出発は、その夜のうちだった。搬出台の灯りは、訓練区画の照明よりも白く、鋭かった。クレーンのアームに支えられたJ型が、灰色の装甲に光を滑らせながら、ゆっくりと艦の貨物区画へ運ばれていく。その脚部の傍らで、整備班長が最後にもう一度、膝の関節を拳で叩き、耳を寄せるようにして音を確かめていた。油の染みた手袋の指が、継ぎ目を一つずつなぞっていく。
「補正の遅れ値、詰めておいた。吐く息一つ分、だったな」
「覚えていてくださったんですか」
「あんな妙な単位、忘れろと言われても無理だ。数字で言えと何度思ったか知れんが、お前さんの言い方のほうが、結局は整備の頭に残る」
班長は脚部の装甲を、もう一度、掌でなでた。
「向こうで試して、ずれていたら言ってくれ。通信でも何でも構わん。機体は、嘘をつかんからな」
「はい。必ず報告します。ありがとうございました」
班長は返事の代わりに片手を上げ、それきり振り向かなかった。その背中が貨物区画の扉の向こうへ消えるまで、見送った。二十日のあいだ、毎朝この人の手で整えられた機体に乗ってきたのだと、今になって気づいた。
輸送艦の舷門をくぐると、金属と古い空気、それに大勢の人間が積み重ねた匂いが鼻をついた。通路は荷を抱えた兵で詰まっていて、壁の手すりを伝いながら、流れに乗って進むしかない。背後から声をかけられたのは、そのときだった。
「同じ艦でしたか、中尉殿」
振り向くと、曹長格の男が、荷を肩に担いで笑っていた。勲章は役に立たない、と絡んできた初日の尖った目つきは、もうどこにもなかった。
「そうらしいですね。降りる前に、また呼吸の練習を一緒にしましょう」
「それは頼もしい。自分も、もう少し身につけておきます」
出港して間もなく、艦内放送に名を呼ばれた。指定された士官室は、狭く、飾り気のない部屋だった。壁に固定された机の向こうで、実証試験局の連絡将校と名乗る大尉が、書類の角を揃えながら待っていた。神経質そうな、よく動く指先だった。
「リオン・ワーカー中尉だな。辞令を渡す」
姿勢を正すと、大尉は紙面に目を落とし、一語ずつ区切るように読み上げた。
「リオン・ワーカー中尉。突撃機動軍、第1地上機動師団、陸戦兵器実証試験局、ガルム小隊長を命ずる」
その言葉を、耳は一度で受け取らなかった。小隊長。自分が、人に指示を出す側に立つ。ミロの背中を追いかけてきた日々は、そのためのものではなかったはずだ。追いかける側から、追われる側へ。足の置き場が急に変わったような感覚が、一拍遅れて胸に落ちてきた。
「……小隊長、ですか。私が」
「命令書には、そう書いてある」
返す言葉は、一つしかなかった。
「謹んで、拝命します」
「なお、小隊名はキシリア閣下直々の命名である。以上だ」
大尉は、それ以上の説明を加えなかった。
「小隊の残りの人員とは、降下前に顔を合わせることになる。詳細は、追って伝える。艦内では、休め。二十日の訓練の報告は、軍医長から届いている」
「……皆から、同じことを言われます」
「それだけ、休むのが下手に見えるのだろう」
大尉は口の端をわずかに動かし、書類を閉じた。笑ったのだと気づくまでに、少し間があった。
廊下に出て、手すりに掴まったまま、辞令書をもう一度読み返した。ガルム。聞き慣れない響きだった。灰狼の次は、ガルムか。それも、キシリア閣下が直々に。意味も知らずに受け取ったままでは、どうにも落ち着かなかった。部屋に戻る足取りがいつもより速いことに、自分でも少し可笑しくなった。
翌日は、軍医長の言いつけどおり、ほとんど眠って過ごした。寝台のベルトに身を預け、艦の低い駆動音を聞いているうちに、いつのまにか意識が落ちる。目を覚まして食事を摂り、また眠る。夢の中でも、吸って三つ、吐いて六つ、と数えていた気がする。体の奥に澱のように溜まっていた訓練の疲れが、眠るたびに、少しずつ薄れていくのがわかった。まどろみの合間に、灰狼隊の面々の顔が、思い出したように浮かんでは消えた。あの隊では、前にはミロの背中があり、後ろには姉さんの目があった。二人に挟まれて、与えられた役を果たしていればよかった。地上では、その背中を見せる側に回る。眠りの浅い底で、そのことだけが、小さな棘のように残っていた。夕方、ようやく頭が冴えてきて、艦の資料端末の前に身を固定した。
「ガルム」と打ち込む。
出てきたのは、北欧神話の項目だった。冥界の入り口にある洞窟を守る番犬。その胸元は血に染まり、世界の終わりの戦いでは吠え声を上げて、戦神テュールと相討ちになる。別の項には、フェンリルという巨大な狼と同一視する説がある、とも書き添えられていた。
フェンリル。辞令に添えられた書類の中に、その名の部隊があったはずだ。先に降りる第一次降下部隊の中に、フェンリル隊、と。
番犬か、とつぶやいた。攻め込む側の部隊に、守る獣の名を付けるのか。灰狼の面影を見たのか、それとも、別の意図があるのか。キシリア閣下の考えは、端末の中には書かれていなかった。
ただ、嫌な響きではなかった。門を守る犬。背に庇うものを持ち、そのために牙を剥く獣。ふと、姉さんのいる静かな病室が浮かんだ。白い天井と、規則正しい機械の音。あの扉の前に立つ番犬がいるのなら、せめてそれが自分であればいい。そう思った。
端末を閉じ、舷窓の向こうへ目をやった。暗い宙の先で、地球の縁が、わずかに青く光っている。明日には、軌道に着く。
翌朝、艦は地球の軌道に入った。
舷窓の向こうを、青い惑星がゆっくりと流れていく。映像では何度も見てきたはずなのに、この距離で見る地球は、輪郭の柔らかさがまるで違った。雲の渦、深い海の青、薄く透きとおった大気の縁。窓際には、手すりに掴まった兵が何人も集まっていたが、誰も多くを語らなかった。若い兵の一人が「綺麗だな」とつぶやき、隣の兵が「降りたら、そうも言っていられない」と低く返した。人類が生まれた星。自分たちは、その星を知らずに育った。あの薄い縁を突き破る降下のあいだ、4から5Gが体にのしかかる。それを抜けた先に待つのは、地上の1G。数字だけなら訓練で越えたものより軽いが、降りても終わらない重さだ。無事に降りられたら、姉さんに手紙を書こう。書くなら、まず空のことを。窓の向こうの青を、言葉に直す練習のつもりで、しばらく眺めていた。
午後、通信室に呼ばれた。扉の前で、一度だけ息を数えた。吸って三つ、吐いて六つ。画面が繋がるまでの短い待ち時間に、自分でも思いのほか、肩に力が入っていたと気づいた。
小さな画面に映ったのは、軍服の襟を隙なく整えた、痩身の大佐だった。背後の棚に、白い陶器の輪郭が、ちらりと見えた。
「リオン・ワーカー中尉ですな。マ・クベです」
「リオン・ワーカー中尉であります。お目にかかれて光栄です」
「光栄とは、大げさですな。降りる前に、顔を見ておきたかっただけです。閣下からお話は伺っています」
声は穏やかだったが、画面越しにも、こちらを量る目つきがわかった。
「ガルム小隊については、閣下直々のご命名と聞いています。よい名をいただきましたな。番犬は、吠えるべき時を知っているものです」
「恐縮です」
「本日のうちにHLVへ移乗していただき、降下は明朝とします。この作戦は、電撃的に運ぶ必要がある。降下後、ガルム小隊は直ちにオデッサへ進軍していただきたい」
「オデッサ、ですか」
「あそこには、我が軍にとって欠かせない採掘場があります。採掘場を確保すること。それが、ガルム小隊の最初の任務です」
「承知しました。……降下後の支援は」
「補給線は、こちらで整えます。ただし、最初のうちは、小隊単独で動く時間が長くなるでしょう。そのつもりで」
「承知しました。……障害があった場合は」
「すべて排除なさい。ただし、採掘場は無傷で確保すること。壊してしまっては、意味がありませんので」
淡々とした口調だった。命令の重さを、こちらに悟らせまいとするような、抑えた声だった。壊さずに、奪う。火力を好きなだけ振るえる戦いではないということだけは、はっきりと理解できた。
「小隊長として、初めての指揮になりますな。部下とは、HLVで会っていただきましょう。降下も同じHLVです。地上は、宇宙とも、訓練で慣れた重力とも違う。機体の癖も、中尉の癖も、別の顔を見せるものです。それをお忘れなく」
「はい。責任の重さは承知しています。二人と会う前に、自分のやるべきことを、もう一度数え直しておきます」
大佐は画面の端に視線を流し、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「あまり固くならず。降りる前に、よく眠っておきなさい」
「はい。皆に同じことを言われ続けていますので、今夜はちゃんと眠ります」
「それは結構」
通信が切れたあとも、暗くなった画面の縁を、しばらく眺めていた。穏やかで、回りくどく、それでいて隙がない。ただ、嫌な相手ではなかった。少なくとも、こちらを使い捨ての駒として見る目ではなかった。それが本心からの評価なのか、使いやすい駒への丁寧さなのかは、今はまだ、わからない。わからないことは、わからないまま、胸にしまっておくことにした。
移乗の放送が流れたのは、通信室を出てすぐだった。貨物区画では、J型の固定が解かれ、クレーンのアームが機体をゆっくりと引き出していく。その先、輸送艦の腹に連結されていたのは、武骨な大気圏突入用のHLVだった。MSを格納区画に抱え、兵を乗せて降りるための箱。艦の整備兵が、HLV側の整備兵に機体の引き継ぎを告げる声が、貨物区画に反響している。灰色の装甲には、二十日分の細かい擦り傷が、薄く走っていた。HLV側の整備兵がそれを見上げ、感心したように言った。「よく使い込んでありますね」。「試験機ですから。ずいぶん、叩かれました」。そう答えると、整備兵は小さく笑って、傷の一つを指でなぞった。連結通路を手すりで渡るとき、金属の継ぎ目が、足の裏ではなく掌に冷たく伝わった。
「また同じ便ですな、中尉殿」
通路の途中で声をかけてきたのは、荷を肩に担いだ曹長格の男だった。
「こちらこそ、心強いです。降りるまで、呼吸の練習をしておきましょう」
「自分も、そのつもりです」
HLVの内部は、輸送艦よりもさらに狭かった。油と冷却剤の匂いが濃く、照明は低く、通路の幅は、肩が壁に触れそうなほどだった。格納区画には、固定架に載せられたMSが、何機も肩を寄せ合うように並んでいる。灰色のJ型の隣には、緑の装甲のF型が二機、同じ向きで固定されていた。その足元の手すりに片手をかけて、二人の下士官が、こちらを待っていた。気づくと、揃って壁を軽く蹴り、体勢を整えて敬礼をする。
「ガルム小隊配属、ヴィルヘルム・ブラント曹長であります」
四十代前半と見える大柄な男だった。短く刈った髪に白髪が混じり、顎に古い傷がある。声は低く、落ち着いていた。年長者だけが持つ、慌てることを知らない静けさがあった。
「元は陸戦隊で、戦車に乗っておりました。MSには転換して日が浅いですが、地上のことなら、お役に立てると思います」
「リオン・ワーカー中尉です。こちらこそ、よろしくお願いします。地上のことは、何もわかりません。教えてください」
「教えることなら、喜んで。お任せください。戦車は、地面と喧嘩しない乗り物でした。MSは、地面と手を組まないと、立っていられません」
ブラントが穏やかに笑うと、隣の女性が一歩前に出た。赤みを帯びた茶髪を肩の上で無造作に切り、薄い黒手袋をはめた手で、きびきびと敬礼する。
「マリーナ・ケスラー軍曹です。狙撃を担当します」
大きな目が、まっすぐにこちらを見ている。値踏みするような視線に、遠慮はなかった。
「失礼ですが、中尉は、お若いですね」
「軍曹」
ブラントが低く咎めた。
「事実を申し上げただけです。腕がいいなら、年は関係ありませんから」
「二十歳です。年は、変えられませんので」
思わず、笑ってしまった。
「腕のほうで、信頼していただけるよう努めます」
マリーナは目をわずかに見開き、それから口の端を上げた。
「期待しています。地上は、射線が長くなります。見通しの利く場所は、おまかせください。それと、HLVは突入のあいだ、よく揺れます。舌を噛まないでくださいね」
「ご忠告、感謝します」
「あの灰色の機体が、中尉のですね。綺麗な色ですが、目立ちますよ」
「試験機です。色は、自分で指定しました。目立つことで誰かを守れるなら、本望ですから」
マリーナは小さく息を吐いて、笑った。
「それなら、目立つ分は私が見ておきます。撃たれる前に、見つけますから」
「頼もしいです。お願いします」
「それと、噂で聞きましたが。中尉は、息を数えて操縦なさるとか」
「数えているだけです。吸って三つ、吐いて六つ。よければ、降下の前に、お教えします」
「ぜひ」
ブラントが即座に答え、マリーナも、少し遅れて小さく頷いた。
「我々の機体はF型の調整型です。地上では癖のある代物ですが、手なずけてみせます」
ブラントの言葉に、マリーナが小さく頷いた。
この二人と、これから同じHLVに乗る。見知らぬ年上の二人に、自分が指示を出す。大気圏突入の負荷を、同じ箱の中で受けるのだ。その重さを、数えるべき息の一つとして、胸の底に置いた。
「中尉」
ブラントが、手すりの上でわずかに身を寄せた。
「差し支えなければ、任務の中身を、教えていただけますか」
「もちろんです。降下後、直ちにオデッサへ進軍し、採掘場を確保します。ただし、採掘場は無傷で、との指示です」
「無傷で、ですか。それは、戦い方が変わりますな」
「はい。大火力には頼れないと考えています」
「見通しの利く高所を押さえられれば、遠くから障害を絞れます」
マリーナが、腕を組んで言った。
「ただ、降りてみないと、土地の形がわかりません。地図は、地図でしかありませんから」
「地面は、見た目より正直です」
ブラントが、ゆっくりと続けた。
「地盤が緩いか、硬いか。脚のある機体は、車輪や履帯より、足場に左右されます。降りたら、最初の一歩は、足で確かめさせていただけませんか」
「お願いします。降下直後の足場の見立ては、ブラント曹長の判断を優先します。私には、まだできませんので」
ブラントの目が、わずかに見開かれた。それから、静かに頷いた。
「……承知しました」
「中尉は、聞くのがお上手ですね」
マリーナの言葉には、からかいよりも、確かめるような響きがあった。
「教えてもらう側ですから。ただ、決めるべきことは、私が決めます。そのときは、従ってください」
「当然です」
二人の返事が、揃った。任せるべきところを任せるのも、指揮のうちだ。ミロの背中から学んだことの一つを、思い出していた。
夜、HLVの待機区画の隅で、曹長格の男が、吸い口のついた容器で茶をすすっていた。壁に固定されたテーブルの上で、湯気が頼りなく揺れている。
「いよいよですな、中尉殿」
「はい。降りてからも、数えましょう。苦しくなったら、吐く」
「吸いたくなるのを我慢するのが、難しいところですが」
「私もです。二人で、我慢しましょう」
「地上では、呼吸のやり方も変わりますかな」
「変わるかもしれません。そのときは、変わったやり方を、また教えてください」
「それなら、お互い様ですな」
男は肩を揺らして笑い、容器を掲げてみせた。こちらも自分の容器を持ち上げ、軽く合わせる仕草をした。中身は、ただの水だった。
待機区画の照明が、一段ずつ落とされていく。あちこちの寝台から、低い話し声と、ベルトの擦れる音が、ぽつぽつと聞こえてきた。眠れない者も、眠ったふりをする者もいる。誰もが、明日の揺れを、それぞれのやり方で待っていた。
割り当てられた寝台に戻り、荷の底から軍医官の走り書きを取り出した。折り目の付いた薄い紙に、吸って三つ、吐いて六つ。その下に、もう一行ある。慌ただしさの中では、ちゃんと読めずにいた一行だった。
「帰ったら、また診せに来い」
短い文字だった。医者の字にしては、少し丸かった。誰にも頼らず帰ってこい、とミロも言った。約束が、いくつも胸の中で重なっていく。重いのに、不思議と心強い重さだった。
紙片を胸のポケットにしまい、目を閉じて、数えた。ミロの声と、軍医官の丸い字と、姉さんの病室の静けさが、数える息の合間に、順番に通り過ぎていく。どれも、帰る場所の名前のようだった。それなら、帰るために降りるのだ。そう決めると、体の奥の強張りが、ひとつ解けた。
降下の朝は、HLV内の放送の声で始まった。降下開始は三十分後。パイロットは各自の機体へ、と告げられる。格納区画では、緑の装甲と並んだ灰色の機体の浮き方が、いやに際立って見えた。整備兵が手短に確認事項を読み上げていく。
「固定、異常なし。補正の遅れ値、先日の設定のままです」
「ありがとうございます。お願いします」
「ご武運を、中尉殿」
「ありがとうございます。皆さんにも、お世話になりました」
座席に身を沈め、ベルトを締める。背中を受け止めるバケットの硬さが、いつもどおり心強かった。胸のポケットの紙片に、一度だけ手を当てた。ハッチが閉じる直前、隣の機体のコクピットで、ブラントが無言で親指を立てるのが見えた。
小隊回線を開く。短い雑音のあと、二つの声が、遠くで重なった。
「ガルム各機、状態を報告してください」
「ガルム2、異常なし」
「ガルム3、異常ありません。いつでも」
「ガルム1、問題ありません。この小隊の最初の降下です。無事に降りて、無事に歩きましょう」
返ってきたのは、短い、了解の声が二つだけだった。それで十分だった。
放送が、降下開始までの時間を告げる。吸って三つ、吐いて六つ。腹の底に意識を置き、操縦桿には、触れているかいないかの軽さで指をかける。
この先に、大気圏突入の4から5Gが待っている。それを抜けた先に、オデッサの大地が。
降下の合図が鳴るまで、ただ数え続けた。
今後とも本作をよろしくお願いいたします。
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