の男が手を上げた。
「中尉殿、こちらへどうぞ。空いております」
向かいに座ると、男は声をひそめた。
「噂を耳にしました。居残りの訓練を志願されたとか」
「……耳が早いですね」
「軍医長のところへ自分から出向く志願者は、この二百名の中にも一人もおりません。よほどの物好きか、よほどの自信家か、と皆で話しておりました」
男は口元だけで笑い、それから少し真顔になった。
「自分は前者だと思っておりますが」
「物好き、で構いません」
そう答えると、男は「では、せいぜい倒れないでください」と言って、パンをちぎった。皮肉のようでいて、言葉の底にどこか妙な温度がある。周囲の卓から向けられる視線には、羨望とも呆れともつかないものが混じっていたが、昨日までの値踏みとは少し違っていた。
午前の全体訓練は、実機による不整地の走破だった。訓練区画の一角に、土砂と岩、緩い傾斜と段差を組み合わせたコースが造られている。二日目にシミュレーターで繰り返した泥濘や砂丘を、今度は本物の機体で踏むことになる。
ペダルを踏み込み、J型が最初の傾斜に足を掛ける。シミュレーターと違って、足裏から返ってくる感触があった。土が崩れて機体がわずかに沈み、踏み込みを浅く戻して、次の一歩を岩の平らな面に置く。傾斜を登り切ると、下りの段差が待っていた。降りる時ほど、身体を下へ引く力が強くなる。バーニアを吹かして減速したくなる衝動を抑え、踏み込みだけで着地の衝撃を殺していく。
コースは思っていたより手強く、あちこちで機体が足を取られていた。それでも、頭で補える範囲のうちは、どうにか走り切れる。この重さがあと二割増えた時に、同じ補い方が通用するのか。そこはまだ分からなかった。
全機が走破を終えたあと、教官が全員を集めて言った。
「今日のところは、まだ重力に合わせて身体を動かしている段階だ。重力を意識せずに動けるようになって初めて、次の段階に進める。焦るな」
その言葉が、昨夜の軍医長の声と重なって聞こえた。
夕食のあと、軍医長に指定されたのは、訓練区画の一角にある小さな格納庫だった。今夜のために、この区画だけ内壁の回転数を引き上げてあるのだという。中央にはJ型が一機、灰色の装甲を照明に鈍く光らせていた。傍らには軍医長と軍医官、それに昨日プールでマッサージをしてくれた衛生兵が控えている。
「来たな。まず聞かせてもらおう。昨夜の条件を、復唱しろ」
「はい。一つ、軍医長か軍医官の立ち会いがない時はやらないこと。強制停止には異議を唱えないこと」
「続けろ」
「二つ、負荷は段階的に上げ、上げ幅は軍医長が決めること。高負荷の日の翌日は休息、その次の日は回復にあてること。三つ、睡眠と食事と水分は指示通りにすること。居残りは就寝の二時間前に終えること。四つ、身体の違和感は些細なものでも隠さず申告すること」
「よし。忘れていないなら、それでいい」
衛生兵の手で、胸と首筋、手首に細いセンサーが取り付けられていく。冷たい感触が肌に触れるたび、心拍と血圧を映す画面の波形が小さく跳ねた。軍医官が、その数値を一つずつ声に出して確認していく。
「心拍、六十八。血圧、正常範囲。血中酸素、異常なし」
「今夜の目標は五分だ」
軍医長が、画面から目を離さないまま言った。
「五分で必ず止める。途中で数値が一つでも危険域に触れれば、その場で止める。こちらの判断が優先だ。それでいいな」
「承知しました」
「もう一つ。身体が何かおかしいと思ったら、五分を待たずに言え。我慢を武勇と勘違いする奴は、この仕事に向かん」
「はい」
タラップを上がり、コクピットに身を沈める。S型に使われる良品の座席が、背中全体をしっかりと受け止めた。シートベルトを締め、操縦桿とフットペダルの位置を確かめる。ハッチが閉じる直前、下から軍医長の声が届いた。
「通信は開いておく。妙な感覚があれば、すぐに言え」
ハッチが閉じ、外の音が遠ざかった。計器の照明だけが、暗い操縦席を淡く照らす。
やがて、軍医官の声が通信に入った。
「回転数を上げます。1.0Gから、1.2Gまで。ゆっくり上げていきます」
低い唸りが、床と座席の底から伝わってきた。座席が、背中をゆっくりと押し返してくる。ほんの二割。そのはずの重さが、身体の芯にじわりと染みてきた。
計器の隅で、重力を示す数値が、静かに1.2Gへと近づいていった。
最初の一分は、思っていたほど悪くなかった。
身体が座席に沈む感覚はある。ただ、機体を動かせないほどではない。軍医官の指示で操縦桿を握り、J型を一歩ずつ前へ進める。フットペダルを踏み込むたびに、着地の重さが1.0Gの時より一段深く足裏から返ってきた。
「一分経過。心拍、八十四」
二分目に入ると、腕が変わってきた。操縦桿を倒す動きに、水の中を押すような抵抗が加わる。旋回のために機体を振ると、戻す動きまで遅れる。首が、ヘルメットの重みを支えきれずにわずかに沈んだ。
「二分。心拍、九十六。血圧、上昇」
三分。呼吸が浅くなっていた。息を吸うたびに胸が重石を押し上げる感覚があり、吐く時は逆に胸が沈んで空気が抜けていかない。額に汗が滲む。歩行は続けたまま、足の運びだけを保つ。
「三分。心拍、百八」
四分に近づいたところで、視界の端がゆっくりと灰色に染まり始めた。計器の数値は見えているのに、その外側から暗いものが這い寄ってくる。通信のボタンを押した。
「……視界が、狭くなってきました」
「よく言った。数値は許容内だ。続けられるか」
軍医長の声は落ち着いていた。
「続けます」
「限界なら言え。我慢はいらん」
答えようとして、口が思うように動かないことに気づいた。灰色が中心へ向かって迫ってくる。計器の数字が、遠い。
「四分半。心拍、百二十。血圧、低下しています」
軍医官の声が、水の底から聞こえるように響いた。
五分まで、あと。
そこで、意識が途切れた。
気づくと、目の前に軍医長の顔があった。ハッチは開いていて、座席が少しだけ後ろに倒されている。口元には酸素のマスクが当てられていた。
「動くな。ゆっくり息をしろ」
言われるままに、深く息を吸う。頭の霧が、少しずつ晴れていった。何が起きたのかを理解するまで、数十秒かかった。
「……意識が、飛びましたか」
「四分五十秒だ。あと十秒足りなかったな」
軍医長は脈を取りながら、淡々と続けた。
「頭への血の巡りが追いつかなくなって、一時的に意識を失った。G-LOCだ。初回で失神まで引き出せたのは、収穫と言っていい。倒れた場所が、私の目の前だったこともな」
悔しさが、遅れてこみ上げてきた。ルウムでは一度も起きなかったことが、ここで起きた。
「悔しいか」
見透かしたように言われ、黙ってうなずく。
「その悔しさは、明日以降のために取っておけ。今夜のお前は、条件を一つも破っていない。視界の異変を、五分を待たずに申告した。それでいい。あれができない奴は、失神の前に止まれん」
衛生兵の手を借りて上半身を起こした。手足がまだ少し痺れていたが、数分もすると引いていった。軍医官が数値を読み上げ、軍医長が一つずつうなずく。
「今夜はここまでだ。明日は休息、何もするな。その次の日は回復にあてる。順序は崩さん」
「はい」
「それから、飯を食って水を飲め。しっかり寝ろ。それが今夜の最後の訓練だ」
自室へ戻る途中、廊下の窓から訓練区画の灯りが見えた。まだ整備員たちが、J型の点検を続けているのだろう。
寝台に横になり、目を閉じる。あの灰色の縁が、瞼の裏に残っていた。四分五十秒。次は、それを一秒でも伸ばす。
五日目は、完全な休息日だった。
朝の点呼のあと、軍医官が短く告げた。
「今日は訓練区画に入るな。歩き回るのも最小限にしろ。身体を休ませることも、訓練のうちだ」
言われるままに自室で過ごしたが、じっとしているだけの一日は、思っていたより長く感じられた。昨夜のG-LOCの感覚が、時折ふっと蘇る。灰色に染まっていく視界、遠くなる計器の音。あれを思い出すたびに、悔しさと同じ分量の、うっすらとした恐れが胸の奥に居座った。
午後、見舞いを兼ねて医務区画に顔を出すと、軍医長がちょうど巡回を終えたところだった。
「顔色は悪くないな」
「はい。今日は何もしていません」
「それでいい。今日ぐらいは、何もしないことに罪悪感を持つな」
軍医長はそう言うと、こちらの目をまっすぐ見た。
「昨夜のことだが」
「……申し訳ありません」
「詫びることは何もない。強いて言うなら、詫びるべきはこの身体を持って生まれてきた地球側の連中の理屈のほうだ」
冗談とも本気ともつかない口調に、思わず苦笑が漏れた。軍医長は珍しく、口の端をわずかに緩めた。
「明日は回復にあてる。高気圧酸素カプセルと、マッサージだ。三日で一巡り、それを三回繰り返して仕上げる。焦らずついて来い」
六日目は、朝から丸一日、回復にあてられた。
高気圧酸素カプセルという装置に、初めて身体を横たえた。密閉された狭い筒の中、周囲の気圧がゆっくりと上がっていく。耳の奥に圧がかかり、唾を飲み込んで抜く。装置の中は静かで、規則正しい機械音だけが響いていた。
「これで血中の酸素をいったん飽和させる。筋肉と血管の回復を早める処置だ」
衛生兵の説明を聞きながら目を閉じると、次第に身体の輪郭が薄れていくような感覚があった。眠っていたのか、ただぼんやりしていただけなのか、自分でもよく分からないまま一時間が過ぎた。
カプセルを出たあとは、昨日と同じ衛生兵によるマッサージだった。台の上で脚を揉まれながら、ふと尋ねてみた。
「昨夜のような失神は、この先も続くものでしょうか」
「人によりますが、初回が一番きついとよく言われます。二回目以降は、身体のほうが『こう来るぞ』と身構えるようになりますから」
衛生兵は手を止めず、淡々と続けた。
「ただ、身構えられるようになるまでの回数は、人それぞれです。中尉の場合は……」
「私の場合は?」
「バイタルの落ち方が、他の方より急でした。心拍と血圧が、ほぼ同時に崩れています。粘り強いというより、限界まで気づかずに踏ん張ってしまうタイプかもしれません」
その言葉が、妙に腑に落ちた。ルウムでも、限界の手前で止まるという発想自体が、頭になかった。
夕方、訓練区画の一角に呼ばれた。今日はここで、パッシブ――機体に乗らず、専用の傾斜座席にただ座って重力の変化に耐えるだけの試験があるのだという。軍医長が待っていた。
「今夜は1.3Gだ。動くことは何も求めない。ただ、座って耐えろ。目標は十五分」
座席は、機体の座席よりも角度が深く倒されていた。ベルトで固定され、頭の後ろにヘッドレストが当てられる。
「今回はG-LOCの対策も兼ねている。じっと座って耐えるだけの状態で、どこまで持つかを見ておきたい」
センサーが取り付けられ、軍医官の声が響いた。
「上げます。1.0Gから、1.3Gまで」
低い唸りとともに、身体が座席に押し付けられていく。1.2Gの時とは、明らかに質が違った。動いていないぶん、重さが逃げ場もなく胸の上に乗ってくる。息を吸うたびに、肺が押し戻されるように感じられた。
「五分。心拍、正常範囲内」
呼吸を意識して整えようとしたが、うまくいかなかった。吸っても、吸った気がしない。喉の奥が締まるような息苦しさが続いた。
「八分。少し呼吸が浅くなっていますね」
軍医官の声に、なんとか「大丈夫です」と絞り出す。声が、思ったより掠れていた。
十分を過ぎたあたりで、両手の先が痺れ始めた。指を握ろうとしても、力が入っているのかどうか自分でも分からない。
「十二分。継続できるか」
「……続けます」
残り三分。永遠のように長く感じられた。視界が灰色になることはなかったが、代わりに息苦しさがずっと居座り続けた。時間の感覚だけが、やけに引き伸ばされていた。
「十五分、経過。試験終了」
回転数が落ちていくのが分かると同時に、身体が一気に軽くなった。詰めていた息を、大きく吐き出す。胸の圧迫感が引いていくのを感じながら、目を閉じた。
「呼吸が浅くなった以外は、大きな異常なしだ」
軍医長の声が、頭の上から降ってきた。
「失神まではいかなかったが、楽ではなかったろう」
「はい……正直、長かったです」
「それでいい。今夜はここまでだ。明日からまた1.2Gに戻る。次は、五分の壁を越えることだけを考えろ」
自室に戻り、寝台に横たわる。まだ胸の奥に、あの息苦しさの余韻が残っていた。それでも、五日目の恐れよりは、何かが一段軽くなっているような気がした。
次は五分を、その次を、少しずつ伸ばしていく。今はまだ、その積み重ねしか見えていなかった。
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