休養日、と計画書には一行だけあった。
昨日の三本目の翌日だ。試験は入っていない。機体にも触れない。そう決まっている。朝一番に、連絡将校の大尉が紙を一枚持ってきた。
「明日からの予定です。汚泥、渡河、続けて長距離の走行。地味な試験が続きます」
「分かりました」
「今日は、休んでください。休むのも、任務のうちです」
大尉はそれだけ言って、敬礼もそこそこに帰っていった。
休めと言われて、すぐ休める性分ではない。体力のメニューを半分に減らし、残りの時間は基地の外れを歩いて潰すことにした。整備棟の前を通りかかると、扉の前にグレタが立っていた。
「入らないで」
「まだ何も」
「顔に出てる。今日は触らせない」
「毎日、ひずみを見る約束だろ」
「動かしてない日は、増えない。だから今日は、いい」
取りつく島がない。それでも、扉の隙間から覗いたJ型のコクピットには、新しい小さな計器が、もう取り付けられていた。針が二本。膝の左右のひずみを、一本ずつ示すのだろう。
「寝た?」
「少し」
「嘘だろ」
「……三時間」
「休んで」
「リオンが休んだら、休む」
扉が、目の前で閉まった。
仕方なく廃土の丘のふもとまで歩くと、足元に黒い影がついてきていた。
「ガルム」
呼ぶと、耳だけがこちらを向く。振り向きはしない。それでも離れずについてくる。番犬という名前の割に、ずいぶん気ままな犬だった。
「中尉」
丘の斜面に、マリーナが腰を下ろしていた。膝の上に、携行食の缶を二つ載せている。
「休養日のはずですが」
「中尉こそ」
言い返せなかった。マリーナは缶を開け、中のソーセージを指でつまんで、犬の鼻先へ差し出す。ガルムは一度だけ鼻を動かし、すぐにかぶりついた。
「最初に見つけたのは、私なんですよ。この子」
「知っています」
「だから、餌をあげる役は私が……あっ、ちょっと、全部食べないで」
犬は聞いていない。
「ヴルストを却下された人が、ヴルストで釣るのですか」
斜面の下から、ブラントの声がした。土のついた手をズボンで拭いながら、登ってくる。
「釣ってません。餌付けです」
「同じことです、軍曹」
マリーナはそっぽを向いた。それでも、缶を犬の前から引き上げようとはしなかった。
ブラントは斜面の土を指でつまみ、擦り合わせた。黒い土が、指のあいだからさらりと落ちる。
「雪解けの水が、まだ抜けていませんね。明日の汚泥は、思ったより重いかもしれません」
「戦車の頃も、こういう土でしたか」
「似ていました。ただ、あの頃は、止まったら終わりでした。履帯が空回りして、そのまま沈みます」
「今度は、止まらなくても沈むかもしれませんね」
「その時は、中尉殿の脚を、こちらから見ます」
真面目な顔だった。冗談のつもりではないのだろう。
「曹長は、お嬢さんに手紙を書かれるのですか」
唐突だった、と口に出してから思った。ブラントの指が、一瞬だけ止まる。
「ええ。先日、戦車を降りた、と書きました」
「返事は」
「昨日の便で届きました。父さんの乗り物が変わっただけでしょう、と」
「その通りだと思います」
「そうですね」ブラントは土の粉を払って、少しだけ笑った。「変わっただけです。止まらない、というだけで」
「なんて返すんですか、それ」マリーナが、犬の背を撫でながら訊いた。
「まだ、考えています」
丘の向こうで、風が黒い土を鳴らしていた。
しばらく三人で日向に座っていると、ブラントが、靴を脱ぐようにと言った。
「中尉殿、右の足を」
「足、ですか」
「全力で動いた翌日の足は、ふくらはぎから腰まで、固まります。放っておくと、次の日に響きます。戦車屋は、走った日の夜に、必ずほぐしました」
言われるまま、斜面に腰を下ろして足を投げ出す。ブラントは、自分の脚で見本を見せた。ふくらはぎを両手で挟み、下から上へ、ゆっくり押し上げる。膝の裏は、強く押さない。そのまま太ももの裏、腰の横へ。
「痛いほうを、無理に押さないことです。痛いなら、その周りを」
やってみると、右のふくらはぎは、思っていたより固かった。指を沈めるたび、長い息が漏れる。
「……効きますね」
「でしょう」
「私もやります」マリーナが、隣で靴を脱いだ。ふくらはぎを掴んだ途端、「いたたたたっ」と飛び上がる。「曹長、強すぎます」
「ご自分で押しているのでは」
「そうでした」
ガルムが、マリーナの投げ出した足の上に、ぺたりと顎を載せた。それでマリーナの抗議は、止まった。
昼は、三人で食堂の隅に座った。休養日だからと、誰も試験の話をしなかった。マリーナは犬の話ばかりして、ブラントは相槌を打ち、こちらはパンをちぎっては、気づくと膝の針のことを考えていた。
「中尉」マリーナが、スプーンを置いた。「今、考えてましたよね」
「……いえ」
「嘘です。今日は、私が決めます。午後の中尉は、何も考えない係です」
「そんな係が、あるのですか」
「あります。今、作りました」
断る間もなく、腕を引かれた。
午後の廃土の丘は、雪解けの日差しで、黒い土が暖かく乾き始めていた。マリーナが整備棟の裏から古い布と紐を持ってきて、丸く縛って球を作る。蹴ると、鈍く弾んだ。
「ルールは単純です。丘の下の杭から杭まで。犬が持っていったら、犬の勝ち」
「それは、勝負になりませんね」
「なりますよ。ガルムは一匹で、こっちは三人です」
ブラントが上着を脱いで畳み、斜面の上へ置いた。
「曹長、走れますか」
「中尉殿より、先に息が上がりますが」
「それは、頼もしいです」
笑い声が出たのは、自分でも意外だった。
球が飛ぶ。マリーナが全力で蹴って、見事に空振りし、尻餅をつく。ガルムが球をくわえて斜面を駆け下り、三人で追う。ブラントは、見た目より足が速かった。斜面を横切り、犬の進路へ先回りする。戦車屋の勘だろうか。犬が右へ逃げることを、先に知っていた。その先回りに、こちらが追いつく。球を奪う。奪って、蹴る。マリーナの悲鳴が、丘に響いた。
何も考えない、というのは、難しいはずだった。それなのに、気づけば息が上がり、膝に手をついて、笑っていた。二十歳の肺は、笑い始めると、息が続かなかった。
「中尉が、そんなに笑うの、初めて見ました」
「……そうですか」
「そうです。もっと笑ってください。お願いです」
「……努力します」
日が傾く頃、丘の下から、人影が一つ、ゆっくりと登ってきた。グレタだった。手には油のついた布。顔には、徹夜の跡。
「……見てた」
「いつから」
「ずっと。扉の窓から」
「休んだ?」
「今から」
そう言って、グレタは斜面の草の上に、そのままころんと横になった。目を閉じる。三十秒もしないうちに、寝息が聞こえた。ガルムが寄っていって、その腹の横で丸くなる。
「……寝ちゃいましたね」マリーナが、声を潜めた。
「休む、と言っていましたから」
ブラントが、斜面の上に置いていた上着を取ってきて、グレタの肩にそっとかけた。誰も、何も言わなかった。
夕日が、黒い丘を赤く染めていた。明日からの地味な試験が、遠い話のように思えた。
翌日の汚泥の試験は、廃土の丘の下に掘った窪地で行われた。
縦に長い溝に、雪解けの水と黒土を流し込み、杭を打ってある。浅い方から深い方へ、白布の印が四段。ヘルマンが水準器で杭の高さを確かめ、ブルームが細い鉄の棒を泥へ刺しては抜き、棒に付いた泥の色と高さを記録紙に書き込んでいく。
今日の項目は、足を泥に入れて、抜く。それだけだ。吸気の口から泥が入っていないか、冷却の流れが落ちていないかを、背部のフィルターの針で見る。
「ガルム1、準備完了」
「了解。まず一段」ヘルマンの声が、無線に入った。「足首まで。ゆっくりでお願いします」
右足を、泥に下ろす。ずぶ、と音がして、足首が沈んだ。ペダルへ、重い抵抗が返ってくる。引き抜く。泥が、ぬっ、と離れる音。跳ね上がった飛沫が、機体の腰から背中へ回った。
「フィルター、針は正常。次、膝まで」
二段目。三段目。深くなるたびに、足を抜く力が要る。抜けた瞬間に、機体が前へ傾く。ペダルを戻す量を、半分ずつ変えて、傾きを殺した。膝の計器の針が、ほんの少しだけ動いている。
「ガルム1、膝の針、初めて動きました」
「記録します」
四段目は、膝の上まで沈む。足を抜く時、泥が吸いつくように機体を引いた。
「中尉殿、焦って抜くと、その分だけ持っていかれます」
岸から、ブラントの声が飛んできた。
「……分かりました。ゆっくり、抜きます」
戦車屋の言葉は、いつも短くて、体のどこかに残る。
最後の一段を抜き終えた時、フィルターの針は、安全な側に収まっていた。
「次は、抜く速さを変えます」ヘルマンが記録紙をめくった。「一回目は普通、二回目は速く。三回目は、できるだけ速く」
「了解」
速く抜けば、泥の飛沫は高く上がる。二回目で、背中のあたりに、重い塊がいくつも当たる音がした。三回目は、泥の壁を、足で蹴り崩すような音がした。吸気の針が、すうっと下がっていく。半分まで落ちて、止まった。
「フィルター、半分です。回復は……戻りました。ゆっくりですが」
「止めない。最後まで見る」博士の声が、短く挟まった。「中尉、降りていい」
降機して背部へ回ると、フィルターの目に、黒い泥が薄く張りついていた。グレタが指でそれをこそげ取り、指先を擦り合わせる。
「洗う間隔、短くする。戦場なら、休めない。だから、乗る前に必ず見る」
「毎回?」
「毎回。それが、整備の決まり」
博士が、記録紙に何か書き足した。ブルームが無言で、洗浄用の水を桶に汲み始める。誰も指示していない。そういう人なのだと、もう分かっていた。
グレタは、いつの間にか足首の前にしゃがみ込んでいた。外装の継ぎ目に指を差し込み、泥の入り具合を確かめている。
「入ってない」
「そうか」
「関節の隙間、あと一回詰める」
「頼むよ、グレタ」
それだけで、十分だった。
岸の端では、マリーナがガルムを膝に載せたまま、泥の硬さの記録を手伝わされていた。ブルームが棒を渡し、彼女は不器用に泥へ刺して、色を読み上げる。犬は膝の上で、半分眠っていた。
渡河の試験は、翌日だった。
谷の底を、雪解けの水が流れている。幅は広くないが、流れは速い。水位の印の白布を結んだ杭が、岸から対岸へ向けて、三本ずつ立っていた。
「水にどこまで浸かれるか、でしたね」ブラントが、岸から流れを見て言った。「戦車なら、車体の上が出ていれば、渡れました」
彼はしばらく、水面を眺めていた。水の色が濃いところと、白く波立つところが、筋になって流れている。
「あの濃い筋は、深いです。波立っている所は浅くて、底に石が多い。足を取られるのは、浅い方です」
「深い方が、安全ですか」
「いえ。深い方は、流されます。どちらも、安全ではありません」
「……ありがとうございます。浅い所から、行きます」
「はい」
「準備はいいか」博士の声が、無線に入った。「今日は、どこまで浸かれるかを調べる。ワーカー中尉。膝、腰、胸、肩。順に行く。設計上は、頭の先まで浸かっても数分は持つ。だが今日は、そこまで要らない。引く時は、君が決めろ」
「はい」
引く時は、君が決めろ。
先日の、図面の前でのやり取りを思い出した。計器の針は二本、膝の左右のひずみを示している。赤い線が一本引いてあり、そこが、グレタの止める手前の線だ。
川へ入る。膝までは、あっけなかった。冷たい水が脚部の外装を洗い、白い泡が足首で割れる。流れを、脚で押し返す。足元の石が、がらがらと動いた。針は、ほとんど動かない。
「腰」
「了解」
一歩、進む。水が腰の外装を叩いた。流れが、横から機体を押してくる。流れに逆らって、機体を前へ押し出す。押し出すほど、膝に力が溜まる。針が、ゆっくりと動き始めた。赤い線の手前まで、あと三割。二歩目で、足元の石が一つ、横へ滑った。
機体が傾く。ペダルを戻す。傾きは止まった。止まったが、針は赤の手前、指一本ぶんのところまで来ていた。
進めば、胸まで行ける。肩までも、行けるかもしれない。行ける、と思う。対岸まで、あと五歩。
「ガルム1」ブラントの声は、静かだった。「中尉殿」
返事はしなかった。
足元の石が、また動いた。重心が、ほんの少し、流れの側へ引かれる。針が、赤へ近づく。
行ける。行ける、と思う時が、いちばん危ない。
「……戻ります」
来た道を、ペダルに返る感触で石の位置を確かめながら、一歩ずつ戻る。腰の水が膝まで下がり、足首まで下がる。岸の石を踏んだ時、背中のシートから力が抜けた。
降機すると、グレタが膝の前で、すでに外装の継ぎ目を覗き込んでいた。ヘルマンが、計器の記録を読み上げる。赤の線の手前、指一本。
「引けたね」
グレタが、短く言った。
「……うん」
「あと一歩なら、膝が持たなかった」
「分かってる」
「分かってて、引いた。それでいい」
顔は上げなかったが、声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
博士が丘から降りてきて、記録紙を覗き込む。針の位置と、水位の杭の白布と、足元の石の大きさ。それを順に指でなぞった。
「ここまで来て、引いた。この数字が欲しかった。対岸まで渡れた記録より、価値がある」
「渡れたかもしれません」
「かもしれない、は数字にならない。引いた場所は、数字になる。頭までの浸水は、流れのない場所で、日を改めてやる。今日欲しかったのは、流れの中で引く場所だ」
明日から、ここで数字になる。手紙に書いた一行が、頭をよぎった。そういう意味ではなかった。それでも、同じ言葉だった。
「中尉」マリーナが、ガルムを抱えたまま近づいてきた。「正直に言うと、あのまま行くと思ってました」
「行けると思いました。そう思う時が、いちばん危ないので」
「戦車でも、そう教わりました」ブラントが、静かに頷いた。「引いた者は、次も走れます」
「……次も、走れる」
口の中で、繰り返してみた。悪くない言葉だった。
博士は、記録紙をまとめながら、ふと手を止めた。
「ワーカー中尉。引くと決めた時、何を見た」
「……ペダルに返ってくる感触です。足元の石が、二度、動きました。一度目は止まりましたが、二度目は、止まらないと思いました」
「針は」
「見ていました。ですが、針が赤に来る前に、感触が先に言っていた気がします」
「感触が、先に」
「はい。針は、あとから、同じことを言いました」
博士は、しばらく黙っていた。それから、記録紙の余白に、短く何かを書き込んだ。
「針が、君の感触に追いついた。……それでいい。どちらが先でも、答えが同じなら、計器は君を裏切っていない」
「計器が、裏切ることはありますか」
「機械は、嘘をつかない。ただ、遅れる。遅れた分は、君が補えばいい。補いすぎた分は、私が削る」
そういう役割分担なのだ、と、ようやく思えた。
昼過ぎに、連絡将校の大尉が、また紙を一枚持ってきた。
「マ・クベ大佐からの伝言です。『試験は、急ぐに及びません。壊れずに済んだ理由を、一つでも多く、持ち帰るように』とのことです」
「承知しました」
「それと。今日の渡河の記録は、大佐の机へ上げます。引いた判断も、そのまま」
「……そのままで、構いません」
大尉は、わずかに口元を緩めて、頷いた。この人も、笑うのだと思った。
夕刻、整備棟へ戻る道で、ブラントが足を止めた。
「中尉殿、あれを」
空の高いところに、細い白い線が一本だけ引かれていた。ゆっくりと、東から西へ。音は、ここまで届かない。
「毎日、この時刻です。昨日も、一昨日も」
「偵察でしょうか」
「でしょう。あの高さでは、こちらから何も届きません。向こうは、この基地の灯りの数まで、数えているかもしれません」
マリーナが、目の上に手をかざして線を見上げた。
「J型のことも、見られてますかね」
「あの灰色の一機がここにいることは、もう知られているでしょう。霧の平原でも、尾根の陣地でも、生き残った者が帰っています。あれは、その確認では」
白い線は、雲の縁へ入って、消えた。
霧の平原で、同じ一点だけを狙い続けた先頭の一機を、ふいに思い出した。次は、落とす。あの時、そう決めた。あの機体のパイロットも、どこかの空で、同じように何かを数えているのだろうか。
「行きましょうか。冷えます」
ブラントの声で、足が動いた。歩きながら、マリーナがぽつりと言った。
「見られてるって分かってると、ちょっと、落ち着かないですね。何もしてないのに」
少し考えてから、口を開いた。
「見られていても、やることは変わりません。明日も、ここで数字を取るだけです」
「……中尉、時々、博士みたいなこと言いますよね」
「そうでしょうか」
「そうです。でも、ちょっと落ち着きました」
足元で、ガルムが、先に整備棟の灯りへ走っていった。
夜、整備棟で、博士が机に広げた紙を指で叩いた。
「明朝、第一版を載せる。J型にだ」
「もうですか」
「全部ではない。あの時言った、半歩ぶんだけだ」
グレタが、腕を組んだまま、図面の脚の線を睨んでいた。
「先に動くなら、その分、ひずみも先に溜まる」
「積算に連動させる。あの日の案だ」
「……分かってる。確認しただけ」
博士が、こちらへ視線を向けた。
「ワーカー中尉。一つ、先に言っておく」
「はい」
「あの紙の、君だけ先に折れていた線。あれは、機体の遅れを、君が先回りして消している跡だ。機体が先に用意をするようになれば、二重になる。君が消した遅れを、機体がもう一度消す。動きすぎる」
言われて、胸の奥が、ひやりとした。
遅れを先回りで消す。それは、シミュレーターの頃から変わらない、自分のやり方だった。体が、勝手にやっている。消すな、と言われても、何をどう消さずにいればいいのか。
「やめろ、とは言わない」博士が続けた。「消す量を、君が決めてくれ。半分でいい。残りの半分は、機体に任せる」
「……機体に、先に動かれたことがないんです。補正は、いつも遅れて効くものでしたから」
「だろうな」
博士は、あっさりと言った。
「それが、今回の試験だ」
その遅れの話で、思い出したことがあった。
「お二人に、お伝えしていなかったことがあります」
「何だ」
「灰狼隊の整備班長が、出発の前に、補正の遅れ値を詰めてくれました。吐く息一つ分、という私の言い方を、数字にしてもらったものです。J型には、その値が入っています」
グレタの手が、図面の上で止まった。
「……吐く息、一つ分」
「向こうで試してずれていたら言え、と言われていました。まだ、報告できていません」
「先に言って。こういうのは」
「ごめん」
「……いい。今、聞いた」グレタは、図面の端に、短く数字の欄を書き足した。「その整備班長の名前は」
「グラム班長です」
博士が、赤鉛筆を回した。
「その値を、第一版の基準にする。遅れの量が分かっていれば、半歩の大きさも決めやすい。根拠は、君が整備の側から聞いておけ」
グレタは、無言で頑いた。
グレタが、図面から目を離さずに言った。
「リオン。動きすぎたら、止める。私が」
「うん。頼むよ」
「止められるように、見てる」
それだけだった。それだけで、足りた。
整備棟を出ると、夜の空に、白い線はなかった。足元で、ガルムが小さく鼻を鳴らす。
部屋に戻って、手紙を書いた。
姉さんへ。一昨日の休養日は、布で作った球を、犬と一緒に蹴って遊んだ。久しぶりに、声を出して笑った。今日は、川を渡った。渡りきらずに、引いた。博士は、引いた場所が数字になる、と言った。そう言われても、まだ少し、悔しい。
ブラント曹長には、娘さんがいる。戦車を降りたと書いたら、乗り物が変わっただけでしょう、と返ってきたそうだ。その通りだと思う。変わっただけで、帰ってくる、ということは変わらない。
機体に先に動かれたことがないから、うまくいくかは分からない。姉さんなら、どこで引いただろう。
明日の朝、半歩ぶん、機体に任せる。そう書いてみても、まだ、足は出なかった。
◇
連邦軍の前線基地の格納庫は、夜になっても、油の匂いが抜けなかった。
ジェイク・ローレンス中尉は、整備灯の下の机に、一枚の写真を広げていた。毎日同じ時刻に飛ぶ偵察機が撮ったものが、昼に、こちらへ回ってきた。高い空からの荒い粒子の向こうに、雪解けの平原と、丘と、いくつかの建物が写っている。その端、整備棟らしい建物の脇に、ほかとは違う影が一つあった。
灰色の、人型。
周りの土の色から浮いて見える、肩幅の広い機体だった。拡大鏡を当てる。顔の中央に、一つだけの目が、小さく白く潰れていた。
「……いたな」
声に出すと、喉が乾いた。
霧の平原で撃ち合った日のことは、目を閉じなくても思い出せる。曳光弾は、どれも灰色の機体の頭を狙って飛んだ。何度も、同じ一点を。何十発撃っても、届く前に、あれはそこにいなかった。気づいた時には、翼を並べていた親友の機が、燃えていた。
机の隅に、古いライターが置いてある。トーマス・ハーヴェイ。トム。士官学校の同期で、腐れ縁で、ここまで同じ編隊で飛んできた男だった。形見になったそれを、指で転がす。蓋が、かちりと鳴った。
「中尉」
背後で、部下の声がした。二人とも、まだ眠れずにいるらしい。
「また、あの写真ですか」
「ああ」
「近いうちに、この方面へ航空攻撃が出ると聞きました。我々も、その中に」
「出る。必ず出る」
ジェイクは、写真から顔を上げずに言った。
「前と同じ組み方では、また同じ結果になる。あれは、撃つ前に動く。なら、撃つ前に、逃げ道を潰す。三機で、一から組み直す」
「出撃までに、間に合いますか」
「間に合わせる。トムの分もある」
写真の中の灰色の影を、拡大鏡の底で、もう一度見た。あの機体は、こちらの名前も知らないだろう。それでも、こちらは覚えている。覚えていてやる。
撃ち抜く一点は、もう決まっていた。
◇
今後とも本作をよろしくお願いいたします。
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