整備棟の一角には、夜明け前から灯りが入っていた。マ・クベの言った「最優先」は口先だけではなかったらしい。天井から吊り具が下がり、床には予備の関節部品が箱ごと並び、ガルム小隊のために空けられた区画は、他のどの隊の機体より整った場所に収まっている。灰色のJ型はその真ん中で、両膝をついたまま夜を越していた。
整備兵は三人。朝一番から機体の周りを回り、足首の装甲を外し、膝の裏へ計測器の端子を差し込んでいる。
「おはようございます、中尉殿」
ブラントが缶のコーヒーを二つ提げてやって来た。一つを受け取ると、掌がじんわり温まる。ブラントの指先にはもう黒い土がついていた。足元をつまんで確かめるのは、今朝も欠かさなかったらしい。
「昨日の雨で、地面が少し緩んでいます。試験には、ちょうどいい土です」
「おはようございます。ありがとうございます。……試験計画書、読み返していました」
昨夜遅くに実証試験局から回ってきた書類は、整備棟の机の上で端が丸まっていた。署名欄には、J型の調整を預かるクルスト博士の名前。博士本人は別件で不在のまま、書類だけが先に届いていた。項目は三つ。全力走行、意図的な転倒、片足での着地。紙の上では三行で済む。ただ、三行の下には細かい条件が延々と続いていた。走る速さは三段階、転ぶ向きは三方向、跳ぶ高さは三段階。どの項目も、同じ条件で最低三回。
「計画書の通りに進めます。……それと、昨夜のうちに、追加の項目を実証試験局へ申請しました」
「追加、ですか」
「尾根の裏に、置き去りの戦車が三両あります。昨日、上から見ました。あれを、蹴って、殴る項目です。それと、外から殴られる項目も。返事は、まだ来ていません」
「蹴って、殴って、殴られる。何のために、でしょうか」
「当たった時の壊れ方を、先に知っておきたいので」
ブラントはしばらく黙っていたが、やがて穏やかに頷いた。
「承知しました。許可が下りましたら、基地に戦車の処分予定を確認しておきます」
「お願いします」
「それと、ひとつだけ。関節が鳴きはじめたら、そこで一度止めていただけませんか。戦車も、壊れる前には必ず鳴きました。鳴いているうちなら、まだ直せます」
「はい。そうします」
そこへ、整備棟の入口から弾む足音が近づいてきた。マリーナだ。足元に、黒い毛並みの犬がぴったりついている。
「おはようございます、中尉! この子、夜中に棟の前で寝てたんですよ。もう居着く気ですよ、絶対」
「おはようございます。……名前は、決まりましたか」
「まだ考え中です。第一候補は『ヴルスト』だったんですけど、曹長に却下されまして」
「却下ではありません。犬の名に、ソーセージは、少々、気の毒だと申し上げただけです」
「かわいいじゃないですか。ねえ、ヴルスト」
呼ばれた黒い犬は、耳をぴくりとも動かさなかった。それどころか、ブラントの靴の匂いを念入りに嗅ぎはじめ、やがてその爪先に、どさりと顎を乗せる。
「……ご覧なさい。本人は、気に入っておりません」
「それ、曹長のことは気に入ったっていう意味ですよね」
ブラントは何か言い返そうとして、言葉を探したまま動けなくなった。靴の上の重みを、そっと外す気にもなれないらしい。思わず声を出して笑ってしまった。地球に降りてから、笑ったのは初めてかもしれない。
マリーナが犬の耳の後ろを掻く。その手つきだけは、いつもの陽気さよりずっと柔らかい。黒い犬は目を細めて、整備棟の床に腹をつけた。
試験場は、採掘場の南に広がる平原に設けられた。雪解けの水を吸った黒土が、朝の光で濡れたように光っている。尾根の裏手には、昨日の対戦車砲陣地から逃げ損ねた連邦軍の戦車が、砲塔の向きもばらばらのまま三両、置き去りになっていた。
乗り込む前の準備だけで、三時間かかった。
走路は、杭と白い布で引かれていく。整備兵と計測員が巻き尺を引きずって平原を何度も往復し、一本打っては間隔を測り、また一本打つ。雪解けの黒土は長靴を呑み込み、抜くたびに湿った音を立てた。足を上げるだけで、泥が重い。
実証試験局から派遣された計測員は二人。着いてすぐ、若いほうが背筋を伸ばして敬礼した。
「実証試験局、計測担当のアルノ・ヘルマン軍曹であります。本日の試験で、数字を取らせていただきます。こちらは、軍属のブルーム技師です」
「ガルム小隊のリオン・ワーカー中尉です。一日、よろしくお願いします」
ブルーム技師は、黙って頭だけ下げた。ブラントとマリーナも順に名乗り、ヘルマンは一人ずつ、手帳に名前を書き留めていく。
「皆さんの名前は、記録の欄に必要ですので」
それから、地面に鉄の棒を打ち込んでは、打ち込んだ回数を数えはじめた。
「地面の硬さ、記録します。転倒の位置は、ここからあそこまで。毎回、鍬を入れて同じ硬さに戻します」
「均すのですか」
ブラントが足元の土をつまみながら訊いた。
「はい。前の転倒で締まった地面に次の転倒をすると、同じ試験なのに数字が合わなくなりますので。……あの、曹長殿。その土、あとで少し採取させていただいてよろしいですか」
「失礼しました。癖でして」
ブラントは慌てて指を払った。
J型の関節には、細い配線が這わされていった。膝、足首、肩。装甲の継ぎ目に沿って薄い金属片が貼られ、配線は機体の内側を通って胸の記録装置へ集まる。梯子の上で指先ほどの部品を貼り付けていくのは整備兵の仕事だったが、足場を押さえ、工具を渡し、貼り終えた配線を引っ張って確かめる役は、いつの間にか自分に回ってきていた。
装甲の外側には、白い塗料で線が引かれた。関節の角度を、撮影した映像から読み取るための目印だという。三脚に載せた撮影機が、平原の三箇所に据えられる。機体の足元で膝をついて塗料を塗る整備兵の背中は、泥と白い飛沫で、もう元の色が分からなかった。
乗る前に、ヘルマンが紙を一枚差し出した。
「パイロット所見の書式です。毎回、降りる前に口頭で。何を、いつ、どこで感じたか。数字はこちらで取りますので、感覚のほうを、そのまま」
「感じたことを、ですね」
「はい。『なんとなく』も、書きます。あとで効いてくることがありますので」
「分かりました。……同じ条件で、三回、でしたね」
「三回で揃えば、三回で。揃わなければ、五回です」
悪びれもせずに言って、ヘルマンは鉛筆を耳に挟んだ。
J型に乗り込む。シートに背を預け、ベルトを締め、操縦桿に手を置く。握りは通常の七割。触れているのかいないのか、自分でも分からないくらいで、ちょうどいい。
ブラントのF型は、転倒や動作不能に備えて平原の端で待機する。救助と退避のための待機機は、計画書にも一行だけ書かれていた。マリーナは携行無線機と双眼鏡を提げ、足元に黒い犬を連れて、平原を見渡せる高台へ上がった。目視で見て、気づいたことをその場で伝える役だ。三脚の撮影機が回りはじめる。回線のノイズは昨日より薄く、声が割れずに届いた。
「ガルム1より各員。一本目、走ります。五割で」
「ガルム2、了解」
「ガルム3、見ています。どうぞ」
最初は、歩くのと変わらない速さから始める。杭の間を抜け、白い布が左右へ流れ、平原の端で折り返す。膝も足首も、何も言わない。三本走って、降機前の所見は一言で終わった。
「異常なし。膝も足首も、静かです」
「記録しました。次、七割です」
七割も三本。こちらも静かだった。静かなことを三回確かめるだけで、日が少し高くなる。コクピットの中は、もう蒸していた。
「ガルム1より各員。全力で走ります」
フットペダルを踏み込んだ。J型は黒土を蹴り、一歩ごとに足の下で地面がちぎれていく。宇宙で身につけた感覚は、地球の1Gの前では少しずつ裏切られる。重さが、どこまで走っても追いかけてくる。補正は吐く息一つ分遅れて効く。その遅れを待たず、ペダルの踏み幅で先に迎えにいく。
最大出力。平原の端まで走り切り、左へ切り返し、また走る。切り返す瞬間、膝に横から荷重が乗った。
そのとき、右膝の奥で乾いた音が鳴った。
金属が、短く鳴いた。コクピットの床を伝って、シートの背へ上がってくる。
「ガルム3より1。今、右脚の動きが遅れて見えました。ほんの少しです」
「感じました。続けます」
「ガルム2です。続けるなら、あと一往復だけにしましょう」
もう一度、全力で走った。音は同じ場所から、今度は少し高く鳴いた。悲鳴だ、と思う。壊れる前の機械は、本当に声を上げる。機体は嘘をつかん、と言った整備班長の声が、耳の奥で重なった。関節温度の表示が一段、色を変える。
「ガルム1より各員。止まります」
停止すると、整備兵が三人、走ってきた。膝の装甲が外され、白い息のような熱気が上がる。続いて、ヘルマンが記録紙を抱えて駆けてくる。
「右膝、温度、上限の七割まで来ました。二本目は、八割です。焼き付きではありません。今のところは」
「ありがとうございます。……所見、よろしいでしょうか」
ハッチから身を乗り出して口を開く。
「切り返しの瞬間、右膝の奥、踏み込んだ底のほうから、乾いた音。一本目より二本目のほうが、少し高かったです」
「少し高い。……書きました」
ヘルマンの鉛筆が走る横で、整備兵が膝の裏へ指を突っ込み、黒い塊を掻き出した。泥だ。関節の隙間に、土が詰まっている。
「泥を噛んでいます」
「これも、条件のうちですね」
「泥を噛んだ関節は、よく鳴きます」
ブルーム技師が、初めて口を開いた。それだけ言って、また黙った。
ハッチを閉め直すと、ブラントの声が入った。
「ガルム2より1。膝の音、こちらにも聞こえました。……次は、転ぶのでしたね」
「はい。わざと転びます」
「起き上がる時、手は貸せません。試験ですので。動けなくなった時だけ、お貸しします」
「そのままで、お願いします」
転倒の位置は、杭と杭の間、機体三つ分の長さ。一回転ぶごとに、整備兵が鍬を入れて黒土を耕し直し、ヘルマンが鉄の棒を打ち込んで硬さを確かめる。転んだ後の地面は締まる。締まった地面は、次の転倒を別の物にしてしまう。鍬の柄を握る整備兵の袖は、肘まで泥で黒かった。
走る。全力の半歩手前から、右脚のペダルを不意に抜いた。脚が前へ出ない。J型のつま先が土を噛み、機体が前へ傾く。世界が正面から倒れ、黒い土が視界いっぱいに広がった。両腕を突く。衝撃が肩を抜け、コクピット全体が一度、大きく跳ねた。
「がっ……!」
肩のベルトが胸に食い込み、息が詰まる。覚悟はしていたのに、喉の奥から声が漏れた。短く、潰れた声だった。
警告灯が肩の位置で赤く点いて、すぐ消えた。
腕で地面を押す。片膝を引き寄せ、立つ。泥が胸まで跳ねて、機体の灰色が黒く汚れた。
「立ち上がり、十一秒」
ヘルマンの声が、回線の隅で読み上げる。
「ガルム2より1。今の声、大丈夫ですか。動けますか」
「……大丈夫です。動けます。声は、勝手に出ました」
「ガルム3より1。立ち上がるまで、思ったより早いです。……あの、お怪我は」
「ありません。もう一度、お願いします」
二度目、三度目。前向きの転倒を三回重ねた頃には、肩にベルトの痕が食い込み、口の中に鉄の味が広がっていた。舌の端を噛んだらしい。
「所見をお願いします」
「肩に、ベルトが食い込みます。それと、舌を噛みました」
「舌は、書きますか」
「書かなくて結構です」
ヘルマンは真面目な顔のまま、鉛筆を止めた。その隣で、ブルーム技師が肩を震わせている。
次は横向き。左肩から落ちる。もう一度。三度目は、膝を折った姿勢から。転び方は毎回少しずつ違い、そのたびに肩と足首から、別の音がした。後ろ向きの転倒は、計画書で一度きりに制限されていた。理由を口にする者は、誰もいなかった。
昼は平原の端で、携行食を口に入れた。ハッチを開けると、冷たい風がコクピットの汗を一息に連れていく。高台から降りてきたマリーナの足元には、黒い犬がぴたりとついている。ヘルマンは食べながら、片手で記録紙を整えている。
「中尉、怖くないんですか。わざと転ぶの」
マリーナは水筒を差し出しながら、真面目な顔で訊いてきた。
「怖いです。だから、先にやっておきたいんです」
「……そうですか」
それ以上は何も言わず、マリーナは犬に携行食の端を割ってやった。ブラントは少し離れたところで、また土をつまんでいる。
そこへ、整備兵が駆けてきた。実証試験局から、追加項目の許可が届いたという。戦車は、基地で処分が決まっている三両だった。
午後は跳ぶ。
高さは三段階。杭の頭に、赤い布が三つ結ばれている。バーニアの噴射は、最初は短く。降りる地面は二種類で、均した黒土と、尾根の際の固い粘土。計画書は、どちらも指定していた。
黒土への低い跳躍は、拍子抜けするほど静かだった。中段は、そうはいかなかった。左脚を畳み、右脚だけで降りる。足が土にめり込む。足首まで、深く。抜こうとペダルを戻すと、泥が足裏を掴んで離さない。膝に、嫌な荷重が乗った。
「ガルム1より各員。足が抜けません。少し、待ってください」
「ガルム2、待ちます。急がなくて結構です」
ペダルを細かく踏み替え、泥の底から足を引き剥がす。ようやく抜けた時には、右の膝がじんわりと熱を持っていた。
最後は粘土の上、いちばん高い赤い布。バーニアに火を入れ、地面を離れる。ほんの一呼吸の浮遊のあいだに、左脚を畳んだ。右脚だけで降りる。
着地した瞬間、右足首が悲鳴を上げた。膝が沈み、土が抉れ、機体が傾く。
「うっ……ぐっ、倒れるな……!」
歯を食いしばり、操縦桿を倒して重心を戻し、ペダルを細かく踏み替える。J型は片足のまま、二歩、三歩ぶんだけ土を削って、止まった。
「はっ……は……」
しばらく、自分の呼吸の音だけが聞こえた。
「ガルム2より1。今のは、あと少し高ければ、足首が持たなかったと思います」
「はい。足首の音、今までで一番、大きかったです」
「ガルム3より1。中尉、本当に、大丈夫ですか」
「大丈夫です。……次が、最後です」
尾根の裏の戦車は、近くで見ると思ったより大きかった。装甲に泥の跡と焦げ目が残り、砲身は力なく下を向いている。その側面に、ヘルマンが白い塗料で四角い枠を引いた。蹴る位置と、殴る位置。J型のつま先と右の拳には、赤い塗料が塗られる。当たった跡が、戦車に残るように。
「ガルム1より各員。蹴ります」
右足を引き、ペダルを踏み抜く。J型のつま先が枠の中に食い込んだ。鈍い音がして、装甲が内側へ凹む。戦車がずるりと横へ滑り、反動が脛を駆け上がってコクピットまで届いた。
ヘルマンが走っていく。凹みに定規を当て、振り返って叫んだ。
「蹴り、一発目。凹み、指二本ぶん!」
「所見を、お願いします」
「当たる瞬間より、足を戻す時のほうが、足首が嫌がります」
「戻す時。……書きました」
続けて、拳。操縦桿を倒すと、右の拳が砲塔を横から捉えた。砲塔が軋んでずれる。手首のあたりで、また乾いた音がした。
「ガルム3より1。戦車が、へしゃげました」
「そうですね。……手首も、鳴きました」
「中尉殿」
ブラントの声は、いつもの穏やかさのままだった。F型がゆっくり近づいてくる。その手には、戦車から外れて落ちていた長い砲身が握られている。
「こちらを、お借りします。戦車兵だった頃に、一番当たりたくなかったものです」
ヘルマンが駆け寄り、J型の左肩の装甲に、白い線を一本引いた。
「打撃は、この線の上、上から。二回までです。それ以上は、計画の外になりますので」
「お願いします。左の肩から、お願いします」
「本当に、よろしいのですか。自分の機体を、部下に殴らせる小隊長は、聞いたことがありません」
「自分も、聞いたことがありません。でも、壊れ方を知らないまま次の戦いに出るほうが、怖いです」
しばらく、間が空いた。それから、ブラントは短く息を吐いた。
「承知しました。参ります」
F型が砲身を振り上げる。長い影が、一度J型の上を横切った。
衝撃が来た。左肩の装甲が鳴り、コクピット全体が右へ揺れる。計器の数字が跳ね、腕が一瞬、持ち上がらなくなる。
「ぐっ……う……!」
歯を食いしばって、操縦桿を倒し直した。
「もう一度、お願いします」
「中尉殿」
「お願いします」
二度目。
「がっ……!」
肩の奥から、これまでと違う音がした。軋みでも、乾いた音でもない。何かが一度、緩んだ音だった。
「ガルム2より1。ここまでにしましょう。……よろしいですね」
問いかけの形をしていた。けれど、逃げ道を残してくれているわけではないと分かる。ブラントの声は穏やかなまま、一歩も引かなかった。
「はい。ここまでで。今の音が、聞きたかったので」
砲身が地面に置かれる。しばらく、誰も口をきかなかった。やがて高台から、マリーナの小さな声が入る。
「ガルム3より1。あの、中尉。機体、泣いてませんか」
「泣いてます。たぶん」
「でしたら、早く、休ませてあげてください」
降りた時、足に力が入らなかった。梯子の途中で一度止まり、手すりを握り直す。肩にはベルトの痕が赤く残り、掌は汗と泥でぬるぬるしていた。ヘルマンが差し出した所見の用紙は、口述した文字が何枚にも重なって、端が汗でふやけた。
日が傾く頃、J型は整備棟へ戻された。吊り具に掛けられ、装甲が外され、三人の整備兵が膝と足首と肩を取り囲む。貼り付けた金属片が一枚ずつ剥がされ、配線が束ねられ、記録装置が外される。その間にも、ヘルマンは紙の山を机に広げ、無言で並べ替えていた。
「速報です。計画書の三項目は、すべて、規定の回数が揃いました。詳しい数字は、一晩かかります」
「ありがとうございます。助かります」
「右膝、右足首、左肩の三箇所は、数字の上でも、他と違います」
整備兵が、膝の関節に手を当てたまま言った。
「正直に申し上げます。直せないわけではありません。ただ、ここで原因まで詰める手が、足りません。……明日の昼の輸送機で、増員が来ます。ガルム小隊付きの整備担当だと聞いています」
「名前は、聞いていますか」
「いえ、そこまでは」
J型の足元で、黒い犬が丸くなっていた。マリーナが膝を抱えて、その隣に座っている。ブラントは壁際で、今日の数字を手帳に書き付けていた。誰も急かさない、静かな夕方だった。
「ヴルストがだめなら、ハムとか、ベーコンとか」
「食べ物から、一度、離れましょう」
手帳から目を上げないまま、ブラントが言った。犬は寝息を立てていて、どれにも返事をしない。
「ゆっくり決めてください。急ぐことは、ないですから」
「はい。……じゃあ、今夜はまだ『この子』ですね」
マリーナは小声でそう言って、犬の背中をそっと撫でた。
「中尉殿。壊れ方を知っておけ、というのは、戦車兵の頃にもよく言われました」
ブラントが手帳から顔を上げた。
「あの頃は、半分は聞き流しておりました。今日は、少し、分かった気がします」
「……はい」
夜、宛のない手紙に一行だけ足した。
『今日、機体を殴らせた。壊れ方を、見た』
ペンを置いて、少し笑う。姉さんが聞いたら、きっと呆れた顔をする。
翌朝は、体が動かなかった。ベルトの痕は青黒く腫れ、肩を上げようとするだけで首の付け根が悲鳴を上げる。太腿も、転倒のたびに踏ん張った分だけ、石のように固くなっていた。試験計画書の最後の行には、そのことが先回りして書いてあった。高負荷の項目を行った翌日は、パイロットを休養させること。J型が三箇所を開けたまま動かせない以上、断る理由もなかった。
ブラントが、基地付きの衛生兵を連れてきた。小柄で、手だけが大きい兵だった。簡易寝台にうつ伏せになると、温めたタオルが肩に載る。
「失礼します。……ここ、かなり固いですね」
「いっ……! そこ、です」
「ここですね。力を抜いてください。抜こうとして、力が入っています」
指が筋の隙間に沈み、息が抜けるたびに、肩から昨日の衝撃が少しずつ剥がれていく。
「寝ているほうが、落ち着かないです」
「それも、疲れのうちです」
「今日は、休まれるのが仕事です、中尉殿」
戸口から、ブラントが穏やかに言った。その後ろから、マリーナが顔を出す。
「私も、肩なら揉めますけど」
「やめておきなさい。中尉の肩が、もう一度壊れます」
「失礼ですよ、曹長」
整備棟の奥では、整備兵がJ型の三箇所を開けて原因を詰めようとしていたが、昼前に手を止めた。増員が来るまで、これ以上は触らない。ブラントは基地の担当と戦車の始末の相談に出ていき、マリーナは黒い犬を連れて、整備棟の周りを歩いている。
その日の昼、輸送機が採掘場の平地に降りた。輸送機の音で寝台から起き上がり、肩をかばいながら外へ出る。後部の扉が開き、機材のコンテナが次々と降ろされていた。フォークの唸りと整備兵の掛け声のなかに、見覚えのある背中があった。
作業着の袖をまくり、工具袋を肩に提げた、小柄な人影。背筋だけがまっすぐで、機体の前に立つ時だけ背が高く見える人だった。士官学校の頃から、変わっていない。
「グレタ」
振り向いた顔は、驚くほど変わっていなかった。表情が薄く、目だけがよく動く。
「来たの」
「来たのは、そっちだよ。……久しぶり」
「そう。J型は」
「整備棟。膝と足首と肩が、鳴いてる」
「見る」
それだけだった。歩き出す背中を追いかけながら、口元が緩むのを止められなかった。
「ルウムでの話、聞いたよ。グレタの働きで、何機も戻ってきたって」
「仕事をしただけ。それより、昨日、何をしたの」
「計画書の通りに、走って、転んで、片足で降りた。それから、計画にはなかったけど、戦車を蹴って、殴って、ブラント曹長に砲身で殴ってもらった」
「全部、一日で」
「うん」
「足した分は、悪くない」
それ以上の感想はなかった。整備棟に入ると、グレタは周りを一度も見ず、まっすぐJ型の前に立った。吊り具に掛かった膝へ、手のひらを当てる。目を閉じて、しばらく動かない。ヘルマンが差し出した記録紙の束を、数行ずつ指で追いながら読み進める。膝の裏に残った黒い土を、爪の先でこそげ取って、光に透かした。
「悲鳴は、どんな音だった」
「乾いた、短い音。踏み込んだ底のほうから。続けるほど、少し高くなった」
「右膝。内側の受けの癖。泥が入ると、そこから鳴く。ここは、直せる」
即答だった。三人の整備兵が見ていたものとは、見えているものが違う。
「足首と肩は、荷重の跡を見てから。……クルスト博士は別件で不在。戻るまでに壊れ方を揃えておけ、と」
「博士が、そう言ったの」
「言伝。私は、そのつもりで来た」
ブラントとマリーナが入ってきた。グレタは二人を同じ目の高さで見た。
「ガルム小隊付きの整備、グレタ・ホフマン。傷は小さくても言って。黙って壊す人が、一番困る」
「承知しました。ヴィルヘルム・ブラントです」
「マリーナ・ケスラーです! よろしくお願いします!」
「うん」
誰に対しても、同じ調子だった。足元に寄ってきた黒い犬を、グレタは一度だけ見下ろす。
「汚れる」
マリーナが慌てて犬を抱き上げた。抱かれたまま、犬はグレタの工具袋をじっと見ている。
「工具は、舐めない」
犬は小さく鼻を鳴らして、おとなしくマリーナの腕に顎を乗せた。
「リオン」
「うん」
「壊すのは、いい。ただ、壊れ方を、私の前で揃えて。直す側が分かる壊れ方が、いい壊れ方」
「分かった。お願い」
「J型は、今日は私が預かる。リオンは休んで」
「立ち会わなくて、いいの」
「所見は聞いた。あとは、私の仕事。……肩、庇ってる」
「バレてた?」
「歩き方で分かる。明日、もう一度走って。今度は私が横で見る」
グレタの背中が、機体の影に入る。やがて、膝の奥へ差し込まれた工具が、かちりと小さく鳴った。
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