機動戦士ガンダム ランダムウォーカー   作:うーまろー

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地球降下作戦編
第三十一話


 降下の合図は、思っていたよりも静かに来た。ブザーも警告灯もなく、HLVの船体を輸送艦につないでいた留め具が外れる小さな振動が一度、足元から背中へ抜けただけだった。

 

 J型のコクピットで、ベルトの張りをもう一度指で確かめる。モニターの隅で、輸送艦の艦影がゆっくりと遠ざかっていく。逆噴射の短い振動が二度。ここまでは、まだ無重力のままだった。

 

 モニターの下端に、青い縁がゆっくりとせり上がってくる。写真や映像で何度も見たはずの球体が、ここでは、目の前の壁のように大きかった。美しいとは思わなかった。ただ、あの下に降りるのだと、体のほうが先に理解した。

 

「ガルム1、状況確認。ガルム2」

 

「ガルム2、異常なし」

 

 ブラントの声は、格納区画で顔を合わせた時と変わらず穏やかだった。

 

「ガルム3、問題なしです。いつでもどうぞ」

 

 マリーナの声は、いつもより少しだけ低い。引き金の前の声だ、と思った。

 

「了解。突入後は回線が切れます。切れても慌てず、呼吸を」

 

 返事は二つとも短かった。それで十分だった。

 

 小隊長として降りるのは、これが最初だ。後ろには二人。HLVの待機区画には、曹長格の男も座席に固定されている。灰狼隊にいた頃は、前にミロの背中があり、後ろに姉さんの目があった。ここには、そのどちらもない。そう気づいて、胸の奥が一度だけ冷えた。それを、息と一緒に吐いて捨てる。

 

 降下地点の周辺には、軌道上の艦艇がすでに質量弾とミサイルを撃ち込み、ミノフスキー粒子もたっぷりと撒いてあると聞いている。連邦の迎撃は散発的になる、というのが作戦の見立てだった。それを信じるかどうかとは別に、機体の中で今できることは一つしかなかった。

 

 吸って、三つ。吐いて、六つ。

 

 最初に来たのは音だった。HLVの外壁を、薄い空気が撫で始める。低い唸りが床から這い上がり、それが振動に変わり、やがて座席の背中全体が小刻みに叩かれ始める。

 

 重さが戻ってきた。

 

 腕が、胸が、膝の上の手が、ゆっくりとシートに沈んでいく。訓練で何度も通った1.2Gや1.3Gの感覚が、数を数えるたびに一段ずつ上乗せされていく。1.5G。2G。バケット形状の座席が、背中全体でそれを受け止めてくれる。硬めのホールドと太いダンパーが、揺り戻しを一拍で殺す。あの座席だと教官が笑っていた理由が、ようやく腹の底でわかった。

 

 窓の外が橙色に変わった。

 

 3G。操縦桿に添えた手は、握らない。触っていないような感覚のまま、ただ置く。力を入れれば、その分だけ腕が重くなる。教えられたとおり、握りはいつもより軽く、軽く。

 

 ヘルメットの中で、頬が後ろへ引かれていく。瞼が重い。計器の数字を読もうとして、目の焦点が一拍遅れて合った。その一拍が、J型の補正の遅れと同じ幅だと気づいて、妙におかしかった。

 

「ガルム1より――」

 

 通信が、そこで砂になった。ノイズ、雑音、そして何も聞こえなくなる。プラズマが機体を包んだのだ。小隊回線は切れた。残ったのは、船体の軋みと、自分の呼吸だけだった。

 

 4G。胸の上に誰かが座っているようだった。視界の端から、輪郭が暗くなっていく。それでも数えることだけは手放さなかった。

 

 機体が軋む。外壁の向こうで、空気が殴りつけるような音を立てている。手の甲から血が引いていくのがわかった。指先の感覚が薄れても、握らないと決めた手は、操縦桿の上から落ちなかった。

 

 軍医長の声が、頭のどこかで言った。吸うな、吐け。

 

 5G。

 

 視界が狭まる。音が遠くなる。けれど、意識の底に細い糸が一本張ってあって、数を数えるたびにそれが引き戻してくれる。何十回目かを数えたところで、橙色の窓が少しずつ暗い赤に変わっていった。

 

 姉さんの顔が、一瞬だけ浮かんだ。眠ったままの顔だった。起きていたら、何と言っただろう。考えかけて、やめた。今は、数えるだけだ。

 

 背中を押す力が、ふっと緩んだ。

 

 重さが抜けた、と思った次の瞬間、機体が大きく揺れた。パラシュートが開いたのだ。胃が持ち上がる。シートが跳ね、ベルトが肩に食い込み、それから揺れはゆっくりと小さくなっていく。

 

 モニターに、雲の切れ間が映った。その下に、見たことのない色の地面が広がっていた。

 

 近づくにつれて、色の数が驚くほど少ないことに気づく。黒と、白と、灰。コロニーの内壁にあった、整えられた緑や茶色とは、まるで違う。人の手の入っていない土地が、ただ、そこにあった。

 

 雪解けの平原だった。黒い土が帯のように連なり、その間を細い谷が一本、切り込むように走っている。

 

 逆噴射が地表に向かって唸りを上げた。衝撃を殺す。殺し切れなかった分が、足の裏と腰と背中に一度に来た。

 

 HLVが、地面に着いた。

 

 静かになった。

 

 しばらく、自分の呼吸の音しか聞こえなかった。やがて、胸の上の重さが「当たり前のもの」に変わっているのに気づいた。

 

 1G。

 

 降りても終わらない重さ、と思っていたものが、確かにここにあった。

 

 腕を持ち上げようとすると、シートの上でわずかに遅れてついてくる。訓練で何度も確かめた感覚なのに、星の重さは、どこか、逃げ場がなかった。これが、毎日続く。そう思うと、少しだけ背筋が伸びた。

 

「ガルム1より各機。聞こえますか」

 

 返ってきたのはノイズだった。粒子の影響で、回線はまだ砂を噛んでいる。もう一度呼ぶ。

 

「……ガルム2、聞こえます。ひどい雑音ですが」

 

 ブラントだ。ほっと息が抜けた。

 

「ガルム3は」

 

 返事はなかった。呼ぶ声が、ノイズに吸われていく。三度目に呼んだところで、ようやく音が返ってきた。

 

「……ガルム3、生きてます。すみません、一瞬、落ちかけました」

 

「無事なら十分です。呼吸は」

 

「戻りました。数えてました、ずっと」

 

 その声が、少しだけ笑っていた。

 

 全身から、力が抜けた。二人とも、生きている。分かっていたつもりでも、声を聞くまでは、胸の奥のどこかが固まったままだった。小隊長というのは、きっと、こういう重さを抱えるものなのだろう。

 

 外壁は、固定具を一つずつ外さなければ開かない。解除が終わるまでには、まだ少し時間がかかる。その間に、決めておくことがあった。

 

 足元から、金属を叩く硬い音が、間隔を空けて伝わってくる。外では誰かが、一つずつ手順を踏んでいるのだろう。降りたあとの数分で、すべてが決まる。突入の苦しさよりも、そちらのほうがずっと重かった。

 

「ガルム1より各機。外壁が開くまでに確認します。装備は取り決めどおり。ガルム1と2はマシンガン、ガルム3はアサルトライフル」

 

「ガルム2、了解。バズーカは今回見送ります。補給の当てがありませんので」

 

「ガルム3、了解」

 

「展開は一機ずつ。ガルム2が先に出て谷の側を確かめてください。続いてガルム1が外壁の前面を確保し、ガルム3は最後に出て後方の高台へ。補給物資は、展開が済んでから降ろします」

 

「ガルム2、了解。足元は、自分が先に確かめます」

 

 ブラントの返事は、いつもの落ち着いた声だった。最後の固定具が外れる、重い音がした。

 

 外壁が地面に向かって、ゆっくりと倒れていく。先に出たブラントのF型が谷の側へ向かうのを見送り、続けてJ型を起こす。曹長格の男の顔を見に行くのは後だ。倒れた外壁の上を一歩、二歩と進ませる。三歩目で、足の裏が土を捉えた。

 

 ペダル越しに、確かな抵抗が返ってきた。機体の重さを、地面が受け止めている。訓練で何度も踏んだ1Gの重さとは、どこか違っていた。人の手で回された壁の内側ではなく、星そのものが、下から押し返してくる。

 

 顔を上げた。

 

 空が、高かった。

 

 雲の切れ間から差す薄い光が、雪解けの平原の上に斜めの帯を落としている。黒い土と、残った雪の白と、遠くまで続く谷の影。地平線は、コロニーの内壁のようには上へ曲がらず、ただ一本の線になって、どこまでも向こうへ伸びていた。宇宙から見下ろした青い球の、その表面に、いま立っている。

 

 息をするのを忘れていた。

 

 姉さんにも、見せたかった。

 

 そう思った時、回線がノイズの底から浮かんだ。

 

「ガルム2、谷の側、異常なし。中尉殿、よろしいですか」

 

 ブラントの穏やかな声で、我に返った。

 

 見とれている場合ではない。ここは、まだ敵の土地だった。

 

 周囲に目を走らせる。少し離れた場所に、同じように降りたHLVが数基、傾きかけた塔のように立っている。友軍の影は、まだ少ない。谷の向こうの稜線は、雲の底に溶けて、その先に何があるのか読み取れなかった。

 

「ガルム1より各機。展開は済みました。散開して周囲の安全を確保します。ガルム2はそのまま谷の側を、ガルム3は後方の高台へ」

 

「ガルム2、了解。足元に気をつけてください、中尉殿。見た目より沈みます」

 

 見た目より沈む。その言葉の意味を、これから足の裏で知ることになる。シミュレーターの地面は、いつも正直に固かった。

 

「ガルム3、了解」

 

 J型を谷沿いへ向ける。数歩目で、足の裏がぬかるみに沈んだ。引き抜いた足が重い。黒い土が泥の塊になって脚部にまとわりつき、次の一歩では、踏み込んだ膝が思ったよりも深く落ちた。

 

 機体が傾いだ。

 

 反射的に操縦桿を倒しかけ、その手を止める。握らない。ペダルを踏み込むのでなく、足先でそっと受け止める。J型のOSが一拍遅れて補正をかける。その遅れが、吐く息一つ分だった。

 

 機体が立て直った。

 

 あの教官との模擬戦で、息一つ分の遅れを身体に刻んでおいたことが、ここで効いた。ぬかるみの上で、1Gに合わせた動かし方に切り替える。足を置く場所を、見た目でなく足裏の沈み方で決める。ゆっくり、確かめるように。

 

「中尉殿、土の様子は」

 

「思ったより緩いです。谷の縁は避けたほうが」

 

「自分もそう見ます。縁は崩れます」

 

 ブラントの声に、根拠が乗っていた。元戦車兵の声だ。土のことは、彼のほうがよく知っている。

 

 その時、ノイズ混じりの回線が鋭く割れた。

 

「機影あり、一時方向、上空!」

 

 マリーナの声だった。

 

 モニターの一時方向、雲の下から、小さな機影が三つ、低く滑るように近づいてくる。散発的な迎撃のうちの一つらしかった。

 

「ガルム1、迎撃します。ガルム3は援護を。ガルム2は谷の側の警戒を続けてください」

 

 ぬかるみの上で足の置き場を選び、機体を半身に開く。120mmマシンガンの銃口を、先頭の機影の進路の少し先へ置いた。弾幕を張って、行く手を塞ぐ。引き金を引く。弾が走り、先頭の一機の翼が裂けた。

 

 胸の底で、冷たいものが動いた。連邦兵への憎しみは、降りてもここにあった。それを引き金の指に流さないように、ただ狙う。

 

 二機目が左へ逃げる。追わない。その先がマリーナの射線に入ることは、位置関係でわかっていた。

 

 アサルトライフルの乾いた単発が、間を置いて響いた。一発目は外れた。二発目は機体の脇をかすめ、機影が小さく傾く。三発目で、ようやく二機目が火を噴いて地面に落ちた。

 

「撃墜、確認しました」

 

 静かな声だった。ほんの少しだけ、息が上がっている。低く滑る相手に当てるのは、簡単なことではない。最初の一発が外れても、慌てずに撃ち続けた。その落ち着きが、頼りになると思えた。

 

「ガルム2より。三機目、離脱していきます。深追いは不要かと」

 

「ガルム1、了解」

 

 ブラントの判断は、的確だった。三機目が旋回して逃げていく。

 

 逃げていく機影を、モニターの端で見送る。降りたばかりで、燃料も弾も数えなければならない身だ。追う理由は、本当に、どこにもなかった。深追いはしない。降りたばかりのぬかるみの上で、足元を確かめもせず追う理由はない。

 

 静けさが戻った。

 

 機体の足元で、黒い土がゆっくり沈んでいる。落ちた機影が上げた黒煙が、谷の向こうでまっすぐ立ちのぼり、やがて風に裂かれていった。胸の奥が落ち着いていくのを、ただ待った。降りて最初の一撃を、地球の土の上で撃った。その事実だけが、手の中に残っていた。

 

「ガルム1より各機。損害なし。他部隊の展開が一段落するまで、この区域に留まります」

 

「ガルム2、了解」

 

「ガルム3、了解。……中尉、さっきの呼吸、また教えてください。落ちかけた時、あれだけが頼りでした」

 

「もちろんです」

 

 他の部隊の展開が進み、友軍の車両が集まり始めた頃、ブラントとマリーナに警戒を任せてJ型のハッチを開けた。HLVの待機区画へ回る。通路の床に足を置くと、下へ引っ張られる感覚が、ここでも変わらずそこにあった。

 

 待機区画の扉を開けると、曹長格の男は座席のベルトを外したところだった。顔色は、決していいとは言えなかった。唇が白い。それでも目はしっかり開いていて、こちらを見ると口の端を持ち上げた。

 

「降りましたか、中尉殿」

 

「降りました。落ちかけませんでしたか」

 

「ええ、半分ほど。けれど、数えていたら戻ってきました」

 

「それは何よりです。……初めての地球は、どうでしたか」

 

 答えを探して、少し間が空いた。

 

「重いです。思っていたより。でも、空が高かった」

 

「空が、ですか。そうですな。私も、初めて降りた時は、そればかり見ていました」

 

 男は目を細めて、笑った。降りた者にしかわからない種類の笑いだった。

 

 あの呼吸が、ここでも役に立った。それがなぜか、背中のどこかを温かくした。

 

 迎えの兵が待機区画の入口で名前を呼んだ。曹長格の男は荷物を肩にかけ直した。

 

「ここで別れですな」

 

「はい。……お世話になりました」

 

「世話になったのはこちらです。あの呼吸法、帰ったら皆に教えますよ」

 

 敬礼を交わした。男は車両の荷台に飛び乗り、すぐに振り返らなくなった。それでいいと思った。

 

 別れの言葉を長く交わす余裕は、お互いになかった。降りた者には、降りた者の仕事がある。あの男は、それをよく知っている顔をしていた。

 

 降りてしまえば、終わりではなかった。ここが、始まりだった。

 

 遠くで、別のHLVが地面を叩く低い音がした。待機区画の出口から見上げた空は、雲の切れ間の向こうに、薄い青を覗かせていた。

 

 西の空が、ゆっくりと橙に染まっていく。雪解けの平原が、その光を受けて、黒と白の境目だけを濃くしていった。宇宙では見たことのない、深い色の夕暮れだった。日が傾く頃には、着地区域のHLVは、そのまま小さな拠点の姿になっていた。

 

 HLVは解体しない。分厚い装甲と高い気密は、そのまま防空壕にも司令部にもなる。船体内のジェネレーターを立ち上げて電源を確保し、通信設備を生かすと、周囲との回線が少しずつ安定してきた。広い貨物室は、整備と補給物資の置き場に使える。

 

 外の地面には、ブラントが膝をついていた。足元の土を指でつまみ、擦り合わせて匂いを嗅ぐ。

 

「中尉殿、船体の根元は水が溜まります。偽装網を張る前に、谷の側へ水の逃げ道を掘りましょう。土は積んで、船体の裾を半分埋めます」

 

「わかりました。そちらでお願いします」

 

 迷わなかった。足場の見立ては彼に任せると、HLVの格納区画で決めたことだった。決めるべきことは自分が決める。そのかわり、土のことは土を知っている人が決める。その切り分けが、思ったより楽に腹へ落ちた。

 

 J型で土を寄せ、偽装網を広げる。マリーナは高台の見張りを続けたまま、時折、回線に短い報告を入れてきた。粒子の影響は少しずつ薄れ、雑音の底から声が浮かぶようになっていた。

 

 船体の中では、ジェネレーターが低く唸り始めていた。その音が、地面を伝って足の裏に届く。さっきまで死んだように静かだった鉄の塔に、少しずつ体温が戻っていくようだった。外の風は冷たく、雪解けの水が、土の下で細く鳴っている。手を動かしている間は、考えずに済む。それがありがたかった。

 

 拠点の形が整った頃、空はすっかり暗くなっていた。携行食を口に入れる。味は、あまり覚えていない。ブラントは黙々と食べ、マリーナは缶の底を指先で叩いて、癖のように音を確かめていた。笑い声はなかった。それでも、沈黙は重くなかった。同じ土の上で、同じ冷たさを食べている。それだけで、小隊という言葉が、少しだけ輪郭を持った。

 

「中尉」

 

 見張りを交代してきたマリーナが、向かいに腰を下ろした。黒い手袋を外して、指を開いたり閉じたりしている。

 

「呼吸、教えてもらえますか。ちゃんと」

 

「もちろんです。吸って、三つ。吐いて、六つ。吐くほうを長く」

 

「それだけ、ですか」

 

「それだけです。それを数え続けることが、一番難しいですが」

 

 マリーナは目を閉じて、言われたとおりに数え始めた。唇が小さく動いている。何度か繰り返して、肩から力が抜けるのが見えた。

 

「……なるほど。落ちかけた時、頭の中でこれだけ回ってました。理屈を教わると、なお効きますね」

 

「ところで中尉、小隊名のガルムって、犬ですよね」

 

「冥界の番犬、だそうです。調べました」

 

「やっぱり。……私、犬には弱いんです。名前を聞いただけで、なんだか背筋が伸びます」

 

 真顔でそう言うので、一瞬、冗談かどうか測りかねた。けれど口の端がわずかに緩んでいて、それが彼女なりの場の温め方だとわかった。

 

「自分にも、その呼吸法を教えていただけますか」

 

 いつの間にか、ブラントが隣に腰を下ろしていた。

 

「突入の間、娘の顔が浮かびました。意識を保つので、精一杯でした。もっと早く教わっておくべきでした」

 

「いえ。あの中で耐え抜いたのは、曹長です。……楽になる方法があるなら、知っておいて損はありません。一緒にやりましょう」

 

 本音だった。ブラントは少し目を細めただけで、何も言わなかった。それから三人で、暗い中、同じ数を数えた。数える声が重なっていくのは、悪くなかった。

 

 しばらくして、ブラントがぽつりと言った。

 

「この土は、水を含んでいます。春先のぬかるみは、見た目より深く足を取る。明日の進軍は、思った以上に時間がかかるでしょう。急がないことが、一番の近道です」

 

「わかりました。その前提で組みます」

 

 急がないことが近道。灰狼隊では、あまり聞かなかった種類の言葉だった。胸の中で一度、反芻する。

 

 見張りの順は、最初を自分が引き受けた。二人は渋ったが、小隊長がそう決めたのだと言うと、それ以上は言わなかった。

 

 決めるたびに、少しずつ、それが自分の言葉になっていく。借り物ではなく。そう思えたのは、ほんの少しだけ、初めてのことだった。

 

 一人になって、HLVの格納区画の隅で紙を取り出した。宛先のない手紙を書く。姉さんが目を覚ましたら、渡すつもりのものだった。

 

 格納区画の外では、風が船体を舐めていく音が続いている。遠くで、低い響きが一つ、二つ。それが砲声なのか雷なのか、判別がつかないほど遠かった。

 

降りた。

 

思っていたより、重かった。でも、呼吸を数えていたら大丈夫だった。

 

姉さんがいつも後ろにいてくれたから、一人で前に立つのがどういうことか、少しだけわかった気がする。まだ、ちゃんとはわからないけど。

 

早く目を覚ましてほしい。ちゃんと話したいことがたくさんある。

 

 そこまで書いて、ペンを止めた。続きは、まだ書けなかった。

 

 顔を上げると、雲が切れて、星が見えていた。宇宙で見ていた星と同じはずなのに、ここでは少し滲んで見える。足元の黒い土は、夜気で冷たく締まっていた。

 

 明日は、オデッサへ向かう。

 

 紙を畳んで胸の内ポケットにしまい、J型の足元に立って、暗い谷の向こうを見張った。ゆっくりと、夜が深くなっていく。

 

 空が白み始める少し前に、ブラントが見張りを替わりに来た。夜の間、回線には遠い爆発の低い響きがときおり混じるだけで、近づいてくる気配はなかった。

 

「中尉殿、少しでも休んでください。自分が見ます」

 

「ありがとうございます。三十分だけ」

 

 格納区画の隅に横になり、目を閉じる。眠れるとは思わなかったが、いつの間にか意識が途切れていた。

 

 目を覚ますと、東の空が薄く赤らんでいた。土の匂いが、昨日よりも濃い。

 

 夜の間に冷えた空気が、装甲の表面に細かな水滴を残している。指で触れると、冷たかった。生きて朝を迎えられた。それだけのことが、降りる前の自分には、どこか実感のない話だった。

 

 J型の脚部に回り、こびりついた泥を落とす。関節の隙間に、黒い土が噛んでいた。昨日のぬかるみの跡だった。センサーの値を一つずつ確かめながら、整備班長の声を思い出す。機体は嘘をつかん。昨日の傾きは、機体のせいでも、土のせいでもなく、ただ、まだ足りない自分の分だった。それを素直に認められるのは、悪くなかった。

 

 HLVの貨物室から補給物資を出し、J型とF型の背にまとめる。弾薬、推進剤、予備の部品。積めるだけ積んで、残りは船体の中に置いていく。出入口の偽装網をかけ直すと、昨夜まで自分たちが寝ていた場所は、土の盛り上がりの陰に静かに沈んだ。

 

 胸の内ポケットで、畳んだ紙が小さく硬い音を立てた。続きは、きっとどこかで書ける。そう思えたのが、昨夜とは違うところだった。ブラントは黙って荷の紐を締め、マリーナは高台から戻る途中で、足元の土を一度だけ蹴ってみせた。誰も、何も言わなかった。それでも、三人の足並みが、昨日よりも揃っているのがわかった。

 

「中尉殿、進発の隊形は」

 

 ブラントが、地図代わりの端末を差し出してきた。画面には、谷と平原の起伏が簡単な線で描かれている。

 

「自分の案では、谷の縁を避けて平原側を進み、後方の高台にマリーナ軍曹を残して順次前へ。ただ、最終的な判断は中尉殿に」

 

 案は、よく練られていた。地形を見る目は、自分より何歩も先にある。それでも、決めるのは小隊長の役目だった。

 

「その案で行きます。ただ、先頭は自分が。ぬかるみの様子を最初に踏んで確かめます」

 

「……了解しました。ではその後ろに自分が」

 

「ガルム3、了解。高台から援護します」

 

 マリーナの声は、昨日よりも軽かった。

 

 J型を前に出す。最初の一歩を、ゆっくりと、足の裏の沈み方で置く場所を決めながら。黒い土は、朝の冷えで少しだけ締まっていた。昨日より、踏み込みが利く。

 

「ガルム1より各機。進発します」

 

 返事が二つ重なった。それを聞いて、肩の力が自然に抜けた。

 

 行く手の空には、薄い雲が流れていた。オデッサの方角に、朝の光が細く伸びている。その光の先で、何が待っているのかはわからない。わかっているのは、後ろに二人いることと、足元の土が確かに自分を支えていることだけだった。

 

 三機の影が、黒い大地に長く伸びた。振り返ると、土に半ば埋もれたHLVが、朝の光の中で、静かに立っていた。降りた場所が、もう、帰る場所のように見えた。そう思ってしまう自分を、少しだけ戒めて、前を向いた。




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