機動戦士ガンダム ランダムウォーカー   作:うーまろー

29 / 29
第二十九話

 七日目の朝は、寝台から起き上がるまでに二度ほど息を整える必要があった。脚の付け根から背中にかけて、昨日までの重力がそのまま体の奥に居座っている。洗面台の前で顔を洗い、鏡の中の自分に「今夜だ」とだけ言い聞かせて、食堂へ向かった。

 

 この日の全体訓練は1.0Gの実機で、隊列を組んでの行軍と、腰の高さほどの段差の乗り越えだった。灰色のJ型は素直に足を運んでくれるが、段差の縁で片脚を上げた瞬間だけ、機体が下へ下へと引かれる感覚が戻ってくる。教官は今日も多くを語らず、「上げる時より、降ろす時を丁寧に」とだけ告げて、各機の着地音を一つずつ聞き分けていた。

 

 昼の休憩で、前日まで絡んできていた曹長格の男が向かいの席に腰を下ろした。

 

「中尉殿は夜になると医務棟にお通いだとか。おかげで我々は、中尉殿の顔色を見て今日の自分の限界を測れます」

 

「そんなものでお役に立てるなら、安いものです。ただ、あまり当てにしないでください。この顔、日によってひどいんですよ」

 

 男は喉の奥で笑い、それ以上は何も言わずに食事を続けた。値踏みの視線とは違う、同じ坂を登る者の気安さがそこにあった。

 

 その夜、訓練区画には軍医長と軍医官、衛生兵が揃っていた。前回、四分五十秒で意識を落とした場所である。座席に身を沈めると、背中全体を受け止めるバケットの硬さが、かえって心強かった。

 

「条件は覚えているな」

 

 軍医長の声が通信に乗る。

 

「四つとも、暗唱できます。夢の中でも言わされていますので」

 

「なら結構だ。今夜の目標は十分。前回の倍だ。不服はあるか」

 

「ありません。五分で落ちた身には、十分という数字がやけに遠く聞こえますが……不服はありません」

 

「よろしい。数字は私が見る。おまえは体の声を余さず言え」

 

 区画の回転がゆっくりと上がり、1.2Gに達した。血が脚のほうへ降りていく感覚に、前回の暗転が一瞬よぎる。視界の端に注意を向け、赤みも狭まりもないことを確かめて、ペダルに足を預けた。

 

「開始から三分。バイタル安定」

 

 軍医官の声は落ち着いていた。四分、四分半と時間が刻まれ、前回の失神の地点が、何事もなく背後へ流れていく。

 

「五分、通過」

 

 その一言を聞いた時、胸の奥で固く握っていた何かが、少しだけ緩んだ。だが緩めてはいけない、とすぐに思い直した。

 

 十分の通知が入ると、しばらく計器を見ていたらしい軍医長が言った。

 

「数字が悪くない。五分延ばす。ただし、私が止めろと言ったら、その瞬間に止まれ」

 

「止まります。止めろと言われたら、必ず」

 

 十二分を過ぎたあたりから、肺の奥が浅くなった。重い布を胸に載せられたようで、息を吸っても入りきらない感覚がある。条件の四つ目が頭をよぎり、迷わず口を開いた。

 

「胸が……詰まります。息が、入りきりません」

 

「息が浅くなっている。もっと大きく吸え」

 

 軍医官の指示に従い、大きく吸おうとした。だが吸えば吸うほど足りない気がして、息が速くなる。指先がじんじんと痺れはじめ、耳の奥で自分の脈が鳴った。

 

「心拍、百六十。上がっています」

 

 落ち着けと念じるほどに、呼吸は速くなった。視界は明るいまま、頭の中だけが警鐘のように騒がしい。

 

「百七十。中尉、聞こえるか、ゆっくり──」

 

「十五分だ、止める」

 

 軍医長の声に、異議を挟む余地はなかった。

 

「百八十を超えました。強制停止に入ります」

 

 機体の駆動音が落ち、コックピットの照明が非常灯の色に変わる。外殻が開くと、衛生兵の腕が肩を掴んだ。

 

「吐いて。吐く息だけ、ゆっくり」

 

 言われるままに細く長く吐き出した。二度、三度と繰り返すうちに、指先の痺れが薄れ、耳鳴りが遠のいていく。

 

 医務棟の寝台に横たわったところへ、軍医長が入ってきた。

 

「五分の壁は越えた。それは事実だ」

 

 悔しさが顔に出ていたのだろう、軍医長はそう前置きをした。

 

「だが今夜の悲鳴は、失神の時とは別物だ。体が足りないと騒いで、おまえは息を増やそうとした。増やすほど悪くなる。吸うな、吐け」

 

「吐く、ですか。吸わないと足りない気がして、つい吸ってしまうんですが」

 

「明日は休息日だ。体は休ませる。ただし頭は使え。軍医官に呼吸のことを叩き込ませる」

 

 天井を見つめながら、姉さんの病室で聞いてきた、規則正しい寝息を思い出していた。数を数えるように静かで、乱れがなかった。あの落ち着きを、自分の体にも作らなければならない。

 

 八日目は、午前のうちにたっぷり眠り、食事を摂った。午後に軍医官が訪れ、寝台の脇に椅子を引いて座った。

 

「吸って三つ、吐いて六つ。吐き切ってから吸います。腹の底を使うんです、胸ではなく」

 

 言われたとおりに数えてみると、最初は退屈なほど単純で、それゆえに難しかった。吐き切る前に吸いたくなる。その衝動を数える声で押さえつけると、心臓の音が少しずつ静かになっていった。

 

 夕方には教官の手配で、座ったままの射撃調律シミュレーターに向かった。運動負荷のない静かな設定だが、引き金と操縦桿には圧力を拾うセンサーが仕込まれていて、画面には着弾のばらつきと並んで、握りの強さが波形になって流れている。散らばった着弾を見て、思わず眉を寄せた。ルウムの頃の精密な狙いには、まるで届いていない。

 

「握りが強い」

 

 背後で教官が言った。

 

「指だけじゃない。肩も背中も力んでいる。実機でも同じことが起きているはずだ。自分で思っているより、ずっと抜け。抜いたと思ってから、もう一段抜くくらいでちょうどいい」

 

「そこまで、ですか」

 

「頭で加減しようとするな。その波形を見ろ。波形が下がる感触を、指に覚えさせるんだ」

 

 言われたとおり抜いたつもりで引いたが、波形はほとんど動かなかった。もう一段、指を添えるだけの気持ちで引く。今度は着弾が外へ流れた。抜きすぎたのだ。強くても外れ、弱くても外れる。何度も往復するうちに、着弾が最も中心に寄る握りの強さが、波形の高さとして目に見えてきた。いつもの握りの、およそ七割だった。

 

「……ほとんど触っていないような感覚です。これで、いいんですか」

 

「その触っていない感じを、覚えておけ」

 

 力みが指先だけでなく、呼吸にも出ていたのだと、その時になってようやく腑に落ちた。限界の手前で気づかずに踏ん張ってしまう。あの衛生兵の言葉は、正しかったのだ。

 

 九日目は、高気圧酸素カプセルと全身のマッサージに時間を費やした。体の芯に溜まっていた重さが、少しずつほどけていく。そして夕方、機体に乗らず座席だけで1.3Gに耐えるパッシブ試験の時間になった。

 

「目標は十五分だ。数えろ。数えている間は、余計なことを考えずに済む」

 

 軍医長の声を聞きながら、座席に沈み、静かに息を吐いた。吸って三つ、吐いて六つ。三分、五分、八分。胸の詰まりが顔を出しかけるたび、吐く息をさらに長く引き伸ばして、その芽を摘んだ。腹の底に置いた意識が、呼吸を支える錨のように働いていた。

 

「十五分。終了」

 

 通知を聞いた時、指先に痺れはなく、視界も澄んでいた。息を吐く音だけが、静かな区画に響いた。

 

「よし」

 

 軍医長は短く言い、記録を閉じた。

 

「明日からまた1.2Gに戻る。目標は二十分だ。数え方は忘れるな」

 

「はい。悔しいですが、今夜は収穫もありました。次は、数えます」

 

 返事をしながら、これから数えるべきものが、時間から息へと変わったことを実感していた。地球の重さは、まだずっと先にあった。

 

 十日目、全体訓練の重力が1.1Gに引き上げられた。わずかな差のはずが、格納庫に並ぶベテランたちの顔から朝の軽口が消えている。歩行だけの課題でも、機体を止める時の脚の運びは、誰もが慎重になっていた。

 

「中尉殿は、夜にはこれ以上に乗っていらっしゃるのでしょう。それで涼しいお顔とは、恐れ入ります」

 

 昼の食堂で、あの曹長格の男が盆を置きながら言った。

 

「涼しくなんてありません。中身は毎回、大騒ぎです。顔に出にくいだけで」

 

「それは、いちばん厄介なやつですな」

 

 男は笑ったが、目は冗談だけではなかった。顔に出にくい、という言葉が、衛生兵の分析と重なって胸に残った。

 

 夜、区画に入ると、軍医長はすでに計器の前に立っていた。

 

「今夜の目標は二十分だ。数え方は」

 

「吸って三つ、吐いて六つ。腹の底です。今夜は胸を主役にしません」

 

「よし。乗れ」

 

 1.2Gに達した瞬間、血が脚のほうへ降りていく。もう驚かなかった。三つ吸い、六つ吐く。その繰り返しに意識を沈めると、胸の詰まりは顔を出す前に霧散していった。五分、十分と時間が過ぎ、前回の壁だった十五分が、あっけなく背後へ流れた。

 

「心拍、百二十台。安定しています」

 

 軍医官の声を聞きながら、ただ数え続けた。

 

「二十分、通過」

 

「五分延ばす」

 

 軍医長の声が続く。

 

「はい。……五分ですね。数えます」

 

 二十四分頃、胸の中で一拍、抜けるような感覚があった。息は乱れていない。だが確かに、心臓が何かを取り落とした。

 

「今、心臓が……一拍、飛びました。息は乱れていません」

 

「期外収縮を確認。単発です」

 

 軍医官の報告に、短い沈黙が挟まった。

 

「あと一分見る」

 

 軍医長の判断を待ちながら、息を数えた。一つ、二つ、三つ。吐いて、一つ、二つ。二十五分に達した時、また胸の奥で拍がずれた。一度、二度と続いた。

 

「連発です」

 

「止める」

 

 駆動音が落ち、非常灯に切り替わる。外殻が開くと、衛生兵が脈を取りながら肩を支えた。呼吸は保てていた。乱れたのは息ではなく、心臓のほうだった。

 

 医務棟の寝台で、軍医長は心電図の紙を眺めてから口を開いた。

 

「悲鳴の種類が変わったな。息の次は心臓だ。血管も心臓も、この重さを覚えるのに追いつかない。二十日で通そうというのが、そもそも無茶なのだ」

 

「はい。無茶なのは承知しています。それでも、やらせてください」

 

「言われなくてもやる。私も、やると決めた」

 

「……ありがとうございます」

 

「礼は早い。おまえの体は、私が預かった。私が、おまえを地球仕様のバケモノにしてやる」

 

 軍医長はそう言い残して部屋を出ていった。翌朝からは、通常より長く体を沈める超回復用のカプセルが用意されていた。高気圧酸素と脚部の圧迫、体温の管理を重ねた特別な設定で、軍医官が隣に張りついて心電図の帯を見守った。

 

 十一日目は、ほとんど眠って終わった。夕方に教官が顔を出し、寝台の脇で短く言った。

 

「二十五分だそうだな。全体の誰よりも先を行っている。だからこそ言っておく。これは早さを競う訓練じゃない。体が覚えるのを待て。焦るな」

 

「はい。焦りそうになったら、数えます」

 

 そう答えながら、姉さんの寝息を思い出していた。焦らない呼吸というものを、あの寝息はずっと教えてくれていたのかもしれない。

 

 十二日目は、マッサージと軽い歩行だけで午前を過ごした。夕方、座席だけで1.3Gに耐えるパッシブ試験の時間になった。

 

「目標は二十分だ。数えろ」

 

 軍医長の声に合わせて、静かに息を吐いた。吸って三つ、吐いて六つ。1.3Gの重さは、前回よりも確かに輪郭がはっきりしていた。胸に載る重みは変わらないのに、その重みの下で息をする場所を、体が見つけている。二十分の間、警報は一度も鳴らなかった。数えた息は百三十回あまりになった。

 

「二十分。異常なしだ」

 

 軍医官の声に、軍医長が小さく頷いた。

 

「心臓が追いついてきたな。明日は実機を1.3Gに載せる。二十分だ。乗れるな」

 

「乗ります。心臓にも、そう言い聞かせておきます」

 

 宇宙で覚えた体が、少しずつ地球の重さを覚えはじめていた。

 

 十三日目の夜、灰色のJ型はいつもの区画で待っていた。今夜は座席だけでなく、機体ごと1.3Gの中に立つ。

 

 軍医長は条件を短く確認しただけで、あとは何も足さなかった。

 

「目標は二十分。歩行と、ゆるい旋回まで。数えろ」

 

「はい。今夜は、歩くところから丁寧にいきます」

 

 回転が上がり、1.3Gに達する。機体を支える脚部の関節から、床へ向かう重みが伝わってきた。ペダルを踏む足に、思っていたよりも力が入っている。射撃調律で覚えた「触っていないような抜き加減」を思い出して踏み込みを浅くすると、J型は素直に一歩を運んだ。操縦桿を倒す指も、握り込まずに添えるだけにすると、旋回は滑らかに決まった。

 

 吸って三つ、吐いて六つ。歩き、曲がり、止まる。五分、十分と過ぎても、胸の詰まりも、脈の飛ぶ気配もない。十五分を越えた時、軍医官が言った。

 

「心拍百二十台、変動なし。不整脈の兆候もありません」

 

 二十分の通知が鳴るまで、警報は一度も入らなかった。

 

「二十分。異常なし。では、切り替える」

 

 軍医長の声と同時に、区画の回転が落ちはじめた。これまでは緩やかに戻されていた重力が、今夜は倍の速さで1.0Gへ下がっていく。血がふっと上へ戻る感覚に、視界の端が一瞬だけ白んだが、息を吐き切ると収まった。

 

「切り替えの速さを二倍にした。どうだ」

 

「一瞬だけ、視界が白みました。もう戻っています。……速いですね、倍は」

 

「よし。その申告でいい」

 

 十四日目、全体訓練の重力は1.2Gに上がった。昼の食堂で、曹長格の男が向かいに腰を下ろし、声をひそめて言った。

 

「中尉殿の数え方、真似させて頂いています。吸って三つ、吐いて六つ、でしたか」

 

「軍医官殿の受け売りです。私は借りただけで」

 

「受け売りでも、効きます。おかげで今日は、機体の中で意識が飛ばずに済みました」

 

 男は自分の胸のあたりを軽く叩いてみせた。数えるだけの単純な動作が、人から人へ渡っていく。その広がりを目の当たりにして、胸の奥がじんわりと温かくなった。ここに集められた二百人のベテランは、値踏みし合う相手ではない。やがて地球の重さの中で背中を預け合う、何より心強い味方になる。教えたというより、たまたま持っていた道具を貸しただけだが、それが誰かの支えになるのなら、これほど嬉しいことはなかった。

 

 その日は夜の居残りもなく、マッサージと眠りで終わった。

 

 十五日目の夕方、座席に身を沈めた。今日は1.5Gのパッシブ試験になる。

 

「目標は十五分だ。前より重い。視界に何か出たら、些細でも言え」

 

「わかりました。些細なことまで、拾って言います」

 

 1.5Gに達した瞬間、胸に載る重みの質が変わった。1.3Gが布だとすれば、これは板だった。息を吐こうとしても、胸郭がなかなか持ち上がらない。腹の底に意識を置き、吸って三つ、吐いて六つと数える。

 

 五分を過ぎたあたりで、視界の縁が赤く滲みはじめた。

 

「視界の縁が、赤く滲んできました」

 

「範囲は」

 

「まだ縁だけです。真ん中は、ちゃんと見えています」

 

「続ける。広がったら言え」

 

 赤みは縁で止まったまま、ゆっくりと脈打った。指先に痺れが来ないことを確かめ、吐く息を長く引き伸ばす。十分、十二分。赤みは広がらなかった。抗うというより、その赤みごと呼吸に載せて、通り過ぎるのを待った。

 

「十五分。終了だ」

 

 通知の声で、ようやく肩の力が抜けた。赤みは薄れ、天井の照明が白く戻ってくる。

 

「初めての1.5Gで十五分か」

 

 軍医長は記録を眺めながら、独り言のように言った。

 

「明日からは、1.3Gの実機で模擬戦を入れる。覚悟しておけ」

 

「はい。覚悟しておきます。……少し、楽しみでもあります」

 

 答えながら、姉さんのことを思った。数えた息の数だけ、目を覚ました時に話せることが増えている気がした。

 

 十六日目の夜、区画には灰色のJ型と並んで、もう一機のJ型が立っていた。教官が自ら乗り込むのだという。

 

「今夜は模擬戦だ。1.3G、時間は二十分。弾は模擬弾だが、動きは本物でやる」

 

「わかりました。判定は、どう取りますか」

 

「胴か頭部に当たれば一つ。時間内の総数で決める。バイタルは軍医長たちが見ている。心拍が百四十を超えたら、軍医長の判断で中断だ。おまえは体の違和感を言え」

 

「はい。違和感は、些細なことでも言います」

 

 二十メートルほど離れて向かい合い、開始の合図が鳴った。前へ出たがる体を、数える声で押しとどめる。1.3Gの中では、宇宙のように一息で間合いを詰めることも、詰めた間合いから一息で離れることもできない。踏み込みを一つ誤れば、機体は重みに引かれて前へのめり、立て直す間に的になる。ペダルの踏み込みを浅く抑え、脚で加速を作りながら、横へ回り込んだ。

 

 先に射線を取ったのは教官だった。大きな図体でありながら、重心の低い運びで無駄なく角度を詰めてくる。右腕で応じようとした瞬間、照準がずるりと流れた。操縦桿を振って止めても、J型のOSは遅れて慣性を打ち消しにかかる。その打ち消しが、1.3Gでは遅く、余計に長く効いてくる。狙いが的を通り越したところへ、模擬弾が胴に入った。

 

「一つ」

 

 教官の声は淡々としていた。

 

「心拍百三十。範囲内です」

 

 軍医官の声が通信に重なる。息が上がりかけていた。三つ吸い、六つ吐く拍が崩れ、戦いのテンポに呼吸が引きずられている。慌てて、撃つ瞬間に吐く息を合わせることだけを決めた。狙う時は吐く。動く時は吐く。息の拍を戦いに合わせるのではなく、戦いの中に息の拍を作る。

 

 それから何度も外した。腕を振り、止め、照準が流れ、また外す。四度目か五度目に、流れる量に法則があることに気づいた。止めてから補正が抜けるまで、吐く息一つ分ほど遅れている。その遅れを、操縦桿を止める前に半分だけ戻すことで先に殺せば、照準は的の上で止まる。補正を鵜呑みにするな、という初日の言葉の意味が、ようやく手の中に入ってきた。

 

 中盤、教官のJ型が急に足を止めた。三十メートルの距離で、隙だらけの立ち姿を晒している。誘いだと分かっていた。それでも、宇宙で染みついた一撃離脱の癖が、踏み込めと囁いた。踏めば当てられるかもしれない。だが当てた後、この重さの中で離脱する脚は、今のJ型にはない。一歩を踏みかけたペダルを戻し、横へ流れた。直後、教官の機体が想像より速く前へ出て、さっきまでいた空間を模擬弾が貫いた。

 

「よく止まった」

 

 教官の声に、余韻はなかった。

 

 流れた先で、右腕を先に半分戻したまま構えた。吐く息と引き金を揃える。模擬弾は教官の胴に入った。

 

「一つ」

 

 初めて自分の声で、判定を告げた。だが直後に、膝の落ちを突かれて二つ目を取られた。終盤にもう一つ返したものの、最後の一瞬に三つ目を奪われ、そこで時間切れの合図が鳴った。

 

「判定は三対二。私の勝ちだ」

 

「はい。負けました。悔しいですが、面白かったです」

 

「右腕を掴んだな。補正が乗る癖を、先に殺している」

 

「まだ一歩、遅れています。その一歩が、遠いです」

 

「一歩の遅れなら、明日には半歩だ」

 

 軍医長の声が、通信の向こうで付け加えた。

 

「最大心拍、百三十八。範囲内だ。息の拍が戻ってからは安定していた」

 

 数えていたのは、時間でも息でもなく、いつの間にか戦いの拍に変わっていた。

 

 十七日目は、体を休める日だった。ただし午後、座ったままのシミュレーターで、1.0Gの調律に取りかかった。高いGの中で覚えた操作量のまま、重力を1.0Gに戻すと、旋回が行き過ぎる。画面の照準が的を通り越すたびに、教官が短く言った。

 

「体が覚えた癖を、そのまま持ち込むな。重い時の癖と、軽い時の癖は別に持て」

 

 1.3G用と、1.0G用。二つの操作量を、頭の中で別々の引き出しにしまう。通り越し、通り越し、戻し、戻し。何度目かに、照準が的の中心で、ぴたりと止まった。二度、三度と続けても、行き過ぎはなかった。高い重力用と、普通の重力用。二つの動かし方が、ようやく別々の道具になった。

 

 十八日目の夕方、座席に身を沈めた。今日は1.5Gのパッシブ試験で、目標は三十分だった。教官も軍医長の隣に立っている。

 

「重さは前と同じだ。時間だけが延びる。数えろ」

 

「はい。数えます」

 

 1.5Gに達し、腹の底に意識を置いて、吸って三つ、吐いて六つと数えはじめた。五分を過ぎて視界の縁が赤く滲んだが、それは前回で知っている赤みだった。広がらないことを確かめ、申告して、ただ数え続けた。

 

 十分、十五分。苦しさは単調に居座り続けたが、乱れはしなかった。二十分を過ぎると、数を数えているのか、数に運ばれているのか、区別がつかなくなってきた。二十五分。指先の痺れはなかった。二十八分、二十九分。

 

「三十分。終了だ」

 

 通知の声で息を吐き切ると、赤みが引いていった。

 

 軍医長も教官も、しばらく何も言わなかった。記録を閉じる音だけが、静かな区画に響いた。

 

「……文句のつけようがないな」

 

 先に口を開いたのは教官だった。

 

 軍医長は記録の束を軽く叩いた。

 

「バイタルは終始安定していた。期外収縮を出した夜の心電図を、見せてやりたいくらいだ」

 

「明日は最終の射撃調整だ。二日で仕上げる」

 

「はい。今夜はよく眠れそうです」

 

 座席の背が、いつもより優しく体を受け止めているように感じた。

 

 十九日目の朝は、医務棟の検診から始まった。心電図、血圧、血中の酸素量、握力。軍医官は数値を一つずつ読み上げ、最後に顔を上げた。

 

「全項目、正常値です。疲労も、ほぼ抜けています」

 

「ほぼ、ですか。あと一歩というところですね」

 

「完全に抜ける人間はいません。ですが、今の状態が今回の訓練で最良の数値です」

 

 午後は、1.0Gの実機で最終の射撃調整に入った。標的は遠く、風のない区画に一列に並んでいる。教官と軍医長は、少し離れた位置から見守っていた。

 

 射撃調律で覚えた抜き加減、補正を先に殺す操縦桿の戻し、そして吐く息と引き金を揃える呼吸。三つを頭の中で順に確かめながら、構えた。1.0Gは、この二十日近くで最も軽い重さのはずなのに、体はそれを軽いとは受け取らなかった。高いGの癖を、引き出しにしまう。普通の重力の癖を、取り出す。

 

 息を吐く。引き金が落ちる。

 

 最初の着弾は、標的の中心から指一本分ずれた。二発目、三発目とすぐに一点へ収束していく。十発撃つ頃には、着弾の群れが、拳ほどの大きさに収まっていた。画面に映るブレ幅の数値は、ゼロに限りなく近い。

 

「ルウムの頃の狙いに戻ったか」

 

 教官の声に、少し考えてから答えた。

 

「戻ったのではありません。あの頃より、一つ多く持っています」

 

「一つ多く、か」

 

「高い重さの中でも、狙いを保つやり方です。あの頃は、それを知りませんでした」

 

 教官は短く笑い、それ以上は何も言わなかった。

 

 二十日目は、整備班との打ち合わせから始まった。灰色のJ型を前に、整備班長が地上仕様のパラメータを読み上げていく。足回りの剛性、冷却の余裕、OSの慣性補正の遅れ値。その最後の項目で、口を挟んだ。

 

「補正の遅れですが、吐く息一つ分ほどあるんです。1.3Gだと、それが長く効きます。私は腕を止める前に半分戻して凌いでいますが、最初から遅れ値を詰めてもらえれば、だいぶ楽になります。……変な単位で、すみません」

 

 整備班長は目を丸くして手を止め、それから紙に何かを書きつけた。

 

「息一つ分、か。妙な単位だが、言いたいことは分かる。試してみよう」

 

 午後、医務棟の一室に、軍医長と軍医官、教官が揃った。壁には二十日分の記録が貼り出されている。四分五十秒で意識を落とした夜の記録、七日目の過呼吸、十日目の心電図。それが、日を追うごとに、なだらかな線へ変わっていく。

 

「修了だ」

 

 最初に言ったのは、教官だった。

 

「二十日で、ここまで来るとは思っていなかった」

 

「一度は、心臓に本気で怒られましたから。皆様が付き合ってくださったおかげです」

 

「礼はいい。本番で使え」

 

 軍医長は記録から目を離さずに言った。

 

「数え方は忘れるな。苦しくなったら、吸うな、吐け。それだけだ」

 

「はい。苦しくなったら、吐きます。……吸いたくなるでしょうけど」

 

「先ほど、移動命令が届いた。今夜のうちに発つ。艦の中では、何もせず休め。それも仕事のうちだ」

 

「もう、今夜ですか。……皆様に診ていただいたこの体で行けるのは、心強いです。艦の中では、ちゃんと休みます。寝るのは、案外得意なんです」

 

 部屋を出る間際、軍医官が小さな紙片を差し出した。吸って三つ、吐いて六つ。走り書きの数字の下に、もう一行、短い言葉が添えてあった。

 

 廊下の窓の向こうで、灰色のJ型が整備班の手で、輸送艦へ向かう搬出台に載せられていくところだった。数えるのは時間でも息でもなく、もう、自分のいる場所そのものだった。先にあった地球の重さは、手を伸ばせば届くところまで来ていた。




今後とも本作をよろしくお願いいたします。
(※よろしければ、お気に入り登録や評価☆をポチッとお願いします!)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

朱き蜉蝣の残光(作者:ゆのじさん)(原作:ガンダム)

※※作るにあたりAIを多分に使用しています。※※▼デラーズ紛争を生き延びたシーマ・ガラハウと、その艦隊。▼戦いの果てに彼女たちが辿り着いたのは、宇宙世紀ではない、別の歴史を歩む世界だった。▼知らないMS。知らない技術。知らない戦争。▼そして、この世界にもまた、利用される者と、利用する者がいる。▼帰る方法はない。▼ならば、生きるしかない。▼やがて彼女たちは、こ…


総合評価:351/評価:8.12/連載:65話/更新日時:2026年10月08日(木) 23:53 小説情報

【機動戦士ガンダム】七色の新星ガルマ・ザビ(作者:おかかと梅干)(原作:ガンダム)

若きガルマ・ザビは、肉体を失った後に後悔を重ねそして気付いた。自分がやるべきであった事を。▼─イセリナを幸せにする▼ただそれだけの為に彼は再び目覚める。▼思いをかなえるため、シャア・アズナブルを巻き込みジオンの改革を始める。▼国家としてのジオンと歪められたジオニズムを、2人の若者が改革をしていく。▼改革の中心者となったガルマの下には7人の英雄が集う。▼彼らを…


総合評価:71/評価:-.--/連載:11話/更新日時:2026年10月10日(土) 17:07 小説情報

毛利探偵の事件簿(作者:オッパッピー)(原作:名探偵コナン)

もしも毛利小五郎が有能な探偵だったらというif話。▼江戸川コナンになったばかりの工藤新一が、毛利小五郎を利用するのではなく徐々に信頼して相棒になる展開です。▼トリックに関しては、はっきりと書かない方針です。▼【挿絵表示】▼


総合評価:83/評価:-.--/連載:1話/更新日時:2026年07月05日(日) 23:29 小説情報

シンフォギアの世界にウィッチクラフトのロリババアに転生した。(作者:のうち)(原作:戦姫絶唱シンフォギア)

ウィッチクラフトマスターヴェールことマギストス・ヴェール・サンドリヨンに転生した主人公がシンフォギアの世界で色々と頑張る話。


総合評価:211/評価:8.75/連載:35話/更新日時:2026年08月30日(日) 11:35 小説情報

ポケモンTS転生〜リーフは原作を忘れかけている(作者:はらへりニャンコ)(原作:ポケットモンスター)

ポケモン世界に憑依(?)転生した、とある人間のお話▼…リーフはアニメキャラじゃないし、憑依って言っていいのかな?▼そもそもこの世界はアニポケなの?▼何もわからないまま、リーフは今日も冒険する▼※この作品はChat GPTを使って執筆しております


総合評価:285/評価:7.86/連載:36話/更新日時:2026年10月10日(土) 18:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>